屋久島の自然とエコツーリズム
《中島成久》
・屋久島の自然という言説
・電源開発、伝統的慣行の衰退、森林伐採の強化が昭和30年代に進んでゆく。
・ゾーネーション:core, buffer, human active area, という3圏にわけて開発する。
・タケマイリには、自然と文化が一体になるというイデオロギーがあった?
・<現実追認型による公園指定>の限界が明らかにされ、原状に復帰するという公園指定方式も検討されるべきになってきている。
・屋久島における自然との共存には、観光における共存と、生活者と自然との共存の2つがある。
《山極》
・世界遺産宣言
・バレンタインによるエコツーリズムの特色:非破壊滞在、小規模低コスト、体験優先、地場資源の活用、遺産地域との調和
・オープン・フィールド・ミュージアム::それまでの博物館の収集活動への批判
・科学者の調査が分かるような形で蓄積されていない。
・観光する側も観光される側にも自制が必要ではないか。楽しい自制こそがエコツーリズムにあるべきだ。商品にするには金が必要であり、政治には限界があり、NGOにしかできない。
《萬田》
・屋久島の低開発状態という認識を抜きに「生活と自然保護」は考えられない。
・島の人間にとっては「自然」は、島以外の人とは別の視点をもつのではないか。
・早生のポンカン、タンカンで生きている(前岳の山裾で)
・共生はうまくいっていないのだ。
《柴》:屋久島を守る会
・どうして原始林を残すのか。それは人類の遺産としての地球的に重要だから。もうひとつは、屋久島の人びとが豊かに生きてゆくための資源という点から必要である。
・鹿児島県の環境文化村構想(7億円基金を目標にはじまっているらしい)
・西部林道問題では特別委員会が2分したことがある。
・エコツーリズムは、考えられるもっとも適した方途であると考えるが、問題もある。まず、法的な整備はどうなるのか?、つぎに財政負担はどうするの
か?。それに対して、県や国で特別立法を制定してゆくという方法などがある。
・柴さんの主張に、いうならば「共有された世界」というべきビジョンがあった。つまり、外のものになった者(=島外に住んでいる元島民、ひいては部外者)も地の者(=島民)になったつもりで発言してほしい。
・屋久島をダメにしたのは国であり県だ。国や県は、島民が豊かに生活できるようにと政治をやってきたのではない。屋久島の世界遺産指定は島民の誇りであり、誇りを持てるような島民になるべきである。
《田川》
・屋久島においてはエコツーリズムにおいてコンセンサスというものはない。
・観光においては見させるということが必要だが、見させる部分と保護する部分はきちっと区別すべきである。
・ゾーネーションの区分は林野庁が提示したものと、屋久島の(行政の?)ものが同じだが、本来は島に住んでいる人びとがそれらの区分をおこなうべきである。(→ゾーネーションの主体は住民にある。)
・植生の破壊が起こっているが、人為によって栽培植物がもちこまれ、それが野生種と交配し雑種化を促進させているという。とくに杉の品種はそのような事態がおこりつつあり、屋久島以外の観光地にはない脆弱な点となっている。
《丸橋》
・グローバルなレベルで起こっていることが、局所場でもおこることがある(メタフォーとしてのフラクタル)。屋久島の自然と開発はまさにそのようなもので、ローカルな観点と、グローバルな観点の両方から見ていかねばならないだろう。
・ここでいう開発とはいったいなんだろうか?。屋久島の林業で生計を立てている人たちを、日本人の平均的な所得水準(年収四百万)に引き上げることが、はたして目標なのだろうか。他者からみれば確かにそうだが、はたしてそうなのか?
《まき》
・タケマイリの崩壊は第一次産業の崩壊とパラレルである。昭和22、3年ごろから。
・生きものの生息圏が大きくかわってきた。山を切るからサルがでる。ヘビがうじゃうじゃいたのに消えてしまった。
《NGOのひと》
・議会/住民/国政の三極構造を、環境NGOを入れて四極構造にすべきだ。そして、学者は環境NGOに参加すべきだ。
・島民からは、島外の出身者からなる環境NGOに対する風当たりが強いが、島の住民<対>都会の住民という図式は問題がある。
※このメモは、たぶん、鹿児島大学で開催された、日本民族学会と日本人類学会の連合大会でのシンポジウムを私は会場でメモしたものだと思われます。
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