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エコツーリズム研究リソース

Research Database on Ecotourism and Anthropology of Tourism

(全文編)提供:池田光穂


Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1997-2099

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06

6.「エコツーリズム黄金の卵

池田光穂


はじめに蛙


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《中島成久》
・屋久島の自然という言説
・電源開発、伝統的慣行の衰退、森林伐採の強化が昭和30年代に進んでゆく。
・ゾーネーション:core, buffer, human active area, という3圏にわけて開発する。
・タケマイリには、自然と文化が一体になるというイデオロギーがあった?
・<現実追認型による公園指定>の限界が明らかにされ、原状に復帰するという公園指定方式も検討されるべきになってきている。
・屋久島における自然との共存には、観光における共存と、生活者と自然との共存の2つがある。
《山極》
・世界遺産宣言
・バレンタインによるエコツーリズムの特色:非破壊滞在、小規模低コスト、体験優先、地場資源の活用、遺産地域との調和
・オープン・フィールド・ミュージアム::それまでの博物館の収集活動への批判
・科学者の調査が分かるような形で蓄積されていない。
・観光する側も観光される側にも自制が必要ではないか。楽しい自制こそがエコツーリズムにあるべきだ。商品にするには金が必要であり、政治には限界があ り、NGOにしかできない。
《萬田》
・屋久島の低開発状態という認識を抜きに「生活と自然保護」は考えられない。
・島の人間にとっては「自然」は、島以外の人とは別の視点をもつのではないか。
・早生のポンカン、タンカンで生きている(前岳の山裾で)
・共生はうまくいっていないのだ。
《柴》:屋久島を守る会
・どうして原始林を残すのか。それは人類の遺産としての地球的に重要だから。もうひとつは、屋久島の人びとが豊かに生きてゆくための資源という点から必要 である。
・鹿児島県の環境文化村構想(7億円基金を目標にはじまっているらしい)
・西部林道問題では特別委員会が2分したことがある。
・エコツーリズムは、考えられるもっとも適した方途であると考えるが、問題もある。まず、法的な整備はどうなるのか?、つぎに財政負担はどうするのか?。 それに対して、県や国で特別立法を制定してゆくという方法などがある。
・柴さんの主張に、いうならば「共有された世界」というべきビジョンがあった。つまり、外のものになった者(=島外に住んでいる元島民、ひいては部外者) も地の者(=島民)になったつもりで発言してほしい。
・屋久島をダメにしたのは国であり県だ。国や県は、島民が豊かに生活できるようにと政治をやってきたのではない。屋久島の世界遺産指定は島民の誇りであ り、誇りを持てるような島民になるべきである。
《田川》
・屋久島においてはエコツーリズムにおいてコンセンサスというものはない。
・観光においては見させるということが必要だが、見させる部分と保護する部分はきちっと区別すべきである。
・ゾーネーションの区分は林野庁が提示したものと、屋久島の(行政の?)ものが同じだが、本来は島に住んでいる人びとがそれらの区分をおこなうべきであ る。(→ゾーネーションの主体は住民にある。)
・植生の破壊が起こっているが、人為によって栽培植物がもちこまれ、それが野生種と交配し雑種化を促進させているという。とくに杉の品種はそのような事態 がおこりつつあり、屋久島以外の観光地にはない脆弱な点となっている。
《丸橋》
・グローバルなレベルで起こっていることが、局所場でもおこることがある(メタフォーとしてのフラクタル)。屋久島の自然と開発はまさにそのようなもの で、ローカルな観点と、グローバルな観点の両方から見ていかねばならないだろう。
・ここでいう開発とはいったいなんだろうか?。屋久島の林業で生計を立てている人たちを、日本人の平均的な所得水準(年収四百万)に引き上げることが、は たして目標なのだろうか。他者からみれば確かにそうだが、はたしてそうなのか?
《まき》
・タケマイリの崩壊は第一次産業の崩壊とパラレルである。昭和22、3年ごろから。
・生きものの生息圏が大きくかわってきた。山を切るからサルがでる。ヘビがうじゃうじゃいたのに消えてしまった。
《NGOのひと》
・議会/住民/国政の三極構造を、環境NGOを入れて四極構造にすべきだ。そして、学者は環境NGOに参加すべきだ。
・島民からは、島外の出身者からなる環境NGOに対する風当たりが強いが、島の住民<対>都会の住民という図式は問題がある。


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21.自然保護史

【前世紀以前】
・紀元後3世紀にはゲームリザーブ(狩猟用保護地域)というものがあった(沼田の本では英王室とかオーストリアのウィーンの森、が例に挙げられているが、 歴史的には照応しない)。
・1807年アレキサンダー・フォン・フンボルト『天然記念物』(monument de la nature)を刊行。
・1854年ヘンリー・デーヴィツド・ソロー『森の生活』が保全(conservation of nature)の思想を明確化する。
・国立公園の設置:イエローストーン(1872年)、カナダ・バンフ(1885年)
・民間の保全団体と運動:英国のナショナルトラスト(1895年:3名から135万人までに発展)、米国でのランドトラスト(19世紀終わり)、シェラ・ クラブ(1892年)、オーデュボン協会(1905年)
【20世紀】
・自然保護の国際会議の嚆矢としてのワシントン会議(T・ルーズベルト呼びかけ:1909年)
・1912年「イギリス生態学会」設立。タンズレー(生態系概念の提唱者)の貢献大。
・国際自然保護会議(スイス・バーゼル;1913年)
・国際的な渡り鳥条約(北米;1916年)
・国際生物科学連合(IUBS)が自然保護機関を提唱(後のIUPNのモデル)。
・「生物相条約」(ロンドン;1933年)が後に発展して「自然保護および野生生物保存の条約」(1942年欧米の各国が調印)。
・1947年「国際自然保護連合」(IUPN:International Union of Protection of Nature)の発足
・1956?年IUPNがIUCNに名称変更(→conservation of nature and natural resourses)。沼田によると、Protection から Conservation への変化は重要という。
・1962年レイチェル・カーソン『沈黙の春』刊行。
・1961年WWF発足
・1970年(米)環境問題に関する大統領教書の発行と環境保護庁(EPA)の設置。
・1972年「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」(世界遺産条約)
・1980年UNEP、WWF、IUCNによる世界保全戦略(WCS)報告書をまとめ、各国の政府に提言。

【わが国の自然保護】
・1910年前後に三好学がドイツ留学で、コンベンツのNaturschutz, Heimatschutzの考え方を日本に持ち帰る。
・1911年貴族院で「史跡及び天然記念物保存に関する決議案」が提出される。
・1919年(大正8)「史跡名勝天然記念物保存法」(現在では文化庁行政の対象)。
・1925年山林局長通牒「保護林設定に関する件」が、国有林のうち天然記念保存に関するものを保護することを規定する。
・1931年(昭6)「国立公園法」(厚生省所轄で、国民の健康と保養が主眼である)。
・1950年「文化財保護法」
・1951年日本自然保護協会、発足。この団体はもともと尾瀬が原を守る運動が発展したもの。
・1954年「日本生態学会」設立され、59年には「原生林保護についての声明書」を提出し、71年には「自然保護法の制定について」という勧告書を総理 に提出する。(生態学会が、学術研究のみならず自然保護のためのロビー活動もおこなっていることは注目される:これについては沼田1994:14-15を 参照)。
・1957年「自然公園法」
・1971年環境庁の設置
・1972年「自然環境保全法」
・1992年「世界遺産条約」加盟するが、ユネスコでの提案の20年後となる。

【出典】
沼田真『自然保護という思想』岩波新書、1994、pp.6-


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22. 近代生態学の流れ

【前史】
・19世紀初頭に細胞説が席巻し、自然保護と密接につながる博物学(Natural History)の伝統が大学の伝統からは一時衰退する。博物学の伝統を復権したのがダーウィンの進化論(リンネ学会発表1858:『種の起源』初版 1859)で、これをベースにして生態学が科学的装いをもって登場する(すこし、話が旨すぎるかも?)。
・19世紀後半の生物学は、生命観の基礎に目的論的な考えが濃厚に投影されている。
・当時の生物学者は、自然科学(博物学)的な研究の中に、ある種の「生命哲学」を込めておこなう傾向があった。その例としてのヘッケル『生命の不可思議』 岩波文庫[1928]がある。したがって、ライアル・ワトソンのような学者は生態学のオカルト化の結果でてきたものではなく、むしろ近代化する以前の目的 論的な博物学的生態学からみれば、その古典的な流れの一つとみなすことができる。
・生態学は、生理学のサブディシプリンである関係生理学Beziehungsphysiologie、つまり生物と周りの環境の関係を生理学的にアプロー チする分野として出発した。最初の命名者はヘッケル(Haeckel,1866)
・ヘッケルの生態学(エコロギーまたはビオノミー)とは「生活する有機物の外界に対する関係、その住処、その生活上の習慣および仲間、害敵、寄生虫、 その他に関する学問」(『生命の不可思議』上:90:訳文改変)
・沼田真によると、上記のような古典的な生態学の目的論的な思考から「意識的に」脱却したのは米国の植物生態学で1910年代であり、コウルスの植物生態 学の教科書(1911)に詳しいという(沼田,1994:30)。

【近代生態学】
生態学の理論化・数量化傾向
 ナチュラリスト的事物収集から理論化・数量化傾向
 植物学:実験生理学の野外化[生理生態学/植物生態学領域のひとつの流れ]
 動物学:進化を基調にした行動生態学から/エソロジーと個体群生態学への二大分極化
 1960年代の環境科学としての生態学の登場
 北米の環境プロジェクト/連邦宇宙局
IBP(国際生物学事業計画1965-1972)/地球上の生態系における生物生産を測定、今日の生態系把握のためのスタンダードになる。
(参考文献:当時IBPの自然保護部門にいたニコルソンは1970年に The Environmental Revolution を刊行)
・IBPの日本側の成果は、『自然保護ハンドブック』東京大学出版会、英文報告書(同出版会)。
・IBPの思想
(1)野外での記録を研究室において解析[時には実験室内で再現/還元としての要素資料]
(2)資料の理論化・数量化→普遍的法則、進化(安定と動態)モデルの構築
・1972年ストックホルム国連人間環境会議で、IBPを引き継いで「人間と生物圏 Man and the Bioshere」計画が提唱しユネスコが推進。。


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23. 環境科学のなかのアマゾンの位置

●生態学におけるアマゾン・熱帯雨林の位置(マッキントッシュ『生態学』)
 学問としての生態学の成立は、19世紀の終わりの10年(ヘッケル)[ヘッケル以前は、かりにそのような思想的傾向が見られるにせよpaleo- ecologistと位置づけできる]
 生態学の本流は、生物の環境と適応の問題に収斂されてゆくが、傍系とくに狩猟管理と「林業」(ウエストビー,1990:38)のなかに「自然保護」の 発想が1930年代に生じてくる。
 1890年前後のドイツにおける植物生理・生態学に、(植民地を中心とした)熱帯における生物の適応の問題に興味のある学者たちが登場。その例、ユー ゲン・バーミング(Eugen Warming)はブラジルで3年間を過ごす。『植物群落――生態学的植物生理学への寄与』(1895)/ほかにシンパー(Schimper,1898) も同様[バーミング]p.64-65
 ただし、植物生態学のその後の発展に熱帯は研究の対象にならなかった。その理由は、その方面の研究のほとんどは、北半球の寒帯および温帯地域でおこなわ れた。
 実質的に熱帯が取り扱われるようになるのは、ポール・リチャーズ(Paul Richards)『熱帯多雨林』(The Tropical Rain Forest,1952)の著作を嚆矢として、1960年代中ごろに熱帯生態学の知見が蓄積し出した[この時期はシステム的で大規模的な生態学調査である IBPが開始される時期でもあった]。
 熱帯における花粉研究も1971年に登場。[Vuillemeer,B.S.,1971,Pleistocence changes in the fauna and flora of South America,Science,173:771-80.]


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2201.●生態系/システム的生態学


 生態系という概念は、英国の植物生態学者タンズリー(1935)によって提唱された。その定義によると 「生態系とは、生物の要素だけでなく、最も広い意味における生息場所の要素である生物群系の環境を形成する物理的な構成要素も含めた(物理学的な意味で の)系である」(ibid,p.298)。
 その後、E・P・オダムの教科書(1953)によって生態系をして<生態学の基本単位>と言わしめた[彼が使った生態系の例は、湖沼である]。生態系生 態学はシステム生態学となり、彼の教科書(1959:2ed.,1971:3ed.)は、その方面のスタンダードとなった[この時期の生態学の別の方向の リーダーはR・マッカーサー]。
 システム的なアプローチが、徹底的な数量化[と不確定部分のブラックボックス化]を通してシュミレーションや撹乱の効果を測定する(パッチ理論) ことによって、1960年代初頭に北米[地名:ハバード・ブルック]における総合研究がはじまる。
 この研究の最大の成果は《生物量蓄積モデル》である。これは、伐採における全体的な撹乱がもたらす生物量の変化が、四つの発展段階に区分できるというも のである。


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2202. ●IBP
 国際生物学事業計画(IBP)は、国際極地年・国際地球観測年に刺激され提唱。p.332
 1959年当時に計画の骨子はできていたが、委員会は1964年に発足。
米国の生態学会などがロビーイングなどを行なったが失敗し、実質的に米国議会からの予算調達に成功するのは1968年以降である。折から、米国内にお ける環境問題が表面化し脚光を浴びるようになった。
 IBPの実行年度は1968年から1974年であったが、74年以降も、調査研究のための資金援助が続いた。
 今日においてIBPは、(当初、喧伝されたような)地球の[生態学的]未来を予測し、生物生産の増加ならびに人口爆発に対する処方などを結局は提示でき なかったと総括されているが、それは《生態学》に対して能力以上のことを要求されのだ、という研究者もいる(マッキントッシュ,1989[1985]: 341)。


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