パーキンソンと古事記と太郎と「私」について
Parkinson's Disease, KOJIKI
("Records of Ancient Matters"), Taro Okamoto and "I"
2017年12月18日、國學院大學博物館で開催さ れている企画展、「いのちの交歓 -残酷なロマンティスム-」をみた。同館で保管されている考古学・民俗学資料とのコラボレーションを試みた同館ならではの展示であった。僕はとり わけ、岡本太郎の作品とは直接関係ない、オシラ様と盲目のイタコの写真の展示 に圧倒されてしまい、自分が人類学者になろうとした時のアイデンティティ——霊能者との邂逅を希求する——を思い出して、心の中で、この像に完全に跪拝し てしまった。
さて、岡本太郎(Tarō Okamoto, 1911-1996)の絶筆といわれる、伊邪那美を描いた 『雷人』と、彼の自身の晩年のパーキンソン病の震えとの「対決」に重ねる、手 前にたたら製鉄関連の展示はそのなかでもハイライトのひとつだが、僕はそこで書かれている(「私の眼(seems to me)」における)「私」の人称が気になった。この私はいったい誰なのだろうか?
「イザナギの命はお隱れになつた女神めがみにもう一 度會いたいと思われて、後あとを追つて黄泉よみの國に行かれました。そこで女神が御殿の組んである戸から出てお出迎えになつた時に、イザナギの命みこと は、「最愛のわたしの妻よ、あなたと共に作つた國はまだ作り終らないから還つていらつしやい」と仰せられました。しかるにイザナミの命みことがお答えにな るには、「それは殘念なことを致しました。早くいらつしやらないのでわたくしは黄泉よみの國の食物を食たべてしまいました。しかしあなた樣さまがわざわざ おいで下さつたのですから、何なんとかして還りたいと思います。黄泉よみの國の神樣に相談をして參りましよう。その間わたくしを御覽になつてはいけませ ん」とお答えになつて、御殿ごてんのうちにお入りになりましたが、なかなか出ておいでになりません。あまり待ち遠だつたので左の耳のあたりにつかねた髮に 插さしていた清らかな櫛の太い齒を一本闕かいて一本ぽん火びを燭とぼして入つて御覽になると蛆うじが湧わいてごろごろと鳴つており、頭には大きな雷が居、 胸には火の雷が居、腹には黒い雷が居、陰にはさかんな雷が居、左の手には若い雷が居、右の手には土の雷が居、左の足には鳴る雷が居、右の足にはねている雷 が居て、合わせて十種の雷が出現していました。そこでイザナギの命が驚いて逃げてお還りになる時にイザナミの命は「わたしに辱はじをお見せになつた」と言 つて黄泉よみの國の魔女を遣やつて追おわせました」青空文庫『古事記』
●岡本太郎と太陽の塔
「1970年(昭和45年)に大阪で万国博覧会が開 催されることが決まり、通産官僚の堺屋太一ら主催者(国)は紆余曲折の末、テーマ展示のプロデューサー就任を要請した。岡本は承諾すると、「とにかくべら ぼうなものを作ってやる」と構想を練り、出来上がったのが『太陽の塔』(着工は1968年12月、竣工は 1970年2月;所在地;大阪府吹田市千里 万博公園1-1)であった。 この日本万国博覧会は各方面に影響を与えた。1975年(昭和50年)、『太陽の塔』の永久保存が決定。現在も大阪のシンボルとして愛されている。」岡本太郎より)
太陽の塔、大阪府「医療緊急事態宣言」の発令
(2021年4月7日)を受けて赤くライトアップされる(撮影:文化人類学者・飯田卓氏: Picture taken by cultural
anthropologist Dr. Taku IIDA, April 2021)
リンク
文献
その他の情報
「長さ30メートル、高さ5.5メートルの巨大壁画『明日の神話』は、岡本太郎がメキシコシティに建築中のホテルから依頼されて、
1968年~1969年に制作されたものです。
しかし、依頼者の経営状況が悪化し、そのホテルは未完成のまま人手に渡ります。壁画はその際に取り外され、メキシコ各地を転々とするうちに行方がわからな
くなりました。2003年、メキシコシティ郊外の資材置き場に保管されていた無惨な状態の『明日の神話』が、岡本敏子によって奇跡的に発見されます。」明日の神話保存継承機構より)