はじめに よんでください

自転車泥棒コミュニズム、あるいは悲しき共産主義

Ladri di Biciclette Manufesto, or Triste Communisme

池田光穂

「第二次世界大戦後のイタリア、ロー マ。2年間職に就けなかったアントニオ・リッチは、職業安定所の紹介で役所のポスター貼りの仕事を得る。仕事に就くためには自転車が必要だと言われるが、 生活の厳しいアントニオは自転車を質に入れていた。妻のマリアが家のベッドのシーツを質に入れ、その金で自転車を取り戻す。新しい職に浮かれるアントニオ を見て、6歳になる息子のブルーノも心を躍らせる。
社会が正常化して「まっとうに働くこと」の美徳が映像化される。

ブルーノを自転車に乗せ、意気揚々と出 勤するアントニオ。しかし仕事の初日、ポスターを貼っている最中に自転車を盗まれてしまう。警察に届けるも「自分で探せ」と言われる始末。自転車がなけれ ば職を失う。新しい自転車を買う金もない。アントニオは自力で自転車を探し始める。
事件の発端。ここから不幸の物語がはじまる。アントニオとブルーノの子連れ狼ならぬ子連れ羊の放浪がはじまる。
友人のバイオッコに相談し、翌朝に広場 のマーケットへ探しに行くことに。広場には大量の自転車が売りに出されていたが、アントニオの自転車は見つからない。
最初の希望が絶たれる
雨が降り、二人はずぶ濡れだ。息子とも に途方に暮れている中、アントニオは犯人らしき男が老人と会話しているのを見かける。男を追いかけるも逃げられてしまい、戻って老人を追う。老人は「何も 知らない」と言い張り、施しを行う教会に入った。アントニオはミサの行われる中で老人を問い詰め、男の住所を聞き出す。アントニオは老人をその男のところ まで同行させようとするが、老人は「せめて施しの食事を食わせてくれ」と頼む。アントニオはそれを許すが、その隙に老人は逃げる。アントニオの不手際を責 めるブルーノの顔を、アントニオはぶってしまう。
これは新約聖書におけるイエス・キリストの遍歴と似ていることもない。イエスとアントニオの違いは、奇跡がいく先々でまったくおこらないことだ。おまけに、アントニオ・イエスは大事な使徒ブルーノすらぶってしまう
いじけたブルーノを慰めるために、高級 レストランに入るアントニオ。周囲が豪華な食事をする中、肩身の狭い思いで食事をする。ポスター貼りを続けられればもっと生活が楽になるんだ、だからなん としても自転車を見つけたい、とアントニオは息子に語る。
アントニオ・イエスの使徒ブルーノへの釈明(山上ならぬレストランの垂訓)
昨日までインチキだとこき下ろしていた 占い師にも頼ってみるが、「すぐに見つかるか、出てこないかだ」としか言われず何の進展もない。
溺れる者は藁をも掴む——愚行の例え
貧民街で犯人とおぼしき男を見つけたア ントニオは、激しく男を問い詰める。しかし男は何も知らないと言い張り、発作を起こしてそのまま倒れる。昂ぶった街の男たちに取り囲まれたアントニオの元 へ、ブルーノが警官を連れてくる。警官とともに男の家を捜索するが、自転車は見当たらない。証拠もなく、証人もいなければこれ以上の捜査はできないと警官 が言う。アントニオはあきらめ、住民に激しくなじられながら貧民街をあとにする。
アントニオ・イエスは、司直から有害視されるまでに転落する。イエスは、世間から受け入れられない。
あてもなく歩き、サッカーの試合を開催 しているスタジアムの前で座り込む二人。目の前には観客が乗ってきた大量の自転車。背後には人気のない通りに一台の自転車が止まっている。アントニオは立 ち上がり、何度も振り返って一台の自転車を気にする。やがて試合が終わり、退場する観客で通りが混雑し始める。思いつめたアントニオは息子に金を渡し、先 に帰って待っていろと言う。そして背後の通りへ恐る恐る歩いていく。
アントニオ・イエスの最初の誘惑——犯罪への意思。使徒ブルーノにもこの非道徳は見せられないというのは、言い方を変えるとイエスの本質は骨の髄まで「善良(virtue)」だということだ。
人気のないことを確認し、自転車を盗む アントニオ。しかしすぐに気づかれ、追いかけられる。必死に逃げるアントニオを、路面電車に乗り遅れたブルーノも見つける。アントニオはあえなく捕まり、 取り押さえられた。泣きながら父にしがみつこうとするブルーノ。 捕まえた男たちはアントニオを警察に突き出そうとしたが、自転車の持ち主はブルーノを見て、「もういい、見逃してやる」と言う。アントニオは男たちの罵倒 を背中に受けながら解放された。
アントニオ・イエスの犯罪(原罪)と処罰を、使徒ブルーノは助けることを通して、世俗的犯罪の罪を「救済する」である。
弱弱しく歩くアントニオ。次第に涙がこ ぼれ始める。父の涙を見たブルーノは、強くアントニオの手を握る。手をつないだまま、親子は街の雑踏の中を歩いていく」 https://bit.ly/2POe4Nn
アントニオ・イエスの犯罪(原罪)を、使徒ブルーノが「赦す」のである。したがって、この物語は、神と御子との和解、御子こそが、「共にいること」と「その関係性を引き受け」そして「共にいること」を現象学的にも了解することを物語っている。ネオレアリズモ(ネオリアリズム)とは、現象学的了解であることを、この映画は図らずも動画図像表象を通して我々に教えているのである。

Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1997-2099

池田蛙