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靖國神社観光論

Study Tourism toward the Yasukuni shrine, or Introduction to "All Souls Tour"

池田光穂

〈魂の錬金術〉の修辞法を批判するはこちらです

    靖国神社に行ったことがありますか? 

    こんな質問を我々の父母の世代の人に聞いてみよう。あるいは、自分たちの仲間に聞いてみよ う。

    我が国では、このような質問そのものが政治化される。つまり、その人の政治的信条を聞くこと なり、質問者の市民としての政治的立場との距離がつねに問題化されるということだ。

    しかし、このような政治的・倫理的な呪縛から逃れる方法はいくつかある。

    例えば——そしてこの授業の目論見なのだが——靖国神社を「単純に」観光の対 象として文化的に消費することだ。

    しかし、そのようなことが現実的にみて「本当に」可能だろうか?

    靖国神社に関する文献を読み、さまざまな資料を収集し、またさまざまな靖国参拝に関する政治 的立場について議論をおこない、そして靖国神社そのものを(ヴァーチャルに、そしてリアルに)訪れるのが、この授業でおこなうことである。

    授業の目標を実現させるための理論的方法論は、文化人類学を中心とした表象に関するさまざまな研究(→文化記号論、カルチュラル・スタ ディーズ、観光人類学)である。また、方法論は、参与観察を含むフィールドワークであ る。

      Have you ever been to the Yasukuni Shrine? 

      Let's ask this question to people of our parents' generation. Or let's ask our own people.

      In Japan, such a question itself is politicized. In other words, we ask about a person's political beliefs, and the distance from the political position of the questioner as a citizen is always an issue.

      However, there are several ways to escape from such political and ethical spells.

      For example - and this is the purpose of this lesson - to "simply" consume Yasukuni Shrine culturally as an object of tourism.

      But is such a thing "really" possible from a practical point of view?

      In this class, we will read the literature on Yasukuni Shrine, collect various materials, discuss various political positions on Yasukuni Shrine, and visit Yasukuni Shrine itself (virtually and realistically).

      The theoretical methodologies to realize the goals of the class are various studies on representation, mainly in cultural anthropology (e.g. cultural semiotics, cultural studies, tourism anthropology). The methodology is fieldwork, including participatory observation.

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東京招魂社(東京招魂社は1879年(明治12年)に明治天皇の命名により靖国神社と改称):
"The site for the Yasukuni Shrine, originally named Tōkyō Shōkonsha (東京招魂社, "shrine to summon the souls"), was chosen by order of the Meiji Emperor.[3] The shrine was established in 1869, in the wake of the Boshin War, in order to honor the souls of those who died fighting for the Emperor. It initially served as the "apex" of a network of similar shrines throughout Japan that had originally been established for the souls of various feudal lords' retainers, and which continued to enshrine local individuals who died in the Emperor's service. Following the 1877 Satsuma Rebellion, the Emperor had 6,959 souls of war dead enshrined at Tōkyō Shōkonsha.[4] In 1879, the shrine was renamed Yasukuni Jinja. The name Yasukuni, quoted from the phrase「吾以靖國也 in the classical-era Chinese text Zuo Zhuan (Scroll 6, 23rd Year of Duke Xi), literally means "Pacifying the Nation" and was chosen by the Meiji Emperor.[5] The name is formally written as 靖國神社, using the kyūjitai character forms common before the end of the Pacific War." - https://en.wikipedia.org/wiki/Yasukuni_Shrine.

リアル授業科目:2005年の開講スケジュール:クロニクル

<靖國神社観光論>

The Yasukuni Study Tourism in Japan

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靖國神社年表はこちらに移転

Historical Chronicle of the Yasukuni Shrine.

東京招魂社

招魂社とは?

「1863年(文久3年)に高杉晋作は、下関戦争での戦没者の霊を慰めるため、また、今後の戦いに臨むに当たって自分たちの生墳(生前にあらかじめ建てておく墓)が必要であると発起し、奇兵隊の賛同を得て隊員共同の招魂場を設置することになった。日本初の招魂社となる櫻山招魂場(現・櫻山神社)は1864 年(元治元年)5月に山口県下関市に築かれ、翌年8月に社殿が完成した[2]。櫻山招魂場は、その後の四境戦争、戊辰戦争の戦没者を始め、吉田松陰や久坂 玄瑞といった倒幕と維新のために尽力した志士を合祀している[2]。生前の身分に関わらず個々の戦没者を隠り身として祀る招魂社の発想は、その後全国に広 がった[2]。 東京招魂社は1879年(明治12年)に明治天皇の命名により靖国神社と改称、地方の主な招魂社は1939年(昭和14年)護国神社と改称している。王朝時代には、死者に対する陰陽道の招魂祭(しょうこんのまつり)は禁止されていた。死者・生者に対する神道儀礼は鎮魂祭と称されていた。靖国神社の旧称「東京招魂社」は「在天の神霊を一時招祭するのみなるやに聞こえて万世不易神霊厳在の社号としては妥当を失する[3: 賀茂百樹編『靖国神社誌』靖国神社 1911:17]」可能性があるために廃されたという。ただし、名称変更後も「招魂祭」(しょうこんさい)は続けられた。」

おまけ

国家神道論争史

神道指令では、国家神道は「日本政府の法令に依って宗派神道或は教派神道と区別せられたる一派を指す」 とされており、この定義に基づけば、国家神道は神社非宗教論が採られ、神官教導職分離が行われた1882年(明治15年)あるいは内務省に神社局が成立 し、神社行政を他の宗教行政と区別して扱うようになった1900年(明治33年)以降に行われた、神社・神職・祭祀などに対する様々な国家的制度を指すこ とになる[4]。

研究者における「国家神道」の定義に関しては、いわゆる「広義の国家神道」と「狭義の国家神道」という2種類の定義に分かれる[4]。「広義の国家神道」は、広く皇室神道と神社神道が合体した「国教」的地位にあった神道であるとか、「明治維新から第二次世界大戦の敗戦に至るまで、国家のイデオロギー的基礎となった事実上の日本の国教」といった概念規定を指す[4]。一方で「狭義の国家神道」は「戦前の国家によって管理され、国家の法令によって行政の対象となった神社神道」とする限定的な定義を指す[4]。

前者の代表論者である村上重良は、国家神道は、宗教の範疇を超える国家 祭祀として他の公認宗教に君臨する体制であり、教育勅語が天皇制的国民教化の基準として発布されて国家神道のイデオロギー的基礎をなし、一神教的な天皇観 ( 現人神 ) が戦争と宗教弾圧を生み出したとし、近代を「国家神道体制」が右肩上がりに強化されていった時代と捉えた上で、昭和前期を「天皇制ファシズム」の時代と し、国家神道はこの段階において絶頂期を迎え、国民に対する精神的支配の武器となったと主張した[5]。

一方、こういった村上の主張に対しては反論も相次いだ。葦津珍彦は、村 上らの国家神道論を、国家神道の概念を各人各様にほしいままに乱用するものであり、明白にしてロジカルな理論や史観史論が成立し得ないと指摘し、「国家神 道」の定義を、GHQの「神道指令」に示された定義のままに用いるべきとした[5]。これがいわゆる「狭義の国家神道」の立場であり、これを継いだ阪本是 丸は、近代天皇制を規定したイデオロギーやイデオロギー装置は、神道のみならず仏教、儒教、キリスト教、新宗教、あるいは通俗的道徳思想、西洋思想など様 々であり、近代天皇制のイデオロギーを「国家神道」の一言で表現することはできないとし、村上らの国家神道論は、天皇制、 あるいは国家主義、国粋主義に関係するイデオロギーやイデオロギー装置ならばすべて国家神道に総括・包含してしまうものであると批判した[5]。

他方、村上の「広義の国家神道」論を修正的に継承する意見もあり、島薗 進は、天皇現人神観や神社神道は国家神道の基底ではないとして、神社神道を国家神道の基体とする見方を村上説の欠点と指摘し、国家神道は、「天皇と国家を 尊び国民として結束することと、日本の神々の崇敬が結びついて信仰生活の主軸となった神道の形態」であると定義し、皇室祭祀や学校教育・国民行事・マスメ ディアと神社神道とが組み合わさって形作られたものであるとして、皇室祭祀を国家神道の中心的要素と定義した[5]。

近年では、国家神道という概念規定や名称そのものを再検討する動きも広 がっており、安丸良夫は、村上の論を「国家神道体制」なるもので近代日本の宗教史を覆ってしまう結果となり、多様な宗教現象をひとつの檻のなかに追いたて るような性急さが感じられる、として批判し、近代において諸宗教の上に君臨したのは「国家神道」ではなく、教育勅語に表された「国体論的イデオロギー」で あり、天皇の権威は神道を含む特定の権威と結びつくものではなかったと指摘した[5]。

また、磯前順一は「天皇制国家は神社だけでなく、時期によって学校教育 や宗教教団など、さまざまな回路を通して国民の規律化と抑圧を進めていったのであり、それを一律に国家神道と名づけることは当時の理解と乖離するものであ る」と指摘し、国家神道を政府の神社政策として限定的に定義づけたうえで、それを天皇制国家を支えるイデオロギー装置の一部として位置づけなおす必要があ ると指摘した[5]。すなわち、磯前は「近代天皇制国家を支えるイデオロギー装置」の全体の中の一つとして、「国家神道」を意義づけるべきであると指摘し たのである[5]。

同様の見解をとる者に山口輝臣があり、山口は「近代日本における国家と 宗教との関係を研究することは、 すなわち国家神道を研究することである、とは言えなくなった」とし、国家神道研究という枠組みにとらわれずに近代日本における国家と宗教との関係へと接近 する必要があるとした[5]。

新田均は、国家神道の根幹をなす神社非宗教論を政府に採用させたのは浄 土真宗であることなど、近代日本の宗教政策に対する浄土真宗の一貫した強い影響力から、近代日本の政教関係全体を包含する用語として、「国家神道」という 用語を用いるのは適切ではないと指摘し、代わりに「公認教制度」などと捉え直すべきであるとし、「現人神」の思想は神道のみならず仏教や儒教の要素も色濃 くあり、一般国民への神社参拝の強制といえる現象も満州事変以降のものでしかないとして、「現人神」「神社神道」「神社参拝の強制」などを主要な構成要素 とする 「広義の国家神道」論は成り立たないと主張した[5]。

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