はじめによんでください

国立民族学博物館批判

Clitique of National Museum of Ethnology, Japan

池田光穂

☆国 立民族学博物館(略して民博=みんぱく)は私の大好きな博物館である。初代館長の梅棹忠夫も好きだし、当初、西の梅棹にならんで東の館長予定者であった泉 靖一も僕は好きだ。でも、この両者と、民博設置の話には、歴史的、植民地主義・帝国主義などの権力との癒着の話が創設の時からある。それもそのはず、日本 民族学の大親分であった岡正雄が、敗戦直前に作った、文部省直轄の民族研究所が、国立民族学博物館の前身であることが、明らかであった。日本の軍国主義に 日本民族学が相乗りした民族研究所は戦後つぶされて、国立民族学博物館はEXPO70すなわち万国博覧会時に世界各国から寄贈された民族資料を母体するの で、民族研究所とは関係ないと主張することも可能だ。だが、このような議論は、日本民族学——現在は日本文化人類学——の知的ルーツが、日本帝国の拡張、 植民地主義、帝国主義と大いに結びついており、むしろ、そこからの反省、すなわち、そのような呪われたルーツをいかに克服したのか、という物語を我々は後 世に伝えるべきなのに、日本の民族学者や文化人類学者の多くは、そのような知的反省を怠ってきた。そこから出発しようとするのが、このページの目的であ る。したがって、現在の国立民族学博物館に関わっている人たちを批判したり非難することが目的ではない。歴史から学び、反省して、そこから新しい日本の文化人類学を再出発させるのが、私の目的なのだ

1. 津野海太郎「国立民族学カタログ館」『小さなメディアの必要』晶文社刊(現在は理想書店)

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4 『醜いジャセアン

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7 (p.136)「ブ レヒトはガリレオ・ガリレイについての芝居を書いて、かれの知識欲を、いくらつめこんでも満足しないかれの食欲にかさねてみせた。そのガツガツとなりふり かまわぬ欲望があったからこそ、近代科学が生まれたのだが、その近代科学は必然的に人類に原子爆弾をもたらした。したがって、われわれは食いすぎに注意しなければならないというのが、そこでのブレヒトの意見だった。 民族学博物館の旺盛すぎる食欲は、このプレヒトの警告を私におもいおこさせる。石毛直道助教授はこの博物館に「食生活実験室」をもっている。かれの『食生 活を探険する』や『食いしん坊の民族学』は、それ自体としてはちっともイヤな本ではないが、博物館——それも巨大な国家の力にささえられた博物館の食欲に は、どこかイヤなところがある(p.136)。」

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9(p.137) このような民族学博物館は、ヨーロッ。ハやアメリカの諸国では、すでに半世紀もまえからりっぱなものが設置公開され、市民の要求にこたえてきた。わが国に おいても、すでに40数年も前から設立の計画はあったが、実現をみずに今日にいたった。このほど、機熟して、わが国においても国立民族学博物館が創設さ れ、公開されるにいたった。さいわいにして、その規模、構想は、世界のこの種の博物館のうちでは、まず第一級のものとすることができた。おくればせなが ら、これで世界の先進諸国と肩をならべることができるようになったのである(「総合案内」梅棹忠夫、1977年)

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11(p.138)死 んだ科学史家の広重徹が指摘するところによれば、日本の近代科学の「前線配置」は、富国強兵への国家的努力にむすびついてひろげられてきた。1940年代 のはじめには、今西錦司を隊長とする京大興安嶺探険隊を筆頭に、たくさんの探険隊や調査団が、中国や東南アジアに派遣された。それらのフィールド・ワーク は、おおくの場合、日本軍の保護のもとにおこなわれた。梅枠忠夫の発言をつぎの広重の指摘にかさねて読んでみてほしい。

12 (pp.138-139) 文部省は1942年5月に、東亜諸民族についての根本的・現実的な調査研究を行ない、民族政策に寄与するという目標をかかげて民族研究所設立準備委員会を発足させた(研究所は翌1943年1月に官制公布)そのほかに、宇垣一成大 将を総裁とする財団法人民族科学研究所も1942年8月に設立された。〔中略〕当時の南方科学を通観して気づくことがある。それは敵である欧米諸国への劣 等感である。たとえば雑誌『科学』1942年9月号巻頭言は、過去百年の欧米科学者による南方研究の蓄積の厖大さを指摘し、日本人は来従ほとんど一指も染 め得なかったが、今後は彼らの仕事を超克しなければならないと述べている(広重徹『科学の社会史』)
※財団法人民族科学研究所については、不詳。ただし戦前優生学政策にかかわったことがある精神医学者の池見猛(1907-2016)が、民族科学研究所を主宰、『民族科学』を刊行していたとの記載がある(→『民族科学研究』『日本民族論』)。戦後は、池見は学校法人経営にかかわり、財団法人?「民族科学研究所」の運営と僅かの点数の書籍を出版している。
13(p.139) 梅綽のいう40数年前の民族学博物館構想は、これらの研究所に吸収され、日本の敗戦とともに立ち消えになった。そして日本経済の高度成長によって、ふたた び浮上し、国家の「民族政策に寄与する」学問の「前戦配置」のうちに重要な位置をしめるべきものとして、以前とはケタちがいの規模で実現されることになっ た。「おくればせながら、これで世界の先進諸国と肩をならべることができるようになった」という梅棒のことばに、いまはめでたく解消された昔日の「劣等 感」のなごりを見いだすことができる。

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