老いること〈労働〉の価値概念の変遷について
Sigmund "Pink-Punk" Freud, 1856-1939
<労働>と老化の関係についての理解。人間とその歴史を、<肉体的活動>(近代以降は<労働>) と老化の関わりにおいて考察する。現代の我々の社会(=高度資本主義社会)における<老いること>のイメージと<労働>の関係について考える。
I 人類と<肉体的活動>の歴史
a.狩猟採集社会から農耕社会へ(サーリンズ/マッケオン/ボスラップらの考察参照)
・ポラニー派の経済人類学
経済的な状況の要素は非経済的な種々の社会関係のなかに埋め込まれていると理解する。した がって、労働力の抽出とその効力の換金性の測定などのような<経済>の独立に抽出された姿で論ずることはできない、ことになる。
・<悲惨な採集狩猟民>という偏見
農耕・工業の民からみる狩猟民社会への“悲惨さ”の投影
それに対する反論:㈰現実の人びとの余裕:時間的余裕、食物の豊かさ、労働効率の良さ、な ど。㈪現在の採集・狩猟民の“疲弊”した理由は、農耕民による圧迫の結果(歴史的所産)であって「本来の姿」ではない。
では、狩猟採集民における老人は?:
運動能力の低下における放棄(厄介ばらい)[他に嬰児殺し、授乳期の性交禁忌] 受容され、利用される(また社会資源を利用する)老人
生態的条件による多様性(地理的環境において、あるいは資源利用状態に対して)
農耕社会において労働が強化される傾向にあることは定説になる(?)
ボスラップ『農業成長の諸条件』翻訳(pp.74-5)
彼女の仮説的説明:㈰人口増加の結果、㈪社会階層の強制
㈪はサーリンズ『石器時代の経済学』第3章にもある。
・<貧しい社会>から<富んだ社会>の移行の内実
「貧しい社会」:低い生活水準ではあるが高い充足
「富んだ社会」:高い生活水準だが低い充足。<稀少性概念/貧困>の誕生
・サーリンズによる「過少生産様式」論
資源の過少生産、労働力の過少生産、
【事例】レレとブショング
生涯における就労の期間は、社会によって大きく異なる。つまり「ブショングの人たちは、レ レの人たちよりも、たくさんの物を持っているし、何でもよくできる。ブショングのほうがレレよりもいっそう多く生産し、よりよく暮らし、同時に人口の密度 も高い」(ダグラス)。これらの差異は、彼らの生態条件、生業パターンや個々の技術、あるいはその嗜好性において対比されている。
実際ブショングの男性は一般に20歳まえから60歳すぎまで働くのに対して、レレの男は 20歳の後半から50歳過ぎまでしか、つまり暦年令ではブショングの半分しか働かない。またレレの仕事からの引退の時期は55歳前後に対して、ブショング のそれは60〜65歳である。この違いは、レレが複婚(一夫多妻)をおこなっているからで、レレの男はそのために婚期が遅れる傾向にあり、成人としての責 任を負うこともそれだけ遅くなるというのだ。
レレには(労働を集約させるような)権威の構造が脆弱である。またブショングの人たちは働 くことが富の蓄積や社会的な地位の上昇につながると考える。他方レレの男たちにとっては、中年や老年になることが真の男になることであると考える。つまり 妻をたくさん持ち、その子供たちの婚姻を通して親族の拡張をはかり、(名誉のある)結社に入ることが、社会的地位を上げることである。従ってブショングの ように仕事や競争に加わることがレレにとって名誉なことなのではない。(Douglas,pp.224-5)
a−bの移行期
・シャロン・シュル・マルヌのアカデミーの1777年の懸賞論文
懸賞論文のテーマは、“王権に寄与しながら、しかも貧しい者にも利するような方法で、物乞 いの蔓延をふせぐことができるか?”というものだった。その授賞論文の冒頭には、次のような要約が掲げてあった。「数世紀にわたって、人々は知恵の石をさ がしもとめてきた。それをわれわれは発見した。労働である。賃労働こそは、貧しい者が豊かになるための本来の源である。」(『シャドウ・ワーク』 214)
・賃労働化に対する人びとの抵抗はつづく
西ヨーロッパ各地にあった救貧院は、怠け者の救済と労働に適した身体に作り替える改造所に 変わっていった(ibid.:216-7)。浮浪者への救貧院への収容、怠惰な者に対する懲罰など教会・国家がおこなったこのような労働の慣習化に対する 矯正的制度が続いたにもかかわらず、人びとの抵抗はつづいた。
(イリイチの叙述では、このあと女性による<シャドウ・ワーク>化が、産業構造のみならず医 学や哲学などの諸科学をも動員されて、男性の賃労働化と補完的に成立してゆくプロセスを辿ることになる。)
b.工業化社会あるいは資本主義近代社会
・労働の一般
ルカーチは「‥‥資本主義時代を特徴づけるものは、労働力が労働者にとって‥‥かれに属す る商品という形態をとることである。」「‥‥この瞬間からはじめて、労働生産物の商品形態が一般化されるのである。」(青木文庫版『資本論』2:319) というマルクスのことばを引用し、次のように言う。「商品形態が普遍的になると、主体的な点でも客体的な点でも、商品に対象化された人間労働の抽象化が生 ずる。」(ルカーチ『歴史と階級意識』城塚登・吉田光訳、白水社、1968:167)
・労働力商品の前提
労働力商品が流通するためには、<自由な>労働力とその買い手との間の平等な人格のとして 存在することが基本的な前提となる。(「貨幣所持者が市場で商品としての労働力に出会うためには、労働力がそれ自身の所持者によって販売されること、つま り、自由な労働力として存在することが必要である。買い手と売り手は両方とも契約の当事者として、法律上は平等な人格であるから、労働力はただ一時的に売 られるのでなければならない。というのは、もしひとまとめにして売ってしうならば、売り手はもう売り手ではなくなって、自分自身が商品になってしまうから である。」(エンゲルス『「資本論」要綱』pp.36-7))
・機械力の導入の結果(→産業の効率化)
機械力が導入する際には、機械力とそれと対比される人間の労働や労働力の価値などの効用計 算がおこなわれる。機械化がおこなわれた後においても、機械の操作やメインテナンス(整備)に要される労働力(質と量)の価値が常に問題になる。(労働力 をどこで誘致するか、地方か都会か、先進国か開発途上国か)
<労働力>とその利用(時間や強度)には多角的な効用計算がおこなわれ、柔軟な雇用調整が 展開される。(→マルクスが予見できなかった資本主義の柔軟性、あるいは矛盾の先送りによるサバイバル。古典派経済学の継承と批判の中に含まれていた<労 働価値説>。限界効用論の登場:財=商品の効用=価値は、それが消費されるたびに逓減する。)
機械化によって剰余価値は増大し、生産物量も同時に増大する。つまり、資本家の数は増え、 新しいぜいたくしたい欲望を生み、さらにそれを充足する新たな手段を生む。ぜいたく品が増えると、流通量が増え、交通手段も増大する。(『資本論』第13 章機械と大工業)
機械化は、労働の熟練度を無効にするので、労働価値の低い未熟練労働者や若年労働者あるい は外国人労働者などを相対的に利用する。そこで、年齢による高齢者の排除や(わが国)定年というルールは資本家によって都合のよいものになる。今日労働の 熟練度が年齢の上昇にともなって相対的に上がる業種は特殊な部類に属する。定年と年金制度は、労働力の効率的な利用という発想と社会福祉における労働によ る社会貢献に対する報償という発想の妥協の産物であった。
1933年内務省調査三百数十社のうち定年制施行は42%。70年代の労働省調査では対象 企業(30名以上の企業)の六割であったが、80年代では9割弱に達し、戦後のすぐの55歳定年から60歳定年が主流になったという。定年の法解釈には、 (1)強制解雇の一種とみなすものと、(2)契約期間の終了とみなすもの、の2種がある。
・労働力と年齢(男性労働力)
労働の価値を<労働力>という観点から評価する社会の成立。すなわち労働力の計算可能性、 <労働者>が<労働>を時間で切り売りするような社会の成立によって、労働従事からの引退の概念がより明確になってくる。年齢階梯組織における<仕事から の引退>や<隠居>とは異なり、そこにはすでに<利用できない元労働者>というマイナスの刻印を押されるだけになってしまう。
・身体の商品化:物象化(?)問題
たとえば売春:「典型的な主婦が、サブシステンスの働き手からシャドウ・ワークのそれへと 転換をとげ、それをとおして彼女たちが経済へと組み込まれてゆくにつれて、売春婦の社会的現実もまた根本的に変化してきた。売春婦は、離床(dis- embedded)した市場活動に従事する少数者の女性に属した。」イリイチ『ジェンダー』1984:67(離床はポラニー派の概念と用語である)
売春はフォーマリストの立場からみて、経済財を用いて非経済的手段を動員すること、であ る。
・シャドウ・ワーク(イリイチ)=女性の<労働>とその価値
賃労働が確立した社会における<家事労働>のことである。このことをなぜわざわざシャド ウ・ワークとよび賃労働の普及(ヨーロッパ19世紀)とセットとして考えなければならないかというと、シャドウ・ワークをとおして女性が社会の生産活動 に組み込まれたからである。家事労働はマルクスによって<社会的再生産>と命名されていたが、イリイチは、(1)シャドウワーク(現代の主婦の卵料理)が 非産業社会で行われている女性の労働(彼女のおばさんの卵料理)と同じものではないこと[p.94]、および(2)社会統計上において<公表されない経 済>の側面をうまく説明できない、ということからこのように概念づけたのである。(イリイチ『ジェンダー』1984:91ー93)
「シャドウ・ワークとは、財やサーヴィスの生産とちがって、商品の消費者によって、とくに 消費的な世帯でなされるもの」であり「消費者が、買い入れた商品を使用可能な財に転換する労働のことである。」(前掲書:94)このように抽象化すると、 じつはシャドウ・ワークは家庭内における女性ばかりではなく、夫、子供、(あるいは老人など)も含めたかなりの人びとがその仕事に従事していることにな る。(→事項c.ポスト工業化社会参照)
「‥‥すなわち、生活資料(subsistence:=生計)の生産には関わらない家庭とい う新たな空間における主婦の<シャドウ・ワーク>は、賃金労働者である夫の必要条件となり、彼を雇用——(中略)——へと物質的にしばりつけている。した がって、近代の賃金雇用と同じく近時の現象である<シャドウ・ワーク>は、すべての欲求が生産物へと方向づけられている社会の存続にとって賃金雇用以上に 必要なものといえるかも知れない。」(フランス語版序『シャドウ・ワーク』p.13) シャドウ・ワークは、自律独立した活動ではなく、また不払いの賃労働でもない。それは賃労働を支える“もうひとつの労働”である。
・<労働力>概念の登場は、西欧の他の人間関係の再編成と密接に関係する。
[男性同性愛への禁忌意識]
フーコーによると、男性間の友愛の情が消滅するのが、16〜17世紀で、同性愛が問題視され るようになるのが18世紀である。18世紀になると、同性愛が行政管理や司法制度と衝突するようになると、言うのだ。そして、その理由は社会的文化的に容 認された男性間の友愛=友情が消滅すると、男性同士が一緒にいることすら問題にされ、また医学上の病気としての処遇されるようになる。(フーコーの Advocator(?)誌1984.8.7号のインタヴュー記事でエリボン『ミッシェル・フーコー伝』1991:436に引用)
17世紀は『狂気と非理性』でフーコーが論じたように、「大いなる閉じ込め」の時代であ り、貧乏人、乞食、無能な輩、放浪者に加えて放蕩者、性病患者、無神論者、同性愛者が狂人と一緒にされて施療院に収容される時代なのである。
ただし、より古い起源にもとめようとする見解もある。イリイチによると教会がホモセクシュ アリティを<歪曲>と定義し、それを異端視するようになるのは、つまり男女の婚姻が秘蹟とされるようになった12世紀だという(M・フーコーでは、12世 紀以来西欧カトリック教会では肉欲の罪を告解するように義務づけれたのである。[→『性の歴史』])。教会は、男女の役割の固定化を進めると同時にそれを 破壊する矛盾した役回りもおこなう。1215年ラティノ公会議における<懺悔>の制度化であり、それによって男女の同質化が推進されるようになったとい う。使徒パウロの神学で聖書の句“女は集会においては沈黙すべし”(mulier taceat in ecclesia)が重視されるようになる(ペルクゼンpp.413ー414,イリイチp.333-:イリイチ前掲書)。
c.ポスト工業化社会
生産主義から消費主義に変わった社会
<後期資本主義社会>E・マンデル
ポストモダニズム=後期資本主義とみるマルクス主義批評家(F・ジェイムソン)
・老化=労働力の有益性の喪失、という見解ははたして有効か?
これは、ブルジョア産業社会に対する批判的研究(例:フランクフルト学派)から導きだされ るような思考方法である。つまり、このような社会では<労働>が本質的な価値になっているから、その価値を体現しない人間のカテゴリーは低く見られるだろ うという指摘である。★***具体的見解は情報未入手****★。あるいは、資本主義下の監獄において、人間の本質を決める<労働>が収奪されるように、 その制度は組織化されるという見解である。(従って、資本主義における<権力>の源泉は、資本の所有、あるいは資本を集中させる外的強制力にほかならな い。しかし、これもフーコーの権力論からみれば幻想である。権力は、どこかに具現化したかたちで存在するものではなく、日々の何気ない動作のなかに体現さ れうるようなものだからである。)
別の歴史的観点からの<労働本質説>は否定されている。例えば、監獄制度における懲役は、 追放や拷問よりも後になって行使されるようになる。しかし監獄制度において、収監者から効率的に労働力を収奪するシステムとしては十分には発達しなかっ た。(受刑者の単位時間あたりの労働単価は非常に低い額に設定されていることは、<労働本質説>を裏付けるように思えるにもかかわらず)。フーコーによれ ば、それはあくまでも規律訓練(=調教)のための<手段としての労働>であり、収奪するための<目的としての労働>ではない、ことになる。西ヨーロッパで の歴史によれば、監獄における受刑者の管理技術は、それに先立つ兵舎や寄宿学校における管理技術が外挿されたものである。経済性の理由がないのにも関わら ず強制労働が導入されたのである。(→旧日本軍の戦争捕虜の強制労働)
・アンドレ・ゴルツの「ネオ・プロレタリア」論
資本主義が達成した生産力は強力であり、それはかつての社会主義者が考えていた以上の強大 さである。そのために社会主義的な合理性による管理のモデルはいまや時代遅れになってしまった。資本主義が労働者階級を生み出したのであるが、労働者の有 用性、能力、資格は労働者が有する生産力に規定され、その生産力は資本主義的合理性において支配され機能している。
資本主義的分業が進むことによって「労働者の労働はもはや能力をもっていることにはならな くなり、労働者固有の活動はなくなってしまった。」「人口の大部分は、脱産業社会の新しい労働者、つまりステイタスも階級もなく、それでいてさまざまな資 格は有しているネオ・プロレタリアに属している。彼らは「労働者」という名前を聞いても、反対に「失業者」という名前を聞いても、それが自分たちのことだ と気づきもしない。‥‥社会は仕事をつくるために生産する。‥‥労働は不必要な強制となるのだが、それに気づかれないよう、社会は個人にたいして彼らの失 業を蔽そうとする。‥‥労働者は自分たちの変転に遭遇していても、まるで自分とは関係のない人の転変をみているような、芝居でもみているような感じなので ある。」(A・ゴルツ『労働分業批判』(1973):イリイチ『シャドウ・ワーク』1990:280ー281より孫引き)
すなわちネオ・プロレタリアの出現とは、<類的存在>として労働者の喪失、組合の必要性を 感じない「労働者」の出現である。
・イリイチのシャドウ・ワーク概念の行き着くところ
工業生産とその消費の構造が高度に洗練化されてゆくと、(男性による女性の搾取の構造もま た深化するが、しかしその差異を解消させてしまうような逆説的状況も生じるのであり、それが)消費する単位のユニセックス化である。「産業社会は特定のユ ニセックスの公準なしには存在することができない。男も女も同じ労働にたずさわり、同じ現実世界を代表し、そして取るに足りない上べだけの違いを含んだ同 一の欲求をもつ。」(ペルクゼンによるイリイチの引用/イリイチ『ジェンダー』p.409)
イリイチの描く世界には、相矛盾するふたつの社会的カテゴリーが存在する。ひとつは「差別 する男」と「差別される女性」のセット、と<経済的中性者>である。
II .労働力に還元されない<老化>の側面
・老化に対処する文化的手段
老化に対処する文化的手段=「老化を受け止め、それを乗り越え、老後の生活保障を確保する ため」(198)の手段、がどのような文化にもある(片多,1981:198ー214)。
(老人のあり方をそれが属する社会によって一方的に規定されるというイメージではなく、状況 に応じて戦略的に行動パターンを変化させてゆく存在としてとらえる。片多1981:211に引用されているリブラの描く日本の女性のように。[後述])
[このようなビジョンが受け入れられてこそ]老年層による若年層の“搾取”に対する抵抗 (仮に社会変化の結果としても)の実態(片多、1981:13)が説明可能になるのだ。
片多が描く老化に対処する文化的手段には次のようなものがある。
(1)親族とのつながり:㈰頼るべき子供の確保、㈪孫の駐留、㈫新たな配偶者の確保、㈬拡大家族 的親族網、など
(2)老人による集団居住
(3)個人的な資産の運用:㈰土地などの財産を活用、㈪社会経済的諸活動の持続、㈫特殊能力の活 用、など
(4)老後適応のための作業:(隠居慣行やリブラの指摘する日本人女性の老後対策)
(5)社会の側からの対応策
【日本の女性における老化への対抗戦略】リブラ(片多,1981:211-2より引用)
(変化した社会の現状):イエの崩壊、都市化、核家族化、個人主義、などによって親との同居によ る扶養は期待できなくなった。子供にはあてにできず、また(子供たちが出ていった家庭の)孤独にも耐える必要が生じてくる。
(登場した女性の老後の哲学):他者への依存を期待せず、自立を強め、老後を安定させること、が 課題になる。
(具体的戦術):
(1)自立のための収入源の確保
[賃労働への従事、年金、貯蓄などの経済的自立・趣味をもったりすることによる心理的安 定・健康に気遣ったりすることによる健康の確保]、
(2)孫の面倒をみたりしてこどもたちの世代に対して“恩義”をうり、“信用”を確保する
[→(1)での蓄財を利用して経済的援助を駆け引きにつかうことも考えられる]、
(3)家庭内のメンバーの相互のつながりを強めておく。
(4)家庭外での社会関係の輪を広げておく。
※タキエ・リブラの議論が興味深いのは、文化の中の行為者は、単にその社会の文化的価値観に縛ら れているだけでなく、そのような制約の中で、自分たちの生き方の可能性を広げるような「戦略」をさまざまなに繰り広げるということである。
III.老化とその意味:批判的理解
1.老人というカテゴリーが問題化される条件
先進工業国の成熟(人口集団の高齢化)
平均余命の急速な伸張[→統計上は乳幼児死亡率の寄与大]
高齢化に伴う福祉概念の充実
雇用労働条件の改善(人権+労働運動)
産業が人的労働を利用する過程の変化[→労働強化(マルクス)から雇用のための労働まで]
人権問題としての老人問題
2.産業社会における<老人嫌悪>という感情の誕生と消失
採集狩猟民の生態的条件における<老人嫌悪>
ただし、その嫌悪は絶対的劣性ではない。(両義的存在)
近代における<老人嫌悪>の特殊性
産業社会の成立と労働が強化されてゆく時代のなかで、共有された<感情>
工業化社会においても、第1次産業は放逐されることはなかったし、工業化社会における感情の 発生と共有は、工業化社会の諸制度よりも時間的なズレを伴って生まれるもの(文化的遅滞 cultural lug)と考えられる。
<労働の価値>の終焉あるいは、その価値の相対的下落(→→資本主義が利潤を生み出すプロ セスだという見解をとるならば、むろん収奪は絶対になくならない。それも巧妙なかたちで。例:サービス残業:労働の搾取形態が、労働者の価値観や身体観ま でも支配され、その価値が内面化されたもの。究極の奴隷の快楽:仮に労働者がそれに対して不快意識をもっていても、そこから逃れることができず、自己決定 すらできなくなること。)
ボランティアーなどの従来にない<肉体的・精神的活動>の重要性が増す。
実際に故紙回収などのリサイクル産業構造に与えた影響は大。またボランティアーには、基本的 に老人=無能な労働力という理解が、もともとない。(→ボランティアーの効率が問題になったり、ボランティアー活動を、それ以外の政治的目的に利用する場 合は別。例:青年海外協力隊、グリーンピースの実力行使部隊など)
消費者としての老人=現代社会のヒーロー
生産すること・労働することの価値の下落と、それに反する消費することに対する価値の上 昇。金と時間がある者=現代のヒーロー(前の時代の価値観にとっては、これは“誤った意識”に他ならないのであるが‥‥)。[中産階級のサラリーマンを想 定すると]年金とそれまでの蓄えによって金はある。金の使い道は、取引としての息子や娘に対する財政的援助であり、年金とそれまでの社会的貢献による恩給 などによって労働からも解放されている存在。(→言うまでもなく、そこから排除され、劣性のラベルを貼られる老人がいる。金銭的な基盤や親族ネットワーク による支援を期待できない老人、病気や疾病等によって支出を余儀なくされて<金銭的資本>や<身体的資本>を失った老人は、<老人嫌悪>のイメージを貼ら れる対象になる。→3.新たな<老人嫌悪>の誕生)
消費者=ヒーローという図式が成り立つから、老人のカジュアル・ファッションが社会に受容 されるようになる。実際、わが国において老人のフォーマルな服装は、男性では背広という就業していたときのファッションの延長であり、女性は外出服として のスーツあるいは着物であるのに対して、そもそも老人に対するカジュアル・ファッションの概念すらなかった[→消費のターゲットにならなかったのであ る!]。(ただし、どのファッションの様式が流行するとか、その細部はむしろそれを演出する企業戦略や消費者行動の変化、あるいは社会的・文化的状況に大 きく左右されるだろう。)
産業社会における<老人嫌悪>というイメージが定着できなかった最大の理由は、<女性>とい うもうひとつの最大のジェンダーがあったからである。むろんイリイチの言うように、産業化社会における女性の家庭内での活動(=シャドウ・ワーク)は、産 業社会以前の家庭内の活動とは根本的に区別される活動であるが、シャドウ・ワーク概念そのものは人びとによって明白に意識されることはなかった。(→女性 は<老人嫌悪>のレッテルから免れた。むろんそのために<女性>に対する差別がなかったというわけではない。だから、若い男性の世代からみて、中年以降の 女性はみな「ババア」という蔑称のもとに一括された。これは、差別する側からみて「性的カテゴリー」/「非性的カテゴリー」という対立の中でしか他方の性 的存在をみることができなかったせいである。)
3.新たな<老人嫌悪>の誕生
・産業社会とその構造に起因する<老人嫌悪>はなくなるだろう。では、差別を生み出す<老人 嫌悪>という感情そのものがなくなるだろうか? 私は、そうあってほしいと思うが、その根拠なき差別を生み出す要因があると危惧している。それについて、 最後に考えてみよう。
IV 老人差別が生まれるときの一般的構造:
差異(単なる記号)に対して、力関係において相対的に優位にあるものが劣位にあるものに対 して、一方的にマイナスの価値を付与すること。
差異は、恣意的に選ばれる記号であり、それ自体で根拠を持たない。(人間の老化や女性とい うのも、実はあるカテゴリー的対立のなかで選ばれた単なる記号にすぎない。)・先に述べたように、「働かない者」あるいは「働けない者」に対するマイナス イメージを、働く側(権力をもっている側)が貼り付けることの限界が見えてきた。また、必ずしも働く側に権力があるという状況も怪しくなってきた。いまや 金をもつ者・動かす者に実質的な権力がある。(むろん、このような図式すら正しくなく、不正であるという指摘がなされるようになってきた。)
・そのような中で、<老人嫌悪>という根拠のない差別意識をかき立てる権力は何か?それは、 医学である。医学における<健康>の概念は、成人の健常者を中心にして構築されていることに誰もが気づくだろう。だから、女性の閉経期が「更年期」として 病気の概念とされたり、老化そのものが病気とされるようになるのである。おまけに、医学は今日におけるとくに身体性の管理に関しては、最も影響力のある <権力>になってしまった。
・むろん医学そのものが差別する<意図>をもって老人に治療的に対処しているのではない。医 学の意図は<善意>によるものである。しかし、今日の医学の論理的な構成は、成人=健常人(さらには男性中心)を基本にされており、そこから遠のく存在、 乳幼児、高齢者、病人、女性に対しては、その中心的な<正常>のイメージになるように、より多くの圧力がかけられるのである。(→医学にはそれらのカテゴ リーに対する無意識的な差別を生む素地をもっている。これは、医学における内部の議論からは(論理的には)決して認識できない。)
・したがって、この正常でなければならないという医学の脅迫観念は、かつての精神病患者が近 代社会の成立する時点で受けた処遇と同じタイプの管理と統制をおこなうようになる。すなわち、老人の社会からの隔離と収容である。これは、二重の意味で効 率的な処理の方法である。ひとつは、核家族化を通して<老人>に対して処理能力を失った家族の機能を肩代わりする(とくに特別養護老人ホーム)。他のひと つは、その善意とはうらはらに医学が作ってしまった反ユートピアである<異常者なき健常な社会>を作ることである。
・にもかかわらずこの試みは破産する。現在の経済構造においてその収容には限度があるからで
ある(「寝たきり老人ゼロ作戦」は、その表面的な目的とは関係なしに、収容に伴う経済的なコストの軽減
をはかることに寄与する)。
・このような状況を感じている<老人予備軍の世代>は明らかにその生き方を変更している。 (現代人の老後に対する対処意識は、以前の世代にくらべてより敏感である。なぜなら、国家・地域社会・家族が将来自分たちの面倒を見てもらうことに対して より不信感を抱いているからだ。)
・我々のとるべき手段は明白である。我々はすべて将来かならず<老人>になることを予想され ている<老人予備軍>=<潜在的な老人>なのであるから、<老人>と<非老人>を分断して支配するあらゆる体制=システムを拒否し、差別の温床となってい る<老人嫌悪>という感情の原因について考え、そのような差別を受けている人びとと共同作戦をとって、あらたな社会をつくること。これである。
(補 論)
「フェ
ミ労働論でICTの発達が男女の労働能力の格差を引き下げたという珍説があるが、狩猟採集時代でもジェンダー分業は象徴的な峻別管理され労働=食糧生産性
となーんの関係もないことなど明らかである。美輪明宏も上野英信も女もドカチン&ヨイトマケの詩を歌う存在であることは、よくしられている」(→「あなたには愛というものがわからない」)
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文献
Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1997-2099