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靖國神社年表
Historical Chronicle of the Yasukuni Shrine.

東京招魂社
1868

1869
明治元年

明治2年
「祭政一致、神祇官再興を布告して神道の国教化を進め、神仏判然令で神 社から仏教的要素を除去」する。

1969年5月
戊辰の役(戦争)終結(18日)

6月
軍務官知事仁和寺宮嘉彰親王(にんなじのみやよしあきらしんのう)の命により同副知事大村益次郎(おおむらますじろう)らが東京九段坂上三番町の旧幕府歩 兵屯所跡に赴き、招魂社(しょうこんしゃ)建設地を検分(12日)

九段坂上招魂社社地を東京府から受領
仮本殿、拝殿を起工(19日)

29日から5日間、招魂祭執行の旨、軍務官より在京諸藩に通達(23日)

招魂社鎮座、第一回合祀祭(29日)

8月
永世高(寄附米)1万石を下附する旨の御沙汰(22日)
1871

5月
10月
例大祭に併せて競馬興行(〜明治31年)
フランス・スリエ一座によるサーカス興行
1872

5月
本殿竣工(7日)
1874

明治天皇が初めて東京招魂社に行幸(27日)
「我國の為をつくせる人々の名もむさし野にとむる玉かき」の御製を賜る
1877

西南の役(戦争)勃発
1878
明治11
6月
牛ヶ淵附属地を買収
神社非常時の避難所とする
1879
明治12
6月
東京招魂社を靖國神社と改称
別格官幣社に列せられる(4日)
※ 「東京招魂社は1879年(明治12年)に明治天皇の命名により靖国神社と改称、地方の主な招魂社は1939年(昭和14年)護国神社と改称してい る。……靖国神社の旧称「東京招魂社」は「在天の神霊を一時招祭するのみなるやに聞こえて万世不易神霊厳在の社号としては妥当を失する[3: 賀茂百樹編『靖国神社誌』靖国神社 1911:17]」可能性があるために廃されたという。ただし、名称変更後も「招魂祭」(しょうこんさい)は続けられた」招魂社
1882

神官教導職分離、
+++
1月
軍人勅諭渙発

2月
遊就館開館式挙行
1887

12月
青銅大鳥居(第二鳥居)竣工
1889

2月
大日本帝国憲法発布
1890

10月
教育勅語渙発

11月
第一回帝国議会召集
1893

2月
兵部大輔大村益次郎銅像竣工(日本初の本格的西洋式銅像)
1894

8月
日清戦争勃発
1895

4月
下関講和条約調印
1900
明治33
内務省に神社局が成立し、神社行政を他の宗教行政と区別して扱うように なった(=広義の国家神道[State Shinto]の成立時期)。
++++++++
8月
北清事変
1901

10月
拝殿竣工(5日)
1902

5月
牛ヶ淵附属地に遊就館附属國光館(パノラマ館)開館
1904

2月
日露戦争勃発
1905

9月
ポーツマス講和条約調印
1910

7月
靖國神社附属図書館開館
1914

7月
第一次世界大戦勃発
1918

8月
シベリア出兵
1919

5月
鎮座五十年記念祭
大正天皇行幸、皇太子裕仁親王行啓(2日)
1920

3月
尼港(ニコライエフスク)事件
1921

6月
第一鳥居竣工
1923

9月
関東大震災により拝殿、遊就館等に甚大な被害
1928

5月
済南事件
1931

3月
幕末殉難者の招魂祠が福羽家から奉納

9月
満洲事変

10月
遊就館新築工事竣工・仮開館
1932

1月
上海事変

4月
臨時大祭
昭和天皇・香淳皇后行幸啓、
新築の遊就館を御巡覧(27日)
1934

4月
遊就館附属國防館竣工・開館

10月
神門竣工
1937

7月
支那事変
1938

4月
新招魂斎庭竣工

7月
張鼓峰事件
1939

5月
ノモンハン事件
1940

9月
北部仏印進駐

11月
紀元2600年記念式典
1941

12月
大東亜戦争勃発
1943

10月
腐蝕により第一鳥居撤去
木造仮鳥居竣工
1945



8月
ポツダム宣言受諾

9月
遊就館令廃止
靖國神社宝物館と改める(12月閉館)

11月
臨時大招魂祭
昭和天皇行幸(20日)

12月
連合国軍による神道指令発出(=GHQ(連合国軍総指令部)が神社神道を国家から分離する政令)
1946

9月
東京都認証の宗教法人となる
11月
日本国憲法公布
1947

7月
みたままつり始まる
1948


1949


1950


1951


1952

4月
サンフランシスコ講和条約発効

10月
昭和天皇・香淳皇后行幸啓(16日)
1953


1954


1955


1956


1957


1958


1959


1960


1961

4月
靖國会館二階に宝物遺品館開館
1962


1963


1964


1965


1966


1967


1968


1969

6月
靖国神社法案が自民党の議員立法で国会に提出(以後74年までに計5回提出。廃案を繰り返す)
10月
御創立百年記念大祭
昭和天皇・香淳皇后行幸啓(20日)
11月
神道政治連名(神政連)発足
1970


1971


1972

3月
霊璽簿奉安殿竣工
1973


1974

10月
第一鳥居再建
1975

8月15日
三木首相「私人」と称して靖国参拝(敗戦記念日の首相参拝は初)
11月
昭和天皇・香淳皇后行幸啓(21日)
1976

6月
英霊にこたえる会結成(78年4月に同議員協議会結成)
1977


1978

10月
A級戦犯を「昭和殉難者」として合祀(判明したのは79年4月)
1979

4月
A級戦犯を「昭和殉難者」として合祀したことが発覚。
1980

11月
靖國神社奉賛会設立
1981

3月
みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会結成
1982


1983


1984

7月
閣僚の靖国神社参拝問題懇談会(靖国懇)設置
1985

7月
中曽根首相が自民党の軽井沢セミナーで靖国神社美化発言
8月
藤波官房長官が公式参拝強行の談話を発表(8/14)
中曽根首相が「内閣総理大臣中曽根康弘」と記帳し靖国神社に公式参拝(8/15)
1986

7月
遊就館再開
8月
中曽根首相の靖国参拝のとりやめを後藤田正晴官房長官が談話で発表
1987


1988


1989

1月
御本殿修築工事竣工(昭和大修築)
本殿遷座祭(26日)

拡大
10月
御創立120年記念大祭(19日)
1990


1991


1992


1993


1994


1995


1996

7月29日
橋本龍太郎首相が靖国参拝
1997


1998

12月
靖國神社崇敬奉賛会発足
1999

10月
靖國偕行文庫開設
2000


2001

4月
小泉首相が自民党総栽就任記者会見で「日本の繁栄は尊い命の犠牲の上に成り立っている。純粋な気持ちを参拝で表す」と発言
8月
内外の抗議・忠告を無視し、「内閣総理大臣小泉純一郎」と記帳し、靖国神社に公式参拝(8/13)
2002

7月
遊就館本館改修・新館新築工事竣工
2003


2004

9月
参集殿改築工事竣工
2005

7月熊本大学・桜美林大学・一橋大学大学院らの有志による「靖国神社観 光論」の実習と学生シンポジウムを挙行。
2006


2007


2008


2009


2010


2011


2012


2013


2014


2015


2016


2017


2018


2019


2020


2021


2022


2023









おま け

◎招魂の意味について

招魂の本来の意味は、日本の陰陽道・中国の道教で行われる祭祀・呪術のひとつ。それが近代になって派生して死者に対して始められた「招魂祭」(しょうこんさい)が、招魂社ならびに靖国神社でおこなわれるようになった。

ウィ キペディアにには、「日本の陰陽道では衰弱している生きた人間の活性化のため、中国の道教では死者の霊魂の離散防止のためとして行われる。神道の生者・死 者の双方に対する鎮魂祭とは別のものである」と書いてあるが、ルーツは中国の道教に由来するので、日本の神道での招魂祭はその影響を全く受けていないとい う法螺は吹けない。

「平 安時代の中頃から貴族社会に浸透した。初見は『小記目録』第8巻「御祭事付解除」の「永延二年十月十一日招魂祭時」という記述。「永延二年」は988年。 人には「魂」というものがあると信じられ、熟睡したり悩み事に屈託したときには衰弱した肉体からその「魂」が遊離すると考えられていた。そのため、病気や お産などの際に身体から遊離した魂を屋根の上で衣を振るなどして招き戻す祭祀を行った。生者に対して行う祭祀であり、死者に対して行うことは禁止されてい た。禁を破った者は罰せられた(『左経記』1025年8月23日条)。1025年8月の藤原嬉子の死去に際し陰陽師の中原恒盛は招魂祭を行い、祓を科せら れそうになったという。日本の陰陽道では死者に対しては行わない点が中国の道教との大きな相違点である。これについては、平安時代前期より、陰陽寮の職掌 が拡大して神祇官の職掌とも被るようになり、神祇官が扱う神道の死や穢れに対する忌避が陰陽道の世界にも入り込んだために陰陽師が生死に関わる問題に関わ る事が禁じられたと説明されている(例えば、病気の原因を怨霊や物の怪によるものだと占ったとしても、そこから先は僧侶の加持祈祷に任せるなど)。ただ し、これは所謂官人の陰陽師に関する話で、民間における活動では陰陽師が物の怪を祓う事例もあるため、民間の陰陽師にまで徹底されていたのかは不明である [1](また、招魂祭は別としても11世紀後半には貴族社会でも怨霊や物の怪の排除に陰陽師が関わるようになる[2])。また、用語としては『日本書紀』 巻第29、天武天皇14年11月24日(丙寅)条に「是日為天皇招魂之」とあるが、『釈日本紀』巻21秘訓6 [3]はこの「招魂」を「ミタマフリス」と訓じ、同書巻15、述義11では「今鎮魂祭也」として、『日本書紀』の「招魂」の記述を「鎮魂祭」のこととして いる。伴信友も『鎮魂伝』で「例の漢ざまに傚ひて、招魂と書なされたるもの」 [4]としている。伴信友はまた「比古婆衣」第20巻で「後醍醐天皇日中行事に、日毎せうこんの御祭、今は定まれる事なり、とあるせうこんは招魂にて、こ は鎮魂にはあらず、陰陽家にて別に招魂祭とて為る方なるべし」 [5]と述べて、招魂祭と鎮魂祭との区別を明確にしている [6]」出典「招魂祭」) ために、日本に招魂の概念が輸入されるプロセスのなかで、日本独特の招魂の概念が発達してきたのであろう。繰り返すが、民族宗教あるいは民俗宗教学の観点 からいえば、それぞれの共通点を相違点を明らかにすればよく、オリジナルの中国を強調するのもバカであるが、日本独自のもので中国道教のものと違うと日本 純正論に拘るのもウルトラバカである。

国家神道論争史

神道指令では、国家神道は「日本政府の法令に依って宗派神道或は教派神道と区別せられたる一派を指す」とさ れており、この定義に基づけば、国家神道は神社非宗教論が採られ、神官教導職分離が行われた1882年(明治15年)あるいは内務省に神社局が成立し、神 社行政を他の宗教行政と区別して扱うようになった1900年(明治33年)以降に行われた、神社・神職・祭祀などに対する様々な国家的制度を指すことにな る[4]。

研究者における「国家神道」の定義に関しては、いわゆる「広義の国家神 道」と「狭義の国家神道」という2種類の定義に分かれる[4]。「広義の国家神道」 は、広く皇室神道と神社神道が合体した「国教」的地位にあった神道であるとか、「明治維新から第二次世界大戦の敗戦に至るまで、国家のイデオロギー的基礎 となった事実上の日本の国教」といった概念規定を指す[4]。一方で「狭 義の国家神道」は「戦前の国家によって管理され、国家の法令によって行政の対象となった神社神道」とする限定的な定義を指す[4]。

前者の代表論者である村上重良は、国家神道は、宗教の範疇を超える国家 祭祀として他の公認宗教に君臨する体制であり、教育勅語が天皇制的国民教化の基準として発布されて国家神道のイデオロギー的基礎をなし、一神教的な天皇観 ( 現人神 ) が戦争と宗教弾圧を生み出したとし、近代を「国家神道体制」が右肩上がりに強化されていった時代と捉えた上で、昭和前期を「天皇制ファシズム」の時代と し、国家神道はこの段階において絶頂期を迎え、国民に対する精神的支配の武器となったと主張した[5]。

一方、こういった村上の主張に対しては反論も相次いだ。葦津珍彦は、村 上らの国家神道論を、国家神道の概念を各人各様にほしいままに乱用するものであり、明白にしてロジカルな理論や史観史論が成立し得ないと指摘し、「国家神 道」の定義を、GHQの「神道指令」に示された定義のままに用いるべきとした[5]。これがいわゆる「狭義の国家神道」の立場であり、これを継いだ阪本是 丸は、近代天皇制を規定したイデオロギーやイデオロギー装置は、神道のみならず仏教、儒教、キリスト教、新宗教、あるいは通俗的道徳思想、西洋思想など様 々であり、近代天皇制のイデオロギーを「国家神道」の一言で表現することはできないとし、村上らの国家神道論は、天皇制、 あるいは国家主義、国粋主義に関係するイデオロギーやイデオロギー装置ならばすべて国家神道に総括・包含してしまうものであると批判した[5]。

他方、村上の「広義の国家神道」論を修正的に継承する意見もあり、島薗 進は、天皇現人神観や神社神道は国家神道の基底ではないとして、神社神道を国家神道の基体とする見方を村上説の欠点と指摘し、国家神道は、「天皇と国家を 尊び国民として結束することと、日本の神々の崇敬が結びついて信仰生活の主軸となった神道の形態」であると定義し、皇室祭祀や学校教育・国民行事・マスメ ディアと神社神道とが組み合わさって形作られたものであるとして、皇室祭祀を国家神道の中心的要素と定義した[5]。

近年では、国家神道という概念規定や名称そのものを再検討する動きも広 がっており、安丸良夫は、村上の論を「国家神道体制」なるもので近代日本の宗教史を覆ってしまう結果となり、多様な宗教現象をひとつの檻のなかに追いたて るような性急さが感じられる、として批判し、近代において諸宗教の上に君臨したのは「国家神道」ではなく、教育勅語に表された「国体論的イデオロギー」で あり、天皇の権威は神道を含む特定の権威と結びつくものではなかったと指摘した[5]。

また、磯前順一は「天皇制国家は神社だけでなく、時期によって学校教育 や宗教教団など、さまざまな回路を通して国民の規律化と抑圧を進めていったのであり、それを一律に国家神道と名づけることは当時の理解と乖離するものであ る」と指摘し、国家神道を政府の神社政策として限定的に定義づけたうえで、それを天皇制国家を支えるイデオロギー装置の一部として位置づけなおす必要があ ると指摘した[5]。すなわち、磯前は「近代天皇制国家を支えるイデオロギー装置」の全体の中の一つとして、「国家神道」を意義づけるべきであると指摘し たのである[5]。

同様の見解をとる者に山口輝臣があり、山口は「近代日本における国家と 宗教との関係を研究することは、 すなわち国家神道を研究することである、とは言えなくなった」とし、国家神道研究という枠組みにとらわれずに近代日本における国家と宗教との関係へと接近 する必要があるとした[5]。

新田均は、国家神道の根幹をなす神社非宗教論を政府に採用させたのは浄 土真宗であることなど、近代日本の宗教政策に対する浄土真宗の一貫した強い影響力から、近代日本の政教関係全体を包含する用語として、「国家神道」という 用語を用いるのは適切ではないと指摘し、代わりに「公認教制度」などと捉え直すべきであるとし、「現人神」の思想は神道のみならず仏教や儒教の要素も色濃 くあり、一般国民への神社参拝の強制といえる現象も満州事変以降のものでしかないとして、「現人神」「神社神道」「神社参拝の強制」などを主要な構成要素 とする 「広義の国家神道」論は成り立たないと主張した[5]。

https://onl.la/Jzw11Ya

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文献

その他の情報

Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099

引用は御自由に!(→「文献表記のスタ イル」)

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