はじめによんでください

世界新秩序の原理

The Principles of the New World Order, by Kitaro Nishida, ca. 1943

池田光穂

☆ 「世界新秩序の原理」の来歴:「太平洋戦争中の晩年、国策研究会において、西田幾多郎は 佐藤賢了と出会い、佐藤から東条英機が大東亜共栄圏の新政策を発表する演説への助力を依頼される。「佐藤の要領理解の参考に供するため」として、共栄圏に ついてのビジョンを著述し、『世界新秩序の原理』と題された論文を書き、東条に取り入れられることを期待したが、内容があまりにも難解だったことや、仲介 をした人物と軍部との意思疎通が不十分だったため、東条の目には触れず、施政方針演説には、原稿での意向は反映されなかった。後に和辻哲郎宛の手紙の中で 「東条の演説には失望した。あれでは私の理念が少しも理解されていない」と嘆いていたという」西田幾多郎ウィキペディア

世界はそれぞれの時代にそれぞれの課題を有し、その解決を求めて、時代から時代へと動いて行く。ヨーロッパで 云えば、十八世紀は個人的自覚の時代、所謂個人主義自由主義の時代であった。十八世紀に於ては、未だ一つの歴史的世界に於ての国家と国家との対立と云うま でに至らなかったのである。大まかに云えば、イギリスが海を支配し、フランスが陸を支配したとも云い得るであろう。然るに十九世紀に入っては、ヨーロッパ という一つの歴史的世界に於てドイツとフランスとが対立したが、更に進んで窮極する所、全世界的空間に於て、ドイツとイギリスとの二大勢力が対立するに 至った。これが第一次世界大戦の原因である。十九世紀は国家的自覚の時代、所謂帝国主義の時代であった。各国家が何処までも他を従えることによって、自己 自身を強大にすることが歴史的使命と考えた。そこには未だ国家の世界史的使命の自覚というものに至らなかった。国家に世界史的使命の自覚なく、単なる帝国 主義の立場に立つかぎり、又逆にその半面に、階級闘争と云うものを免れない。十九世紀以来、世界は、帝国主義の時代たると共に、階級闘争の時代でもあっ た。共産主義と云うのは、全体主義的ではあるが、その原理は、何処までも十八世紀の個人的自覚による抽象的世界理念の思想に基くものである。思想として は、十八世紀的思想の十九世紀的思想に対する反抗とも見ることができる。帝国主義的思想と共に過去に属するものであろう。


今日の世界は、私は世界的自 覚の時代と考える。各国家は各自世界的使命を自覚することによって一つの世界史的世界即ち世界的世界を構成せなければならない。これが今日の歴史的課題で ある。第一次大戦の時から世界は既に此の段階に入ったのである。然るに第一次大戦の終結は、かかる課題の解決を残した。そこには古き抽象的世界理念の外、 何等の新らしい世界構成の原理はなかった。これが今日又世界大戦が繰返される所以である。今日の世界大戦は徹底的に此の課題の解決を要求するのである。一 つの世界的空間に於て、強大なる国家と国家とが対立する時、世界は激烈なる闘争に陥らざるを得ない。科学、技術、経済の発達の結果、今日、各国家民族が緊 密なる一つの世界的空間に入ったのである。之を解決する途は、各自が世界史的使命を自覚して、各自が何処までも自己に即しながら而も自己を越えて、一つの 世界的世界を構成するの外にない。私が現代を各国家民族の世界的自覚の時代と云う所以である。各国家民族が自己を越えて一つの世界を構成すると云うこと は、ウィルソン国際連盟に於ての如く、単に各民族を平等に、その独立を認めるという如き所謂民族自決主義ではない。そういう世界は、十八世紀的な抽象的世 界理念に過ぎない。かかる理念によって現実の歴史的課題の解決の不可能なることは、今日の世界大戦が証明して居るのである。いずれの国家民族も、それぞれ の歴史的地盤に成立し、それぞれの世界史的使命を有するのであり、そこに各国家民族が各自の歴史的生命を有するのである。各国家民族が自己に即しながら自 己を越えて一つの世界的世界を構成すると云うことは、各自自己を越えて、それぞれの地域伝統に従って、先ず一つの特殊的世界を構成することでなければなら ない。而して斯く歴史的地盤から構成せられた特殊的世界が結合して、全世界が一つの世界的世界に構成せられるのである。かかる世界的世界に於ては、各国家 民族が各自の個性的な歴史的生命に生きると共に、それぞれの世界史的使命を以て一つの世界的世界に結合するのである。これは人間の歴史的発展の終極の理念 であり、而もこれが今日の世界大戦によって要求せられる世界新秩序の原理でなければならない。我国の八紘為宇の理念とは、此の如きものであろう。畏くも万 邦をしてその所を得せしめると宣らせられる。聖旨も此にあるかと恐察し奉る次第である。十八世紀的思想に基く共産的世界主義も、此の原理に於て解消せられ なければならない


今日の世界大戦の課題が右の 如きものであり、世界新秩序の原理が右の如きものであるとするならば、東亜共栄圏の原理も自ら此から出て来なければならない。従来、東亜民族は、ヨーロッ パ民族の帝国主義の為に、圧迫せられていた、植民地視せられていた、各自の世界史的使命を奪われていた。今や東亜の諸民族は東亜民族の世界史的使命を自覚 し、各自自己を越えて一つの特殊的世界を構成し、以て東亜民族の世界史的使命を遂行せなければならない。これが東亜共栄圏構成の原理である。今や我々東亜 民族は一緒に東亜文化の理念を提げて、世界史的に奮起せなければならない。而して一つの特殊的世界と云うものが構成せられるには、その中心となって、その 課題を担うて立つものがなければならない。東亜に於て、今日それは我日本の外にない。昔、ペルシヤ戦争に於てギリシヤの勝利が今日までのヨーロッパ世界の 文化発展の方向を決定したと云われる如く、今日の東亜戦争は後世の世界史に於て一つの方向を決定するものであろう。


今日の世界的道義はキリスト 教的なる博愛主義でもなく、又支那古代の所謂王道という如きものでもない。各国家民族が自己を越えて一つの世界的世界を形成すると云うことでなければなら ない、世界的世界の建築者となると云うことでなければならない。我国体は単に所謂全体主義ではない。皇室は過去未来を包む絶対現在として、皇室が我々の世 界の始であり終である。皇室を中心として一つの歴史的世界を形成し来った所に、万世一系の我国体の精華があるのである。我国の皇室は単に一つの民族的国家 の中心と云うだけでない。我国の皇道には、八紘為宇の世界形成の原理が含まれて居るのである。


世界的世界形成の原理と云う のは各国家民族の独自性を否定することではない、正にその逆である。世界と云えば、人は今尚十八世紀的に抽象的一般的世界を考えて居るのである。私の世界 的世界形成と云うのは、各国家各民族がそれぞれの歴史的地盤に於て何処までも世界史的使命を果すことによって、即ちそれぞれの歴史的生命に生きることに よって、世界が具体的に一となるのである、即ち世界的世界となるのである。世界が具体的に一となると云うことは各国家民族が何処までもそれぞれの歴史的生 命に生きることでなければならない。恰も有機体に於ての様に、全体が一となることは各自が各自自身となることであり、各自が各自自身となることは全体が一 となることである。私の世界と云うのは、個性的統一を有ったものを云うのである。世界的世界形成の原理とは、万邦各その所を得せしめると云うに外ならな い。今日の国家主義は、かかる世界的世界形成主義に基礎附けられていなければならない。単に各国家が各国家にと云うことではない。今日の世界状勢は世界が 何処までも一とならざるべからざるが故に、各国家が何処までも各自に国家主義的たらねばならぬのである。而してかかる多と一との媒介として、共栄圏という 如き特殊的世界が要求せられるのである。


我国民の思想指導及び学問教 育の根本方針は何処までも深く国体の本義に徹して、歴史的現実の把握と世界的世界形成の原理に基かねばならない。英米的思想の排撃すべきは、自己優越感を 以て東亜を植民地視するその帝国主義にあるのでなければならない。又国内思想指導の方針としては、較もすれば党派的に陥る全体主義ではなくして、何処まで も公明正大なる君民一体、万民翼賛の皇道でなければならない。


以上は私が国策研究会の求に 応じて、世界新秩序の問題について話した所の趣旨である。各国家民族が何処までも自己に即しながら、自己を越えて一つの世界を形成すると云うことは、各国 家民族を否定するとか軽視するとかと云うことではない。逆に各国家民族が自己自身に還り、自己自身の世界史的使命を自覚することによって、結合して一つの 世界を形成するのである。かかる綜合統一を私は世界と云うのである。各国家民族を否定した抽象的世界と云うのは、実在的なものではない。従ってそれは世界 と云うものではない。故に私は特に世界的世界と云うのである。従来は世界は抽象的であり、非実在的であった。併し今日は世界は具体的であり、実在的である のである。今日は何れの国家民族も単に自己自身によって存在することはできぬ、世界との密接なる関係に入り込むことなくして、否、全世界に於て自己自身の 位置を占めることなくして、生きることはできぬ。世界は単なる外でない。斯く今日世界が実在的であると云うことが、今日の世界戦争の原因であり、此の問題 を無視して、今日の世界戦争の問題を解決することはできない。私の世界と云うのは右の如き意味のものであるから、世界的世界形成と云うことは、地域伝統に 従ってと云うのである。然らざれば、具体的世界と云うものは形成せられない。私の云う所の世界的世界形成主義と云うのは、他を植民地化する英米的な帝国主 義とか連盟主義とかに反して、皇道精神に基く八紘為宇の世界主義でなければならない。抽象的な連盟主義は、その裏面に帝国主義に却って結合して居るのであ る。


歴史的世界形成には、何処ま でも民族と云うものが中心とならなければならない。それは世界形成の原動力である。共栄圏と云うものであっても、その中心となる民族が、国際連盟に於ての 如く、抽象的に選出せられるのでなく、歴史的に形成せられるのでなければならない。斯くして真の共栄圏と云うものが成立するのである。併し自己自身の中に 真の世界性を含まない単に自己の民族を中心として、そこからすべての世界を考える単なる民族主義は、民族自己主義であり、そこから出て来るものは、自ら侵 略主義とか帝国主義とか云うものに陥らざるを得ないであろう。今日、英米の帝国主義と云うものは、彼等の民族自己主義に基くものに外ならない。或一民族が 自己自身の中に世界的世界形成の原理を含むことによって始めてそれが真の国家となる。而してそれが道徳の根源となる。国家主義と単なる民族主義とを混同し てはならない。私の世界的世界形成主義と云うのは、国家主義とか民族主義とか云うものに反するものではない。世界的世界形成には民族が根柢とならなければ ならない。而してそれが世界的世界形成的なるかぎり国家である。個人は、かかる意味に於ての国家の一員として、道徳的使命を有するのである。故に世界的世 界形成主義に於ては、各の個人は、唯一なる歴史的場所、時に於て、自己の使命と責務とを有するのである。日本人は、日本人として、此の日本歴史的現実に於 て、即ち今日の時局に於て、唯一なる自己の道徳的使命と責務とを有するのである。


民族と云うものも、右の如く 世界的世界形成的として道徳の根源となる様に、家族と云うものも、同じ原理によって道徳の根源となるのである。単なる家族主義が、すぐ道徳的であるのでは ない。世界的世界形成主義には家族主義も含まれて居るのである。之と共に逆に、共栄圏と云う如きものに於ては、嚮に云った如く、指導民族と云うものが選出 せられるのではなく、世界的世界形成の原理によって生れ出るものでなければならない。ここに世界的世界形成主義と国際連盟主義との根本的相違があるのであ る。



神皇正統記が大日本者神国な り、異朝には其たぐいなしという我国の国体には、絶対の歴史的世界性が含まれて居るのである。我皇室が万世一系として永遠の過去から永遠の未来へと云うこ とは、単に直線的と云うことではなく、永遠の今として、何処までも我々の始であり終であると云うことでなければならない。天地の始は今日を始とするという 理も、そこから出て来るのである。慈遍は神代在今、莫謂往昔とも云う(旧事本紀玄義)。日本精神の真髄は、何処までも超越的なるものが内在的、内在的なる ものが超越的と云うことにあるのである。八紘為宇の世界的世界形成の原理は内に於て君臣一体、万民翼賛の原理である。我国体を家族的国家と云っても、単に 家族主義的と考えてはならない。何処までも内なるものが外であり、外なるものが内であるのが、国体の精華であろう。義乃君臣、情兼父子である。


我国の国体の精華が右の如くなるを以て、世界的世界形成主義とは、我国 家の主体性を失うことではない。これこそ己を空うして他を包む我国特有の主体的原理である。之によって立つことは、何処までも我国体の精華を世界に発揮す ることである。今日の世界史的課題の解決が我国体の原理から与えられると云ってよい。英米が之に服従すべきであるのみならず、枢軸国も之に傚うに至るであ ろう。


底本:「西田幾多郎全集 第十二巻」岩波書店
   1966(昭和41)年1月26日発行
   1986(昭和61)年11月25日第4刷発行


https://www.aozora.gr.jp/cards/000182/files/3668_70012.html


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Nishida Kitarō (japanisch 西田 幾多郎; * 19. Mai 1870 in Mori bei Kanazawa (heute: Kahoku, Präfektur Ishikawa); † 7. Juni 1945 in Kamakura, Präfektur Kanagawa) war ein japanischer Philosoph. Er gilt als geistiger Vater der Kyōto-Schule und markiert den Beginn der modernen japanischen Philosophie. Nishidas Nichte Fumi Takahashi war ebenfalls Philosophin.
西田 幾多郎(にしだ いくたろう、* 1870年5月19日、金沢市(現:石川県かほく市)近郊の森に生まれる、† 1945年6月7日、神奈川県鎌倉市に生まれる)は、日本の哲学者。京都学派の精神的父とされ、近代日本哲学の幕開けとなった。西田の姪の高橋文も哲学者 である。
Leben
Als Spross einer alten Samuraifamilie verbrachte Nishida eine privilegierte Kindheit. Bedingt durch seine schwache Konstitution wurde er von seiner Mutter Tosa, einer strenggläubigen Buddhistin, sehr umsorgt. Er bat seinen Vater Yasunori wiederholt darum, eine weiterführende Schule in Kanazawa besuchen zu dürfen. Der Vater wies seinen Wunsch zurück, da er ihn als seinen Nachfolger im Amt des Dorfbürgermeisters sah und befürchtete, dieses Amt würde seinem Sohn sonst später nicht mehr genügen. Schließlich erlaubte er diesem doch, eine weiterführende Schule zu besuchen. Eine Erkrankung zwang Nishida allerdings bald, Privatunterricht zu nehmen.

Von 1886 bis 1890 besuchte Nishida dann wieder eine Schule, die Ishikawa Semmongakkō. Als sich das politische Klima an der Schule änderte (vgl. den Artikel Meiji-Verfassung), übte sich Nishida im passiven Widerstand. Ihm wurde schließlich wegen „schlechten Benehmens“ das Vorrücken in die nächste Klasse verweigert. Nishida verließ die Schule.

1891 nahm er das Studium der Philosophie an der Kaiserlichen Universität Tokio auf. Er belegte aufgrund seines fehlenden Oberschulabschlusses einen „Sonderkurs“. Dadurch war er einer diskriminierenden Behandlung ausgesetzt und zog sich immer mehr in sich selbst zurück. Das änderte sich, als 1893 Raphael von Koeber an die Universität kam. Dieser motivierte ihn, sich in griechische und mittelalterliche europäische Philosophie einzuarbeiten und machte ihn mit den Werken Schopenhauers bekannt.

Des Weiteren studierte er bei Karl Florenz zusammen mit Natsume Sōseki deutsche Literatur. Er beendete sein Studium kurz vor Ausbruch des ersten Japanisch-Chinesischen Krieges mit einer Arbeit über David Hume.

Im Mai 1895 heiratete Nishida seine Cousine Tokuda Kotomi, mit der er insgesamt acht Kinder hatte. Von den sechs Töchtern sterben einige noch zu Lebzeiten des Vaters, und auch der ältere der beiden Söhne Ken stirbt schon 1920 (mit 23 Jahren).

1896 übernahm er die Stelle eines Lehrers an seiner ehemaligen Schule in Kanazawa, die inzwischen zur Oberschule umstrukturiert worden war. Im nächsten Jahr begann er, sich in Zen-Meditation unterweisen zu lassen, wahrscheinlich inspiriert durch seinen Schulkameraden und Freund D. T. Suzuki. Bei seinem Aufenthalt im Tempel Taizō-in in Kyōto, den er anlässlich eines längeren Zen-Meditationsretreats (Sesshin) besuchte, wurde ihm im August 1897 von seinem Lehrer Hōjō Tokiyoshi eine Stelle an der Oberschule in Yamaguchi angeboten, die er ohne Zögern annahm.[1]

Aufgrund seines Werkes Zen no kenkyū (Über das Gute) wurde ihm 1910 eine Position an der kaiserlichen Universität in Kyōto angeboten, an der er 1914 Professor für Philosophie wurde. Hier entwickelte Nishida seine Philosophie weiter und zog den Kern der späteren Kyōto-Schule an, als er in den 1920er Jahren bekannt wurde. Er wurde 1928 emeritiert und zog nach Kamakura, um dort seine Logik des Ortes weiterzuentwickeln.

1940 wurde ihm der japanische Kulturorden verliehen.

Nishida starb am 7. Juni 1945 in Kamakura an einer Nierenkrankheit. Sein Grab liegt dort auf dem Friedhof des Zen-Tempels Tōkei-ji.


西田の生涯
西田は旧家の武士の子として、恵まれた幼少期を過ごした。体が弱かったため、敬虔な仏教徒であった母・土佐にかわいがられた。西田は父・保則に金沢の中学 に入学させてほしいと何度も頼んだ。父は彼を村長職の後継者として見ており、この職が後に息子にとって十分なものでなくなることを恐れていた。結局、父は 息子の中等学校への入学を許可した。しかし、やがて西田は病気を患い、個人レッスンを受けざるを得なくなった。

1886年から1890年まで、西田は再び石川専修学校に通った。学校の政治情勢が変わると(「明治憲法」の項を参照)、西田は消極的な抵抗を行った。やがて彼は「素行不良」を理由に進級を拒否された。西田は学校を去った。

1891年、東京帝国大学で哲学を学び始める。高校卒業資格がないため、「特別コース」を履修した。その結果、彼は差別的な扱いを受け、ますます自分の中 に引きこもっていった。それが変わったのは、1893年にラファエル・フォン・ケーバーが大学にやってきたときだった。ラファエル・フォン・コーバーは、 彼にギリシア哲学や中世ヨーロッパ哲学に親しむよう促し、ショーペンハウアーの著作を紹介した。

また、夏目漱石とともにカール・フローレンツにドイツ文学を学んだ。日中戦争が勃発する直前に、デイヴィッド・ヒュームに関する論文で学業を終えた。

1895年5月、西田はいとこの徳田琴美と結婚し、合計8人の子供をもうけた。6人の娘のうち何人かは父の存命中に亡くなり、2人の息子のうち長男の健は1920年(23歳)に亡くなった。

1896年、彼は金沢の前任校の教師に就任した。翌年、彼は禅の教えを受け始めたが、これはおそらく学友であり友人でもあった鈴木大拙に触発されたのだろ う。T.スズキの影響を受けたと思われる。1897年8月、禅の修行で訪れた京東の泰蔵院で、師である宝城時敬から山口の高等学校での職を勧められ、迷う ことなくこれを受諾した[1]。

1910年、『禅の研究』が評価され、彼は京東帝大の教授となり、1914年に教授となった。ここで西田は哲学をさらに発展させ、1920年代に頭角を現し、後の京東流の中核を惹きつけた。1928年に定年退職し、鎌倉に移り住んで場所の論理をさらに発展させた。

1940年に文化勲章を受章。

1945年6月7日、腎臓病のため鎌倉で死去。墓は東慶寺の墓地にある。
Philosophie
Nishida Kitarō beeinflusste wie kein anderer die moderne Philosophie in Japan bis heute. Sein Versuch, westliche Methodik und Termini mit östlichem Gedankengut zu kombinieren, durchzieht bis heute die Bemühungen japanischer Philosophen. Nishidas Anliegen und Vokabular prägen auch den Stil der sogenannten Kyōto-Schule, als deren geistiger Vater er zusammen mit seinem Nachfolger Tanabe Hajime gilt.

Nishida war überzeugt davon, dass es in der Philosophie nur darum gehen kann, „die eine Wahrheit“ zu finden. Hierfür allerdings hielt er es für wichtig, Philosophie und Religion zusammen zu denken und verwies auf die indische oder frühe griechische Philosophie, in der er beides noch vereint sah.[2] Seine Philosophie stellt daher den Versuch dar, eine Synthese von Philosophie und Religion zu finden.

Nishidas Denken kann in fünf Schaffensphasen eingeteilt werden: Ausgehend vom Begriff der Untersuchung des Bewusstseins und dem daraus gewonnenen Begriff der reinen Erfahrung untersuchte er im Folgenden das Problem des Selbstbewusstseins und des Willens. In der dritten Phase gelangte er zu seiner Logik des Ortes (basho no ronri), die schließlich im Begriff des absoluten Nichts (zettai mu) mündet. Beide Begriffe üben bis zur heutigen Zeit einen starken Einfluss auf die Diskussion in der japanischen Philosophie aus. Die vierte Phase ist bestimmt von einem dialektischem Denken, in welchem er den Standpunkt des dialektisch Allgemeinen (benshōhōteki ippansha) und der widersprüchlichen Selbstidentität (mujunteki jiko dōitsu) entwickelt.

In seiner letzten Schaffensphase wendete sich Nishida ganz der Religionsphilosophie zu und den Fragen „Wann wird uns die Religion zum Problem“, „Was heißt Gott, Buddha, das absolute Sein, das sich absolut Widersprechende“ und „Wann berührt unser Selbst Gott, Buddha.“ Nishida sah den Ursprung der Religion im Leiden an dem Drang, sich selbst zu erkennen.[3]

Reine Erfahrung
Nishida lehnte seinen Begriff der reinen Erfahrung (純粋経験 junsui keiken) an William James, an Bergsons Begriff der Lebenswelt und an die christliche Mystik an.[4] Sie umfasste für ihn den unmittelbaren Augenblick der Wahrnehmung, wenn also noch keine Unterscheidung zwischen wahrnehmendem Subjekt und wahrgenommenem Objekt geschehen ist und noch kein Urteil über das Wahrgenommene gefällt worden ist. Aus diesem Grund sind reine und unmittelbare Erfahrung eins: Ein Ton lässt sich wahrnehmen oder eine Farbe sehen, ohne dass zwischen Subjekt (der eigenen Person) und dem Objekt (der wahrgenommenen Sache) unterschieden werden muss.

„Rein beschreibt den Zustand einer wirklichen Erfahrung als solcher, der auch nicht eine Spur von Gedankenarbeit anhaftet. […] Das bedeutet zum Beispiel, daß wir in dem Augenblick, in dem wir eine Farbe sehen oder einen Ton hören, weder überlegen, ob es sich um Einwirkungen äußerer Dinge handelt, noch ob ein Ich diese empfindet. Selbst das Urteil, was diese Farbe und dieser Ton eigentlich sind, ist auf dieser Stufe noch nicht gefällt. Somit sind reine und unmittelbare Erfahrung eins. In der unmittelbaren Erfahrung des Bewusstseinszustandes gibt es noch kein Subjekt und kein Objekt.“[5]

Ein Bewusstsein in diesem Zustand der Nicht-Unterscheidung nannte er konkretes Bewusstsein (gutaiteki ishiki). Es bildet die Grundlage auch für die spätere Ausdifferenzierung des Wahrgenommenen durch das Denken (shii). Jede Differenzierung des Wahrgenommenen ist nachträglich, da sie nicht mehr im Jetztbewusstsein (dem Moment der reinen Erfahrung) stattfindet, sondern sich ihr Objekt als Vergangenes vorstellt, es trennt, sondert und unterscheidet. Für Nishida lag daher das Primat bei der reinen Erfahrung, alle nachträglichen Abstraktionsprozesse haben dieses zur Voraussetzung und sind notwendigerweise in ihrem Inhalt ärmer als dieses.

Nishida attestierte dem ausdifferenzierten Bewusstsein ein Bestreben, zur ursprünglichen Einheit der reinen Erfahrung zurückzukehren. Eine Möglichkeit sah er im Willen (ishi), da dieser in der Unmittelbarkeit der Tat den Subjekt-Objekt-Dualismus überwindet. Der Wille leistet mit dieser Rückkehr in die Einheit etwas, das dem diskursiven Denken verwehrt bleiben muss.

Noch mehr als der Wille vermochte für Nishida die intellektuelle Wahrnehmung (chiteki chokkan) die Subjekt-Objekt-Spaltung zu überwinden. Die intellektuelle Wahrnehmung strukturiert die Welt, lässt durch Prägnanzbildung überhaupt erst so etwas wie Dinge hervortreten. In der Anschauung ist nicht eine Summe von unaufbereiteten Sinnesdaten gegeben, sondern es werden stets Dinge wahrgenommen, die auch idealistische Elemente enthalten können:

„Wenn unser Bewusstsein nur ein Ding sensorischer Merkmale wäre, würde es wahrscheinlich bei einem Zustand gewöhnlicher intellektueller Wahrnehmung haltmachen, aber der Geist fordert unendliche Einheit, und diese Einheit ist in der Form der sogenannten intellektuellen Anschauung gegeben.“[6]

Nishida weitete diese zunächst erkenntnistheoretische Untersuchung später durch die Frage „Was ist Wirklichkeit?“ in eine ontologische aus. Wirklichkeit war für Nishida mit Aktivität des Bewusstseins gleichzusetzen, denn vom Standpunkt der reinen Erfahrung aus sind Mensch und Welt nicht getrennt.

In der einigenden Kraft, die den Rückgang auf die reine Erfahrung und ursprüngliche Einheit möglich macht, sah Nishida eine Möglichkeit, Gott zu denken. Somit müsste Gott gerade durch die Vereinigung der Gegensätze nicht als außerhalb der Welt gedacht werden, noch als pantheistisch und wäre zugleich an eine uns zugängliche Erfahrung gebunden. Das Gute (善, zen) sah Nishida dann als die Frucht dieser einigenden Kraft, die sich als Liebe, freier Wille, Freude und Frieden ausprägen kann.

Analyse des Selbstbewusstseins
Nishida definiert das Selbstbewusstsein (jikaku) als eines des transzendentalen Ichs (senkenteki jiga), das sich im absolut freien Willen äußert. Vorbild für die in seiner zweiten Schaffensperiode ausgearbeitete Analyse des Willens war für Nishida die Tathandlung bei Johann Gottlieb Fichte.[7] Der absolut freie Wille (kōiteki shukan) ist von einer schöpferischen Dynamik, die in ihrer Genuität nicht reflektiert werden kann, da er überhaupt erst die Reflexion hervorruft. Er ist gekoppelt an das ewige Nun (eikyū no ima).

Nishida erschien dieser am deutschen Idealismus angelehnte Ansatz jedoch später aufgrund seiner Subjektivität zu einseitig und er versuchte ihn in seiner Logik des Ortes zu überwinden.

Logik des Ortes
Alles Erkennen vollzieht sich in Urteilen. Das Urteil versteht Nishida nach Hegel so: Das Einzelne ist das Allgemeine. Die sich in Urteilen vollziehende Erkenntnis ist die Selbstbestimmung des Allgemeinen. Denn das Einzelne (der urteilende Mensch) ist für die Bedeutung der Wahrheit des Urteils nicht relevant. In diesem Allgemeinen des Urteils haben die logischen Kategorien der natürlichen Welt ihren Ort. „Sein“ versteht Nishida hier als „seinen Ort haben“ und dadurch „bestimmt sein“.[8]

Nishida unterscheidet drei mögliche Welten des Allgemeinen:

Die natürliche Welt: Sie wird als Urteilsallgemeines (handanteki ippansha) definiert. Sie ist die propositionale Welt der gedachten und ausgesagten Gegenstände. Die Gegenstände sind, weil sie ihren Ort in der natürlichen Welt haben. Ihr logischer Ort ist jedoch selbst als Urteilsallgemeines nicht zugänglich, er ist ja nur der Hintergrund, auf dem sie erscheinen. Will sich die natürliche Welt selbst wahrnehmen, muss sie sich als Selbstwahrnehmungsallgemeines (jikakuteki ippansha) thematisieren. Sie tut dies im Bewusstsein. Das dadurch entstandene Selbstverhältnis hat seinen Ort in der Bewusstseinswelt.
Für die Bewusstseinswelt gilt wieder die gleiche Bedingung wie für die natürliche: Ihr logischer Ort liegt jenseits der Welt, die er bestimmt. Diese Differenz nötigt das Selbst wiederum, die Bewusstseinswelt zu durchschreiten und in die intelligible Welt einzutreten, um eine Selbstwahrnehmung zu erlangen.[9] Das Bewusstseins nimmt sich nicht selbst wahr, sondern wird gedacht als Anschauendes. Es weiß von sich nicht durch Wahrnehmung, sondern dadurch, dass es sich selbst intellektuell als Bewusstsein mit einem Inhalt bestimmt. Der Ort dieser Bestimmung ist die intelligible Welt.
Die intelligible Welt ist die Welt der Ideen des Wahren (shin), des Schönen (bi) und des Guten (zen). Hier wird das transzendentale Selbst durch intellektuelle Anschauung (das intelligible Allgemeine) als geistiges Sein definiert. Die Ideen korrelieren mit dem ästhetischen, dem moralischen und dem religiösen Bewusstsein. Die drei Ideen folgen einer gewissen Hierarchie: Da das künstlerische Bewusstsein noch ein einzelnes Selbst und nicht das freie Selbst sieht, muss es im moralischen Bewusstsein aufgehen. Das moralische Bewusstsein hat keinen konkreten Gegenstand in der Welt zum Thema, sondern die Idee des Guten. Alles Sein ist für es ein Sollen. Es kann jedoch nur durch das religiöse Bewusstsein erreicht werden, das sich in der religiös-mystischen Erfahrung durch Selbstverneinung überwindet und überschreitet. Sein Ort ist das absolute Nichts, das sich nicht philosophisch-begrifflich darstellen lässt, da jede Aussage darüber durch Trennen und Absondern seine differenzlose Einheit zerstören würde.
Absolutes Nichts
Durch die Idee des Wahren zeigt sich nun, dass der Unterschied von Welt und Ort nicht aufgehoben werden kann. Der Ort bleibt der diskursiv nicht einholbare Hintergrund des Allgemeinen. Dies führt Nishida zu dem Schluss, dass das Allgemeine die Bedeutung des Orts haben muss. Da voneinander unabhängige Dinge gegenseitig aufeinander wirken, bestimmt sich der Ort selbst. Denn solange etwas sich selbst vermittelt, kann es nicht auf anderes wirken. Da der Ort sich selbst bestimmt, wirken die Dinge gegenseitig aufeinander.

Das Einzelne vermittelt sich jedoch selbst. Um diese subjektive Dialektik zu überwinden, legt Nishida im nächsten Schritt den Ort als nicht repräsentierbar und somit als Nichts aus. Das religiöse Selbst verweist nicht auf einen weiteren Ort, sondern ist selbst sein Ort, der nicht begriffen werden kann. Dieser Ort ist also ein Nichts und ermöglicht zugleich alles, was existiert. Das Nichts ist Ort und der Ort ist das Nichts. Dieses Verhältnis bezeichnet Nishida als das absolute Nichts (絶対無, zettai mu).
哲学
西田幾多郎は、今日に至るまで日本の近代哲学に影響を与えた。西洋の方法論と用語を東洋の思想と結びつけようとした彼の試みは、今日でも日本の哲学者の努 力を特徴づけている。西田の関心事や語彙は、後継者である田辺肇とともに精神的な父とされる、いわゆる共闘学派のスタイルを特徴づけるものでもある。

西田は、哲学とは「唯一の真理」を見出すことでしかあり得ないと確信していた。しかし、そのためには哲学と宗教を一緒に考えることが重要であると考え、インド哲学や初期ギリシャ哲学を参照した。

西田の思考は5つの創造的な段階に分けることができる: 意識の探究とそこから得られる純粋経験の概念から出発して、彼は続いて自己意識と意志の問題を探究した。第3段階では、「場の論理」に到達し、最終的に 「絶対無」の概念に至った。この2つの概念は、今日に至るまで日本哲学の議論に強い影響を与え続けている。第四段階は弁証法的思考であり、弁証法的一般性 (弁証論的一者)と矛盾的自己同一性(無準的自我同体)の立場を発展させた。

西田は最後の創作段階において、宗教哲学と「宗教はいつ私たちの問題になるのか」、「神、仏、絶対的存在、絶対的矛盾とは何か」、「私たちの自己はいつ 神、仏に触れるのか」という問いに全面的に焦点を当てた。西田は宗教の起源を、自己を認識しようとする衝動の苦しみにあると考えた[3]。

純粋経験
西田は純粋経験という概念を、ウィリアム・ジェイムズ、ベルクソンの生命世界の概念、キリスト教神秘主義に基づいている[4]。主体(自分自身)と対象(知覚されたもの)を区別することなく、音を知覚したり、色を見たりすることができる。

「純粋とは、そのような実体験の状態を表し、そこには思考の痕跡すらない。[中略)これは、たとえば色を見たり音を聞いたりした瞬間に、それが外的なもの の影響であるかどうかを考えたり、自我がそれを感じているかどうかを考えたりしないことを意味する。この色や音が実際に何であるかという判断さえ、この段 階ではまだなされていない。このように、純粋な経験と直接的な経験は一体である。意識の状態の直接的な経験においては、まだ主体も客体もない」[5]。

彼はこの区別のない状態の意識を具体的意識(具体的意識)と呼んだ。それはまた、後に思考(思惟)を通じて知覚されるものを分化させる基礎を形成する。知 覚されるものの分化はすべて遡及的であり、それはもはや現在の意識(純粋経験の瞬間)において行われるのではなく、対象を過去のものとして想像し、分離、 分別、分化させるからである。したがって、西田にとっては、純粋経験が第一であり、それ以降のすべての抽象化の過程は、これを前提条件としており、その内 容は必然的にこれよりも貧弱なものとなる。

西田は分化した意識に、純粋経験の原初的な統一性に戻ろうとする努力を認めた。彼はその一つの可能性を意志(イシ)に見出した。意志は行為の即時性におい て主客二元論を克服するからである。この単一性への回帰によって、意志は言説的思考には否定されなければならない何かを達成する。

西田にとって、知的認識(知的認識)は意志以上に主体と客体の分裂を克服することができた。知的知覚は世界を構造化し、簡潔性の形成を通じて、そもそも事 物のようなものが出現することを可能にする。見るということは、未処理の感覚データの総体ではなく、常に観念的な要素も含みうるものが知覚されるのであ る:

「私たちの意識が感覚的特徴だけのものであったなら、それはおそらく普通の知的知覚の状態に止まるだろうが、心は無限の統一性を要求し、この統一性はいわゆる知的直観という形で与えられる」[6]。

西田は後に、「現実とは何か」という問いを立てることによって、当初は認識論的であったこの調査を存在論的なものへと拡大した。西田にとって、現実とは意 識の営みと同一視されるべきものであった。なぜなら、純粋経験の観点からすれば、人間と世界は別個のものではないからである。

西田は、純粋経験と原初の統一に戻ることを可能にする統一力の中に、神を考える方法を見たのである。こうして、まさに対立するものの統一によって、神は世 界の外側にあるものとも、汎神論的なものとも考える必要がなくなり、同時に、私たちにアクセス可能な経験に縛られることになる。そして西田は、善(禅)を この統一力の果実としてとらえ、それは愛、自由意志、喜び、平和として現れるとした。

自己意識の分析
西田は自己意識(自我)を超越的自我のひとつと定義し、それは絶対的な自由意志の中に表現される。西田にとって、第二の創造期に展開された意志の分析のモ デルは、ヨハン・ゴットリープ・フィヒテの行為であった[7]。絶対的自由意志(絶対的自由意志)は、そもそも反省を引き起こすものであるため、その純粋 性において反省することができない創造的ダイナミズムのものである。それは永遠の今と結びついている。

しかし、西田は後に、ドイツ観念論に基づくこのアプローチは、その主観性ゆえにあまりにも一面的であると考え、場所の論理でそれを克服しようとした。

場所の論理
すべての認識は判断において行われる。ヘーゲルによれば、西田は判断を次のように理解している。判断の中で行われる認識は、一般的なものの自己決定であ る。個人(判断を下す人)は判断の真理の意味には関係ないからである。自然界の論理的範疇は、この判断の一般性の中にその位置を占めている。西田はここで 「あること」を「その場所を持つこと」、それによって「決定されること」と理解している[8]。

西田は一般性において可能な三つの世界を区別している:

自然界:それは判断の一般性(handanteki ippansha)と定義される。自然界:それは判断の一般と定義される(handanteki ippansha)。対象は自然界に居場所があるからである。しかし、その論理的な場所は、判断の一般性としてもアクセスできない。自然界が自己を認識し ようとするなら、自己認識的一般性として自己を主題化しなければならない。それは意識の中で行われる。その結果生じる自己関係は、意識の世界にその場所を 持つ。
意識の世界にも、自然界と同じ条件が当てはまる: 自己の論理的な居場所は、自己が決定する世界を超えたところにある。この違いは、自己認識を達成するために、意識の世界を通り抜け、理解可能な世界に入る ことを自己に強いる[9]。知覚によって自らを知るのではなく、自らを内容を持つ意識として知的に決定することによって、自らを知るのである。この決定の 場が知性世界である。
知性的世界とは、真(しん)、美(び)、善(ぜん)の観念の世界である。ここで超越的自己とは、知的観照(知性的一般)による精神的存在と定義される。こ れらの観念は、美意識、道徳意識、宗教意識と関連している。芸術的意識はまだ自由な自己ではなく単一の自己を見ているので、道徳的意識に吸収されなければ ならない。道徳意識は、世界の具体的な対象ではなく、善の観念を対象とする。道徳意識にとって、すべての存在はあるべき姿である。しかし、それは宗教的意 識によってのみ達成される。宗教的意識は、宗教的神秘体験において、自己否定によって自己を克服し、超越する。その場所は絶対的な無であり、哲学的、概念 的に表現することはできない。なぜなら、それについてのいかなる記述も、分離と隔離によってその差異なき統一性を破壊してしまうからである。
絶対無
真の今という考えは、世界と場所の差異をなくすことができないことを示している。場所は、一般的なものの言説的に捉えられない背景であり続ける。このこと は西田を、一般的なものは場所という意味を持たなければならないという結論へと導く。独立したものが相互に影響を及ぼし合う以上、場所はそれ自体を決定す る。何かがそれ自身を媒介する限り、それは他者に影響を与えることはできないからである。場所がそれ自身を決定する以上、事物は互いに影響を及ぼし合う。

しかし、個人はそれ自体を媒介する。この主観的な弁証法を克服するために、西田は次の段階で、場所を表象不可能なもの、したがって無であると解釈する。宗 教的自己は別の場所を参照するのではなく、把握できないその場所そのものである。したがってこの場所は無であり、同時に存在するすべてのものを可能にす る。無は場所であり、場所は無である。西田はこの関係を絶対無と表現している。
Literatur

Grabstätte in Kamakura
Primärliteratur
Nishida Kitarō zenshū (Gesammelte Werke, 1966)
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Shisaku to taiken (Denken und Erfahrung, 1915)
Jikaku ni okeru chokkan to hansei (Anschauungen und Reflexion im Selbstbewusstsein, 1917)
Ishiki no mondai (Das Problem des Bewusstseins, 1920)
Geijutsu to dōtoku (Kunst und Moral, 1923)
Hataraku mono kara miru mono e (Vom Handelnden zum Sehenden, 1927)
Ippansha no jikakuteki taikei (Das selbstbewusste System des Allgemeinen, 1930)
Mu no jikakuteki gentei (Die selbstbewusste Bestimmung des Nichts, 1932)
Tetsugaku no kompon mondai (Grundlegende Probleme der Philosophie, 1933–34)
Tetsugaku rombonshū (Sammlung philosophischer Essays, 1935–46)
Bashoteki ronri to shūkyōteki sekaikan (Die Logik des Ortes und die religiöse Weltanschauung, 1945)
Yotei chōwa wo tebiki toshite shūkyōtetsugaku (Auf dem Weg zu einer Philosophie der Religion unter Leitung des Begriffes der prästabilisierten Harmonie, 1944)
Deutsche Übersetzungen
Die intelligible Welt, Drei philosophische Abhandlungen, In Gemeinschaft mit Motomori Kimura, Iwao Koyama und Ichiro Nakashima ins Deutsche übertragen und eingeleitet von Robert Schinzinger, Walter de Gruyter, Berlin 1943
Zen no Kenkyū (Über das Gute, Insel Verlag, Frankfurt a. M. 1989; broschierte Ausgabe 2001, ISBN 978-3-458-34458-2)
Logik des Ortes: Der Anfang der modernen Philosophie in Japan (Übersetzt und herausgegeben von Rolf Elberfeld), Darmstadt, 1999. ISBN 3-534-13703-5 (kartonierte Sonderausgabe 2011, ISBN 978-3-534-23585-8)
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Sekundärliteratur
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Myriam-Sonja Hantke: Die Poesie der All-Einheit bei Friedrich Hölderlin und Nishida Kitarô (= Weltphilosophien im Gespräch. Band 3). Verlag Traugott Bautz, Nordhausen 2009. ISBN 978-3-88309-502-8
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Themenheft Kitarō Nishida (1870–1945). Hrsg. von Rolf Elberfeld. Allgemeine Zeitschrift für Philosophie Heft 3/2011. Frommann-Holzboog, Stuttgart (Bad Cannstatt)
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https://de.wikipedia.org/wiki/Kitar%C5%8D_Nishida

















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Nishida Kitarō (Februar 1943)

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