エッセーについて
On Essay
■ 投稿は学術論文ではなくエッセーでいいの
か?という質問にお答えして
よく練られて、アカデミックな体裁(引証の表示、証拠出典、心象ではなく事実や理論にもとづく考証などなど)であれば、どのようなスタイル のも のでも投稿に値しますとしか返事できません。ただし、これが初デビューになるのであれば、既存の学会誌等で1番「性にあう」スタイルに準拠して論証作成す ることをつよくおすすめします。
学生さんは論証ぬきの心証風景のような軽い文章をそのように(「エッセー」だと)考えておられるのかもしれませんが、世になだたるエッセー がそ うかというと必ずしもそうでないと思います。
林達夫の「子供はなぜ自殺するか」や「デカルトのポリティーク」ってのは引証や先行研究の考察などほとんどないものですが短いけれど読みご たえ のある達意のエッセーです。
ヴァレリーの「精神の危機」や「知性について」も、長い長いアフォリズム(格言)が連なるかのようなエッセーのスタイルをとっています。
ベンヤミンの多くの書き物はエッセーという形式をとりながら、現在でも(あるいは現在になってようやく)その解釈が熱い議論になるほど超難 解で す。
ウィトゲンシュタインの論考のスタイルやタイトルは明らかにスピノザの短論文や神学・政治論を模倣しています。
古い論文は、先行研究という時相よりもアオリスト的普遍のスタイルで書かれていますので、引証や先行研究の表示がないから論文とは言えない とも 言えないでしょう。中味次第ですね(=「ある主張には、それにふさわしい論証のスタイルがある」)。当該学生には、ぜひ応募してください。もしこれまで聞 いたことがなければ、ルソーの懸賞入選論文「学問芸術論」を思い起せば、執筆に気合いが入ること請け合いだよとことお伝えください。
※アオリスト(Aorist)とは「古代ギリシア語やサンスクリット語などの動詞のアスペクト[時相ー引用者]の一つ。完了・継続・反復といった様相と無関係に,単に一つの出来事
として動作・現象を示すもの。古代ギリシア語 gráphō (私は書く) の直説法アオリスト
égrapsaは「私は書いた」という出来事を単純に一つの出来事として示し,未完了の égraphon
(私は書いていた,書こうとしていた,など) と対立する。このように直説法では過去の出来事を表わすのが普通なので,普通は時制の一つと
して扱われる」コトバンク「アオリスト」より)
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文献
私の小学6年生の時のエッセー
「黒人と白人
現在(1969年)、世界ではいろいろな国があるが、ぼくはアフリカ大陸の南にある南アフリカ共和国とそのとなりにあるローデシアという国が、白人だけに、つごうのいいような政治をとっていることに不満がある。
南アフリカ共和国は、法律的に、人種差別を認めていて、黒人には参政権もないそうです。それに国土の13パーセントの土地に、全人口の80 パーセントの黒人をとじこめようとしています。同じながらに生まれても、ひふの色のちがいから差別されるなんて、ひどいとよく思います。
もう一つは、ローデシアのことです。ローデシアは今(1969年)から9年前に独立しましたが、これは黒人たちが独立したのではなく、白人たちが、強制的に独立さしたそうです。そして白人たちがつごうのいいようにわがままな政治をとっていたのです。
ぼくは人種差別をするやつは、人間のクズ(ママ)だと思います。いくら科学が進んでも人種差別をするおろかものが、一人でもいたら、人間は野 ばん人(ママ)になりかねない、ぼくたちは、これからの世界をせおっていくのだから、これからは人種差別のない、平和な世界をきずいていきたいものです」
※人間の「クズ(ママ)」とか「野ばん人(ママ)」という侮蔑表現を弄すること自体が現在(2020年)では人権擁護の観点からいって適切ではありませんが、歴史的文書としてここにお示しし、現在の私はその反省に立っていることをご了承ください。
初出誌:『はばたき』吹田第二小学校、1969年3 月
その他の情報
Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099
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