ベネデット・クローチェとジョヴァンニ・ジェンティーレ
Benedetto Croce e Giovanni Gentile
「ベネデット・クローチェ(Benedetto
Croce、1866年2月25日 - 1952年11月20日)は、イタリアの哲学者・歴史学者。ヘーゲルの対立の論理に代えるに判別の論理をもってする独自の哲学を確立し、哲学と歴史叙述を一体化しようとし
た。イタリアの精神界のみならず、欧米の思想界に大きな影響を与えた。」
●ヘーゲル『歴史哲学講義』Vorlesungen über die Philosophie der Geschichte.(pdf)(ENG_pdf)
●ヘイドン・ホワイト『メ タヒストリー : 一九世紀ヨーロッパにおける歴史的想像力』大澤俊朗 [ほか] 訳、作品社、2017年
歴史の詩学
ベネデット・クローチェ(Benedetto Croce、1866年2月25日 - 1952年11月20日) |
ジョヴァンニ・ジェンティーレ(Giovanni Gentile、1875年5月30日 - 1944年4月15日) |
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1866 |
2月25日ペスカッセーロリに生まれた |
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1883 |
7月28日、イスキアでの休暇中、カサ ミッチョラの地震で両親と妹を失い、生き残った弟と共にローマの親戚シルヴィオ・スパヴェンタの家へ転居 |
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n.d. |
サピエンツァ大学に通う |
1875 |
5月30日誕生 |
1884 |
アントニオ・ラブリオーラと知り合う |
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1886 |
ナポリへ転居、ジュスティーノ・フォル トゥナートやサルヴァトーレ・ディ・ジャーコモと知り合う |
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1900 |
Materialismo storico ed economia marxista.(仏語訳, Matérialisme
historique et économie marxiste : essai critiques.) |
1898-1906 |
ピサ大学 |
1901 |
出版人ジョヴァンニ・ラテルツァと出会 い、以後、主要著作はラテルツァ出版社から刊行 |
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1902 |
『表現の科学および一般言語学としての美 学(L'Estetica come scienza dell'espressione e linguistica generale) |
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1903 |
ジョヴァンニ・ジェンティーレ(Giovanni Gentile, 1875-1944)とともに『クリティカ』誌を創刊し、反アカデミズム・反実証主義の立場をとり、精神哲学体系諸著作を次々と発表 |
ca. 1903 |
当時はイタリアのマルクス主義の父アントニオ・ラブリオーラの影響を受けた新ヘーゲ ル主義者であり、ベネデット・クローチェと協力して哲学雑誌《批評 Critica》を発刊した。 |
1904 |
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1905 |
『純粋概念としての論理学綱要』 Lineamenti di una logica come sienza del concetto puro, 1905年 |
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1906 |
1906 |
1906年から14年にパレルモ大学. |
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1907 |
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1908 |
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1909 |
『実践の哲学 経済学と倫理学』 Filosofia della Pratica. 『純粋概念の科学としての論理学』Logica come scienza del concetto puro. |
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1910 |
上院議員に選出。戦間期においては、ジョヴァンニ・ジョリッティ内閣の文部大臣をつとめた |
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1911 |
ジャンバッティスタ・ヴィーコの哲学』 La filosofia di Giambattista Vico. |
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1912 |
Saggio sul Hegel.→『ヘーゲル弁証法とイタリア哲学』 上村忠男編訳、月曜社〈古典転生〉 2012、スパヴェンタ、ジェンティーレ共著 |
Saggio sul Hegel.→『ヘーゲル弁証法とイタリア哲学』 上村忠男編訳、月曜社〈古典転生〉 2012、スパヴェンタ、ジェンティーレ共著 |
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1913 |
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1914 |
1914 |
1914年から 1917年にピサ大学 |
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1915 |
『歴史の叙述の理論と歴史』 Zur Theorie und Geschichte der Historiographie. |
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1916 |
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1917 |
『歴史叙述の理論と歴史(Teoria e storia della storiografia)』 |
1917 |
1917年から1944年にローマ大学の教授 |
1918 |
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1919 |
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1920 |
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1921 |
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1922 |
1944 |
1922年から24年にファシスト政府の文相として教育制度の改革を遂行。 初等教育に宗教が導入・ラテン語教育が拡充される他、現在のイタリア教育法の主幹となる法律・複数の教育サイクル・学習への国家試験などを規定した |
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1923 |
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1924 |
ファシズムが台頭するに及んで、これを支持する姿勢
もみせ、1924年、統一社会党のジャコモ・マッテオッティが暗殺されたときも、クローチェは上院における信任投票でベニート・ムッソリーニの政府に信任
票を投じている。Storia del regno di Napoli. |
1924 |
辞任後は上院議員、代表議会委員、イタリア大学連合会長となり、またジョバンニ・トレカーニ会会長として《イタリア百科事典 Enciclopedia italiana》を編集 |
1925 |
反ファシストの立場に転じ、同年5月1日には『知識
人の反ファシズム宣言』を起草し、その後は一貫してファシズム批判を続けた。ムッソリーニ政権下でも『クリティカ』誌を発刊し続け、ファシズムを攻撃し
た。Racconto degli racconti. Manifesto of Anti-Fascist Intellectuals |
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1926 |
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1927 |
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1928 |
Storia d'Italia dal 1871 al 1915 |
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1929 |
ムッソリーニとローマ教皇が結んだ政教和約(ラテラノ条約)に反対し、議員を辞職した。Storia dell'eta' barocca in Italia. |
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1930 |
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1931 |
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1932 |
Storia d'Europa dal 1815 al 1915. |
1932 |
ジョバンニ・トレカーニ会会長として《イタリア百科事典
Enciclopedia italiana》を編集。その 1932年版ではファシズムを規定して、以下のように記述する―「ファシズムでは、
国家が自らの原理や価値観でもって個々人の意思や思想を律し、型にはめるための権威であるだけでなく、積極的に個々人の意思や思想を広く説き伏せていく強
制力をもった機構となる。…ファシストはすべての個人及びあらゆる集団を絶対的な存在である国家のもとに統合する」。この項目は、《ファシストの原理》と
呼ばれた。 全体主義の理論家として彼はかつての友人クローチェと訣別する。 |
1933 |
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1934 |
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1935 |
Ultimi saggi. |
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1936 |
La poesia. |
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1937 |
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1938 |
La storia come pensiero e come azione. |
1938 |
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1939 |
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1940 |
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1941 |
Il carattere della filosofia moderna. |
1941 |
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1942 |
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1943 |
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1944 |
1944 |
3月にイタリア共産党のグループ《愛国行動グループ》のメンバーであるブルーノ・ ファンチュラッチ(Bruno
Fanciullacci)率いる反ファシストのゲリラにフィレンツェの自宅前で
暗殺される(Uccisione
di Giovanni Gentile)。ファンチュラッチは7月にナチスにより逮捕され、逃亡を図ろうとして殺害された。 |
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1945 |
ジェンティーレの暗殺は反ファシスト陣営に亀裂をもたらす結果となり、21世紀の現在もなお議論の的となっている。 」 |
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1946 |
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1947 |
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1948 |
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1949 |
Filosofia e storiografia. |
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1952 |
11月20日死去 |
◎ジョヴァンニ・ジェンティーレに関する追記
その思想:「彼の国家尊重、意志を重視する哲学は
フィヒテやヘーゲルに由来し、「純粋自我の思考活動こそが唯一の実在である」とする
「行動的観念論(Idealismo attuale)」の立場をとる。哲学は歴史の自己展開と同一である、そして社会の歴史とは国家の歴
史のことである、とも説く。自我はその発生と発展の全過程において社会性に滲透されており、単独の自己というものは存在しない。ジェンティーレの「自我の
社会性」という理論は、個人主義の排撃と個人の自由の制限を正当化するものとして完成し、そのためファシズムと容易に同調し、公然と支持することができ
た。同時期にファシストの獄中にいたグラムシはクローチェ哲学と比較しつつジェンティーレの観念論を批判している[A.グラムシ『グラ
ムシ選集・2』合同出版社、1962年、pp.144-146]。1930年代以降の日本ではアルフレート・ローゼンベルク、オトマール・シュパ
ンやG・H・ミードなどと同様に関心を持たれたと考えられる[ 鶴見俊輔『ア
メリカ哲学』鶴見俊輔集1、筑摩書房、1991年、p.135]。」
リンク
Bibliography
文献
その他の情報
森谷克己『東洋的生活圏』育生社弘道閣, 1942年