はじめによんでください

包括適応度

Inclusive fitness

池田光穂

社 会生物学論争は、自然か文化か、環境か遺伝か、氏か育ちか(Nature/Nurture)等の二元的な論争のひとつの「到達点」 である。そして、論争は生物学者のみならず人間を研究するあらゆる学問に潜んでいる生物学的決定論がどのような末路をたどるのかを明らかにした。「科学を 倫理的に中立」であると信じる科学者のユートピアが現実の社会との齟齬を起こすことは明かであり、「ウィルソンは学問的良心から自説を述べた」と弁護して も説得力を持たない。

こ の論争は、とどのつまりは、過去に幾たびか繰り返されてきた、<自然か文化か><環境か遺伝か><氏か育ちか (Nature/Nurture)>などの一連の論争と共通する部分がある。それは「生物学主義」と「文化決定論」の対立図式に当てはめるものである。

生 物学主義とは、文化や社会をこえた人間の行動様式を生物学的な特性に求める主張である。これに対して文化決定論は、人間の行動様式 は、その人びとが属している社会や文化によって決まることを強調する。例えば、人間が戦争をおこなう理由を、動物そのものが持つ「攻撃性」から説明し、そ の結果引き起こされる人口の減少を、人口増加を抑えるために予めそのような行動パータンが遺伝子にプログラムされている、という見方をとる。

  文化決定論は、さまざまな社会や文化によって、人間の行動がいかに多様であるかを、正反対の事例を挙げて説明する。例えばM・ミード は南太平洋の諸民族を比較して、私たちが「自然」だと感じる<男性>の<たくましさ>と<女性>の<やさしさ>という性のありかたが逆転した社会があるこ とを示唆した。すなわち、性のあり方は、社会の数ほど多様であり、それが社会的・文化的に決定されていると考えるほかはない。

この二つの立場の論争を見てみると、生物学主 義は人間の集団の「共通点」を強調するために用いられ、文化決定論はそれらの「多様性」 を説明するために使われていることが明らかになろう。

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