柳田國男
Kunio YANAGIDA(1875-1962) and
colonialism
A painting of Saint Francis Xavier, held in the Kobe City Museum,
Japan
「諸君のいわゆる世界苦は、よく注意して見たまえ、 半分は孤島苦だ……政治でも文化でも、中心に近いものたちに遮られて恩恵の均分を望み難い。この境遇にいる者の鬱屈は、多数の凡人を神経質にし皮肉にし、 不平好きにするには十分だ」——柳田國男「島の人生(1951)」『全集19』(表記は変えた)※昭和 26 年 9 月 15 日 創元社 『島の人生』著書 四六判 170 頁( 178 頁) 「自序」( 1 ~ 5 頁)「創元選書」の 1 冊として,公刊された。
◎1921年国際連盟常設委任統治委員会委員就任 「太平洋委任統治」報告書(岩本由輝『も う一つの遠野物語』刀水書房, 1994)※なお、このページは「『南島イデオロギーの発生』ノート」のスピンオフのページである。
●柳田国男年譜(→成城大学「柳 田國男について」より)
1875(明 8) |
7月31日、兵庫県神東郡田原村(現神崎郡福崎町)辻川で、松岡家の六
男として誕生。 | |
1884(明 17) |
9歳の時、一家で兵庫県加西郡北条町に転居、そこで飢饉を体験。 | |
1885(明 18) |
高等小学校卒業後、辻川の蔵書家三木家に約1年間預けられ、終日読書に
ふける。 | |
1887(明 20) |
12歳の時、茨城県北相馬郡布川町(現利根町布川)で開業医となった長
兄鼎の許に寄居。 | |
1890(明 23) |
15歳の時、上京して兄の井上通泰宅に寄居。この頃、森鷗外の所に出入
りする。 | |
1892(明 25) |
歌人松浦萩坪に師事。田山花袋・島崎藤村・国木田独歩らと親交、歌や新
体詩を作る。 | |
1893(明 26) |
第一高等中学校に合格。兄井上通泰の合格祝いの招きで、故郷の辻川や生
野に旅行。 | |
1896(明 29) |
21歳の時、7月に母たけ死去。肺尖カタルを患い犬吠崎で保養。9月に
父操死去。 | |
1897(明 30) |
第一高等学校(第一高等中学校改称)卒業。東京帝国大学法科大学政治科
に入学、松崎蔵之助(農政学)に師事。「野辺のゆきゝ」を『抒情詩』に発表後、称賛を博するものの、抒情詩の世界と訣別。 | |
1900(明 33) |
東京帝大卒業後(大学院在籍は明38まで)、農商務省に勤務。早稲田大
学で農政学を講義。 | |
1901(明 34) |
柳田家の養嗣子になり入籍(3年後、直平四女孝19歳と結婚)、牛込加
賀町に転居。 | |
1902(明 35) |
法制局参事官になる。内閣文庫の蔵書をよく読む。
『最新産業組合通解』著。 | |
1905(明 38) |
全国農事会の幹事になる。花袋・藤村・独歩らと竜土会を発足させる。 | |
1908(明 41) |
兼任宮内書記官になり九州旅行、椎葉で狩の故実を聞く。佐々木喜善より
遠野の話を聞く。 | |
1909(明 42) |
長女の三穂出生。東北旅行(はじめて遠野を訪れる)。『後狩詞記』を自
家出版。 | |
1910(明 43) |
35歳の時、兼任内閣書記官記録課長になる。新渡戸稲造宅で「郷土会」
創立。南方熊楠との文通開始。『石神問答』『遠野物語』『時代ト農政』著。 | |
1912(明45・大1) |
次女の千枝出生。フレーザーの『黄金の小枝』(金枝篇)を読み始める。 | |
1913(大 2) |
高木敏雄と協力して雑誌『郷土研究』を創刊。『郷土研究』に「巫女考」
等53編を執筆。 | |
1914(大 3) |
紀州の南方熊楠を訪問。貴族院書記官長になる
(~大8)。高木が『郷土研究』から手を引き一人で執筆と編集を行う。『山島民譚集(一)』(『甲寅叢書』3)著。 | |
1915(大 4) |
40歳の時、長男の為正出生。御大礼・大嘗祭に奉仕、講演旅行もする。 | |
1917(大 6) |
三女の三千出生。台湾・支那・朝鮮旅行。『郷土研究』4巻12号で休
刊、一人で執筆。 | |
1919(大 8) |
四女の千津出生。九州旅行。貴族院書記官長を辞任。 | |
1920(大 9) |
東京朝日新聞社客員になる。東北旅行。沖縄旅行(~翌3月)。『爐辺叢
書』を出版。 | |
1921(大 10) |
「国
際連盟委任統治委員」(~大12)になり渡欧(アメリカ・欧州各地を旅行)して帰国。 | |
1922(大 11) |
東京朝日新聞論説班員(~昭5)。再渡欧(ドイツやイギリス等を旅
行)。 | |
1923(大 12) |
関東大震災の報を受け帰国。委任統治委員を辞任、自宅で民俗学の談話会を開く。 | |
1925(大 14) |
雑誌『民族』を創刊(~昭4)。『海南小記』著。 | |
1927(昭 2) |
52歳の時、北多摩郡砧村(現世田谷区成城)に大きな書斎がある家を建
てて転居。 | |
1930(昭 5) |
『菅江真澄遊覧記』刊行記念会で「民間伝承論大意」を講演、《一国民俗
学》を提唱。東京朝日新聞社論説委員を辞任(~昭22まで客員、その後社友)。『蝸牛考』著。 | |
1931(昭 6) |
神宮皇学館で「郷土史の研究法」等を講義。『明治大正史 世相篇』著。 | |
1933(昭 8) |
『島』を編集・発行。自宅で「民間伝承論」の講義(12回)。『桃太郎
の誕生』著。 | |
1934(昭 9) |
木曜会、全国山村調査開始(~昭11)。書斎を郷土生活研究所にする。
『民間伝承論』著。 | |
1935(昭 10) |
「日本民俗学講習会」開催。「民間伝承の会」設立、『民間伝承』創刊。
『郷土生活の研究法』著。 | |
1936(昭 11) |
全国昔話の採集調査開始(~昭13)。『地名の研究』『山の神とヲコ
ゼ』著。「アテヌキ
という地名」 | |
1937(昭 12) |
丸の内ビルで「日本民俗学講座」を開講(~昭
15)。全国海村調査開始(~昭14)。 | |
1941(昭 16) |
「第12回朝日文化賞」受賞。東京帝国大学で「日本の祭」を講義。 | |
1942(昭 17) |
次女の赤星千枝(1912-1942)死去。国民学術協会理事になる。
『こども風土記』『日本の祭』著。※赤星は、 第12回芥川賞(昭和15年/1940年下期)「父」(「早稻田文學」第7巻 第12号,
1940年)で候補者になった作家(筆名:柳井統子)。 | |
1945(昭 20) |
成城高校で「家と霊魂の話」をする。『村と学童』著。 | |
1946(昭 21) |
「話し方教育の会」を開く。枢密顧問官になる。
『先祖の話』『祭日考』著。 | |
1947(昭22) |
木曜会を発展的解消、自宅に民俗学研究所(翌年財団)を創設。帝国芸術院(1937-1947)会員になる。文部省社会科教育研究会委員にな
る。『口承文芸史考』『山宮考』『氏神と氏子』著。 | |
1948(昭23) |
東京書籍の小学・中学国語科検定教科書の監修を受諾(後に高校も監修す
る)。 | |
1949(昭24) |
日本学士院会員になる。「民間伝承の会」を「日本民俗学会」と改称、発
足、会長。「日本を知るために」講演。成城学園教師のために社会科研究会を開く。 | |
1950(昭25) |
國学院大学教授を受諾。全国離島村落調査開始 (~昭27)。 | |
1951(昭26) |
「第10回文化勲章」受章。『民俗学辞典』が
「毎日出版文化賞」受賞。 | |
1953(昭28) |
折口信夫追悼会で講演。成城学園教師と共に小学生の社会科教科書『日本
の社会』編纂。 | |
1957(昭32) |
(財)民俗学研究所解散。成城大学へ蔵書寄託。
成城大学文芸学部顧問を受諾。 | |
1958(昭33) |
要望に応え、成城大学では文芸学部に文化史コースを設立。成城大学図書
館で話をする。 | |
1959(昭34) |
稲作史研究会に出席。成城大学で舟の話をする。 『故郷七十年』著。 | |
1961(昭36) |
『定本柳田國男集』の出版決定。『海上の道』
著。 | |
1962(昭37) |
米寿記念祝賀会。8月8日、満87歳で死去。遺言で成城大学に蔵書寄
贈、「柳田文庫」誕生。 |
●柳田國男『山の人生』(青空文
庫へのリンク)
●柳田國男『海上の道』(青空文 庫へのリンク)
まえがき 海上の道(23のセクションに分かれて いる) 海神宮考 緒言
みろくの船
根の国の話
鼠の浄土(16の章がある) 宝貝のこと(6の章がある) 人とズズダマ(12の章がある) 稲の産屋
知りたいと思う事二、三
|
●南島イデオロギーの変種としての島尾敏雄の「ヤポ ネシア」考(ウィキペディアより)
ヤポネシア(Japonesia)とは作家の島尾敏雄が考案した造語で
ある。日本を指すラテン語「Japonia」もしくは現代ギリシア語「Iaponia」に群島を指す古典ギリシア語の語尾「nesia」を追加してカタカ
ナ化したもので、日本国ではなく日本列島を意味する。文芸評論やポストコロニアル批評、カルチュラル・スタディーズ、において好んで用いられる表現であ
る。/島尾は横浜に生まれ神戸に育ったが、第二次大戦中に奄美大島の属島である加計呂麻島に駐屯していた。これが縁となり、島尾は1955年に奄美大島の
名瀬(現在の奄美市名瀬地区)に移住する。その後、島尾は新日本文学会の機関誌『新日本文学』に「名瀬だより」と名付けられたエッセイを連載するが、この
連作エッセイの中で提示されたのが、日本列島を「島々の連なり」として捉える視点である。ヤポネシアとは、そうした視点を解りやすく提示する為に島尾が考
案した語と云える。またこの語は「琉球弧」という概念が文化論上の概念として再定義されるきっかけともなった。/ヤポネシアという語は「琉球弧」とともに
南西諸島住民とその子孫の間に広く受け入れられ、南西諸島が日本列島史において果たした役割や、近世から近代、現代にかけての被収奪・被抑圧の歴史を表現
する際のキーワードとして多用されることとなった。ちなみに沖縄出身の作家、霜多正次には、みずからの戦時中の捕虜体験もからめた、「ヤポネシア」という
小説がある。 |
底本は村井紀(2004)『南島イデオロギーの発生 : 柳田国男と植民地主義』(岩波現代文庫, 学術 ; 122)岩波書店, 2004.5、とするが、これまで3つのヴァージョンが出版されている。
南島イデオロギーの発生 : 柳田国男と植民地主義,福武書店 1992.4、と南島イデオロギーの発生 : 柳田国男と植民地主義,太田出版 1995.1 増補・改訂 批評空間叢書 4である。
岩波現代文庫版の解説は次のとおりである「山人論を 放棄して、柳田はなぜ南島論へ転じたのか。日本人の起源を南島に求め、同質的な日本を見出す「新国学」たる民俗学の成立は柳田の韓国併合への関与によって もたらされた。その他、『花祭』で知られる早川孝太郎、沖縄学の父・伊波普猷も俎上にのせ、近代日本における民俗学と植民地主義との関連を徹底追及する新 編集版。」出典:http://ci.nii.ac.jp/ncid/BA67021918
その章立ては次のとおりである。(なお章の順はロー マ数字で表記された各部で新たに昇順に降られているが、この紹介では通し番号とする)
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