You don't know what Tourism is, but...
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虚構観光論 もくじ (タグジャンプしません。下にスクロールしてください)
1.キーワードとしての観光
従来2つの側面からツーリズムについて研究されてきた。ひとつは現時点で起こっている現象面から、もうひとつはその歴史的な側面である。 それらの観光の実証的研究には多様な方法論があるが、いずれも現実の社会的・文化的現象としての“観光”を対象としている。一般にこのような領域では具体 的な個別事例を検討するほかに、“観光”と一括して呼ばれる諸現象から共通点するテーマが抽出され、社会との関わりや一般的なモデルが造られて議論される (1)。
他方、我々自身の観光の経験から、観光という行為は我々の“想像力”を刺激するものであり、時には完全な“虚構”や“幻想”までをも喚起 するものである、ことは容易に理解することができる。近代における旅の意味をめぐる問題は、この観光の想像力をめぐって、それをどう評価するかという議論 に他ならない。
現実の観光ではない“観光的現象”を総称して私は「フィクショナル・ツーリズム=虚構観光」と呼び、いくつかの基本的枠組みを与えて考察 してみたい(2)。今日における観光現象の大衆化および多様化について考える際、観光そのものに由来する事象の比較検討のみならず、それと“類似した現 象”をも射程に入れて検討を加えてみる必要があると考えたからである。筆者の目論見は、観光の虚構性について指摘することではなく、虚構観光の考察を通し て現実の観光をより豊かにすることである。
言うまでもない。観光現象は現代社会を読みとる一つのキーワードである。その字義的な意味を完全に失ったにもかかわらず、それ自体が自己 目的性をもち大きな市場を保ち続ける「修学旅行」、完全なパッケージからフリータイムやオプションを増やしつつある「パック旅行」の変貌、海外ボランティ アへの参加や体験旅行を全面に打ち出した「オルターナティブ・ツアー」の登場など。今日、新たな観光のあり方が浮上しているのだが、このような現象は世界 をどのように理解しようとするのかという我々の意識の反映でもある。
フィクショナル・ツーリズムについて論じる際に避けて通ることのできない人物がいる。それは荒俣宏である。彼の手による『図像観光』とい う本は、博物学の時代の珍奇な諸物の図像を集めてきて、それを一冊の図鑑形式に編集したものだ。荒俣ガイドの導きに従って、読者はその幻想的な世界に入り 込み、イメージの世界を広げていく。これは、見せ物や博物館において覗き見欲求や知識欲を満たしてゆく体験とよく似ている。今日、見せ物や大道芸などの復 権が著しいが、荒俣の著作への人気は、それと同様に、知識を現実に即したハードな体系として見るのでなく、娯楽や遊びに奉仕するソフトとして楽しもうとい う現代の人びとの嗜好傾向を反映している。
彼は、この書物のネタになった博物学の時代のヨーロッパの稀覯本を中心とした収集家として知られている。このような収集は、ひと昔前なら ば一見何の役にも立ちそうもないものに多額の金をかける蕩尽と見なされたであろう。ところが彼が成金コレクターと画する点は、描かれた内容の価値よりも書 物自体の稀覯性に価値があると見なされた当の書物を、まさに彼自身の博覧強記的な編集力において、その価値を甦えらせたことにある。書物に込められたその 市場価値とは、まさに“図像が喚起する想像力”であった(3)。
ここには、今日の観光現象を理解する際に、人びとの“想像”——そこには創造や虚構が含まれる——の問題を抜きにしては語れない状況が見 られるのではないだろうか。
2.観光の位置づけ
まず観光そのものについて位置づけを確認しておきたい。V・スミスは編著『ホストとゲスト』("Hosts and Guests")の中で旅行者(ツーリスト)の定義をおこなった。それによれば、旅行者とは「変化を体験するために家庭から離れた場所を自発的に訪れる用 のない人間」と規定される。いわばレジャーする人間ということだ。そして彼は、ツーリズムを編成する要素として、①時間、②可処分所得、③どこかへ行きた いという欲求、の三点を挙げている。
このように考えると、リアルな観光、あるいは近代的な意味での観光とは、先のツーリズムの三要素の条件が整ったうえで、ある主体が空間を 移動すれば成立することになる。
人が観光するため内的な条件が整えば、あとは移動するだけなのだろうか。スミスは、“用のない=余暇状態にある”ことを旅行者の要件に挙 げている。“用のない”というのは、観光が<労働>という生産活動を意図したものではないことを意識している。労働と旅の関係はどのように理 解されているのだろうか?
<表>にN・グレーバンが、観光における移動と労働をめぐって提示した図式を掲げる。これは、例外があったり、労働を苦役と してとらえる西洋的な見解に依っているという限界はあるが、オリエンテーションとして観光を理解するにはとりあえず有効なマトリクスである。この表では、 <動くこと>と<留まること>という次元と、<自発的>と<強制的>という次元で構成される四象限に分 類される。このマトリクスによれば、空間を移動するのは、たんに狭い意味での観光だけではなく、旅行を伴う仕事としてのビジネス、商業、貿易、興行なども その範疇に入る。
<表1>働くこと/旅行することのマトリクスの図 (N.グレーバン、1989)
いずれにせよ、観光はそこにとどまるのではなく、どこかに移動することを前提とする。すなわち空間の移動なくしては、現実的な観光を考え ることはできない。このことは、近代社会において、空間の移動手段が人びとに開放されるとともに観光の大衆化が進んだという歴史的経緯と無縁ではなかろ う。
ところが現在では、『図像観光』で示されているように、主体の即物的な移動以上に、イメージ上の異境体験が、重要なコンセプトとして注目 されている。観光において、異境体験と空間の移動は重要な要素として密接に結びついていた。しかしながら、今日の観光において、空間の移動とそれに伴う時 間の経過は、異境体験に伴う消極的な演出効果においてしか意味を持たないように思える。空間的移動に対して大した評価が与えられないのは、いわば観光自身 がフィクション化するような状況を生みつつある証拠なのである(4)。
このような状況の中で、即物的な空間移動を伴わない観光的体験、いわゆるフィクショナル・ツーリズムはどのように位置づけられるべきだろ うか。
3.フィクショナル・ツーリズムの定義(→ 用語事典)
私が、フィクショナル・ツーリズムという構想を得たのは、幻覚性の薬物利用にみられる“トリップ”やシャーマンが時空間を横断する現象 と、現実の世俗的な旅行について比較考察しているときであった。伝統的な社会において幻覚性の薬物の多くは、いわゆる宗教的な文脈で使われ得るので、“ト リップ”においては、即物的な空間の移動よりも“意識や感覚”のあり方に重点がおかれていることは明らかである。
このことから、空間の移動の有無をさほど問題としない、 あるいは全く考えずに、“意識や感覚”における変容体験を試みる行為はフィクショナル・ツーリズムであるとまず最初に考えて みたのである。こう考えると思いつくのが、宗教、薬物利用、精神分析や深層心理学、疑似体験メディア、暴走行為、遊園地、性的冒険などである。いずれも、 空間の移動が重要視されずに、観光と似た意識や感覚の変化を享受するところに共通点がある。一見観光とは無縁と見られる現象も、このような形で類型化され ると、観光現象と比較検討することが容易になるのではないだろうか。さらには、我々の眼に映る即物的な空間でなくとも、“心のなかの場所”と表現されるよ うな意識や感覚、すなわち心のトポスについて配慮し、その移行から得られる意識の変容の体験もフィクショナル・ツーリズムの一形態であると考えられるの だ。
あるいはより現実的に、フィクショナル・ツーリズムの観点から、リアルな観光が構築されるあり方をとらえかえすこともできる。いわば、 フィクショナル・ツーリズムを一つの参照点として、リアルな観光現象を今までとは違った面から考察できることに注目したいのである(5)。
虚構観光 Fictional tourism
移動をしない観光のこと。フィクショナル・ツーリズ ムは和製英語である。旅 行体験における意識変容に着目して、コンピュータや宗教的儀礼、シャーマニズ ムやドラッグ使用など移動を伴わない<疑似的な移動>について研究するために 池田光穂(1993)によって提唱された。これによって観光における移動の概念を相対 化し、観光現象の文化的研究に奥行きと広がりをもたせることが可能になった。 インターネットなどの電脳空間では仮想観光(virtual tourism)と限定して呼ばれてい る。[池田光穂,copyright 1997](→出典は長谷政弘 編著『観光学辞典』同文館、 1997年:こちら) |
4.フィクショナル・ツーリズムの諸相
フィクショナル・ツーリズムの醍醐味とは、その現象の個別性にある。ここでは、以下のそれぞれの現象や行為がもつフィクショナル・ツーリ ズムとしての側面について説明していこう。
・宗教・シャーマニズム
・病気治療の儀礼
・自我のトポス
・ドラッグとコンピューター
・疑似体験メディア
・疾走する集団
・イメージの冒険
4.1 宗教・シャーマニズム
1970年代は新宗教の社会学的研究がさかんに行われた時期であるが、それは新宗教教団の組織や教義が文化相対的な立場から多面的に解釈 された時代でもあった。
さて、その70年代半ばにYTV情報産業研究グループが『情報産業としての宗教』という興味深い本をまとめた。これは、当時の新宗教教団 を「感動体験を演出する情報集団」ととらえて考察したものだ。そして、新宗教の教義や実践におけるオカルト的な面ばかりに注意が奪われることなく、教団側 が信者に提示する演出装置としての情報管理について適切な分析が試みられている。彼らは、その要素を次の三点にまとめている。
すなわち、感動を演出する第一は、生活指導という側面を強調することである。第二は、秘儀や奇跡を適度に提示することである。第三は、信 者を小グループで把握するというグループ・ダイナミクス的なとらえ方を採用していること、である。
ここでは特に第三番目が重要で、新宗教と言えば教祖を中心にした大集団のスペクタクルに眼が向けられがちだが、実際には小集団でどのよう に信者をコントロールするかが重要なのであり、またそこに日常のエネルギーの大半が注がれているのである。新宗教の信者における“入信の契機”は、とかく そのオカルト的な秘儀や奇跡にあると一般的には指摘されることが多いが、その秘儀的な世界への“旅立ち”は、日常生活における生活態度への配慮という、き わめて世俗的な実践によって支えられているという指摘に注目すべきである。
信仰は通常は——巡礼という営為を除けば——長距離の空間の移動を伴わない。空間の移動よりも、意識において信者を教団が提示する別の種 類の世界へ誘い、その中で信者が異質で定常的な経験を得ることが課題となる。そして異質な空間の体験を日常生活の中で繰り返えされる儀礼的実践というかた ちで常態的に還元させること。これが重要なのだ。
このような宗教行為における宇宙論的循環性は、シャーマニズムにおいて最も顕著に現われる。シャーマンは、修行の際にリアルな空間の移動 を伴う旅をおこなうこともあるが、宇宙を飛翔するという—我々にとって[?]フィクショナルな—旅を行なう。例えば、シベリアの伝統的なシャーマ ンのトリップとは次のようなものである。病者とその家族あるいは村落の取り巻きが見守る中、シャーマンは冥界や天上界を遍歴し、それぞれの世界で出会った 病者の霊、死者の霊、動物などの諸霊との邂逅を経験する。病気の治療とは、シャーマンが旅の経験を再現する(リプリゼント)ことなのである。シャーマンの 身体は、眼前にあるのだが、その魂は長い長い旅に出ているのである。この旅は、即物的な現実の旅とは異質のものである。
シャーマンが儀礼の最中に“トリップ”することが、完全に虚構のものではないとする論者もいる。C・カスタネダやM・ハーナーなど“ネオ シャーマニズム”とあだ名される一連の研究者たちである。彼らによると、現実は“日常的な現実”だけで構成されるのではなく、“非日常的な現実”と呼びう る別種の現実からもなる。シャーマンのトリップといわれる非日常的な現実における旅は、日常的な現実における旅と同等我々が真面目に考察の射程に入れてお くべきだ、というのがその主張の骨子である。
シャーマニズムのトリップと、即物的な旅の移動との差異云々は別問題として、シャーマニズム的要素が多くみられる信仰には、空間的な移動 のモチーフがよく表出する。そのような天上界や地下界へトリップが成立するための最低の条件とは、広大な空間がどこかで分割・切断されていることであり、 それぞれの領域——狭義の宇宙と言えようか——の間で複数の体験を可能ならしめるのは、旅や移動のメタファーをもってしか行ない得ないという信念の存在で ある(6)。
4.2 病気治療の儀礼
空間のなかに特異的な場所性=トポスを構築する作業は、伝統社会における治病儀礼においても必要となる。例えば、V・ターナーが報告し た、ザンビアのンデンブの人たちによるイソマ儀礼の分析にもそれを見ることができる。
<図>イソマ儀礼の空間の象徴的表現の説明図(図をクリックすれば階調反転します)
V.ターナー『儀礼の過程』より
儀礼はンデンブの人たちが、夫婦の生殖力を回復させたり不妊を治療するために行なう。イソマという現地語は「場所あるいは拘束から抜け出 すこと」というク・ソモカに由来する。場所や拘束とは女性にとっての早産や流産という状態であり、また自分の属していた母娘に連なる集団を抜け出ている、 すなわち自分の出身の母系親族に属していることを「忘れている」と解される(それは出自というトポスの忘却でもある)。ンデンブの人たちは母系出自をとる が結婚後は夫方居住するので、人びとのこのような主張には説得力がある。そして、他ならぬ災いをもたらしているのは女性親族の亡霊なのである。
治療のための儀礼は、患者である男女にトンネルをくぐらせることなどによって構成されている。トンネルを介してそれぞれの開口部は正反対 に意味づけされた空間に連なっている。治病の現場というトポスは儀礼の手続きに従い慎重に分割され管理されている。
ちなみに、ターナーが描いたイソマ儀礼の空間の象徴的表現の図式においては、紙面の上方が“生”、下方が“死”として表現されている。実 際にはもちろん平面上に穴が掘られて、そこで方向性が決められるのだが、図式化する際に、生あるいは健康の穴が上に、死または妖術の穴が下に表現されてい る。これはノモス=天上=上方、カオス=地下=下方という我々が慣れ親しんでいる図式とたまたま偶然に一致したものではない。人類学者の解釈の中に彼自身 が担っている文化のトポロジーが投影されたのだ。
人びとが分割された空間を移行するとき、そこには空間に対する意味づけがなされると同時に、移行と旅行が人びとによって類推されるのであ る。これは現実の旅である巡礼における治癒説話や、巡礼地が病者に対してもつ治癒力と密接に関わっている(7)。
◎ イソマ儀礼の解説(生と死の儀礼における分類の次元)
4.3 自我のトポス
フロイトが始めた精神分析は、個人における“心的過程”を探求する革新的な方法であった。しかし、心的装置やリビトーの概念など、その分 野で使われているメタファーは自然科学に基づく力学的世界の産物に由来している。さらにその空間的なイメージに至ってはきわめて古色蒼然とした、そして我 々にとって違和感を与えない馴染み深いものとなっている。
精神分析学において“こころ”という空間は、<無意識><前意識><意識>、あるいは<エス ><自我><超自我>という三層に分割される。エス(イド)とは、快楽原則に従って新生児に見られるような未組織な心の状 態である。エスが外界と接触し合理的かつ組織的な現実原則に従っているものが自我である。超自我は幼年期の葛藤を経過したのち自我の一部に取り込まれた禁 止や命令から成り立っている“無意識的な良心”とも言うべきものである。
<図>フロイト自身によるエス・自我・超自我の位相
かなり極端に単純化して言えば、我々の意識や自我は上方に、無意識やエスは下方に表現される。神経症の治療とは、超自我と自我の結びつき を弱め、エスによって占められた“部分”を自我に解放させてやることである。また、治療目的を含めて、“自分を発見する”こととは、こころのトポスを下降 し<無意識>のあり方について知る=自覚することを示唆している。より俗っぽく言えば、下方は、たんに自分の真の姿が隠されている秘密の世界 のみならず、幼児期における快楽体験、恐ろしいグレート・マザーなど有象無象の存在が百鬼夜行するカオスの世界でもある。
天国や極楽のようなノモス的世界のみを希求する上昇志向の虜になるのではなく、下方の煉獄や地獄を見据えることを通して、現実の世界を住 みよいものにする(=<自我>を拡張させる)というフロイトの発想は、きわめて現実的で合理的な—そして多少せせこましい—近代人の 典型的な思考の産物である。
しかし、このようなあり方に対して人間の“こころ”の広大な沃野についての理解を希求する動きは、ユングを代表にして今世紀の初頭からす でに始まっており、1970年以降急速に勢力を盛り返してきた。現代人の自己意識の空間的な上昇志向を、それらの学問の総合的かつポップな発展と見なされ るトランスパーソナル心理学に典型的に見て取ることができる。トランスとは越えることであり、パーソナルは個的な、という意味であるから、トランスパーソ ナル心理学とは、個を越えた意識界があることを前提に展開される新しい心理学をさした総称となる。これはユング派精神分析・心理学や仏教哲学、あるいはユ ダヤ教の神秘思想とも相互に類似性がみられる。
この分野の論客のひとりK・ウィルバーによれば、ペルソナから統一意識まで、人間の個の意識をめぐってそれぞれの意識界がレベル化されて おり、上方に個人性あるいは個別性(=皮相的)、下方に普遍性(=深層的)というトポスが想定されている。これによって、自分が何者であるかという無意識 の発見だけではなく、人類とは何か、さらに宇宙意識とは何かについて、トポスを下降させながら意識を深めていくことができると見なされるのである——ただ し余りにも明快で単純すぎるきらいがある。
■ フィクションがもつ暴力性[→物 議をかもすフィクション]
4.4 ドラッグとコンピューター
1960年代末から70年代初めにかけて、アメリカで薬物を利用して意識の変革を試みようとするサブカルチャー(ドラッグ・カルチャー) が隆盛した。この時代、薬物利用による意識の変化に対して、近代西洋社会において“トリップする”という表現が人びとの間に急速に浸透していった。
薬物の利用には、さまざまな目的やそこから得られる機能がある。ワイルとローセンによると、それには宗教的な行事の補助、自己探求のた め、気分を変化させるため、病気を治すため、人間間のつき合いの促進と補助、知覚体験や歓びの増大、芸術的創造力やパフォーマンスを刺激するため、肉体的 動作を向上させるため、反抗の証として、アイデンティティの確立のため、等である。
ドラッグ・カルチャーにおける“トリップ”とは、たんに「精神・意識における旅行」を意味しない。当時の北米の社会的文化的状況のもと で、若者を“なにものかに向かわせた”ことが“トリップ”をより包括的に語らせている。ワイルらによる、この薬物利用の一連の目的や機能は、移動を伴わな い意識の変容体験を試みる行為、すなわちフィクショナル・ツーリズムの目的や機能の目録でもあるのだ。
ドラッグ・カルチャーそのものの勢力は現在では完全に衰退しているが、狭義の治療目的以外の薬物の積極的利用が、それ以後の社会に与えた 影響は計り知れない。その影響には現在の我々にとって肯定的に映るものものと、否定的に映るものとの二つの面があるようだ。
まず、肯定的な面である。それはドラッグ利用の経験が、その人の意識や考え方に対して一般的に柔軟にさせ、現代社会における新しい思考法 を生む素地になったことである。
現在のコンピュータ、とくにパーソナル・コンピュータの普及と発達に携わった研究者の多くがかつてドラッグ愛用者であったり、そのサブカ ルチャーの影響を受けていると考えられる。たとえば、ハイパーテキストを提唱したテッド・ネルソン、ダイナブックのコンセプトを提唱したアラン・ケイ、ま た表計算テキストのベストセラーであるロータス1−2−3を開発したケイポール、MITでメディア・ラボ運動を展開しているスチュアート・ブランドなどす べて、かつてドラッグの洗礼を受けた世代であり、その影響ははかり知れない(8)。あるいは、ドラッグ・カルチャーの旗手と言われたティモシー・リアリー などは、市民運動論などを展開するようになり、パソコンによる「権力の分配」などを提唱している。
薬物利用そのものについても積極的に発言を続けている者がいる。ドラッグ・カルチャーの旗手たちが大学や研究機関などをドロップアウトし ていったなかで、A・ワイルは正統な学問世界に帰ってきた数少ない研究者の一人である。彼は、ドラッグを現在でも肯定的にとらえ、問題の根源は我々がド ラッグを上手にコントロールできていないからだとしている。そしてコントロールしたうえで利用できれば、ドラッグは有効な薬物であり続けると指摘してき た。ただし最近の諸著作にみられる傾向では、ドラッグの使用は人間の意識変革にとって副次的なものであり、最終的にはドラッグなしで“トリップ”できるこ とが枢要であるという傾向が次第に強くなってきた。
これらは、いずれにせよ、ドラッグ利用の肯定的な側面であると言える。しかしながら薬物利用が結構づくめでないことは誰の眼にも明らかで ある。否定的な薬物利用の代表格は、世界的規模で起こっている麻薬・覚醒剤の濫用である。これは濫用者個人の保健上の問題から、経済および政治的な問題ま で多岐にわたる。アンダーグラウンドで動いている麻薬資本は膨大な額にのぼり、麻薬中毒患者の激増や政治的紛争など深刻な問題をひきおこしている。また闇 の資金源として、犯罪組織のみならず社会変革を唱えるゲリラ組織など非合法勢力が武器購入のために、麻薬の栽培や売買をおこなっているとも言われ、この問 題の複雑な事情を物語っている。
フィクショナル・ツーリズムの代表例として薬物利用は位置づけられようが、その利用をめぐる状況の混迷状態やドラッグに対する相対的な “名声”の下落によって、薬物を使わない代替的な方法が模索されている。それが次に述べる疑似体験メディアなのである。
4.5 疑似体験メディア
シャーマン、トランスパーソナル心理学、ドラッグなど、フィクショナル・ツーリズムの提要をなす意識の変化を体験することは、現在では変 性意識状態という概念枠組みによって説明されている。これは、具体的にはトリップした状態、あるいは神憑りになった状態のことを想像すればよいが、このよ うな意識感覚は、人類において共通して見られることが指摘されている。現在、それは変性意識状態(Altered States of Consciousness;略してASC)と一括して呼ばれるようになった。
A・ルードヴィヒによると、変性意識状態とは「さまざまな生理的、心理的、薬物的手段ないしは作因により誘発された精神状態で」あり、 「主観的な体験や心理的機能の面で、覚醒した意識状態におけるその人にとっての一般的な規範からかなり逸脱を示すものとしてその人自身(もしくはその人の 客観的観察者)によって主観的に認識される」ものである。
最近では、このようなASCが学問対象だけではなく、商売の対象としても注目を浴びている。たとえば高田公理氏の言うところの“棺桶産 業”である。これは比重の大きい液体が入ったフローティング・タンクに身体を浮かせて浮遊感覚を楽しむもの。また、あたかもジムに行って身体を鍛えるよう に、頭脳を鍛えるブレイン・ジムというものがある。その器具のひとつシンクロエジャナイザーは、脳波に対応して両眼の周囲でフラッシュが閃光するゴーグル である。これを掛けることによって、ある種の意識の変容状態に達する、あるいはそのことを通して気持ちがリフレッシュされるというのだ—すなわち一種 のバイオフィードバック装置である。
人間の無意識—このようなものがあればの話だが—領域に訴えるメッセージを呈示することによって、本人の隠れた能力を引き出させ るサブリミナル・メソッドと呼ばれる方法もある。たとえば心地よい音楽に合わせて、聞とれない周波数帯の音のメッセージ—例えば「あなたはできる」 「あなたは能力がある」—をミックスして提示する。それを聞いた人は(知らないあいだに)自信がついてくるというわけである。これも科学的根拠に基づ くというより、経験的事実によってその効能が喧伝されているにすぎない(9)。もっともそのようなメディア—例えばCDやカセット—を購入する人 は、それが“無意識に訴えるメディア”であるということを意識的に知っているわけであり、まさに気休め薬(プラシーボ)を服用しているのと同じことなので あろう。
あるいは、サイバーパンクというテクニックがある。これは、頭脳の構造を探るような高度なテクノロジーを自分の能力の開発のために使う技 術の体系と定義されている。シンクロエジャナイザーやサブリミナル・メソッドも、現在の技術水準ではまだまだ稚拙な部類に属するが、サイバーパンクの流れ の中でとらえるとより分かりやすく理解できるだろう。かつてドラッグカルチャー、特にサイケデリック運動に参画した人びとがサイバーパンクにアイディアを 与え、その種の運動が肥大化する事情はフィクショナル・ツアーの隆盛と無縁のものではない。
4.6 疾走する集団
道路を高速で駆け抜けたり、その運転技術を誇示すること、すなわち“暴走”することもある種のトリップ状態を引き出す。ただし、暴走族の “暴走”はコンピュータの暴走のように破壊的なものではない。体制や社会規範の秩序からみての“暴走”であって、疾走の実際は個々の集団によって様式化さ れたものとなっている。
京都の暴走族を内部から研究をした著書『暴走族のエスノグラフィ』において、佐藤郁哉は暴走をトリップと解釈する枠組みとして社会学者チ クセントミハイの「フロー経験」論を援用する。「フロー経験」とは例えばゲームに熱中することのなかには見られる経験のあり方のことである。すなわち、行 為と意識の融合、限定された刺激領域への注意集中、自我の喪失感、コントロールの感覚、明瞭で明確なフィードバック、自己目的的性格などであり、多様な感 覚経験から構成されている。
佐藤が参与観察した暴走族には、自己のファッションとスタイルの中に彼ら自身のあり方を見いだしたり、暴走行為が観客を意識したパフォー マンスとなっていることが指摘されている。また、暴走することと自己への配慮(=アイデンティティ形成)には密接な関係があるという。暴走族に加入して暴 走することが永続するものではなく、通過するものであり将来は卒業する—「オチつく」—ものとして彼らに意味づけされている点も興味深い。すなわ ち集団に入り暴走することは、通過儀礼としての性格を有している。
日常の生活者からみると騒々しいだけで何の取柄もない暴走する集団であるが、彼らは決して人気のない道路を疾走するのではない。観客であ りまた参加者でもある暴走族がたむろする特定の街道や、多くの人びとが通行する目抜き通りに出没する。暴走族街道では—抗争やリンチなどの—彼ら の相互交流の他に(稚拙だが派手な)運転技術などが披露される。目抜き通りではむろん派手な音響と旗ふり、3人乗りや曲乗りといったパフォーマンスが行な われる。しかしながら、我々の不快さは彼らにとっての快楽なのである。彼らは我々が不快であろうことを“想像”しながらトリップしているのだ—暴走族 の屈折した露出狂的な趣味はここにある。街道を暴走する集団は公道をたんに移動しているだけでなく、自分たちが構築したフィクションという街道を疾走して いるのである。
4.7 イメージの冒険
コンピュータゲーム、とりわけファミコンを抜きにして今日の子供の遊びについて語ることはできない。テレビを用いるコンピュータゲーム —米国ではヴィデオ・ゲームという名称で通っている—は、おもに反射神経がものをいうアクションゲームと、アクション的な要素を含みながら対話や謎 を解いて行く参加タイプのゲームの二つに分けられる。しかしながら、この区分は便宜的なものだ。
例えばドラゴンクエスト・シリーズ、通称ドラクエと呼ばれるコンピュータゲームはアクションゲームなのであるが、ゲームに精通している子 供たちは、ゲーマーのアクションに対応する画面の微妙な変化や特異的な反応パターンを楽しみながら参加タイプの楽しみを味わうことができる。自分が主人公 になって画面の中で冒険していくのがヴィデオゲームのオーソドックスな楽しみ方なのであるが、ここではゲームの文脈を越えた—メタレベルでの— “冒険と謎解き”に現代の子供たちは興じているのである(10)。
では、大人たちはどのようなゲームを楽しんでいるのだろうか?。ラインマンとスコットは『ドラマとしての社会』の中で次のように主張す る。
現代人にとって冒険や探検は想像力を刺激するが、ふつうの生活者では冒険はおろか旅行もままならない。すべての現代人が冒険への欲求を満 たすことができないにもかかわらず、興奮への希求は存在するので、それを代替的な冒険の中に求めようとする。冒険ができなくなった、すなわち冒険から疎外 された現代人に残された最後の“冒険”は、不倫、情事を代表格として、さらに同性愛、フェティシズム、マスターベーション、ポルノ鑑賞、あるいは出歯亀な ど性的な領域における冒険だというのである。
したがって、ここでのセックスは、既婚者の間で正当化され、かつ怠惰な行為に堕ちぶれ果てたセックスなどではなく、束の間の情事、不倫な どの緊張関係を伴うセックスであったり、“道徳的な後ろめたさのある”性的活動なのである。こうして性的冒険においては、生理的な刺激、社会的リスク、心 理的リスクが結合する極めて刺激的なものになっているのだ。
現実の探検家にせよ、それを夢想する人びとにせよ、“冒険”において、空間が再構築され、本質が体験され、新たなアイデンティティを身に つけるという特徴が見られる。そして、それはそのままフィクショナル・ツーリズムの面白味にもつながるものである。
コスタリカ・カウィータ国立公園の入口にて(出典:エコ・ツーリズムの4つの顔)
5.フィクショナル・ツーリズムの可能性
以上、いくつかの例をあげてフィクショナル・ツーリズムの諸相を概観してみた。空間の移動の有無をさほど問題としない—あるいは全く 考えずに—意識や感覚における変容体験を試みる行為をフィクショナル・ツーリズムと措定したうえで、それに合致する現象を思いつくままに拾い上げてみ たのである。
さて、このように観念が先走りすると次々に新たな疑問が湧いてくるだろう。すなわち、フィクショナル・ツーリズムは今日の観光現象の理解 にどのように貢献するのか?はたしてフィクショナル・ツーリズムは独自性を主張できるものをもっているのか? 単なるリアルな観光のアナロジーに過ぎない のではないか? 等々。それに対してどのような答を用意できるかが、フィクショナル・ツーリズムの観光研究における概念装置としての成立いかんに関わって くる。
以下にフィクショナル・ツーリズムという概念にまつわる問題点、とくにその独自性に関する疑問について、3点ほど指摘しておきたい。
(a)観光の擬態またはコピーか?
まずフィクショナル・ツーリズムとは、リアルな体験を似せて創られた疑似体験ではないか? あるいはリアルな体験をコピーしたものではな いか? という問題である。
シミュレーション・トラベルを考えてみよう。これは宇宙旅行や嵐の中の航行など、簡単には実現できない旅行、危険を伴う旅を、シミュレー ション装置で体験することである。これには二つの側面がある。ひとつは来るべき“リアルな旅”に備えての演習、事故などの不測の事態に対する訓練という、 将来に想定された“現実”を念頭においたフィクショナルな経験である。もうひとつの側面は、実現できないことを疑似的に“現出”させ、そこでの体験を享受 するというシュミレーションのフレームの中で完結する、あるいはそのことが自己目的となるような経験である。ともに行なわなければならないことはリアルさ の演出であり、現実の現象をいかに上手に模造するかというオーセンティシティの再現にある。
ところがフィクショナル・ツーリストが重点をおくのは、この2種の体験のうちの後者である。極端でネガティヴな例を挙げてみよう。例え ば、ヴィデオゲームにおける戦争や合戦のシュミレーション、幼児愛や性的サディズムを満足させるパソコンソフトのロールプレイングにおける“経験”であ る。
これらを現実レベルで行なうことは、社会的なサンクションがあり禁止されている。あるいは現実に行なうことが不可能である。また現実に行 なうことを初めから考慮に入れていない場合もある—我々は空想の上で殺害を実行するであって、現実にそれをおこなう気はない。またゲームというフレー ムにおいて、プレイヤー自身も死を逃れることができない。すなわちヴィデオゲームのフレームの上では敵の死と自分の死は同等であり、その双方の生命も再生 可能という点で、現実を超えているのである。
空間の移動よりも意識の変容により重点を置くならば、現実には有り得ない体験をしたいと考えるのがフィクショナル・ツーリストである。彼 らは現実で不可能だから代替できうる経験を持ちたいとは思わない。ここで必要なのは観念上の“想像=創造力”であり、それを裏付ける物質的な基盤すなわち テクノロジー装置である。従って、リアルな観光をもとに構築した形態的類似物(コピーもどき)とは別の独立したジャンルのなかにフィクショナル・ツーリズ ムというものが構想されており、またそうされるべきなのである。現在のところ、それにいちばん近いところのあるのがサイバーパンクである(11)。
(b)観光の従属的でかつ機能的な代替か?
観光の代替ではないかという指摘は先の(a)の形態的類似性の議論と不可分の関係にある。リアルな観光で満足できない体験を、フィクショ ナルなかたちで満足させているというのがフィクショナル・ツーリズムではないかという疑問である。 種々の事例を用いて言及してきたようにリアルな観光でない“観光的現象”がもつ想像力は、現実の観光が有しているその想像力を凌駕している。その理由の ひとつに、現代観光において“空間の移動”が“意識の変容”に対して演出することを止めてしまったことがあげられる。
観光の意義とは、空間の移動を伴い、自己が馴染んだ生活空間とは異質な空間で意識の変容をはかることであった。現代観光において、現代人 は“意識の変容”を試みる際に、彼らがもつフェティシュな性癖ゆえ“異質な空間”への愛着や信仰は残存しているが、“空間の移動”の意義を完全に忘却して しまっている。観光において“移動する時間”は、変化する風景を楽しむなどの限られた例外的な部分を残して完全に“忌むべき時間”に変容した。移動する時 間が演出効果を失ったために、観光における“意識の変容”そのものも長期にわたって低落してきたのである。
それゆえに、移動の時間に拘束されないフィクショナル・ツーリズムは、リアルな観光の代替とは言えず、また想像力生産の機能としてはそれ を完全に凌駕している現象なのである。
(c)観光に随伴する現象あるいは波及効果か?
さまざまなメディアにおいて観光が宣伝されるが、その中で—例えば旅行会社の広告を見ながら—人びとは空想上で観光を行なうこと ができる。それは、ある意味では荒俣のいう図像観光であり、またフィクショナル・ツーリズムであると言えよう。もしそうだとすれば、現実の観光があるから こそ、写真集、ガイドブック、地図など、現実の観光のツールが、フィクショナル・ツーリズムのツールとして売れるのである。こうして人びとは、メディアの 中で(図像ないしはフィクショナルな)観光を楽しむことができる。つまり、フィクショナル・ツアーは、現実の観光に随伴する現象あるいは現実の観光の波及 効果として、ツーリズムの周縁を構成しているのではないか? だから、フィクショナル・ツーリズムは中核をなす現実の観光現象の影響から逃れられず、独自 な位置を獲得することはできない、という批判である。
旅というのは人類にとって強力なメタファーであり続けてきた。世界の果ての異質な空間で起こったこと=起こり得ることは、我々をして驚愕 せしめる。にもかかわらず、近代観光は先のような“忌むべき時間”の登場にとって次第にその想像力を衰退させていった。それゆえにこそ空間の移動を伴わな いフィクショナル・ツーリズムが台頭してきたのだった。と同時に、観光の対象は、狭義の空間的広がりのなかに求められるだけでなく、図像や歴史などの広い 時空間にまで拡張されたのである。
仮にフィクショナル・ツーリストが観光の擬態であるとしても、それは思惟としての観光が孕む想像喚起力の作用であって、現実の観光におい て想像性豊かなものが保証されるわけではない。むしろ、近代観光で失なわれた想像力はこの新しいツーリストたちによる実践によって補完されている。
その点で劇画作家さいとうたかを氏の実践は参考になる。『ゴルゴ13』の原作者であるさいとうたかお氏は、多忙のため海外旅行をする時間 がないと聞く。しかし、ゴルゴ13ことデューク東郷が訪れる世界各地の風景は、そこに行った人しか感じられないリアルさがある。大都市の遠景から下町の路 地裏、場末のバーに至るまで、妙な臨場感がある—それは本物以上に“ほんもの的=オーセンティック”である。彼はある劇画雑誌のアンケートに答えて次 のようなことを言っていたように、私は記憶する。さいとう氏は、世界各地の写真などをもとに、多数の都市の街角のスナップやロングショットなどを前にして 詳細にスケッチしてゆく。そのような作業を繰り返していると、ゴルゴ13がたたずむ街の風景がより臨場感をもったイメージとして新たに—フィクショナ ルに!—浮かんでくるのだという。
氏が創作において用いるそのような体験=技法こそが、近代観光において学ばなければならないことである。フィクショナル・ツーリズムは現 代観光の想像力の貧困に対して絶えざる批判を提示しているのである。フィクショナル・ツーリズムの理念こそが現実のツーリズムを支えているのだ。
6.フィクショナル・ツーリズムの明日
リアルな観光を理解するために、私はフィクショナル・ツーリズムという枠組みを提示した。だがこの枠組みでとらえるものに、はたして研究 上の意義はあるだろうか? 逆説的な言い方ではあるが、私は、フィクショナル・ツーリズムという概念は、それ自体では大きな意義を持ち続けることはないだ ろうと思う。
ただ、リアルなツーリズムと対比させて考え、現実の観光現象には多くの影の部分があるのだと気づかせるためには有益な概念だ。フィクショ ナル・ツーリズムの独自性云々よりも、その枠組みでとらえることによって、現実の観光がもつフィクショナルな性格と、それが現実の観光に再びフィードバッ クされて“新たな観光のイメージ”を生んでゆく過程そのものに注目したいのである。
リアルな観光現象の調査研究において“現実”と信じられていることを、これまた現実的な事実関係から明らかにすることは、常に必要な態度 ではあるが、同時にフィクショナルな次元における人びとがおこなうイメージの構築についても配慮する必要がある。フィクショナル・ツーリズムは、現実の観 光現象と人びとのイメージを結ぶ架橋部分に焦点を当てるレンズなのである。
●註 (1)この中から観光現象は近代社会の状況を写す“鏡”である、あるいは観光は近代の“メタファー”であるという考え方が登場する。例えば、D・ブーア スティン(Daniel Boorstin)におけるマス・ツーリズムの堕落したイメージのなかに大衆社会の欺瞞をみる主張。あるいはD・マッカネル(Dean MacCannel)のように、旅行者のなかに“典型的な近代人”(modern-man-in-general)を見てとり、観光を研究することが近代 性の問題を問うことにほかならないという視点の提示などである。
(2)フィクショナル・ツーリズムという用語は、この原稿のもとになった㈱ヒューマンルネッサンス研究所の報告書(編者解説を参照)にお いて初めて用いた。筆者はまたこの概念を用いて観光における想像力と<他者>理解の問題について論じた(池田,1992)。
(3)「図像観光」はかつての人類学調査と同様、そこで扱われる対象ないしは主体が、解釈する主体に対して著作権等の権利を主張しないこ とをその解釈の前提としていることは興味深い。ポストモダニズムの解釈者は、解釈されるものからの権力—逆に言えば解釈する側の権威—について敏 感であるからだ。
(4)我々が知覚体験において空間を理解するとき、それは時間によって測られる。とくに旅行のような日常の生活圏を越える範囲の空間の移 動の際に、この時間的隠喩は、人びとに頻繁に利用されるものである。しかしながら、交通機関ならびに通信手段の発達がもたらしたグローバリゼーションに よって、移動に要する時間は飛躍的に短縮され、同時に移動可能な空間は飛躍的に拡大していくとともに、知覚体験における距離や時間の感覚は著しく変容する に至っている。
(5)ジャン・ボードリヤールは『シミュラークルとシミュレーション』の冒頭のなかで、ホルヘ・ルイス・ボルヘスの描いた帝国の地図師を 引きながら、シミュラークルが本物に先行すること、すなわち、「地図こそ領土に先行する‥‥地図そのものが領土を生み出す」ことについて述べている。これ は、我々の議論にもあてはまる。すなわちフィクショナルな旅行が、本物をまねたシミュラークルであり、それが現実の旅に先行し、また現実の旅を作り出すの である。そして、ボードリヤールが議論を展開しているように、シミュラークルをもくろむ者は、実在をシミュレーションモデルと一致させる過程のなかで、そ れらの差異そのものをも失ってゆくのである。ボードリヤールは言う。「シミュレーションとは起源(origine)も現実性(r@alit@)もない実在 (r@el)のモデルで形づくられたもの、つまりハイパーリアル(huperr@el)だ」(pp.1-2)]。「シミュレーションの特徴とは、モデルが 先行することであり、どんなささいな事件であろうとあらゆるモデルが先行する——まずモデルがそこにある」(p.23)。
(6)これに対して憑依という現象は、当の本人が本人ではなくなる、すなわち本人が憑依霊に置き変わることである。旅をしてきたのは本人 ではなく、その憑依霊である、とこじつけられないこともないが、きわめて“移動性”のテーマが乏しい。拙論をめぐる議論の中で永渕が指摘するバリの村落民 のサンヒャン遊びも“憑依”のヴァリエーションである。この点に関してはあらためて議論する必要があるだろう。
(7)旅という行為そのものや空間がある種の治癒効果があるという考えによって、“癒し”と言うものが可能になることについては、別稿 (池田,1992a)において論じた。
(8)個人におけるドラッグ体験とパーソナル・コンピューター思想の変革が、どの程度の蓋然性をもって影響したかを証明することは難し い。従ってここで私は憶測ないしはアイディアを述べているに過ぎない。より正確に言えば、それらの改革者たちの“カウンター・カルチャー的性向”と言う方 が正確かも知れない。しかしながら、カウンター・カルチャーとドラッグ体験を分けて考えることは事実上不可能である。
(9)公のサブリミナルな操作は、そのテクニックが使用されていても分からない、すなわち顕在的ではないという理由で拒絶されており、一 般に市民権を得ているとは言えない。第一に行なうべきことは、世間に溢れているサブリミナルな情報操作という“汚染”から我々を解放しなければならないか らである(W・B・キイ,1989)。
(10)名高かったアクションタイプのヴィデオゲーム『ゼビウス』が、“ゲームおたく”(ゲーム・フリーク)によってどのように楽しまれ るかは、中沢(1988)において具体的かつ詳細に論じられているので参考にされたい。
(11)サイバーパンクの真髄と言えば、そのウイリアム・ギブスン(Wiliam Gibson)の一連の小説—邦訳はハヤカワ文庫—であるが、今日におけるその思想性ついてはポラッシュ(1991)や巽(1992)などの良質 の紹介書が出版されている。
●文献
荒俣宏,1986,『図像観光』,朝日新聞社 Baudrillard, J., 1981, Simulacres et Simulation, Paris; Editions Galil]e (J・ボードリヤール,1984,『シミュラークルとシミュレーション』竹原あき子訳,法政大学出版局)
Boorstin, D., 1962, The Image: or, What Happened to the American Dream(D・ブーアスティン,1964,『幻影の時代』後藤和彦・星野郁美訳、東京創元社)
Graburn, N., 1989, Tourism; The Sacred Jorney, in "Hosts and Guests", V.L.Smith ed.
Harner,Michael,1980,The Way of the Shaman,New York;John Brockman.(マイケル・ハーナー,1989,『シャーマンへの道』[高岡よし子訳]平河出版社
池田光穂,1992a,「医療観光論序説」,中央公論,1992年7月号,pp.251-256
池田光穂,1992b,「想像力観光への招待」,中央公論,1992年10月号,pp.■ー■
Key, W. B., 1976, Media Sexploitation, New Jersey; Prentice-Hall (W・B・キイ,1989,『メディア・セックス』植島啓司訳、リブロポート)
Lyman,Stanford,and M.B.Scott,1975,The Drama of Social Reality,Oxford; Oxford University Press.(ライマンとスコット,1981,『ドラマとしての社会』清水博之訳,新曜社)
MacCannel, D., 1976, The Tourist: A New Theory of the Leisure Class, New York; Schocken Books.
中沢新一,1988,「ゲームフリークはバグと戯れる」『雪片曲線論』所収,pp.174-197,中公文庫(中央公論社)
Porush, D., 1985, The Soft Machine; Cybanetic Fiction, New York; Methuen (D・ポラッシュ,1991,『サイバネティック・フィクション』上岡伸雄訳,ペヨトル工房)
佐藤郁哉,1984,『暴走族のエスノグラフィー−モードの叛乱と文化の呪縛』,新曜社 Smith, Valene L. ed., 1989, Hosts and Guests; The Anthropology of Tourism, Philadelphia; University of Pennsylvania Press. 巽孝之,1992,『現代SFのレトリック』岩波書店
Turner, V., 1969, The Ritual Process, Chicago; Aldine.(V・ターナー,1976,『儀礼の過程』冨倉光雄訳,思索社)
ワイル,A.とW.ローセン,1986,『チョコレートからヘロインまで』ハミルトン・遥子訳,第三書館 Wilber,Ken.,1979,No Boundary,Colorado;Shambhala Publications.(ケン・ウィルバー,1986,『無境界』吉福伸逸訳,平河出版社) YTV情報産業研究グループ編,1975,『日本の情報産業2—情報産業としての宗教』,サイマル出版会
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写真は北村虻曳(きたむら・あぶのぶ)氏(2018年)