かならずよんで ね!

Seediq Bale(真の人)と医学倫理について

On Medical  Ethics in the "Musha Incident"

池田光穂

このページは、1930年10月27日にはじまる霧 社事件(むしゃ・じけん、:"Musha Incident" )における、医師の「決断」についての考察である。

ウィキペディア『霧社事件』の末尾の「第二霧社事件と川中島遷移」には以下のような記述がある。

「1931年5月6日、最終的に生き残った人々は北 港渓中流域の川中島(現在の清流)と呼ばれる地域に強制移住させられた。ここで生存者らは警察からの指導のもとに生活した。その後も蜂起参加者への警察の 摘発は続いた。反乱に与しなかった霧社セデック族各社に対しても、「反乱協力者」の摘発は行われた。こうして逮捕された摘発者38名を当初警察は毒殺しようとしたが担当医師から毒薬注射を拒絶さ れた。38名は留置処分となったが、逃亡を図り殺害された1名を除き、全員が1932年3月までに留置中に死亡した」(この出典は「向山寛 夫『日本統治下における台湾民族運動史』1093-1094頁、中央経済研究所、1987」)

この記述は、植民地状況における先住民に対して警察 がおこなおうとした超法規的処刑に対する《医師の勇気ある非医療的措置への拒絶》である。

台湾に教員として赴任し、後に巡査として霧社事件に 遭遇した小島源治(?-1983)は、事件で次男を失ったが、反抗蕃(=日本人に蜂起した先住民)の子供、日本名・中山清(高永清・ビホ・ワリス)を助け た。保護蕃収容所を味方蕃(=日本統治者に帰順した先住民)が襲撃した第二霧社事件と言われている。小島は晩年、第二霧社事件は、日本の警察が(味方蕃 を)扇動したと、NHKラジオのインタビューに答えて聞いており、それを(短波?)国際放送をきいた洪敏麟(1929-2014)教授が聞いている。洪教 授は、小島が沈黙をやぶり日本の警察の陰謀と吐露したのは「小島の良心の呵責」によるものだと証言している(タン・ジャンジュー監督『餘生』2013 年)。高永清は、のちに医師になり1979年日本で小島と再会している。

これらは十分に、(道徳の問題を考える)医療倫理の課題として、考察に値する 事例であるために、ここで検討する。

この医師の名前は、井上伊之助(Inosuke INOUE, 1882-1966)である。向山(1987:1093-1094) から引用する。[ ]は引用者による

■「日本の台湾統治史に高邁な識見と大さな勇気を持 つヒューマニストとして不朽の名を留めた井上伊之助医師は、 1992(明治15)年9月2日に高知県で生れて早くからキリスト教に帰依し、神学校在学中の1906(明治//39)年 7月31日に[樟脳採集業者であった]父[井上弥之助]が花蓮港で高砂族に馘首[かくしゅ]されたのが動機で高砂族のキリスト教による教化を志して台湾に渡 航した。しかし、官憲は、蕃地でのキリスト教の布教を許さなかった。そのために、井上伊之助は、別に生計の資を 稼ぎながら高砂族の言語、習慣などを研究して1930(昭和5)年に現地開業医の資格をとり、医療を通じ高砂 族に接して教化に献身し、無教会派の著名なキリスト教徒の内村鑑三と矢内原忠雄の絶大な信頼を博した。井上医師 は、終戦後に帰国して1966(昭和41)年8月20日に83歳で死亡したが、死亡前の同年4月29日に「台湾原住民の医療と教化に尽力」した功績で勲四 等瑞宝章を授与された。/ 逮捕後の取調べで日本人を馘首[かくしゅ]したことが明らかになった保護蕃と味方蕃の10月15日におこなわれた川中島で の帰順式の式場から連行された者など32名を含む高砂族38名は、罪の軽重に従って三等に分け、一等三年、二等三年 三等一年の留置処分に付されたが、逃亡して殺害されたが、逃亡して殺された1名を除き処分3か月後の1932(昭和7)年3 月までに37名全員が死亡した。死亡について、官憲は、「蓋し気候及食物の変化と運動不足に起因する胃腸障害、 脚気又はマラリア等に依るものなり。」とのべた。しかし、官憲が注射による全員の毒殺を井上医師に要請して拒否 された経緯と3年ないし1年の異例の長期留置処分を考え併せると、短期間の37名全員の死亡は、明らかに処刑に 代えての栄養失調などに因る自然死を装った官憲の故殺である」(1987:1093-1094)[漢数字の多くはアラビア数字に変えた。//は頁、/は改 行である]。

■年譜:誤りの多いウィキペディア「井上伊之助」より年譜を吸い上げ、『台湾山地伝道記』により修正する。

1882 高知県幡多郡川崎村(現、西土佐村)に生まれた。小学校は高等科で終了して、病院や村役場に事務員として勤務

1889 小学校入学

1895 台湾割譲( the formal cession of Taiwan by the Qing Dynasty of China to the Empire of Japan)

1896 小学高等科卒業、岡村医院の事務

1897 村役場書記補

1899 中村町税務署雇。はじめて道端伝道を聞く。幸徳秋水の演説にも触れる。

1900 8月中村より船便で神戸に上陸で上京を試みる。東京中央郵便局為替貯金課。大成学館にて夜学。

1903 中田重治(1870-1939)の指導する神田の中央福音伝道館に通い、1903年6月頃中田より洗礼を受けた(後の妻、小野千代も受洗)。8月神田YMCAにて内村鑑三「聖書の真髄」を聞く。

1904-1905 日露戦争

1905 9月に東洋宣教会(Oriental Missionary Society, 1905-1949 日本ホーリネス教団へ)の聖書学院に入学した。聖書学院校長の笹尾鉄三郎より薫陶を受ける。

1906 7月、聖書学院の2年次のときに父が台湾の花連港で樟脳作り作業中に、山地族のタイヤル族に襲撃を受けて殺害された。

1907 聖書学院を卒業すると、ヘフジバ・ミッションという宣教団体に入り千葉県佐倉市で伝道した。佐倉時代に内村鑑三の講演会に出席し、内村から信仰の指導を受けた。

1908 小野千代と結婚した。

1909 4月長男「献」生まれる。夏、銚子の犬吠埼の海浜で徹夜祈祷をしていると、台湾山族伝道への召命(=父の仇を取る)を受けた。

1910 佐倉の伝道師を辞職して、中田重治の紹介で伊豆戸田で開業していた諏訪医師(宝血堂医院)の下で8ヶ月医術(1〜9月)を学び宣教師の備えをした。鉄道ミッションで伝道。

1911 鉄道ミッションを辞す。10月、日本伝道 隊のパゼット・ウィルクスの支援により、単身で台湾宣教に赴いた。10月16日台湾の基隆に到着して、タイヤル族への伝道を始めた。台湾総督府より蕃地事 務を委嘱されて、カラパイ蕃陣診療所に勤務した6年間医療活動を行った。

1912 妻子も入山。

1913 次男「正明」誕生。

1914 第1次大戦(欧州大戦)勃発

ca. 1917 眼病、マラリア、十二指腸虫症発症。帰国、九大病院で治療。5年間療養生活を経て(福岡)日本聖公会に加入して、

1918年 種子島に渡る。約3年半種子島で伝道(1918-1919年スペイン風邪流行)

1922 次女「知恵子」誕生。2度目に台湾に渡った。妻子は神戸に。新竹市日本基督教会の伝道の委託。

1924 台北にてパン屋の経営。「生蕃記」の執筆をはじめる

1925 「生蕃記」の執筆が終わり、原稿を抱えて上京。

1926 『生蕃記』警醒社書店(東京)。12月台中州白毛社に医務嘱託で赴任。

1929 医務嘱託を辞職させられ、台北に。総督府文教局学務課に勤務。

1930 

8月藤崎済之助(ふじさき・せいのすけ)『台湾の蕃族』出版(霧社事件後に藤崎は「第11篇霧社事件と蕃社襲撃事件」を増補して、その対策を講じる)

1930 台湾総督府現地開業医試験に合格して資格を取り、5月文教局を辞職後、本格的な医療伝道に乗り出した。10月25日に霧社事件が起こった。11月25日四男「祐二」誕生。

1931 1931年にバイバラ社の嘱託医になり、川中島に強制移住させられた霧社事件の関係者を(主にマラリア)診療した。

1932-1936 標高1800mのマレッパ社で公医として勤務した。ブヌン族の診療に当たった。

1932 満州国樹立。同年末、国際連盟脱退。

1933 ムカブーブに腸チフス流行

1936 6月ブヌン族ナイフンポ社に転勤、8月ナマカバン社に転勤。

1937 長女ルツ子死亡(20歳)。日支事変。

1939 ナマカバン社の勤務を辞し、台北市外内湖に診療所・愛生医院開設。

1941 4月内湖から、台北の仁済病院に移り、勤務

1943 次男正明死亡。

1944 仁済病院を辞して、台北郊外の松山にある総督府立の養神院(精神科)に移った

1945 精神病患者30名と八里庄・楽山院に疎開。養神院は、中華民国台湾省衛生局より接収、そのまま流用される。知恵子死亡(25歳)。

1946 養神院をやめ、台湾電電公社等の嘱託。

1947 帰国命令が出て、5月3日に基隆を出発して日本に帰国した。帰国後、山地族にリバイバルが起こった。

1948 大阪伝道。その後、静岡県の清水に住み、東海大学嘱託となりで保健衛生の教鞭を執った。

1951 東海大学講師(保健衛生講義等)

1954 東海大学辞職

1959 大阪泉北・愛隣児童園。

1960 復刻版『台湾山地伝道記』を私家版として出版。製本は新教出版社。オリジナルは1926年出版の『生蕃記』であると思われる。

1966 神戸で84歳で死去

1996 『台湾山地伝道記』が、新教出版社から復刻。

モーナ・ルダオ(莫那・魯道, Mona Rudao, 1880-1930)略伝(ウィキペディア日本語を参照に加筆)

モーナ・ルダオ(サイト内リンク)という独立項目に移転した

■人物

リンク

文献

その他の情報

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