アントロポロギー・人類学・哲学的人間学
Anthropologie
アントロポロギー(Anthropologie)・人類学・哲学的人間学は、すべて同じです。時々、哲学研究者が「僕たちの人間学は文化人類学者や自然人類学者たちのそれ(=人類学)とは[その厳密さにおいて]違うんだよ」とか、文化人類学研究者が「アントロポロギー(Anthropologie)はドイツ語由来の言葉で、哲学者が、哲学の同義語で使い始めたので、僕たちの実証主義的な、(1922年の実証主義的)フィールドワークを基調とする文化人類学(ないしは民族学)とは異なるのだ」と言ったら、その両者は、学の歴史的展開について、無知な愚か者と言わざるをえません。
「人類学とは、人間とはなんであるのかを根本的に知っており、したがって人間とは誰であるかを決して問うことのない、人間についてのあの解釈のことである」(p.133)とハイデガーがいう時の人間学(=もともとの翻訳)であり、そして私の専攻する人類学のことである。後者の実証主義的人類学は《人間とは誰であるかを決して問うことのない、人間についてのあの解釈》そのものなのである。ハイデガーは続けていう;「というのは、もしこうした問いを問うとすれば、人類学は自分が衝撃を受けて克服されたと告白をせざるを得ないからである」(ibid.)。この傲慢さが、いわゆる文化人類学(民族学)を無反省な知的遊戯にみずから転落せしめて、人類学の面白さをダメにしているというわけである。そして、ハイデガーの三段論法に似た結論(審問)は以下のごとくである。
「しかしながら、人類学がことさらに、すなわち単に《主体 Subjectum》の自己確保をあとから追加的に保証することだけを遂行しなければならないところでは、どのようにしてこうしたことを人類学に期待したらよいというのか?」(ibid.)
このことをハイデガーは「近世的本質が自明的なものに溶け込んでしまう」からだと、その理由を説明している。
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