はじめによんでください

中央アメリカにおける多元的医療体系

Pluralistic Medical System in Central America

池田光穂

医療とは何かについて明確な考えをもたずして、医療援助を考えることは できない。医療援助とは、なにか操作的に外部から「医療」を提供するという考えに裏づけられている。この場合の医療は、多くの人にとって近代医療のことで あろう。

しかしながら「医療」という言葉は、現実はもっと多義的である。狭い意味では「近代医療」だけをさすものから、伝統医療や非近代医療をふく めた専門職集団によるものを含めたり、ふつうの人びとの病気への対処や健康維持一般をもふくめた全ての保健活動にいたる多様な広がりをもって理解されてい る。現代生活において医療はとらえどころのない広がりをもつにいたったのだ。ところが皮肉なことに「医療」にまつわる現象の多様性という事実が、医療の定 義をより広く、かつ全体的にとらえる必要を研究者のあいだにうながした(SSM 1978)。このような状況を踏まえて、私は医療の包括的な定義として「疾病や健康にたいする人間の一連の行動と信条のあり方」としたい。

医療を全体的にとらえる必要性を説いたとしても、医療の実態を具体的なかたちで把握されなければ説得力をもつことはない。本章では医療の多 元的な側面について中央アメリカの事例を交えながら考察する。

このテキストは、拙著『実践の医療人類学』(世界思想社、2001年)と深く関係する。書籍ならびに「実践の医療人類学を256倍使うページ」等を参照しつつ精読することをお勧めする(→本ウェブ ページには校正が必要なエラーがたくさん見つかるはず)。


 制度的医療


 世界のほとんどの国家は、その医療制度の基礎を近代医療に負っている。そのため、ここでいう制度的医療とは近代医療のことをさす。ひろく 低開発世界の多くでは制度的医療にもとづく医療水準の空間的分極化がみられる。つまり、都市のエリート層は先進開発国の医療水準と比肩するだけのサービス を享受しているが、地方の村落では制度的医療をふくめて、十分なサービスを受けることは困難である。人口の比重が村落部にあることも、そのサービスの享受 の享受の格差をさらに押し広げている。さらに、この不均衡は低開発国内部の階級構造とも深く関わっている。というのは制度的医療を担う医師の多くは上流あ るいは中産階級の出身の傾向があり、また海外の開発国で教育を受ける機会も大きい。そのため、より先進的な医療の影響を受けることが多く、また卒業後も高 度な医療活動に従事する傾向がある。このことが、ますます医師たちを都市に留める傾向に拍車をかけている。

 政治的および法的な制度として国家によって運営される「医療」の例として、ここでは中央アメリカのグアテマラ共和国のそれを取り上げる。 1978年に政治的制度が大きく変わったニカラグア共和国ならびに長期にわたる政治的安定が高水準の保健状況をもたらしたを除くと、中米の制度的医療はこ こで取り上げるグアテマラのそれとほぼ類似していると言える。

 グアテマラの制度的医療の中心勢力、つまり政策主体は中央政府の保健省(Ministerio de Salud Publica y Asistencia Social)である。保健省を統括するのは保健省本庁、保健サービス総務局(Dirreccion General de Servicio de Salud)である。国家レベルでの保健政策や国際医療援助の受け入れの決定はすべてこの総務局で決定される。また世界保健機構のグアテマラ事務所もここ に置かれている。保健省は全国を二二の県(Departamento)を二四の保健地域(Area de Salud)に区分している。ただし、首都部であるグアテマラ市は特別区として三区域に分けており、それ以外は、各県にたいして一保健地区をわりあててい る。

 社会保険制度にもとづく医療機関も存在する。保健省が所轄するグアテマラ社会保険協会(Instituto Guatemalteco Seguro Social, IGSS)であり病院をもつ。社会保険は原則として加盟している事業所の出資から運営されるので被保険者の集中している都市を中心に医療サービスを提供し ている。

 全体の施設総数に対する公的、私的および非政府系組織のシェアをみてみると、保健省、社会保険協会、国防省などの公的セクターが比率は三 一パーセントを占めて、その内訳の最大のものは保健省のシェアで二七パーセントである。それに対して私立病院などや個人営業の診療所などを含めたシェアは 五二パーセント、非政府系組織のものは一七パーセントである。

 政府が定めている各保健地域ではふつう県庁所在地の地域病院(Hospital Regional)内に本部が置かれ、地域保健行政の中心となって機能している。医療行政は政府主導の中央集権であるが、具体的な施策には一定の裁量権が 認められている。保健地域内ではその下位単位として、一つの保健所(Centro de Salud)を中核として幾つかのヘルスポスト(Puesto de Salud)からなる地区(Distorito)を形成する。常に医師が常駐する保健所はその施設の規模によって二つのタイプに分けられる。Aタイプ保健 センターは若干の病床を持ち、Bタイプ保健センターはそのような入院施設を持たないものである。ヘルスポストは診療室と待合室などで構成される国家が運営 する最も末端で小規模の診療所のことである。Aタイプのベッドのある保健センターは三二施設、ベッドなしのBタイプ保健センターは一八八施設で、それより の小規模のヘルスポストは七八五施設になる。

 国家が運営に参画しているのは社会保険協会運営のものの他に国防省が運営している病院がある。社会保険協会、国防省、および私立の病院は 全国に155ある(1989年現在、以下同様)ある。ベッド数のシェアは、保健省の病院の総数が八七二六床、社会保険協会が二二三七床、国防省が四九二 床、私立病院が二四六三床、および非政府系組織のものが一二二床である。第一次および第二次ケアは全国に普及しているが、より高度な第三次ケアは首都に集 中している。そのために、首都では人口千人に対するベッド数は平均で二・一であるが、全国平均にすると〇・九であり、先住民族が多く住んでいる中央高地で は人口千人に対して〇・一から〇・四床しかないことになる(PAHOb 1994:229)。

 村落において実質的な制度的医療を担うのはヘルスポストである。ヘルスポストの名称は、中央アメリカのそれぞれの国によって呼び方が異な るが、その構成はよく似ている。つまり常勤の看護助手ないしは医師がいる。医師のいるいないでヘルスポストの呼び名を変えている国もある。このようなヘル スポストに勤務する医師は、おおくは最終学年に在学する医大生であり、卒業前の社会奉仕として単位として課せられている。

 中央アメリカの五カ国つまり、グアテマラ、エルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグア、コスタリカの各国のうちで過去三十年間の間に内戦 や国内のテロリズムによって制度的医療政策の実施が妨害されなかったのはホンジュラスとコスタリカだけである。グアテマラでは、一九五四年の政変から八五 年の民政移管までに国軍とゲリラのテロリズムによって約一〇万人が犠牲になった。エルサルバドルでは、七九年の軍事クーデターから民政のドゥアルテ大統領 が選出される八四年まで右翼民兵テロ組織によって四万人が犠牲になり、さらに八九年までに内戦による市民の犠牲者は七万人にもなった。内戦状態はゲリラと 政府の和平協定が締結される九二年まで続いた。またニカラグアでは七九年に政権を掌握したサンディニスタ政権下での保健と教育のさまざまな改革がおこなわ れ、乳幼児死亡の改善や識字率の向上などの成果があったが、政権末期には保健の水準も低下し、九〇年の大統領選挙によって親米政権の確立後はその医療政策 は大きく変化した。このような政治的な不安定状態は言うまでもなく、人びとの健康に影響を与える。このような内戦が生んだテロリズムは人びとに心的外傷を もらたすだけでなく、テロリズムの標的になった青壮年の人口構成にも影響を与えた。また当然のことながら村落レベルでの住民参加の保健計画などは、内戦状 態にある地域では実質的にその機能が停止していた。


 伝統医療


 近代医療が導入される以前から存在している医療は、伝統医学(traditional medicine)、非西洋医学(non-western medicine)、民族医学(ethnomedicine)あるいは民俗医学(folk medicine)などと呼ばれている。それぞれの用語には専門家によって微妙なニュアンスによる使い分けがあるが、その最大公約的な合意とは近代医療で はない「医療」のことである。中央アメリカやカリブ諸国における近代法では伝統医療の一翼を担ってきた治療師=祈祷師(curandero/ra)が活動 することは禁止されている(Velimirovic and Velimirovic 1978)。にもかかわらず治療師は人びとの病気治療に現実に関わっている。

 中央アメリカの伝統医療におけるにおいて活躍している人たちには、治療師、産婆(partera)、シャーマン、マッサージ師、薬草師な どがいる。しかし実際は、村落において人びとの要請に応える人びとは、大きな名声を獲得した少数の者を除いては、自立した職業を形成しない。つまり、ふだ んは他の人と変わらぬ暮らしをしていて、人びとの要請があるとそれに応えるのだ。また、治療に関する技能もいくつか掛け持ちする者も多い。例えば治療師で あり産婆であり時にはマッサージをする女性は珍しくない。

 ここで言う伝統医療を近代医療に還元できるような知識と技能の体系と考えてはならない。私がいう「伝統医療」とは、およそ医療とはほど遠 い超自然的な考えや信仰から、人びとの健康維持や身体観に関する信条や実践、さらには薬草の処方や助産術など近代医療からみて説明可能なものまでが含まれ た総体をさすからである。

 ではここでいう伝統医療を眺める視点を私はなぜこのように特権化するのかについて説明したい。まず、最初に人びとが慣れ親しんでいる病気 の概念を取り上げると、それはなんらかの社会関係を表象するものであることがわかる(Adams and Rubel 1967)。ということは、より土着的あるいは伝統的な文脈に、その病気をおいてみると、それはたんに病気の診断、原因の追求、そして治療の実行という近 代医学がおこなう一連の技術的操作だけにとどまらず、それらの解釈がより社会的な活動と関連づけられていることがわかるのである。つまり、そこに病理学的 にみて普遍的な過程がみられるとしても、それらの診断、原因の追究、そして治療の実行は治療する家族や治療師などにとどまらない、固有で多様な意味を生成 する点で、それぞれユニークな過程になる。

 伝統医療が近代医療に対して異なるカテゴリーとしてみられるのは、それが現地の社会体系として把握することができるからである。例えば、 中央アメリカの先住民族や村落に住むメスティソ集落では、熱いものと冷たいものバランスによって説明することがある。これは熱冷二元論(hot/cold dichotomy)と人類学者には呼ばれる体系であるが、これは身体の状態や個々の臓器、食物や薬草、さらには病気などに、熱い属性と冷たい属性に二分 類し、そのあいだのバランスで病気や健康あるいはそれらの時間的や論理的過程を説明する原理である。たとえば食物には「熱い」ものと「冷たい」ものがあ り、そのどちらか過度に食べたりすると、それが病気や体の変調を引き起こすと考える。病気の治療や養生は、それに対抗する薬草や食物を取ることで熱冷のバ ランスを取り戻すことが試みられる。ここでいう熱いものや冷たいものとはものの温度の高低を指すものではない。人びとはこの二分法を論理よりも経験という 観点から説明する。

 この原理はバランスによつて身体の健康を説明する論理になるばかりでなく、人びとの感情生活や社会におけるふさわしい人間の在り方を説明 する論理にも展開する。また熱冷二元論のようなバランスによるものだけでなく、外部からの侵襲による病いや痛みというものもある。そのような身体の外部に 原因を求められるものには、神や霊的存在などがある。病気は、社会的にみると不幸を構成する一部であるので、その人為的な原因として妖術や邪術などをも考 慮すると、もはや個人の病理学的過程というよりも悪の告発や共同体の危機というより大きな文脈のなかに人びとの関心が展開する。

 したがって伝統医療は、人びとの生活や社会関係に深く関わる点で、外部から導入され日常生活に節合されるようになった近代医療とは異なる カテゴリーのものであることを確認しておきたい。しかしながら、近代医療にこのような側面が全くないかというと、そうとは言えない部分もある。近代医療に おいて命名された病気の診断や治療も病人という媒体をぬきにしてはあり得ないものであり、近代医療体系全体も人びとによって解釈され、日常生活に取り込ま れていけば社会的に解釈を付与されるようになるからである。そのようになった際に、我々にとって必要になってくる視点は、近代医療における病気と治療もま た人びとにとっての社会関係の表象であり、そのような視座から近代医療を理解してゆくことが必要になるだろう。


 社会的に解釈される近代医療


 村落部における医療は、土着の伝統的医療の文脈のなかに、もっぱら政府や非政府系組織の提供する西洋近代医療が節合するという形でみられ るのが普通である。むろん西洋近代医療への住民のアクセスの不足を補完し、医療サービスを充足させる機能として伝統医療を認めないわけにはいかないが、こ のような見解は先に述べたように「伝統医療」を治療的技術体系だけに矮小化してみることにつながる。

 にもかかわらず、伝統医療もまた個人の病理学的な状態にたいして何からの働きかけをする「治療的選択肢」として、有効性をもった技術体系 としてみることもできる。つまり近代医療が存在する文脈のなかで、伝統医療を対比的に取り扱うと、伝統医療もまた近代医療に対抗する要素として人びとが取 り扱うさまが見れる。中央アメリカでは、日常的な病気や患いは自己やその家族が薬草などを処方するか伝統的医学の専門家へ、重篤な疾病や傷は西洋近代医療 へ訴えるというふうに、住民は二つの医療を使い分けていることがしばしば報告されてきた(MaClain 1977; Adams 1957:102)。また、治療の効果にたいする人びとの期待は、近代医療の選択が過度に少ないか、あるいはほどんど知られていない場合を除いて、伝統的 医療よりも西洋近代医療のほうが「よく効く」または「よく効くはずである」と考えられている。このことは極めて皮肉あるいは逆説的現象である。なぜなら ば、伝統医療で充分な効果が期待できなかったからと言ってその医学体系に対する信頼をすぐに失うわけではない、ということを物語っているからである。開発 先進国で、近代医療が成功を収めたのは、その医療自体の有効性のためではなく、それらの国がおこなった環境制御によるものであると言う説は、現在近代医療 の研究者にひろく受け入れられるようになった(Dubos 1959; McKeown 1988)。しかし、中央アメリカのみならず多くの低開発地域において、近代医療の「有効性の神話」は根強い。神話は世界的な規模において浸透しているこ とに異論をもつ人はいないだろう。しかし、このような近代医療にたいする過度ともいえる期待が、どのように形成され維持されているかという実態は十分明か にされていない。

 他方、近代医療にはその有効性より以上に、過度に人びとから治療効果が期待されているので個々の治療が成功しなかった場合には、人々は期 待を大きく裏切られたと感じるようである。村落社会にとって外来の近代医療と異邦人である近代医療の医師——その多くは都市部出身のメスティーソ——に対 して時に不信感が生じることは稀ではない。西洋近代医学とその医療従事者が外来文化の否定的な面の象徴として排除の対象となることもある。

 このように一般的に村落の人々と都市出身の行政官の間にはいわゆる文化的齟齬がみられ、グアテマラやメキシコでも古くから議論されてきた (Paul 1955)。ごく大ざっぱに言えば、これは中央アメリカにおける都市と村落、メスティーソと先住民族(インディヘナ)という対比の中に置くと、より鮮明に なる。都市住民であったり、村落においても教師や商業活動に従事することメスティソは、より外部の世界と繋がった存在である。彼らは、先住民民族と比べて 土着の伝統的医療よりも近代医療や都市の匂いのする自然食品に親近観を抱く傾向にある。他方、先住民族は、伝統医療に信頼を置くことが多かった。

 しかしながら、これはあくまで全般的な傾向であり、都市に対してより頻繁にアクセスする先住民族の若者は近代医薬への信頼は厚いし、家族 が病気になれば苦心してその種の医薬品を入手しようと努力する。都市のスタイルだと考えられてきた自然食品やスポーツを通しての健康維持という習慣も積極 的に受け入れている。このような現象は、文化人類学では文化変容と呼ばれ、伝統的な共同体が外部のより強力な社会や文化との接触を通して変化する過程とし て研究されてきた。しかしながら、このような見解をとる限り、社会を伝統か近代かという二者択一の文化の形態としてしか把握することができず、伝統医療を より歴史のあるもの、よりその社会の独自のもの、変化に対してより強固に共同体によって守られるものなどという観点からしかとらえることができない。その ために、もはや誰も使わなくなった病気治療の呪文や薬草などを、その文化に「固有な伝統医療」であると主張する論文が絶えなかった。しかし、だがそれは近 代医療から伝統医療を解釈し、後者もまた前者のように社会的文脈から自由な「治療と技術の体系」として把握した際の、もはや死滅した「体系」を記録してい たにすぎない。人びとの社会的過程として伝統医療を把握すれば、人びとが近代医療をどのように受け入れるかという過程を社会的文脈のなかで解釈することが できるのである。

 


 多元的医療システム


 このような論点を別の角度から考察してみよう。

 私は、伝統医療を説明する際に、その病気や治療が社会的文脈のなかに拡がるということから、伝統医療を近代医療にはあり得ない特色をも ち、特別に考察される必要があると説明した。しかし近代医療もまた中央アメリカに導入され社会に受容されている以上、社会的文脈をもたない近代医療もまた 存在しない。したがって、何らかの社会的基盤をもつ医療を並置してみるような理論的な見方がでてきてもおかしくない。医療人類学たちは、これに多元的医療 体系という名前をつけて考察してきた。

 多元的医療体系( pluralistic medical system)は、医療的多元論あるいは医療的多元化( medical pluralism)とも呼ばれる。おおまかに言えば、ひとつの社会に複数の医療体系とそれを支える信条が多様的、多層的に存在していることの指摘であ り、その状態を説明するモデルのことをさす(Landy 1977; Cosminsky 1983)。なおこれを医療体系に対するとしてイデオロギー的な立場である多元主義と了解することも可能であり、この場合には、ある社会の中で、ひとつの 医療体系だけ排他的に採用する態度を批判し、多様な医療体系を共存させていこうという立場の表明としてこの語を使うこともできる。

 社会現象としての多元的医療体系は世界のさまざまな地域において観察される。例えば、日本では、少なくとも近代医療、土着化した中国起源 の伝統医療である漢方医学、そして、祈願や占いなどの民俗医療などがみられ、人びとはさまざまな使い分けをおこなっている(波平 1988)。中国やインド、イスラム教圏では、それぞれ、中医学(中国医学)、アーユルベーダ、ユナーニとよばれる独特の医療概念が大きな位置を占めてい る。このような医療体系は、おもに少数の専門家によってその歴史的伝統が守られてきた。 このようなエリートや有力なパトロンによる後見によって、医学体系が継承されるものを「大伝統」といい、それが民衆に流布して、より自由に解釈されたり改 良された医学の実践的知識を「小伝統」とよんで区別することもある。もちろん近代医学や中国医学などにみられるように、すべての医療体系が大伝統と小伝統 からなりたっているというわけではない。大伝統のような医学体系がみられないアフリカの部族社会では、土地固有の伝統的医学体系と後から入ってきた現代医 学が同時に存在しているが、それらの間には大伝統、小伝統といった区分はみられない(eg. Appiah-Kubi 1981)。

 近代医学の導入が伝統医学体系を駆逐せずに、なんらかのかたちで共存状態を生むものであるという、多くの社会でみられる経験的事実は、医 療体系は一般的には多元化を遂げるということを物語っている。近代医学は文化や国境を超えて多くの地域で導入されるようになったが、すべての人びとが近代 医学の知識を受容しているわけでもないし、近代医学そのものも疾病構造、医療制度、人びとの身体観や病気観などの影響を受けてある種の「土着化」を遂げる 傾向があることもよく知られる。たとえば、現代中国では、中国医学と西洋医学を統合させようとする現代中国の医療政策である「中西医合作」と1978年以 降のポスト毛沢東の状況下での医療システムの変貌などを用意に思い起こすことができよう(Huang 1988)。

 多元的医療体系研究への関心は、比較的整備された伝統医療体系がみられるアジアや中東などで、近代化を通しても偉大な伝統を保ち続けてい る現象への歴史的興味から始まった(Lesliy 1976)。しかし、アフリカやラテンアメリカなどの民族誌学的研究によって、従来の医療概念そのものへの再考をうながす必要性が登場した。その最大のひ とつは「医療」と「宗教」の複雑な関係である。

 そもそも近代化にもとづく進歩史観では宗教は医療が発達する以前の癒しのシステムであり、医療の発達にともなって病気治療に関わる宗教の 役割は衰退してゆくものであると考えられてきた。波平は、このような見解を退け、治療技術の発達が人びとに不安を与え、それが宗教への関わりを強めること があることを指摘している(波平 1985)。中央アメリカでもこのようなことを指摘することができる。しかしながら事情はさらに複雑である。というのはこの地域ではもともとカトリックの 教勢が強かったのだが、エヴァンヘリスタなどとよばれる福音主義的なプロテスタントが勢力を伸ばし、聖書にもとづく実生活の規範化を押し進めた。プロテス タントがカトリックに対して批判したのは病気治療への超自然的信仰である。これに対して、カトリック側もアクション・カトリカとよばれる合理的な信仰運動 を推し進めた。このようなキリスト教信仰への脱呪術化傾向は、結局クランデーロとよばれる呪術者やシャーマンによる超自然的な病気治療への人びとの関心を 衰退させたのである。

 多元的医療体系の問題を社会というレベルから、家族や共同体というよりミクロなレベルに視座をうつしてみよう。そこでもまたさまざまな医 療が多元的に使い分けられている。すなわち病人やその家族は、病気の種類、その症状や程度によって様々な医療体系を使い分ける。ホンジュラス西部の農村の 住民によると、病気には「医師が治せるもの」と「そうでないもの」があり、人びとは近代医療の医師、産婆や家庭での薬草の処方、ときには呪術者に相談す る。もちろん家庭内での処方がほとんどで、つぎに保健所か産婆や薬草の知識の熟達者、そして呪術者への依頼の頻度は極めて低い。これはオプションとして近 代医療が選択された場合においても、病気の種類や程度によって家庭保健薬、町医者や診療所、比較的大きな病院などがそれぞれに選択される。もちろんそれら の行動には、土着の意思決定の体系が存在する(Douglas 1969; Teller 1972; Young 1981)。選択の要因には、その医療の有効性への信仰、距離、時間、治療や医者の成りゆき、親しみやすさ、社会的コスト、家族構成、利用できる経済的資 源、財政コスト、社会的コスト、文化的な信条、病気そのものの偶発性などが考えられる。

 


 村落レベルでの近代医療——西部グアテマラ高地


 中央アメリカにおいて近代医療制度は村落地域をどのように統合しているのだろうか。西部グアテマラ高地を例にとってみよう。

 グアテマラの最西部に位置するウエウエテナンゴ県(Departamento de Huehuetenango)において、近代医療サービスを提供している機関は、保健省、社会保険協会、メリノール(Maryknoll)カトリック教団 等の非政府組織、ならびに国連難民高等弁務官などの国際的組織がある。県庁所在地にあたるウエウエテナンゴには保健省の地域病院(Hospital regional)が、サン・ペドロ・ネクタ(San Pedro Necta)とハカルテナンゴ(Jacartenango)には民間の病院がある。ウエウエテナンゴ全県が保健省が区割りした全国の二四の保健地域の一つ であり、その統合事務所は県庁所在地の地域病院内にある。ウエウエテナンゴ保健地域内は、さらに一三の保健地区に下位区分されている。

 いま、保健地区にあるひとつの行政区トドス・サントス市(Todos Santos Cuchumatan)をとりあげる。この行政区は、クチュマタン山地の西斜面に分散して標高一五〇〇から三五〇〇メートルに点在する集落からなる人口約 一万五千(一九八〇年)からなる。したがって市(municipio)という訳語を与えているが、この場合は村という形容のほうが近い。このトドス・サン トス市は第二保健地区に含まれている。第二地区の本部はチアントゥラ市(Chiantla)の保健センターにあり、地区全体でトドス・サントスを含む一〇 のヘルスポストを統轄している。トドス・サントス市地区全体では二つのヘルスポストがあり、それぞれプエブロつまり役場のある町と、そこから約一〇キロ北 西にある町サン・マルティンの二か所にある。

 ヘルスポストは、プエブロでは村落奉仕の学生医師一名、看護助手(auxiliadora de enfermeria)一名、村落保健技師(Tecnico de Salud Rural)一名の三名から構成され、サン・マルティンでは看護助手が一名常駐するのみである。学生医師は首都の医科大学で教育を受けたメスティソであ り、六カ月の任期で次々と交代して赴任する。彼らは保健省と学生が所属する国立サンカルロス大学医学部の監督下におかれ、そのような社会奉仕と実践の制度 は「監督下におかれた専門実習」(Ejercicio Profesional Supervisado, EPS)と呼ばれる。村落に配置された学生たちは、そのような実習を通して地方を疫学ないしは臨床データを採集し、実習終了後それをもとに「学位論文」を 書く者が多い。この学位論文は、実質的には医学部の卒業論文であり、正式な医師免許所得のための必要与件となる。看護助手の業務は、ヘルスポストにおいて は医師と共に、あるいは医師不在の場合独力で患者の診察と治療活動に従事することである。看護助手は中等教育卒業生を対象とする看護専門学校を卒業すれば なることができる。村落保健技師は水道ならびに簡易便所の普及計画の立案、地域住民への折衝、地域保健統計の整備など多岐にわたる業務を担当する。トド ス・サントスの保健技師には保健省よりオートバイが貸与され、サン・マルティンや地区事務所のあるチアントゥラやウエウエテナンゴへの事務連絡や医療用品 の供給という業務なども行なわれていた。

 ヘルスポストはたんに定まった場所を制度的医療サービスの拠点にする型の活動だけにとどまらない。看護助手や学生医師は各世帯への定期的 訪問などをおこなったり、妊婦や乳幼児に対するワクチン接種のために個別訪問する。またプライマリーケアの政策の一貫として保健普及員(Promotor de Salud)を養成するプロジェクトがある。これは地区内の集落ごとにボランティアで働いてくれる保健普及員を置き、簡単な投薬をおこない一般住民の保健 教育計画の鍵となる人脈を開拓する目的でつくられた。看護助手たちは定期的に彼らのところをまわり常備している応急治療の医薬品などを点検する。

 普及員はスペイン語のそれをさすプロモトールと呼ばれるが、トドス・サントス市でいっぱんにその言葉でさすのは、保健省の普及員でなく、 非政府組織が近代医療のアクセスの不便な各地に自前でもつ簡易の診療所で働く保健補助員ことをさす。市の中心部のプエブロにあるカトリック教会の敷地内に はメリノール教団の小さな診療所(Clinica Parroquial)があり、この教団の独自の養成研修をすませた保健補助員(普及員)が男性が一人常駐し、終日診療活動にあたっている。メリノール系 の保健補助員は市内の各地に少なくとも5人が活動している。

 政府保健省の診療所であるヘルスポストのスタッフは、もともとこの市の出身ではないメスティソであるのに対して、教団診療所の保健補助員 は地元出身の先住民族である。補助員はトドス・サントス市の全域で共通の様式をもった民族衣装をまとい、先住民族の言葉であるマム語を話す。そのため市の 広い地域から人びとが相談に訪れるのはほとんど先住民族である。他方ヘルスポストに訪れるのは、住民の多数派をしめる先住民族だけでなくメスティソも含ま れ、使われる言語はスペイン語である。

 さらに郡役場の近くには民間の医療援助団体のベルホルスト病院(Hospital Behrhorst)で訓練を受けた2人の普及員が活動している。これらの診療所の経営は教会、役場、その他の団体の援助はあるものの、患者からの診察料 の徴収や薬の売上などで半ば独立採算的に活動を運営している。そしてそれらの普及員はその活動に専業的に従事している。さらに一九八七年よりトドス・サン トス地域で活動を開始した「国境なき医師団(Medicos sin Frontera, Suiza)」のプロジェクトが養成した普及員が常駐する薬局が、八七年の終わりに開店した。この団体は先の2種の普及員とは趣を異にした、保健省的な無 給の保健普及員を養成するための研修会を開いており、履修者には修了書も授与している。

 このような保健普及員あるいは保健補助員が八〇年代の終わりに、雨後の筍のように爆発的に普及しだしたのは、八五年までに中央高地でのゲ リラと国軍によるテロリズムが沈静化し、治安の安定にともなってそれまで滞っていたプライマリケアの計画が政府や非政府組織の間で再び活発になったからで ある。このようなプロジェクトのなかには手近に栽培できる薬草などを工業医薬品の代わりに利用するという「伝統医療」との共存を図るものもあるが、外部か ら導入された制度という点では近代医療的側面がつよい。

 したがってここには、先に指摘したように社会体系としての伝統医療の土壌に、技術体系としての近代医療が普及する過程をみることができ る。この過程は、先に触れたように、見方を変えれば近代医療が社会体系の一部をなすものとして組み込まれてゆく過程すなわち近代医療の土着化の過程なので ある。次節ではその過程を媒介する重要な二つの要素である人(保健普及員)と物(医薬品)について考えてみよう。


  近代医療を土着化させるもの


 村落の外部から持ち込まれようとする近代的な制度的医療と、村落社会において行われている人びとの保健に関するすべての信条と知識である 伝統医療の間には齟齬がある。それが前者の社会的文脈から切り離された技術体系と後者の社会体系というカテゴリー上の違いにあることは指摘した。ところ が、一般には伝統医療は古くから伝わる伝統的な治療であるという、もともと本来の「伝統医療」への偏見から、伝統医療を近代医療に組み込み可能な技術体系 としてとらえる動きがでてきた。一九七八年のアルマ・アター宣言以降、世界の保健施策はプライマリーヘルスケアと呼ばれる住民の積極的参加を推進する保健 施策の採用は、このような見方をさらに強化した。

 中央アメリカの村落部におけるプライマリーヘルスケアを簡潔にまとめてみると、およそ次のような活動があげられる。

 (1)母子保健、特に五歳未満の幼児と妊婦に対する予防接種

 (2)伝統医療を構成する人的あるいは物質的要素の科学的制御、特に伝統的出産介護者(産婆)に対する研修と登録管理、現地の薬草の知識 の収集

 (3)環境衛生、簡易上水道および簡易便所の設置、マラリアなどの媒介動物病の対策

 そこで問題となるのは、住民をプライマリーヘルスケアに巻き込むためにどのようなイデオロギー的戦略がとられたかということである。それ は、一言でいうと、まず近代医療に携わるスタッフには、現地の医療体系についての「尊敬」と「理解」をさせる一方、他方では、現地住民を組織化し内部から 人びとの健康を支える基盤を確立することである。

 では、より高次な社会的文脈すなわち世界保健機関や多くの国際組織の間ではどのようなことが進行したのであろか、ここで考えてみよう。ま ずプライマリヘルスケアには、西暦二〇〇〇年までに地球上のすべての人に「健康」をもたらすという究極の目標がある。しかしながら従来の中央集権的な近代 医療を末端までもたらすには、医療資源の配分という観点からみると明らかに限界があるし、目標達成には時間的にまにあいそうにない。近代医療の資源配分を 空間的に分析する地理学者などは、都市と村落の格差はむしろ拡大傾向にあるという。そうなると目標を諦めないためには、新たな医療資源をどこかに求めた り、それを産出す必要が生じる。そこで案出されたのが住民による自助努力であり、現地の医療資源である「伝統医療」の利用である。「伝統医療」への尊敬と 理解が必要とされてきた背景には、それをプライマリヘルスケアのために有効に活用しようとする政策が登場したことがあげられる。その際に、それとは別個に 行われてきた社会学や人類学の伝統医療に関する知識が動員されることになり、この現象については第二章で考察した。

 伝統医療に関する人類学的知識の有用性が確認されても、それが実際の村落の医療の現場で運用されなければ意味をもたない。この領域で威力 を発揮するのは人類学だけでなく、社会学や心理学なども含めたいわゆる行動科学がもたらした「人びとの知識と行動」を的確にとらえる知識である。これらの ものが、村落において住民を組織したり、利用可能な伝統医療の把握を可能にする。前者の住民を組織する医療施策の典型が保健普及員の制度である。そして、 後者は専門の人類学者の指導のもとに、研修を受ければ用意に民族誌的基礎資料を収集することができるようになる即席民族誌的調査法(rapid ethnographic method)などの開発とそのマニュアル化である。

 保健普及員とは、中央アメリカでは普及促進員(promotor)、ボランティア(voluntario)、協力者 (colabarador)、班(brigada)等の名称で呼ばれている。保健普及員の活動の内容はそれぞれの国、地域、実行している団体により様々な 形態があるが、現地の住民から選ばれ、簡単で自主的な保健活動を、無償奉仕で行い、住民と制度的な保健サービス機関の間を媒介する役割を担うとされている 点は共通である。これらは、村落の医療を住民自らが守るというイデオロギーを人びとの間に普及させるために、住民のなかにキーパーソンを新たに作りあげる ということである。またこれと類似した制度に、伝統的な出産介助者を地元のヘルスポストで登録し、定期的に管理する「訓練された産婆」(partera adiestrada) の制度をおこなっている地域もある。普及員は医療とは無関係の人を近代医療活動に巻き込むことだが、この出産介護者の登録管理制度は母子保健のために既存 の伝統医療の構造の一部を利用するということになろう。

 保健普及員の制度は、世界保健機関や医療援助に関わる国際機関などが早くから導入をすすめたものである。現在では保健省の職員が住民を組 織し、普及員のための教育をおこない、それを任命するという業務についている。また保健省の職員は、計画の際に現地の事情に詳しい者が動員され、なるべく 村落に影響を与えないように配慮されている。しかし、医療援助が村落部で本格的に普及する以前では、援助のメンバーには見慣れない都会の人間や白人の外国 人などが含まれていた。保健普及員の初期にそのような異邦人がもたらした住民に対する衝撃と人びとがそれに与えた次のような文化的解釈の事例は、外部から もたられるイデオロギーに対する嫌悪の表現と理解することができる。

 まず一九五〇年代にR・アダムスがグアテマラのメスティソ村落での調査したときの話である。保健省の職員が、村落の食糧状況を改善するた めに粉ミルクと栄養食を持ち込んだ。このような新種の食物の導入は、村落の人びとをして、職員がどもたちを肥らせて、外部の人たちに食用に売り飛ばそうと しているという流言があった。アダムスとルーベルは後にこの逸話を、強力な力をもった人間のナグアル(nagual)という分身霊が人を食べるという信仰 のモチーフに合致させていると解釈した(Adams and Rubel 1967:353)。また次は、私が八〇年代の中頃にホンジュラス西部の山村で直接聞いた話である。栄養士のボランティアであった白人の女性が地元の栄養 改善のために各家を個別訪問していたが、人びとは彼女が子どもをアメリカに連れて行くのではないかと大変畏れ、その訪問を拒絶していた。グアテマラのケー スと同じように民話上の信仰と重ねる解釈が必ずしも適切とは思われないが、女たらしに騙されて自殺するジョローナ(llorona)という女の妖怪は全身 白装束で、子どもを求めて夜な夜なさまようというモチーフと完全に重なる(池田 1995:216-7)。

 普及員制度は近代医療を外部から導入される際の橋頭堡のような機能を果たすものであった。しかし、近代医療は、住民の自発的な取り込みに よっても導入される可能性もまた否定できない。この章の冒頭でも指摘したように、診療所の施設数のシェアは制度的医療を取り仕切っている公的セクターより も私的セクターのほうが大きい。つまり、人びとは制度が準備する以上に近代医療を積極的に利用しているのである。これは換言すれば、近代医療がすでに人び との間で社会体系をなす一部をすでに構成しているという証であるかも知れない。このことを考えるために、病気の初期に行われる自己投薬行為を例にとってみ よう。

  自己投薬行為(automedicacion)とは医療の専門職の監督の圏外で民間の人々によって行われる自己判断に基づく投薬行為の ことである。したがって、この行為は住民による保健健追求行動 のひとつである。自己投薬行為は、中央アメリカのみならず世界中に広くみられる一般的な現象である。しかし、近代医療が社会体系の一部を形成していなかっ たり、大きな影響力をもっていない地域では、処方の多くは工業医薬品を用いるのにもかかわらず、人々の理解や解釈は伝統医学の用語や概念が援用される。こ の場合は、工業医薬品は近代医療の産物ではあるが、人びとの認識論から見れば伝統医療の文脈のなかで使われる薬草と同じ位置をしめる物品であることがわか る。つまり、工業医薬品は伝統医療に流用ないしは節合されているのである。中央アメリカの村落における過剰なほどの工業医薬品の普及は、村落における近代 医療のヘゲモニーの確立を象徴するものではない。むしろ、「工業化された薬草」なのである。この状況は中央アメリカの村落および都市を問わず広くみられる ことである。

 しかしながら、このような解釈はこの社会が抱える医薬品をめぐる災厄の理解にとって重要な貢献はしない。自己投薬行為におけるより重要な 問題は、その誤用、医薬品の膨大な消費やその背景で多くの利潤を上げている他国籍製薬企業、および医薬品消費に伴っておこる「健康の商業化」という一連の 現象である。また、西洋近代医療の名声が高まった際に人々に受容される近代医薬の消費の伸びは、家庭経済における医薬品購入の比率を増加させ、皮肉にも全 体の生活の質を下げる結果にもなった( Silverman 1976; Ferguson 1981)。自己投薬の問題は第七章でより詳しく論じたい。

La Llorona - Flor Amargo


 都市における伝統医療の継承


 一般的にみて、近代医学の普及した都市部は、村落部に比して伝統医学のはたす役割は少ないと考えられてきた。しかし、都市部における伝統 的色彩の強い治療者の登場や古い薬草や治療法を賛美する健康ブームが頻繁におこることからもわかるように、現実にはこの主張は近代的な見方をする論者の希 望的観測にすぎない。事実は、その逆であり、村落にみられる治療師とは異なる治療者が活発に活動し、都市生活においても伝統医療を支持する人々なくなるこ とはない。都市はむしろ非西洋的医療の治療者が活躍する環境なのである(Press 1978)。

 中央アメリカの都市部における多元的医療システムで特筆すべきことは、ナチュリスモ(naturismo)と呼ばれる代替医学への信仰 が、特定の社会階層に関係なく広く受け入れられていることである。特に、先住民文化がより強くみられるグアテマラやメキシコは、メスティソが人口の多くを しめるホンジュラスやエルサルバドルなどの社会よりも、都市部におけるナチュリスモの影響が広く浸透している。ただし、コスタリカのように先住民文化への 関心の高い社会ではこの種の代替医療への関心があるので、民族的構成の比率からナチュリスモへの人気の度合いを推し量ることはさほど大きな意味はない。ナ チュリスモは具体的には薬草や自然食品、ときには身体的訓練や瞑想という幅広い非西洋医学的な活動として表れる。この体系を生業としたり信奉する者をナ チュリスタ(naturista)、それに基づく診療所や薬店をセントロ・ナチュリスタ(Centro [de] Naturista)とよばれ、しばしば都市の人通りの多い通りに店を構えている。

 ホンジュラスもグアテマラも、伝統的治療にもとづく「医療行為」は法律によって禁止されている。ホンジュラスでは法律の条文のなかに「ナ チュリスタ、ホメオパシー、非科学的な経験主義医療」等が、当局が有害あるは無益とみなしたものは禁止するという項目がある。

 ナチュリスタの主張には、中央アメリカの伝統医療の重要な概念である熱/冷二元論や体液説と似た側面をもち、東洋的神秘主義および現代エ コロジスト的な全体論などが習合したものである。また近代医療はナチュリスモにとって批判の対象になるが、そのすべてのシステムが否定されるわけではな い。ナチュリスモにもとづく診断や処方においては、聴診器や注射が使われ、そこで投薬される特別に処方した薬にはカプセルが使われるからである。ナチュリ スモは西洋近代医学と土着の民俗概念をうまく習合させ、東洋文化に対するエキゾチズムを感じる中央アメリカの人々に強い共感を喚起するようである。いづれ にせよ、ナチュリスタの組織化や人気の増大などの社会現象によって、都市部におけるナチュリスタそのものの勢力が拡大したり健康信仰すなわちヘルシズムの 流れに乗ってニセ医者的に活躍する者が現われたり、各国の薬事法に抵触するといった問題が発生している(Valenzuela 1985)。

 そのためナチュリスタたちは連合して、グアテマラ国内で業務独占によるナチュリスタたち自身の「専門化」 (professionalization)や利権の確立の試みを進めている。例えばナチュリスタが連合して学会組織を作ったり、全国レベルでシンポジュ ウムを企画したりする。あるいは、ナチュリスタの研修を修了したものにドクター(doctor)の称号を授与する専門化の傾向を自らの手で推進している。 専門化し組合などを作り一種の業務独占をおこなうことで、政府や社会に対して影響力をもたせようとする動きである。これに似た動きは、一九八〇年代以降、 ベニン、マリ、ニジェールなどの西アフリカの国々でみられた。すなわち伝統治療師たちは自分たちの業務を専門職として認めてもらうために議会誓願活動など が活発におこない、やがてそれらが政府によって合法化され、現在では彼らは組合を組織し自分たちの権益を守ることができた。

 社会体系をなす伝統医療の要素が都市住民によって受容されたり、彼らが「伝統的」だと感じている保健に関する信条や実践を取り入れられた りすることは、世界中でみられることである。しかし、それは必ずしも伝統医療が果たしていた役割や機能と同じものを人びとに提供するとは言えない。その意 味で、継承されたのは記号としての「伝統」であって、その記号の意味は新たな社会的文脈のなかで全く別のものになっている。


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