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For the honor of the laudable Ilongot headhuntes

Toward the Cultural Theory of Emotion: An Introduction to “Affective” Communication-Design

首狩りという経験とその記述

1 ある文化のなかで固有の情動体験を記述する

 文化人類学者は、自らの専門領域の枠組みを持ちつ つ——つまり西洋近代的な認識論を受け継ぎつつ——非西洋の人たちがもつ情動を、いったいどのような観 点から研究するのでしょうか。また、このことの学問的意義とはいったいどこにあるのでしょうか。それらを問うことがこの章の課題です。

 人類学における研究対象である異民族は、その表面 的差異という特徴も手伝って、当初は「浅い観察」あるいは「薄い記述」と呼ばれる、表面上の異様さ、奇 異さに焦点があてられ「見たまま」「経験した」ままを記述すればよいという方針で、異文化の記述——文化の表象化という——が試みられてきました。しかし 人類学研究が異文化間の相互理解に与する可能性について検討されるようになると、より「深い観察」による「厚い記述」が求められるようになってきます [Geertz 1973:6, 9-10]。文化人類学界では「表象の危機」と呼ばれた1980年代以降では、人びとの情動をどのように理解するかという問題は、人類学者の理解の公準と しての〈社会的文脈と解釈者主観の尊重〉により複雑な過程のなかでのみ表現と批判が可能であると言われるようになりました[Crapanzano 1986]。言い方を変えると、情動というテーマは客観的記述の邪魔になる雑音ではなく、固有の文化に拘束される人間存在の様式理解の手がかりへと変化し たと言えるのです。

 ここで 紹介されるのは、フィリピンのルソン島中東 部に住むイロンゴットと呼ばれる、焼き畑耕作と狩猟をしていた移動民の人たちの(我々からみると非常 に)特異的な経験についてです。レナート・ロサルドとミッシェル・ロサルドの夫妻が1967-69年と1974年に調査して、西洋の人類学者によく知られ る存在となりました。さて、彼らの親族関係は、いわゆる双系と言って、親戚の意識は母方にも父方にも両方にたどって認知されます。娘は結婚すると夫を迎 え、彼女の両親と同居するか、隣接する地に小屋をたてて新しく住まいを定めます。近隣集団は、比較的ゆるやかに離合と集散をくりかえしますが、特定の出身 地という土地に根ざしたバターン(bērtan)と呼ばれる社会単位を形成しています[R. Rosaldo 1980:14]。バターンは、また、イロンゴットの男たちが伝えてきた重要な制度であった「首狩り(headhunting)」の社会的単位でもありま した。【写真】the picture taken in 1910 depicting Ilongot men and a woman in modern day Oyao in Nueva Vizcaya.

 夫のレナートは1968年の暮れに(異なった民族 である)平地の人を襲撃し首狩りをおこなった時に、人びとが祝宴をおこない歌と語りを録音していまし た。1974年に、この地に戻った時にその録音テープを彼らは持参していました。イロンゴットの人たちは、その時の録音を夫婦にせがんで聞かせてもらった のですが、再生をはじめてからしばらくして最も聞きたがった当のインサンと呼ばれる男性が急に妻のミッシェルに、その再生を中止するように命じました。 ミッシェルの記述によると、このように書かれています。

「インサン自身が発話に緊張感があり、雰囲気は再びほとんど電撃が走ったように険悪になった。真面目さが急に戻り、インサンの眼が真っ赤に赤くなったのを 見た時、(テープを止めろと言われた)私の怒りは神経質なもの、あるいは恐怖以上のものに変わった。レナートの「義兄弟」になったタクボーが状況をはっき り言おうと言いながら、束の間の静寂を破った。彼は、私たちに、もう二度と行えない首狩りの宴(の録音)を聞くのは辛いといった。そしてこう付け加えた 『その歌は私たちの心を引き摺り出し、心を傷付けてしまう、私たちの死んだ叔父を思い出す』と。さらに『もし(キリスト教の)神を受け入れていたら違う気 持ちになったかもしれないが、私の心はイロンゴットのままなのだ。だから私が歌を聴く時は、まるで私が決して首狩りに連れていくことができないことを知っ ている未経験の若者たちを見る時に感じるように、私の心は痛むのだ』。タクボーの妻のワガットは、私の質問が彼女を苦痛にすると眼で言わんがごとく、こう 言った、『ここから出ていって、まだ十分じゃないの?女の私でさえ、そのことで心の中がいっぱいになるのを耐えられないのに!』」[M. Rosaldo 1980:33]。

 ここからレナートは、彼らが福音派のキリスト教に改宗した理由が、福音の理解やあるいは改宗に伴う実利的な追求があったという表面的な理由からではな く、戒厳令の施行などを通して首狩りが禁止され、それまでの首狩りの慣習を含む伝統的な宗教を実践ができないという(我々には想像もつかない絶望的な) 「悲しみ」を克服するために行われたことにようやく気づきました。そこからレナートとミシェルは、首狩りとそれに伴うさまざまな祝祭などの社会制度が、彼 らの身体観や固有の情動経験に根ざし、そして、その文化に特異的な情動の具体的な「解消」方法と複雑に絡みあっていることを詳細に記録してゆくことになり ます。

2 もうひとつの情動の哲学

 ロサルド夫妻やその著作を詳細に分析した清水展に よると、イロンゴットの人たちの首狩り行為は、成人男性のある種の情動の発露にもとづくものですが、同 時にその情動をコントールし制度化するものとして首狩り後の祝祭があり、また首狩り行為を説明する中に、彼らの人間観——とりわけ身体観、成長観、ジェン ダーの差異など——が強く反映されていると言います[M. Rosaldo 1980; R. Rosaldo 1980; 清水 2005]。部外者からみると異様に思えるほど、なぜイロンゴットの人たちが首狩りに対して執着するのかを明らかにするためには、この首狩りの欲望がどこ からやってくるのかについて、彼ら自身の説明を聞かねばなりません[M. Rosaldo 1980:36-47]。
 イロンゴットの人たちは、人間の情動や思考さらには精神性や欲望などを「心」すなわちリナワ(rinawa)という用語で表します。この心の意味は、解 剖学的な心臓をさす時には、それは行為、知覚、生命力や意思の場所をさします。他方、心は別の意味合いでは、生活(biay)、悲しみあるいは精神 (bēteng)、息(niyek)、知識=ブヤ(bēya)、そして思考(nemnem)とも同義とされます。彼らは、心がもつもっとも重要な作用、す なわち情動をリゲット(liget)という用語で説明します。清水によるとリゲットは次のように説明されています。


「リゲットとは、侮辱を受けたり、失望したり、他人を羨んだり、苛立ったりすると心のなかに湧き上がってくる情動である。それが適切に対処されて制御され なければ、野放しの暴力や社会的な混沌さらには当人の困惑や無気力を生み出す。しかし逆にそうした情動がなければ、持続的な行動を導く意思や目的意識など が生まれず、人間の生活や活動もありえなくなる。羨望があるからこそ、自分も手に入れようと一所懸命に努力するのであり、そのとき息を切らせ汗を流して人 を働かせるのがリゲットである。まさにエネルギーそのものとしてのリゲットは、混沌と集中、落胆と勤勉、忘我と分別といった対立するものを同時に生み出 す」[清水 2005:245]。

 リゲットはこのように人間の活動のエネルギーの源泉ですが、それは同時に制御されなければ、人の心に混とんを生む原因になります。つまりリゲットは活力 の原因であるが、同時に制御されないと混乱や不調和をおこす原因でもあるのです。その意味でリゲットの人間に対する作用は両義的です。リゲットをコント ロールする心の作用のなかで、イロンゴットの人たちがもっとも重要視するのが知識としてのブヤ(bēya)です。ブヤの助けにより、赤ん坊のはいはいか ら、狩猟の腕前、祝祭の時の踊り、口頭伝承や即興の詩作、そして、イロンゴットの人たちにとってもっとも高い価値をもつ社会的活動である首狩りが上手にな るのです。リゲットだけでは空回りしてものごとは失敗します。ブヤによるコントロールが必要なのです。したがって、ブヤとリゲットの関係は我々の社会での 理性と欲望のような、正反対の方向性をもって相互に拮抗する関係ではありません。リゲットは、成人男性による首狩りをおこなう動機や執着の要因になります が、首狩り衝動そのものと言えるようなものではありません。リゲットは老若男女を問わず人間がもつ基本的な情動なのですから。また、首狩りを首尾よくおこ なうのみならず、首尾よく成功した村の男を受け入れる祝祭においても、村人すべての振る舞いのなかに、リゲットとブヤが相補的に関わる、まさにイロンゴッ トの人たちの人間らしさの要素がさまざまな形で表出されるといっても過言ではありません。

 ブヤは生まれた時には無く、幼児期の小さい頃から 身についてゆくものだとされています。しかし思春期に入る前には子供は大人に依存する存在でしかありま せん。子供たちは、大人に命じられて子守や家事の手伝いをするほかに、農作業に出たり、また狩猟についていったりして、生存のための技術や知識を学びます [M. Rosaldo 1980:63-71]。ここでのブヤの役割は、リゲットとの緊張関係よりも、自我の形成とアイデンティティ獲得のために、一人前の大人になるために不可 欠な条件でもあります。

3 死と怒りと首狩り

 首狩りという習俗は、古くから西洋世界に伝わり、 どう猛な「未開人」と見なされてきた先住民の不可解な慣習として長く理解されてきました。しかしながら 西洋社会にとっては不可解なこの首狩りを様々な形で、人類学者たちは理解しようとして来ました。主に近隣の異民族の人たちが待ち伏せ襲撃されるので、敵と 味方を激しく峻別するのだという説、首には霊をはじめとして特別な力があるために、それを獲得しようとするのだという説、さらには生態学的な人口調整の仮 説などさまざまな解釈が出てきました(山下晋司「首狩り」『文化人類学事典』弘文堂)。他方で近代国家はそのような野蛮な慣習を禁止したり、罰金や処罰を おこなったりして、首狩りを強くコントロールしようとしてきました。そのため、首狩りの実際について詳細に記録し検証した記録というのは少ないのです。

 イロンゴットの長老たちはロサルド夫妻に首狩りを する理由を説明します。すなわち、配偶者の死や幼い子供の夭折などが、苦しみをもたらします。ここまで は私たちも理解可能ですが、ここからは理解が難しくなります。なぜならこの苦しみはすぐに激しい怒りとなるというのです。

「男たちが首狩りにいくのは彼らの自身の情動がそうさせるのだと、イロンゴットはそう説明する。神々などではなく、『重い』感情が、男たちをして殺害への 要求へと向かわしめる;首を狩ることは、それまで『重くのしかかっていた』そして悲しみに打ちひしがれていた『心情』として抑圧してきた『怒り』を『うち 捨てる』ことを強く熱望していた」[M.Rosaldo 1980:19]。

 このことから、イロンゴットは近親者の死を感情的に埋め合わせるかのように首狩りの犠牲者を殺すように思えます。しかし、ロサルド夫婦によると、このよ うな要因の説明は彼ら自身によって否定されます。また、犠牲者の生命力(=豊饒)を首狩りによって共同体にもたらすという解釈も彼らは拒絶しました。そこ には、近親者の死がもたらす苦しみと怒りが、純粋にその当事者の首狩りの欲望に転化します。そのため、その情動を解消するためには、ただ犠牲者の首を刈 り、高々と宙に舞い上げて打ち捨てることだけが必要とされるのです——彼らは首級(打ち取った首)そのものに意味を見出し、かつそれを持ち帰ったりしませ ん[M.Rosaldo 1980:228]。これらの欲望をドライブするのは、リゲットに他なりませんが、首を狩るのは清水が次に述べるような、用意周到でかつ自分の生命をもか ける実践であるために、ブヤによる自己コントロールも不可欠になるのです。リゲットのみが横溢している若者は首を狩りたくてもその任務を完全に遂行できま せん。ブヤによってバランスのとれた年長者の助けが不可能になります。

「文化的に言うと、年長者には、年少者が獲得していない知識とスタミナがそなわっており、それゆえ襲撃の際には、彼らが若者たちの世話をし、先導する。襲 撃を決めると、まず、これから犠牲になる者の魂を呼び出し、儀式的な別れを命じ、吉兆を占い確認してから、待ち伏せの場所まで用心深く移動する。そこを最 初に通りかかる者を待ち続けて、何日間、ことによって何週間も空腹と喪失感に耐え抜く。不意打で犠牲者に襲いかかり、殺したあと、切断した首は持ち帰えら ず、空高くに放り上げる。首を投げ捨てることで、自らの悲しみのなかにある怒りをはじめ、さまざまな苦しみも一緒に投げ捨てるのだという」[清水 2005:247-248]。

4 イロンゴット式反戦論

 このようにイロンゴットの首狩りを描写すると、耽 美主義的で高度に組織化された制度であり、またそれに参加する人びとの情動に深く根ざしたものであるこ とがわかります。しかしながら犠牲者を必然的に必要とすることと、襲撃後の首狩りの苛烈さゆえに、やはりヒューマニズムに反した残虐なものに思われてしま います。しかしながら、人類学者レナート・ロサルドの徴兵の知らせ——その頃はインドシナでベトナム戦争が泥沼化しており彼のところにも兵役適格者の通知 が来たのです——があったことを聞いた「好戦的」と思われるイロンゴットの人たちが、じつは人の殺害行為に対して西洋人とは別種のヒューマニズムを持って いることを彼は発見します。

 イロンゴットの人たちはレナートに同情し、家にか くまってあげようと申し出すらします。最初、彼は自分が臆病で兵隊になれないからイロンゴットの男たち がレナートを憐れんだと思いました。しかし男たちはそのような理由からではなく、近代国家の兵隊たちは、自分の身体を売り渡した人間であることを道徳的に 批判していたのです。イロンゴットによると、まともな人間は、自分の兄弟——実際にイーサンと呼ばれる男はレナートの「義兄弟」だと共同体から見なされて 受け入れられていました——に命じて戦争に参加することを強要するはずがないというのです[清水 2005:249-250]。好戦的で残虐なはずのイロンゴットにとって、近代の徴兵制度は人間の身体を拘束するだけでなく個々人の生命のことを考えない 生殺与奪を正当化する真に「残虐」なものに映ったのです。

 このことから、首狩りは、我々にとってリゲットと いう抑え切れない情動に苛まれておこなう蛮習のように映りますが、首狩りをしていたイロンゴットにとっ ては、それはリゲットとブヤの補完的な情動に支えられて禁欲を維持し、激しい行為の中で解消される極めて道徳的な実践だということになります。そのことを 裏打ちするのが、近代戦争制度へのこのイロンゴットならではの、そして我々が想像もできなかった、鋭い批判にあることは間違いないようです。

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【クレジット】

池田, 光穂「情動の文化理論にむけ て : 「感情」のコミュニケーションデザイン入門」『Communication-Design』(ISSN 1881-8234)No.8, P.1-P.34, 2013-03-29, http://hdl.handle.net/11094/24616

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