かならずよんで ね!

平和

peace, paz, pax

池田光穂

平和とは、敵意や暴力がない、社会的友愛や調和の概 念のことである。

"Peace is a concept of societal friendship and harmony in the absence of hostility and violence. In a social sense, peace is commonly used to mean a lack of conflict (such as war) and freedom from fear of violence between individuals or heterogeneous (relatively foreign or distinct) groups. Throughout history leaders have used peacemaking and diplomacy to establish a certain type of behavioral restraint that has resulted in the establishment of regional peace or economic growth through various forms of agreements or peace treaties. Such behavioral restraint has often resulted in the reduction of conflicts, greater economic interactivity, and consequently substantial prosperity. The avoidance of war or violent hostility can be the result of thoughtful active listening and communication that enables greater genuine mutual understanding and therefore compromise. Leaders often benefit tremendously from the prestige of peace talks and treaties that can result in substantially enhanced popularity." - Peace.

「平和とは、敵意や暴力がなく、社会的な友好と調和 が保たれている状態を指す概念である。社会的な意味での平和は、一般的に個人または異質な(比較的異質な、または区別された)集団間の紛争(戦争など)が なく、暴力の恐怖から解放された状態を意味する。歴史を通じて(政治的)指導者たちは平和創造や外交を利用してある種の行動抑制を確立し、さまざまな形式 の協定や平和条約を通じて地域平和の確立や経済成長を実現してきた。こうした行動抑制は、しばしば紛争の減少、経済的相互作用の拡大、ひいては実質的な繁 栄につながってきた。戦争や暴力的な敵対関係を回避することは、より真の相互理解、ひいては妥協を可能にする思慮深い積極的な傾聴とコミュニケーションの 結果であると言えるだろう。政治的指導者はしばしば、和平交渉や条約の威光から多大な恩恵を受け、その結果、実質的な人気(すなわち平和活動を通した効用すなわち自分たちの利益)を高めることができる」。他方戦争や交戦行為は一時的な人気を得ても持続は難しく、仮に戦勝してもその後の政治的生命は短い。

平和の反対概念は「戦争」と呼ばれる。

トーマス・ホッブスの戦争の定義は、ユニークであ り、そこに時間の要素と、戦争をする志向性を戦争の定義に含めている。平和以外の時間の相は平和と呼ばれる。

「……戦争とは、戦闘や闘争行為だけに存するのでは なく、戦闘によって争うとする意志が十分にうかがわれる継続する期間に存するからである。したがって、戦争の本質にかんしては、天候の本質にかんするばあ いと同じく、時間の概念が考慮に入れなければならない。すなわち、不良な天候の本質は、ひと降りふた振りのにわか雨にあるのではなく、連日にわたるそれへ の傾向にあるのであり、それと同じく、戦争の本質は実際の闘争に存するのではなく て、闘争への明らかな志向に存するのであり、その期間中は、反対の方向に向かうなんらの保証もないのである。その他のすべての期間は平和で ある」(ホッブス 1966:85)。

"and such a war as is of every man against every man. For war consisteth not in battle only, or the act of fighting, but in a tract of time, wherein the will to contend by battle is sufficiently known: and therefore the notion of time is to be considered in the nature of war, as it is in the nature of weather. For as the nature of foul weather lieth not in a shower or two of rain, but in an inclination thereto of many days together: so the nature of war consisteth not in actual fighting, but in the known disposition thereto during all the time there is no assurance to the contrary. All other time is peace." Ch.XIII from "THE LEVIATHAN"

つまり、戦争とは、単に武力が衝突している状態では なく、時間の相において、かつ、戦争行為を志向するモード(様態)が含まれたものなのである。つまり、戦争とは、構造的なものであり、かつ、構造的なもの でないと戦争とは言えないのである。

しかし、法が機能するところに、平和も戦争も対立構 造を持って現れるので、法や統治が機能しないところでの平和(状態)はホッブスにとって、その社会は不完全である。

「(正と邪、正義と不正義の)共通の力が存在しない ところに法はなく、法のないところに不正義はない。強力と欺瞞とは戦争においては2つの主要な徳である。正義と不正義は、人間の肉体ないし精神の機能では ない。もしそうであれば、それらは、感覚や情念と同様に、世界にただ一人でいる人間にもそなわっているであろう。正義と不正義は、孤独の状態にある人にで はなく、社会の中にある人々に関係する性質のものなのである」(ホッブス 1966:86)。

"Where there is no common power, there is no law; where no law, no injustice. Force and fraud are in war the two cardinal virtues. Justice and injustice are none of the faculties neither of the body nor mind. If they were, they might be in a man that were alone in the world, as well as his senses and passions. They are qualities that relate to men in society, not in solitude. " -Ch.XIII from " THE LEVIATHAN"

「〈人びとを平和に向かわせる諸情念〉人びとを平和 に向かわせる諸情念は、死への恐怖であり、快適な生活に必要なものごとを求める意欲であり、かれらの勤労によってそれらを獲得しようとする希望である。そ して理性は、人びとが同意する気になれるような都合のよい平和の諸条項を示唆する。これらの諸条項は、自然の諸法とも呼ばれるものであって……」(ホッブ ス 1966:87)。

"The passions that incline men to peace are: fear of death; desire of such things as are necessary to commodious living; and a hope by their industry to obtain them. And reason suggesteth convenient articles of peace upon which men may be drawn to agreement. These articles are they which otherwise are called the laws of nature, ..." - Ch.XIII from " THE LEVIATHAN"

●『永遠平和のために』におけるイマヌエル・カント の論法

カントの議論は、思考実験である。すなわち、「戦争 が生じる可能性が存在しない状態とはいかなるものか?」を考えよというものである。これは「人が争いをしないためには、何をすればよいのか?」という答え をもとめるようなものではなく、「争いがない状態とはいかなるものか?」という論証を目的とするものである。したがって、カントは、〈戦争はいけない、そのために戦争を抑止する理論をつくろう〉などとは決して考えていない。カントの『永遠平和のために』 を、そのような、目的と結果を混同するととんでもない誤解をうむことになる。カントは、戦いの犠牲者の崇高な精神には敬意を払ってる。また(現実にはなか なかありえないことだが)平和の状態が続くと、人々は羊のようになり、戦争の悪についての思考が及ばなくなることも危惧しているのである。

カントは、永久なる平和が実際にやってくるか/否か という現実的な未来問題や、どうしたら戦争がなくなるかついて答えようとはしない。そのような思考法は、「戦争 が生じる可能性が存在しない状態とはいかなるものか?」という考え方を麻痺させてしまうからである。あるいは平和の状態は、もはやそこから先は何も考えなくてよい至高の素晴らしい世界状況である。

カントの国家論は、国民(ネーション)があつまって 国家(ステート)を形成するという国民国家(ネーション・ステート)という我々がデフォルトで考える思考法をとらない。むしろ、国家そのものを擬人化 (athoromorphism)するのだ。で、どうするかというと、国家は人格だという。人格をもつものは自由意思をもち、それ自身が目的であり、人格 は手段=道具になってはいけないことは、カントについて議論する人の常識である。国家は人格をもつ存在なので、国家は自分自身を所有していることになる。 他人の身体やましてや心を所有することができない。なぜなら、人格は一個の存在として、お互いに尊重しなければならないからである。したがって、人格とし ての他の国に対して侵略してはならないことになる。国家を人格としてみなすと、次の2つの現象がみられる。すなわち、1)人格は何らかの欲望や欲求をもつ (=これは対外戦争をしかけて利益をせしめようという欲求をうみだす)、そして、2)人格をもつものは、自分に対して道徳性をもとうという理性をもつ。利 益をえたいという欲望と理性をどのように調停すればいいいのだろうか?

ホッブスの「万人の万人に対する闘争」のように、カント は、戦争をする状態を、自然の状態つまりデフォルトであり、また、放っておいたら、戦争状態になるのが普通だと考える。そのために、平和とは、あるいは平 和な状態は、人間の人為的な努力で保障されなければならない、ものである。

カントは、平和状態を維持するには、社会の成員がみ んな平等で自由意思を自由に行使できる政体がよいと考える。それらは君主制(monarchy)ではなく、共和制すなわち人々が人々を管理監督する社会が 平和を達成するためにはよいと考える。

先に、人格としての国家は、欲求をもつと同時に理性 をもつという2つの両極の性格をもつとした。利益をえたいという欲望と理性をどのように調停すればいいいのだろうか?それは、一方的な利益でなく、相手の 利益にも叶う、人格をもつ国家間のあいだの、平和条約を、お互いがもつ理性を動員して、取り結べばよいだと、カントは考える。

そのような、平和条約でむすばれる、人格としての国 家の連なりは、地球レベルを覆うことになるだろう。すなわち、世界共和国と、市民法を共有する世界が、理性を用いれば、その利益を独占したいという欲求に 打ち勝つことができる。つまり、利益を独占したいという欲求も自然状態だが、理性をもって、世界共和国と、市民法を共有する世界を希求することも、人間に とっての自然状態なのである。

『実践理性批判』に倣い、その理想が実現するか、ど うかを思い悩む必要はない(=なぜならそのような未来の状態に関する質問を現時点で答えることができないからだ)。そうすると、人格をもった国家は、永久 平和の状態をめざして、努力すること、すなわち理性の理念を実践すればよいということになる。

リンク

文献

その他の情報

Maya_Abeja

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LA CONSTRUCCIÓN DE LA PAZ DESDE UNA MIRADA ANTROPOLÓGICA por Autora: Montserrat Ventura i Oller (Universitat Autònoma de Barcelona)

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