民族研究所
Institute of Ethnology, 1943-1945
ウィキペディア(日本語)「民族研究所」などからの 引 用:
「第二次世界大戦以前の日本の民族学者(文化人類学 者・社会人類学者)たちは、1934年、渋沢敬三らを中心に発足した日本民族学会(現在の日本文化人類学会)を中心に活動していたが、帝国大学・旧制大学 を頂点とする官学の中では人類学の研究が未発達であったため、研究が正当に評価されてはいなかった。そこで当時の学界で指導的地位にあった岡正雄らは、太 平洋戦争の中での占領地拡大(「大東亜共栄圏」建設)にともなう民族政策樹立の必要という時局を利用し、人類学者の研究機関を設立しようと政府当局に働き かけた」(→「民族研究所と総力戦」)。
1940年ごろから、岡正雄は 民族学研究所の設置に動き出す——岡(1979:485)では「国立民族研究所」の表記 もある。10月?(少なくとも11月)に岡は帰国して文部省直轄の民族研究所設立に奔走している。1940年10月総力戦研究所の開所。1941年に近衛内閣において閣議決定(典拠なし)され て、研究所の設置はきまったが、同年6月22日の独ソ戦の勃発により、近衛内閣は総辞職し、研究所設置構想は無期延期になる。また、中生(2013: 154)によると、民間人から岡をバックアップした者に昭和通商の佐島敬愛 がある。実際に、佐島は、日本民族学協会の設立に協力し、また1941年には日本民族学協会の常任理事になる(渋沢敬三会長;岡正雄理事長)。(→日本文化人類学史)
なお「民族研究所と総力戦」については、当該のページを参照し
てください。
1941年10月岡は参謀本部嘱託となり、満洲国、
朝鮮などを訪問。12月真珠湾攻撃。1942年5月に参謀本部の委嘱で、フィリピン、仏印、タイ、ビルマ、ジャワ、ボルネオ、セレベスの民族事情を視察す
る(清水 2020:405)。
参謀本部の後押しにより「1942年5月に「民族研 究所」の設立 が決定された。1943年1月18日に勅令第20号「民族研究所官制」により文部省管轄の研究機関として設立、所長には民族社会学の権威として知られてい た 京都帝国大学教授・高田保馬(1883-1972)が就任した(→日本文化人類学史)。 この研究所は「民族政策ニ寄与スル為諸民族ニ関スル研究ヲ行フ」(「官制」第一条)ことを目的とし、日本最初の官立人類学研究機関であったことから、先述 の岡正雄を筆頭に当時の代表的民族学者が参加し、主として大東亜共栄圏の啓 蒙活動など国策への協力と並行して、実証研究が行われた。」
※「大東亜共栄圏(だ
いとうあきょうえいけん,大東亞共榮圈、Greater
East Asia Coprosperity Sphere または Greater East Asia Prosperity
Sphere[1])
は、太平洋戦争(日本側呼称・大東亜戦争)を背景に、第2次近衛内閣(1940年〈昭和15年〉)から日本の降伏(1945年〈昭和20年〉)まで唱えら
れた日本の対アジア政策構想である[2]。太平洋戦争期、日本政府がアジア諸国と協力して提起し[1]、東條英機の表現によれば、共栄圏建設の根本方針は
「帝国を核心とする道義に基づく共存共栄の秩序を確立」することにあった[2]。先立つ1938年9月の満州事変当時には「日満一体」[3]、11月に第
1次近衛内閣が日中戦争の長期化を受けて「東亜新秩序」の建設を声明しており、大東亜(だいとうあ)とは「日・満・華」に東南アジアやインド、オセアニア
の一部も加えた範囲とされている[4][5]。大東亜共栄圏は、「日本を盟主とする東アジアの広域ブロック化の構想とそれに含まれる地域」を指す[6]。
第2次近衛文麿内閣の発足時の「基本国策要綱」(1940年7月26日)に「大東亜新秩序」の建設として掲げられ、国内の「新体制」確立と並ぶ基本方針と
された[6][7]。これはドイツ国の「生存圏(Lebensraum)」理論の影響を受けており、「共栄圏」の用語は外相松岡洋右に由来する[6]
[7]。アジア諸国が一致団結して欧米勢力をアジアから追い出し、日本・満洲・中国・フィリピン・タイ・ビルマ・インドを中心とし、フランス領インドシナ
(仏印)、イギリス領マラヤ、イギリス領北ボルネオ、オランダ領東インド(蘭印)、オーストラリア・経済的な共存共栄を図る政策だった[8]。」
岡は1942年には総力戦研究所に関わり、同年度の
講義「共栄圏と民族問題」のなかで、「民族問題」2度、南方視察の帰国後の7月に講義している(原 1942; 清水 2020:406)。
民族研究所の設立以前から活動してきた日本民族学会
は、民族研究所の設立決定によりその外郭団体に再編され、1942年8月21日財団法人「日本民族学協会」(会長は新村出)と改称して民族研究所の支援に
あたるとともに、附属民族学博物館(かつての日本民族学会附属博物館)の運営などを行った。1945年8月の日本の敗戦にともない同年10月民族研究所は
廃止されたが、日本民族学協会は活動を続け、1964年4月には学術団体としての日本民族学会が復活した(=植民地科学としての民族学の1945年以降の
連続性)。
組織
総務部 - 企画・連絡を担当。
第一部 - 民族理論・民族政策・民族研究を担当。
第二部 - シベリア・モンゴル・スラブ圏など北部・東部アジアを担当。
第三部 - 中国西北辺境・中央アジア・近東など中部・西部アジアを担当。
第四部 - 中国西南辺境などチベットを担当。
第五部 - インドシナ半島・ビルマ・アッサム・インド・南太平洋・東アフリカなど東南アジア・インド太平洋圏を担当。
研究員
岡正雄 |
総務部・第二部部長を兼任。 |
岡 正雄(おか まさお、1898年(明治31年)6月5日 -
1982年(昭和57年)12月5日)は、日本の民族学者。戦中戦後を通じて日本の民族学・文化人類学を主導した。兄に、旧日本陸軍中将細見惟雄、民族学
や考古学・山岳書の名著を多数出版した岡書院店主の岡茂雄。息子に文化人類学者の岡千曲(ウィキペディア、断りのない限り以下同様)。 |
小山栄三 |
第一部・第四部部長を兼任 |
東京帝国大学新聞研究室の第1回生で、昭和10(1930)年三省堂か ら「新聞学」を出版。13(1936)年立教大学教授となり、14(1937)年厚 生省人口問題研究所研究官、18(1938)年文部省民族研究所員兼企画院調査官。24年総理府国立世論調査所長となり、世論調査を初めて日本で行い、現 在の基礎を築いた第一人者として知られる。35年立教大学社会学部長、39年定年退職し、名誉教授。38〜48年日本広報協会理事長を務めた。ほかの主著 に「人 種学概論」「民 族と人口の理論」「新聞社会学」「比較新聞学」「広報学」「マス・コミの功罪」などがある。 |
古野清人 |
第三部・第五部部長を兼任。 |
古
野 清人(ふるの きよと、1899年10月6日 -
1979年3月1日)は、日本の宗教社会学者、宗教人類学者。福岡県生まれ。1926年、東京帝国大学文学部宗教学科卒業。民族研究所第三部(中部・西部
アジア)・第五
部部長(東南アジア・インド太平洋圏)を兼任。戦後、九州大学教授、旧・東京都立大学教授などを歴任。1975年「キリシタニズムの比較研究」で日本学士
院賞受賞。1977年日本学士院会員。エミール・デュルケーム、マルセル・モースらフランス社会学派の方法を用い、民族学の分野で日本の宗教社会学を研究
した。著作集全8巻がある。 |
八幡一郎 |
(所員) |
八
幡 一郎(やわた いちろう、1902年4月14日 - 1987年10月26日)は、日本の考古学者。
専攻は縄文時代、民具の研究。東京帝国大学(現・東京大学)理学部人類学科にて同じく鳥居に人類学を学ぶ[3]。1924年東京帝大選科修了、同副手。各
地の考古学調査に参加し、1931年に東大人類学教室助手。1934年(昭和9年)に日本民族学会創立、発起人となる。後同科講師、東京国立博物館学芸部
考古課長、1962年東京教育大学教授、1966年上智大学教授を歴任し、中国やミクロネシアでも考古学調査を実施した。 |
江上波夫 |
(所員) |
江
上 波夫(えがみ なみお、1906
年11月6日 -
2002年11月11日)は、日本の考古学者。東京大学名誉教授。1948年に「日本民族=文化の源流と日本国家の形成」と題するシンポジウムで騎馬民族
征服王朝説などを発表。その要旨は、「日本における統一国家の出現と大和朝廷の創始が、東北アジアの夫余系騎馬民族の辰王朝によって、4世紀末ないし5世
紀前半ごろに達成された」と推論している(『騎馬民族国家』江上波夫、中公新書)。 |
杉浦健一 |
(所員) |
杉浦健一(すぎうら
けんいち)氏(1905―1954)は、東京大学文学部卒業後、民族研究所所員、東京大学理学部講師、東京外国語大学教授、東京大学教養学部教授を歴任し
た文化人類学者で、日本の文化人類学の創成期に活躍した研究者にふさわしく、幅広い領域と学説に関心を寄せました。宗教民族学から始まって文化圏説に傾倒
した後、柳田国男の主催する日本国内調査に参加してからは歴史主義から機能主義へと方向を変え、1937年以降太平洋戦争の勃発する1941年まで、南洋
庁の嘱託として、パラオ、ヤップ、ポナペ、トラックなどミクロネシア諸島での調査に傾注、貴重な論文を多数発表しました。これは日本人によるこの種の海外
調査の先駆けです。第二次世界大戦後、杉浦氏は、戦前・戦中に進展したアメリカ人類学、中でも文化とパーソナリティー論に触発されて形質人類学と文化人類
学の接点を模索する中で、日本の農村調査を行い、また日本民族学協会によるアイヌ文化の総合研究にも参加し、親族組織を機能的に再構築する研究の途上、病
に倒れました。主著に『原始経済の研究』(1948)、『人類学』(1951)などがあります。(→民族学研究
アーカイブ) |
牧野巽 |
(所員) |
牧
野 巽(まきの たつみ、1905年2月10日 -
1974年11月3日)は、日本の社会学者、東京大学名誉教授。牧野謙次郎の長男として東京に生まれる。東京帝国大学文学部社会学科卒。東京帝国大学社会
学研究室副手(1929年4月〜1930年4月)[1]、東方文化学院研究所員、東京高等師範学校教授。1947年、「儀礼及び礼記に於ける家族と宗教」
で東京帝国大学大文学博士[2]。1949年、東京大学教育学部教授(教育社会学)。1965年、定年退官、名誉教授、大阪大学教授。1968年、早稲田
大学教授。中国の家族が専門。 |
岩村忍 |
(所員) |
岩
村 忍(いわむら しのぶ、1905年9月26日 -
1988年6月1日)は、日本の東洋史学者。専攻は内陸ユーラシア史・東西交渉史。戦後日本におけるシルクロード学の開拓者として知られる。旧制小樽中学
(現:北海道小樽潮陵高等学校)卒業後渡米し、1929年オタワ大学社会学部卒。1931年新聞連合社(現:共同通信社)に就職、1932年トロント大学
大学院経済史専攻修了。満州事変後のリットン調査団に随行して中国各地を回り、国際連盟のジュネーヴ本部などに勤務した。戦時期には東方社の理事に就任し
たほか、1942年から1945年にかけて文部省民族研究所で在外研究(=戦時期には所属する民族研究所の事実上の在外機関であった内モンゴルの西北研究
所に佐口透と共に派遣され中国ムスリムについての共同研究を進めた。)、敗戦に伴う帰国ののち、1948年参議院常任委委員会専門員となり文化財保護法な
どの起草にあたった[1]。 |
佐口透 | (助手) |
佐
口 透(さぐち とおる、1916年6月20日 -
2006年11月13日)は、日本の歴史学者。金沢大学名誉教授。東トルキスタンの研究で知られる。東京帝国大学卒業[2]。戦時期には民族研究所所員と
して岩村忍とともに敗戦直前の内モンゴルの西北研究所に出向、中国ムスリムの現地調査に従事した。 |
徳永康元 |
(助手) | 徳
永 康元(とくなが やすもと、1912年4月2日 -
2003年4月5日)は、日本の言語学者、ハンガリー文学者。府立高等学校文科乙類[4]で実吉捷郎や石川道雄に師事。当初はドイツ文学に傾倒したが、ナ
チの台頭で多数の作家が追放されるに至りドイツ文学に嫌気が差し、さらに1933年に観劇したモルナール・フェレンツの『リリオム』に感動してハンガリー
文学の研究を志すに至った[5]。東京帝国大学文学部言語学科(ウラル語学専攻)では小倉進平や金田一京助の教えを受ける。大学にハンガリー語の講義はな
かったため、独学でハンガリー語を身につけた[6]。1936年3月に大学を卒業したが不況で就職の口がなく、小倉の紹介で1936年5月から1939年
7月まで東京帝大附属図書館嘱託をつとめる。当時の同僚に渋川驍、会田由、水野亮、菅原太郎、鵜飼長寿、佐藤晃一がいた。このころ、関敬吾の紹介で渋沢敬
三の民俗学研究所に参加。また1938年4月に東京帝国大学文学部大学院に入学するも1939年12月に退学し、小倉の紹介でブダペスト大学日本語講師兼
日洪交換学生としてハンガリーに留学。1940年10月4日、満州国公使呂宜友の通訳として摂政ホルティに謁見。留学期限の満了に伴い1942年にブルガ
リアからトルコ・ソ連領カフカス・中央アジア・シベリア・満州経由で日本へ帰国。古野清人の紹介で1943年から1945年まで文部省付属民族研究所に助
手として勤務。江上波夫と共に満州における異民族統治の実態を調査。敗戦時は民族研究所の内蒙古調査団員として張家口におり、朝鮮経由で2ヶ月以上かけて
命からがら帰国した。 |
小野忍 |
(嘱託) |
小
野 忍(おの しのぶ、1906年(明治39年)8月15日 -
1980年(昭和55年))は、日本の中国文学者。文学博士(昭和33年、東京大学)。アプトン・シンクレアの評伝の翻訳などをした後冨山房に1934年
入社し、百科辞典の編纂に携わった他、戦時中には満鉄調査部員として上海に駐在したり、民族研究所嘱託として内モンゴルの西北研究所に出向し現地で中国ム
スリムの調査に参加するなどした。 |
関敬吾 |
(嘱託) |
関
敬吾(せき けいご、1899年7月15日 -
1990年1月26日)は、日本の民俗学者・文化人類学者。専門は、口承文芸・昔話研究。第二次世界大戦後は連合国軍最高司令官総司令部民間情報教育局
(CIE)に属し、鈴木栄太郎、竹内利美、小山隆、喜多野清一、桜田勝徳、大藤時彦、石田英一郎、馬淵東一といった社会学者、人類学者、民俗学者とともに
日本の農山村社会の調査を行う。その後東京学芸大学教授、東洋大学教授、日本民族学会会長を歴任。第16回柳田賞受賞。民俗学者としての関はヨーロッパの
民俗学を積極的に摂取し、特にアンティ・アールネ(Antti
Aarne)に代表されるフィンランド学派の強い影響のもとで昔話の分類・類型化を行い(物語の類型)、日本の説話をアジアやヨーロッパとの比較の中で研
究した。その成果は『日本昔話集成』にまとめられている。口承文芸研究という本来の専門以外にも、関は民俗学に関する多くの概説書、講座本を執筆してお
り、昭和中期の民俗学におけるその理論的貢献は大きい。特にカールレ・クローン(en:Kaarle
Krohn)の『民俗学方法論』を訳出したり(1940)、ドイツ民俗学(Volkskunde)などの学説史を逐一紹介することを通じ、日本民俗学を海
外との接続で捉えたりする点は、ドメスティックな学問に陥りがちな民俗学の世界において貴重な存在であった。またドイツ語に堪能でヨーロッパの民俗学理論
に通じた関は、ウィーン学派の流れをくむ岡正雄ら当時の民族学者・人類学者とも交流を持っており、日本の民俗学と文化人類学の橋渡し役でもあった。 |
石田英一郎 |
(嘱託) |
石
田 英一郎(いしだ えいいちろう、1903年6月30日 -
1968年11月9日)は、日本の文化人類学者・民族学者。天王寺中学、東京府立四中、一高を経て、京都帝国大学経済学部中退。京都学連事件により、
1926年3月24日に爵位を返上[2]。三・一五事件に連座して1934年まで入獄する。1937年から2年間ウィーン大学に留学し歴史民族学を専攻。
同大学に留学経験のある岡正雄とは生涯多く交流があった。1944年、蒙古善隣協会西北研究所次長。1948年、『河童駒引考』を出版、1949年に、法
政大学教授。1951年、東京大学教養学部教授となり[3]、文化人類学教室の初代主任を務めた。 |
今西錦司 |
(嘱託) |
今
西 錦司(いまにし
きんじ、1902年(明治35年)1月6日[1] -
1992年(平成4年)6月15日[1])は、日本の生態学者、霊長類学者、文化人類学者、登山家。1938年
8月 - 京都帝国大学内蒙古学術調査隊▶
12月 - 京都探検地理学会
1939年6月 - 興亜民族生活科学研究所研究員
▶1941年(夏) - ポナペ島探検
▶1941-1942年頃 - 国防科学研究所
▶1942年
5月-7月 - 北部大興安嶺探検
京都高等蚕糸学校非常勤講師▶
1943年 - 民族学研究所嘱託
▶1944年 - (蒙古善隣協会)西北研究所所長
▶1948年4月 - 京都大学理学部講師(有給)。
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研究所の機関誌として1944年8月、『民族研究所 紀要』が創刊された。第4冊まで(第3冊は上下に分冊)の刊行が確認されている。
◎中生勝美 「民族研究所の組織と活動:戦争中の日本民族学」『民族学研究』62巻1号(1997年6月)(→『近代日本の人類学史:帝国と植民地の記憶』5章に収載)
第1節 はじめに
第2節 岡正雄の研究所設立構想
第3節 民族研究所設立までの経緯
第4節 民族研究所設立運動
第5節 民族研究所の組織
第6節 民族研究所の活動
第7節 研究所の戦争関与
第8節 研究活動と海外調査
第9節 おわりに
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リンク
文献
その他の情報