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香西豊子「アイヌはなぜ「山に逃げた」か?」論文の分析と講釈

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池田光穂

クレジット:香西豊子「アイヌはなぜ「山に逃げた」 か?:幕末蝦夷地における「我が国最初の強制種痘」の奥行き」『思想』 No.1017, Pp.78-101, 2009年1月号の分析と講釈

■考察すべき点

■論文の構成

■論文の読解

・松浦武四郎が記述したシコツアイノの記述と香西の 結びの言葉から、遡行する解釈の開始

「はたして、幕末の蝦夷地に出現した「山」という場 から、シコツアイノはどのように蝦夷地の「行衛(ゆくへ)」を眺めたか。それを知る すべは、もはやない。だが、ひとつ確かなのじゃ、彼[=シコツアイノ(引用者注)]のまなざしが今なお蝦夷地の「行衛」に向けられ、歴史記 述とそこで黙殺される事跡とを、静かに検証しつづけているということである」(香西 2009:95)[松浦 2002:338-339]

■スカースの問題系

「スカースの問題をはじめて提起したのは、わが国で はエイヘンバウムである。かれはスカースを、もっぱら口頭形式の語りへの定位、話しことばとそれに相 応した言語特性(口頭のイントネーション、話しことばの統語論的構 成、相応する語葉、その他)への定位とみなしているエイヘンバウムは、たいていの場合ス カースはまず第一に他者のことばへの定位にほかならず、その結果として話しことばへ の定位となっていることを、まったく考慮していない」 (p.154)。バフチン、ミハイル『ドストエフスキーの創作の 問題』桑野隆訳、平凡社ライブラリー、平凡社、2013年

松浦武四郎(ウィキペディアによる)

1818 松浦 武四郎(まつうら たけしろう、文化15年2月6日〈1818年3月12日〉)生まれる。松浦桂介ととく子の四男

1831 平松楽斎(漢学者・伊勢津藩士)のもとで学び、猪飼敬所、梁川星巌らの知己を得る。山本亡羊に本草学を学んだ。

1834 日本国内の諸国をめぐった

1838 平戸で僧となり文桂と名乗る

1844 還俗して蝦夷地探検に出発。『四国遍路道中雑誌』

1846 樺太詰となった松前藩医・西川春庵の下僕として同行。その探査は北海道だけでは無く択捉島や樺太にまで及んだ。蝦夷では詩人の頼三樹三郎と旅することもあった

1850 「蝦夷大概之図」

1851 「蝦夷変革図」

1855 江戸幕府から蝦夷御用御雇に抜擢されると再び蝦夷地を踏査し、「東西蝦夷山川地理取調図」を出版。「蝦夷語便覧 (校正) 後方羊蹄於路志」

1857 天塩川流域調査。「新選 末和留辺志」

1859 「東西蝦夷山川地理取調図」 多気志楼主人『蝦夷漫画 』(→北大・北方資料データベース

1862 『天鹽日誌』

1869 「蝦夷開拓御用掛」となり、蝦夷地に「北海道」(当初は「北加伊道」)と命名

1870 北海道の開拓の方針を巡って、従五位の官位を返上。北海道人と号して「千島一覧」という錦絵を描く。

1882 自分を釈迦に見立て古物コレクションに囲まれた「武四郎涅槃図」を河鍋暁斎に描かせる。

1884 富岡鉄斎からの影響で奈良県大台ケ原に登り始める

1886 一畳敷の書斎を五軒町の自宅に造営(のちに、山田敬亮の別荘「泰山荘」の茶室に移築。現在、ICU泰山荘高風居)

1888 東京神田五軒町の自宅で脳溢血により死去。染井霊園の1種ロ10号2側に埋葬

1892 静嘉堂文庫(せいかどうぶんこ)岩崎弥之助により開館。武四郎の資料も収蔵されるようになる。

1889 ナゴヤ谷の「松浦武四郎碑」に分骨。

1928 『東蝦夷日誌 ; 唐太日誌 ; 北蝦夷餘誌』日本古典全集刊行會

1929 『西蝦夷日誌 ; 石狩日誌 ; 天鹽日誌』『夕張日誌 ; 後方羊蹄日誌 ; 十勝日誌 ; 久摺日誌 ; 納紗布日誌 ; 知床日誌』

1959 吉田常吉 編『蝦夷日誌』

1963 吉田武三『評伝松浦武四郎 』

1964 吉田武三『拾遺松浦武四郎

1967 吉田武三『松浦武四郎 』

1970-1971 『三航蝦夷日誌(上・下)

1972 多気志楼主人『蝦夷漫画 』(→北大・北方資料データベース

1981 『アイヌ人物誌』(→シコツアイノ頌歌

1993 花崎皋平『静かな大地 : 松浦武四郎とアイヌ民族 』

1994 「松浦武四郎記念館」(三重県松阪市小野江町)開館。

2011 笹木義友, 三浦泰之編『松浦武四郎研究序説 : 幕末維新期における知識人ネットワークの諸相』

歌 蝦夷人の みそぎなしたる 天塩川 今宵ぞ夏の とまりをばしる

歌 ながむれば 渚ましろに 成にけり てしほの浜の 雪の夕暮れ


リンク

文献

その他の情報



Byozan Hirasawa’s “Scenery of Vaccination for the Ainu indigenous people by the Tokugawa shogunate in the Ezo land,” ca.1857
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