国民国家に僕たちがいやいやながら帰属すること
Our reluctant belonging to a nation-state
Barricades on Rue Saint-Maur, Paris, 25 June, 1848.
解説:池田光穂
近代国家概念は21世紀を生きる我々には今なお有効だが、また同時に厄介な存在でもある。ホブスボーム『伝統の創造』やベネディクト・アン ダ ーソン『想像の共同体』という著作——共に1983年に初版が公刊——に親しんだ人文社会科学研究者なら、その評価の高低はともかくとして、近代 の国民国家はその誕生期において意図的あるいは非意図的な“操作”の結果として社会的に構成されたものであるという主張を閑却することはでき ないであろう。また、ネオリベラル経済におけるグローバルマーケット化の効率性を最優先する市場=至上主義者であれば、国民国家は、地球の経 済発展にとって十分に機能していない——その病状の軽重は論者により異なる——という状況分析から、彼らの議論を始めるに違いない。
近代の国民国家というものが、これまでの社会発展に大きく寄与してきた歴史的社会的構成体であることは論を待たない。しかし、これに関する 〈概念〉が永遠に安泰ではないことは上のような主張をみても明らかである。国民国家(nation state)というものは、ヨーロッパで発明され(1648年のウェストファリア条約[ウェ ストファーレン条約]1848年革命により[ウィーン体制が崩壊し] 明確化される)、そ の後この制度が世界各地に「輸出」——実際にはむしろ「移植」という表現がより適切だが——された。実際には1960年代のアジア・アフリカの新 興諸国の独立を経てようやく「グローバルスタンダード」な制度として定着したものである。しかしそれは人類の歴史にとって長くても2百年か ら 40年−−世代だと2から4世代−−程度の短い歴史をもったものに過ぎない。しかしコスモポリタン的な公共圏という理想像を胸に抱いて生活する 者——例えば冒頭にあげた批判的な人文社会科学研究者やネオリベラル経済主義者——からみると、それは冷蔵庫の中で何日か前に賞味期限が切れ ている食品に似ている。これまでの経験的からは十分に利用可能だが、心底では「あまり信頼もしておけない」ということだ。
もちろん国民国家の所属成員のほとんどはその安泰や、その健全な発展を願っている。この見方によると、国民国家は身の回りに降りかかるさま ざまな災厄から身を守り福利を提供してくれるものでなければならない。したがって愛国者(patriot)とは国家制度による福音を信じる者のことで ある。彼らは国家の国民に対する裏切りの責任を、国家制度の機能不全としてではなく為政者の悪質行為の中に見る。しかし愛国者においてもま た、自由に生きかつ生活の機会向上のあらゆる可能性を試そうとする時には、国家制度が思わぬ桎梏になる存在でもあることを知っている。例え ば、私の経験によれば増税や経済搾取における国民のアンビバレントな怒り——つまり国家制度が悪いのか為政者が悪いのか図りかね攻撃のはけ口 をどこに向けてよいのかわからない——は愛国者にとっても政府不信心者にとっても、どうも変わりがないようだ。
国民国家は、その制度の中に犯罪者を収容する牢獄の他に、もうひとつの別の「鉄の檻」を抱えている。このような国家制度の弊害を表現するに は、ジレンマやトレードオフという表現であらわされる観念的なものではなく、身体感覚に訴える「檻」のメタファーがよりふさわしい。地球上で 人の住むところは(南極、一部の植民地や信託統治地域を除いて)近代国家制度で覆われている。したがって宇宙船地球号の内部はどうも複数で迷 路のような「檻」によって仕切られているようだ。そして我々はどうもそこから逃れる術はなさそうである。しかしながら、この障碍に対する人々 のさまざまな挑戦は、歴史的にみてアナキズム思潮に始まり労働者連帯のインター・ナショナリズム("inter"-Nationalism)運動へと発展 してき た。それらの運動の大半は、その20世紀の最後の十数年間に見られたあっけない幕切れの経験を、冷戦の終焉と“共に”味わった。ゴドーは果たし てやって来なかったのか? もちろん反国家運動はそれで完全に死滅したのではない。国家制度に関する、さまざまな社会の共同性の創造や回復、 それらの代替的な社会運動に対する支援や既存の国家に対する抗議活動はさまざまな形で現在も継続中のプロジェクトであると言っても過言ではな い(ハートとネグリ 2003)。
しかしながら、これらの運動の担い手においてすら、実際のところ各人の所属する国家のパスポートと航空券をもって世界を移動しなければなら ない。また本来自由人である彼らにおいてすら、さまざまな国家利害や個々人の政治的および経済的条件によって制限されており、他方で、すべて の人々にこのような権利が開放されているわけでもない。ごく普通の国民は(虚構であれ実質性をもったものであれ)民主制にもとづいた選挙に関 する諸権利を行使し政治に参加していると感じでおり、国家の保護のもとにおいて生存の機会向上に努めている。国家の経済的障壁を必ずしも歓迎 しないネオリベラル市場=至上主義者たちにおいてすらまた、それぞれの国家ユニットの中では国民に利益が還元されなければならないことを認識 しており、国家は国民に対して経済的成功の機会を公正に配分すべきであると感じている。
すなわち世界のコスモポリタン的性向をもつ知的エリートたちにとって、国民国家概念は崩壊あるいは衰退していることは自明であるが、それぞ れの国民国家制度はすくなくとも当面の間は健全でなければならないと、同時に彼らは考えているというのが現状なのである。そして我々にも、そ のように信じなければならない理由がある。それは冷戦の終焉と同時に登場する国家機能の著しい不全状態、すなわちイデオロギーを中心的課題と せず、外部者にも当事者にも「釈然としない」内戦状態や治安不安定を特徴とする無政府状態についての言及、すなわち「破綻国家」論や、アメリ カ合州国が世界の平和の安定にふさわしくないと評価するような「ならず者国家」——もちろん両者は実質としてよりもスティグマとして機能する ——の存在があるからだ。良好な国民国家の維持という課題は、我々が心底求める希求よりも、アブノーマルで好ましくない国家状態(status non grato)に陥ってはならないし、また陥らせてはならないという我々の強迫観念によって強化されている。もちろんこれらの「のけ者国家」が誕生し た理由を、当事者の自己責任として理解することは、悪質な犠牲者非難(victim blaming)の修辞の行使であり、その歴史認識においても、また国 際的な道義的介入主義という点から言って正義に叶っていないことは明白である。
クレジット:国民国家に(僕たちがいやいやながら)帰属することに関するエッセー
出典:池田光穂「国民国家概念がさほど有効ではなくなった今日において、私たちは “国”際保健医療協力の持続可 能性に何を期待することができるのか:その学際研究の可能性についての諸考察」
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