動物優越論
Theriophily
ジョージ・ボアズは、セリオフィリー=動物優越論を次のように説明している。
「セリオフィリー(theriophily
=動物優越論)という言葉は、筆者(ジョージ・ボアズ)が1933
年に造語したものであり、動物の行動様式や性質を讃美しようとする観念の複合体を表わしている。セリオフィリストたちが説いているのは次の3点である。
(1)
動物は人間と同じくらい理性的である。あるいは,動物は人間ほど理性的ではなく理性など持たないとしても,人間よりずっと幸福であり,理性的である.
(2)わ
れわれ人間にとっては自然が残忍な継母であったにせよ、動物にとってはそれが生みの母であり、したがって動物は人間よりも幸福である。(3)動物は人間よ
りも
道徳的である」(ボアズ 1990:139)。
ボ アズの1933年の著作は"The happy beast : in French thought of the seventeenth century"である。この本の章立ては次のようになっている。
こ れによると、17世紀までの状況を1933年の著作はおいかけている。しかし18世紀以降についてのボアズによる記述は『西洋思想大事典』の中の「セリオ フィリー」に関する項目の中の最後の部分にみることができる。
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セリオフィリーの18-19世紀
《動物虐待への関心》
「18世紀はあらゆる点で反デカルト的であった.へスター・へイステイングズ(1936)は,動物生活へのいかなる科学的接近方法が哲学的なものに先行し
たかを明らかにしている.人間が先人たちの教義にあるセリオフイカルな洗練に退屈しなかった間に,セリオフィリーは人間生活の評価というよりも動物受難に
対する感情となった.このような感情は熱烈さを増し,動物愛護協会というものを発足させた1824年にはアイルランドの下院議員リチヤード・マーティンの
尽力によって,動物虐待保護王立協会(Royal Society for the Prevention of Cruety to
Animals) が設立された.アメリカ合衆国では, 1866 年にへンリー・パーグによって動物虐待保護アメリカ協会(American
Society for the Preventionof Cruelty to Animals. A.S.P.
C.A.)が設立された.獣たちは物質的な魂を持っているのかそれとも非物質的な魂を持っている、のか,彼らは論理的に考えることができるのか否か,彼ら
は苦しみを感じるのかどうか.こうしたことは結局のところ,獣と人間とのあいだの緊密な関係を作り出すのに十分であるのかどうか,と考えられるようになっ
たのである.獣たちの理性的性質という問題については,本能とその想定される驚異的な力がそれに取って代わった.つまり科学的な動物学が博物学のなかに場
を得,セリオフィリストたちを強く動かしていた諸問題が,書斎でなしに,実験室や現場の中に移されていったのである」(ボアズ 1990: 143-144).
《動物の認識への関心と観察への喚起》
「同時に,18世紀に発展した新しい哲学の教義は,動物と人間をよりいっそう接近させた.デカルト思想がもたらした動物心理と人間心理の間にある溝は,
ジョン・ロック(1632-1704) の認識論によって埋められ,フランスでも同じようにE. B. コンディヤック( 1715-80)
によって修正がなされた.コンディヤックの『人間認識の起源に関する試論』(1746)
は、あらゆる観念の起源を感覚に置いている.動物たちは人間と同じ種類の感情を持っている,すなわち,この地上で彼らはわれわれのものとまったく同様の感
覚器官を持っているのである,とコンディヤックは『動物論』(1746)のなかで言っている.動物たちは人間のように明快な推論を行うことはできないが,
しかし彼らの必要が知性を求める範囲まで彼らはそれを所有する.それゆえ動物は人間よりも優秀ではない,なぜなら結局われわれは人造人間ではないからだ,
というのがコンディヤックの見解である.かつて動物たちが人間の思考や感情と同じ普遍的な型の思考や感情を持ちうるということが容認され,すべての生き物
の緊密な関係が証明された.18世紀には昆虫学と動物学の急速な発展が見られ,獣や昆虫の行動様式が調査されるにつれて,人間はそれらの生き物に対するよ
り大きな称讃の根拠を見出したのである.この讃美の念はわれわれの時代にも存続しており,鳥の渡り,蜂の踊り,けっして見ることのない自分たちの幼虫のた
めに雀蜂がする食料の貯蔵,といったことに畏敬の念を感じない人は稀である.アンリ・ベルクソンのような哲学者は,セリオフィリストとはいえないが,それ
でもやはり直観によって把撞した自らの理論を証明するため動物学者の研究を利用した.昆虫学においては, J. H. ファーブルの研究がR. A.
F.ド・レオミュールのそれを補足した.ちょうどコンラート・ローレンツの研究がG. J.ロマーニズのそれを補足したように」(ボアズ 1990: 144).
《セリオフィリーの洗練度は下がったか?》
「そして,もし人が知性の価値の低下を望むなら,人は学者たちの著作のなかに,われわれの先祖がアリストテス,アリアヌス,プリニウス,プルタルコスらの
著作のなかで得たと同じだけの資料を手にするだろう.しかも,それはより良い証拠に基づいている.伝統的な物語のなかに空疎なものがあったにせよ,それら
は獣たちに対する人間の長い称讃の歴史の背後にあり,これが現代においては動物の勇気,貞節,優しさの物語のなかに表明されているのである.現代セリオ
フィリーの傑出した表現がウォルト・ホイットマン(1819-92)の有名な詩,『ぼく自身の歌』なかに見られる[訳は杉本喬他訳『草の葉』による]
ぼ
くは方向を転じて動物たちといっしょに暮らすこともできそうだ.彼らはとても穏やかで自足しきっている.
ぼくは立ちつくしたまま彼らをいつまでもいつまでも眺めやる.
彼らは自分たちの暮らしのことであくせくしたりめそめそしたりせず,
闇のなかでひとり眠れぬ夜を過ごしつつおのれの罪のために泣くこともせず,
神への義務を論じたててぼくを不快にすることもなく,一匹として不満をいだかず,一匹として所有欲のゆえに気が狂える者もなく,
一匹として他者を脆拝する者なく,幾千年をへだてた父祖たちを脆拝する者なく,
一匹として地球上のいかなるものにも恭順の意を表さず,さりとて不平不満に身を焼く者もいない.
ウォルト・ホイットマン『ぼく自身の歌』
こ
こでとくに注目されるのは,獣たちの理性的性質についての言及がホイットマンの詩に欠けているということである.しかしそれがなくともホイットマンのよう
な神秘主義者にとって悲しむべきことではなかったのだろう」.(ボアズ
1990: 144)(大澤明訳)
リ ンク
文 献
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