はじめによんでください

包括適応度

Inclusive fitness

池田光穂

「包括適応度(inclusive fitness)とは、ある個体の遺伝子のコピーの複製に、その 個体がどの程度寄与するかを示す量である。自然淘汰も性淘汰も、淘汰は、遺伝子が複製する 率の差異であるのだから、適応度に寄与する性質だけしか淘汰では残らない。個体の包括適応度は、自分自身の繁殖によっても、近縁者の繁殖を助けることに よっても上昇する。たとえば、ある個体の姉妹は、共通する両親から受け渡されたルートによって、その個体の半分の遺伝子を共有しているはずである。その個 体の観点からすれば、自分の娘が繁殖するのも、姉妹が繁殖するのも、自分の遺伝子の複製には同等の重みを持っているので、包括適応度的には同じ結果をもた らすはずである。個体にとっては、娘も姉妹も、遺伝子の運び手としてては同じ価値を持っており、個体の動機づけのメカニズムとしては、双方を同等に大事に するように進化しているはずだと考えられる」(ディリーとウィルソン 1999:45)。

「行為者の表現型や繁殖の見通しに対して負の影響をもたらすような行動傾向も、それが血縁者に向けられるものであれば、進化しうるという理論で ある」(ディリーとウィルソン 1999:373)。

■氏か育ちか論争としての社会生物学論争(再掲)

社 会生物学論争は、自然か文化か、環境か遺伝か、氏か育ちか(Nature/Nurture)等の二元的な論争のひとつの「到達点」 である。そして、論争は生物学者のみならず人間を研究するあらゆる学問に潜んでいる生物学的決定論がどのような末路をたどるのかを明らかにした。「科学を 倫理的に中立」であると信じる科学者のユートピアが現実の社会との齟齬を起こすことは明かであり、「ウィルソンは学問的良心から自説を述べた」と弁護して も説得力を持たない。

こ の論争は、とどのつまりは、過去に幾たびか繰り返されてきた、<自然か文化か><環境か遺伝か><氏か育ちか (Nature/Nurture)>などの一連の論争と共通する部分がある。それは「生物学主義」と「文化決定論」の対立図式に当てはめるものである。

生 物学主義とは、文化や社会をこえた人間の行動様式を生物学的な特性に求める主張である。これに対して文化決定論は、人間の行動様式 は、その人びとが属している社会や文化によって決まることを強調する。例えば、人間が戦争をおこなう理由を、動物そのものが持つ「攻撃性」から説明し、そ の結果引き起こされる人口の減少を、人口増加を抑えるために予めそのような行動パータンが遺伝子にプログラムされている、という見方をとる。

  文化決定論は、さまざまな社会や文化によって、人間の行動がいかに多様であるかを、正反対の事例を挙げて説明する。例えばM・ミード は南太平洋の諸民族を比較して、私たちが「自然」だと感じる<男性>の<たくましさ>と<女性>の<やさしさ>という性のありかたが逆転した社会があるこ とを示唆した。すなわち、性のあり方は、社会の数ほど多様であり、それが社会的・文化的に決定されていると考えるほかはない。

この二つの立場の論争を見てみると、生物学主 義は人間の集団の「共通点」を強調するために用いられ、文化決定論はそれらの「多様性」 を説明するために使われていることが明らかになろう。

レイシズムの概念がもちこまれると議論はもっとやっかいになる

ここで、レ イシズムの概念がもちこまれると議論はもっとやっかいになる。どうしてかというと、レイシズムは、特定の「人種」(=その範囲は恣意的であり明確な境界を 定められないので便宜的で差別的な人間の違いの呼称)が、劣っていることを「証明」したいために、論証をしているふりをして、「人種」の優劣を遺伝的なも のとして説明しようとするからである。詳しくは『ベルカーブ』の議論を参照。

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