生物多様性概念の社会化の研究
Socio-Politicalization of the concept of "Biodiversity"
解説:池田光穂 (c)Mitsuho Ikeda, 2010-2017
クレジット:池田光穂「生物多様性概念の社会化の研 究:現代生態学者の科学人類学」
本研究は、地球温暖化や絶滅危惧種などの報道において頻出する「生物多 様性」という用語の 語用論(pragmatics)に関する科学人類学研究である。具体的には、生態学研究(正確には生物地 理学から種間競争と種分化を理論化する「島」理論から派生する領域)で使われてきたこの純理 論用語が、地球温暖化や国際条約など資源管理の文脈の中で鍵概念になるにつれて、理論的純粋 性を確保しつつも政治経済的意味をも付与されるようになった社会的過程を、文化人類学の民族 誌手法(インタビューと参与観察)を通して明らかにすることにある。加えて、文化人類学者と 生態学者の対話技法を通して、科学研究の反省的実践(Schon 1983)を試みる。
最終報告書(長尺版):日本学術振興会に提出した簡略版の原本になったものはこちらです。
【1】研究の学術的背景
1960 年代末から70 年代前半のエコロジー運動の隆盛があるものの、僅か四半世紀前までは、生 態学研究(ecological studies)はきわめて限られた専門家によるマイナーな分野のままであった。 だが1975 年以降、社会生物学を経由した進化生物学理論の影響を受けつつ、生態学はその革命的 変貌を遂げつつあった。他方、長期的な気候変動の観測事実が明らかになるにつれて、環境汚染 問題は地域レベルを超えて大陸や地球レベルで論じられるようになる。生態学者もまたこれらの 問題に対して学問的解明のみならず、実践的な役割を期待されるようになっていく。1970 年代に システム生態学を基幹とする保全生物学(conservation biology)の精緻化がすでに進行していたが、 1980 年代以降とりわけ90 年代では生物多様性(biodiversity)という生態学理論の基本分析概念が、 地球と地域レベルの環境保全を語るための重要な用語として、専門家間の流通を超えて、自然保 護主義者、エコツーリスト、先住民支援者、多国籍製薬企業、生物資源大臣、そして市民にまで 膾炙するに至った。「生物多様性」の用語と概念は、環境的健全さの指標のみならず途上国の資源 管理や生物盗賊(biopiracy)や動物権利(animal rights)などを市民に想起させる意味で「基幹的 隠喩(root metaphor)」(Turner 1974)になった。これらの社会的過程を本研究では「生物多様性概 念の社会化」と呼び、この過程を詳細に分析する。
"Political ecology is the study of the relationships between political, economic and social factors with environmental issues and changes. Political ecology differs from apolitical ecological studies by politicizing environmental issues and phenomena." - Wiki.
【2】研究期間内に何をどこまで明らかにしようとするのか
(1)我が国における生態学発展の歴史を、欧米の科学理論との相互関係(学術交流や相互貢献 など)および日本社会の政治経済的文脈のなかで学問の社会史として描出する。方法論として研 究対象物としての〈モノ〉と〈モノに随伴する生態学者の行動〉のマクロ的動態について民族誌 学的インタビュー調査によって明らかにする。(2)民族誌記述を通して人類学者が理解した生態 学者像を、当の研究者に対話を通してフィードバックし、当該学問の内省的気づき(Schon 1983) を促し、人類学と生態学の協働的研究の意義を明らかにする。
【3】当該研究分野における本研究の学術的特色・独創的な点及び予想される結果と意義
我が国における生物多様性概念の社会化に関する、生態学会・社会・マスメディアの動きを民族 誌学の観点から動態的に解明することが本研究の特色である。従ってこの研究は、学問内の理論 や学派の動向を分析する古典的な科学史でもなく、生物多様性の保全を学問遂行の目的論として 取り込んだ最新の保全生物学のレビューでもない。そうではなく生態学者との学問的実践につい て人類学者の参与観察にもとづく、当事者との真摯な対話と広い範囲からの社会文化的分析へと 架橋するものである。実験室における人類学研究においてはLatour (1979) やRabinow (1996)の先 駆的研究は言うまでもなく我が国でも本研究代表者(池田2008)の業績を含み僅かだが研究の蓄 積がある。しかしフィールド研究者の実態調査においてはわずかな例外(Latour 2001 や池田 2000) を除いて日本のみならず海外でもほとんどない。現代生態学史ではMcIntosh(1985)という良書があ るが内在的歴史叙述(internal historiography)に留まっている。
[文献]
【4】本研究の斬新なアイディアとチャレンジ性
科学人類学(anthropology of science)とは科学研究を文化人類学の観点から分析解明する研究領 域である。研究の目的は(従来の文化人類学研究のように異邦の少数民族を対象とするのではな く)現代日本の生態学者とその社会実践を対象にして、フィードワークと民族誌の作成[Bernard 1989]をおこなうことである。研究計画・方法で詳述するが、本研究は平成22 年10 月に名古屋 で開催される生物多様性条約第10 回締約国会議(COP10)に関する社会現象についての調査と分 析をおこなうが、このこともきわめて時宜に叶い、かつ調査の緊急性を要するものである。 科学の民族誌研究が欧米で盛んにおこなわれた1980 年代以降、科学と社会の関係は大きく変化 した。本研究では過去25 年間の科学論と人類学理論の成果を盛り込んだ「新しく」かつ「実験的」 な民族誌の作成を構想している。1990 年代中期のサイエンス・ウォーズがもたらした、科学と科 学論のねじ曲がった関係を修復し、科学人類学を経由した科学論のもつ社会性への復帰をも目論 んでいるところであり、対話技法(池田2007a,b,c;2009a,b)にもとづく反省的実践家(Schon 1983; 西村・池田2009)への気づきは重要な鍵となるはずである。
具体的には(i)社会的事実の発見的技法(heuristic arts)としての民族誌手法とその理解の洗練 化を試みる、(ii)実践コミュニティ研究[Lave and Wenger 1991]に示唆を受けた対象科学への 応用的貢献を試みるアクション調査研究(action research)の可能性を模索する。このような研究 は研究代表者(池田ら2008)が達成した神経生理学実験室の民族誌学的研究の成功を除けば皆無 である。したがって我々はこの方法論とその思想的意義ついて十分に熟知している点で、類似し た着想はあるが経験のない研究グループに比べると先取性と優位性を確保している。
[文献]
【4】斬新な着想と方法の提案および期待される卓越した成果
この研究における大胆な発想は、S.Mintz(1985)が新大陸における砂糖黍生産、欧州大陸にお ける砂糖消費形態、およびそれが付与する感覚と象徴(観念)の三者間の分析に着想を得た。ミ ンツはそれまでの唯物論社会史にみられた物質(モノ)が観念形態(上部構造)を決定する一義 的な照応関係から脱し、甘さの感覚と観念をもたらす〈砂糖〉が、その消費拡大に伴って〈薬物〉 から依存をも産み出す〈嗜好品〉さらにはダイエットの敵である制限されるべき〈有害品〉へと 変化する歴史的動態を描ききった。これは生態学者の生物多様性に対する社会的態度(hexis)が 環境保全論者のそれと合致しないことへのヒントになる。この矛盾は本質的ではなく〈砂糖〉の 意味づけの変化同様、〈生物多様性〉の意味内容(シニフィエ)が変化していることを示唆する。 期待される成果としては、文化人類学への貢献と、生態学研究へのそれが挙げられる。(i)文 化人類学への貢献としては、社会的事実の発見的技法としての民族誌手法とその理解の洗練化を もたらし、現代日本の学術研究に関する科学人類学上のモノグラフを提供するのみならず、その 書記法(スタイル)を確立することに繋がり、科学人類学を志す次世代の研究者に先導的インパ クトを与えるであろう。次に(ii)生態学研究においては、実践コミュニティ研究に示唆を受けた 対象科学への応用的貢献を試みるアクション・リサーチが期待できる。具体的には、人類学者た ちによる生態学研究のなりたちについて民族誌を通して「外部者」の視点を給備することができ、 自らの学問の社会的説明責任を果たす科学コミュニケーションに役立つはずである。人類学者自 身にとっても、積極的に他領域の学術研究領域に「越境」し真摯に「対話」を敢行することで、 2つの異なった分野の研究集団がひとつの概念を追求する研究における学際的コミュニケーショ ンの重要性に気づくことができる。
【5】研究計画
研究初年度は「サイエンス・ウォーズ」の社会的衝撃の是非をめぐる科学論上の論争を文化 人類学研究における民族誌調査の観点から再考するため、「理論的枠組みに関する検討会」を実施 し、本方法論と取り上げる議論との適合性について検討する。本年10 月に開催される生物多様性 条約第10 回締約国会議(COP10)に関する社会現象について資料収集をおこない、同時に国内外 の生態学者へのインタビューと研究室への短期の参与観察をおこなう。平成23年度は、前年度 調査のアウトカムを成果発表に結びつけ、かつ調査者である文化人類学者と調査対象である生態 学者との「対話」をおこない、発見的技法としての両者の反省的実践に結びつける。
・平成22年度:研究初年度は以下のような手順で3種類の研究調査を遂行する。
(1)研究の理論的枠組みに関する検討
研究代表者(池田)と研究分担者(T)および連携研究者(O)と、研究協 力者としてY(学振特別研究員)およびJ(UCSF/大阪大学CSCD 招 へい准教授)の合計5 名による方法論に関する検討会を実施する。検討会開催には旅費を充当し、 大阪と[調査のための出張を利用した]東京の2 回実施する。本研究の位置づけ、民族誌研究と いう発見的方法の導入、および1990 年代後半に勃発する「サイエンス・ウォーズ」以降の自然科 学の存在理由の社会的広報活動の活発化による科学コミュニケーション手法の登場という基本的 枠組みを確認したい。(次ページの「生物多様性概念の社会化」図版を参照)。
サイエンス・ウォーズ(SW)は、ポストモダン科学論者アラン・ソーカル[実際は物理研究者] が、根拠のない疑似科学的主張を弄し、まんまと国際的な人文学雑誌の査読を通過し掲載されて しまい、それを事後的に暴露することで科学論研究の信用下落(あるいは名誉毀損)というスキ ャンダルをもたらした。ただし戦闘の規模は、戦争というよりもテロリズムつまり象徴的攻撃と 表現するほうが適切である。科学論擁護派の金森(2000)は、ソーカルのトリックスター的実践 やパロディ論文で想定されている寓意として科学によって指し示されるもの(シニフィエ)につ いて捨象したため、この象徴的攻撃の社会的意味の解明が不十分である(黒木玄On line)。この反 省的認識に立って、研究代表者が2006 年から神経生理学研究室の民族誌調査を2 年間おこなった 時に、SW の衝撃は物理学をモデルとする科学論研究においては十分に起こり得たが、脳科学、生 態学あるいは環境科学など、現象をよりマクロに取り扱い、研究そのものが人間の生活基盤と直 結するような研究領域ではこれが起こりにくいことが明らかになった(池田 2008)。
民族誌調査をおこなう討論をメンバー全員でおこない、本研究の認識論について共有しておか ねばならない。検討には関係図書購入、(画像資料が扱えるデスクトップPC を使った)資料のデ ータベース化、関係論文の渉猟と分析、およびそれらの読解にもとづく共同討論が不可欠であり、 設備備品費、消耗品費を充当させる。
(2)民族誌調査の実施
研究代表者は1990 年代中期に中米における熱帯生態学者のフィールドワークの民族誌研究 (Ikeda 19961998; 池田 2000)に従事したことがあり、その海外調査経験を活かし、本研究では研 究分担者および連携研究者を指導しつつ同時に彼らと平等に共同研究をすすめ、国内外(海外は ハーバード大学自然史博物館を予定)の生態学者の研究室を訪問し、インタビューと短期の参与 観察をしながら民族誌データを収集する。日本の主たる生態学者のリスト作成はその準備が完了 しているが、インタビューの可否について照会にもとづき調査を実行する。
(3)生物多様性条約国際会議(COP10)に関する社会現象の分析
平成22 年には名古屋市において生物多様性条約第10 回締約国会議(COP10)が開催される。 研究目的の・研究の学術的背景に示したように、1990 年代以降、生物多様性の概念は生態学の純 理論的用語から乖離しつつ同時に政治的概念が加わった。当然、国際会議の内外においてもそれ をめぐる資源管理やバイオマテテリアル知的財産などが議論されるだろう。この動向を観察する には、COP をめぐるこれまでの国内外の状況、COP10 とそれに関連する社会現象(メディア取材、 政府見解、学会の反応、自然保護や先住民擁護の活動や抗議行動など)の詳細な観察と分析は不 可欠である。本研究の初年度のハイライトになるだろう。
・平成23年度
研究2年目も前年度と同じように(1)理論的検討と(2)民族誌調査をおこなうが、研究が進 捗していると予測されるためにその強度(量)ならびに質も異なるものになる。また前年度で集 中的に収集されたCOP10 関連の調査データの分析に専心する予定である。それに関連する学会発 表などを通して中間発表の成果を世に問い、研究の妥当性についても外部評価の眼に晒すことで 研究の質の向上を目指す。
(1)研究の理論的枠組みに関する検討
前年度と異なり、この時期の検討は、データ解析とそれにもとづく当初仮説の検証であり、ま た調査にもとづく結果の公表のための、先行研究との比較など多角的な観点からおこなわれる必 要がある。国内・国外旅費をつかって文化人類学会、科学技術社会論等の学会発表をおこなう。 また学識豊かな研究者を訪れ助言を乞い、研究報告の最終的な妥当性について検証する。
(2)民族誌調査の実施(補足)
2 年目の民族誌調査は、前年度で十分にラポール(社会的信用)のとれた研究者への追加的なイ ンタビューのための訪問が中心になり、研究者との継続的対話をより一層重視する。
(3)調査研究のとりまとめ
アップトゥデートな調査研究であるために研究論文や報告書を早い時期に構想し、その実現に むけて努力する。また、この研究で得られた成果をもとに研究対象になった生態学者を含めた新 たな民族誌研究の可能性、例えば基盤研究(B)一般などに応募し、本研究の発展をめざす。
基本概念略史(年表形式)※見えにくい場合は画像部分をクリックしてください。面積比で約4倍に拡大します。
池田光穂「エコ・ツーリストと熱帯生態学」より
関連リンク
文献
※このページは、日本学術振興会・科学研究費補助金(挑戦的萌芽研究)「生物多様性概念の社会化の研究:現代生態学者の科学人類学」(2010 年度〜2011年度)(研究代表者:池田光穂)の研究成果になるものです。関係者の各位に感謝いたします。
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First Update edition issued on 28 Feb, 2010