はじめに よんでください

自転車泥棒コミュニズム、あるいは悲しき共産主義

Ladri di Biciclette Manufesto, or Triste Communisme

池田光穂

僕が学生の時に読んだジェームズ・ピーコック『人類学とはなにか』(岩波書店)に中に出てくるコミュニズム時代のソビエトの泥棒の話。その男は 毎日の勤務の帰りにカートを押して門衛をところを通るらしい。門衛はカートの中を確かめて、その労働者が何か盗んでいるのかをチェックし、カートの中が空 なので「よし、出ていってよろしい」と門衛を通って帰っている。そのようなことが毎日続いた後に、ようやく門衛は、その男が盗んでいたものは、カートその ものだったということが発覚した、とさ。というものである。ソビエト共産党時代には、物不足に陥っていていたので、門衛は、カートの中を念入りにチェック することを怠らなかったが、このジョークは、カートすら窃盗品になりえるということ(=自由主義世界の共産主義に対する偏見)を揶揄したものだ。

日本では、中学高校生たちが軽犯罪に関わるが、その犯種のトップが自転車泥棒らしい。アムステルダムで実際に聞いた話であるが、オランダで走っ ているあの頑丈な中古自転車で、盗品だった経験のないものはない、らしい。盗品で回っている市場は、途上国のブラックマーケットだけではないようだ。そし て、自転車泥棒といえばヴィットリオ・デ・シーカ監督の映画のタイトルである。原題: Ladri di Biciclette, 英題: The Bicycle Thiefは、ネオレアリズモ映画の代表作の一つである。自転車を盗まれた親子が、取り戻す遍歴が描かれるが、最後の手段で、自ら盗みを企てるが、それも 失敗する。「自分のものが奪われるが決して、その損出は取り戻すことができない」。ある意味で資本主義経済におけるプロレタリアート(プレカリアート)の 絶望的な状況を描いたものである。

だが、現実は、やられたらやりかえす、盗られたら取り(盗り)返すということが、無産者の中では繰り返している。それは資本主義経済と異なり、 資本の増殖などなく、事物が循環しているだけである。そこでは、自分が稼いで私有財産をするというよりも、財産そのものがリサイクルしている。あるいは、 共有財(common goods)になっているというわけだ。

以下に、ウィキペディアから拾ってきた、映画『自転車泥棒』のシ ノプシス(左側)を再掲する。右側のカラムは、新約聖書のミメシスとして『自転車泥棒』を読み解く(=新約聖書神学的解釈する)ことである。

「第二次世界大戦後のイタリア、ロー マ。2年間職に就けなかったアントニオ・リッチは、職業安定所の紹介で役所のポスター貼りの仕事を得る。仕事に就くためには自転車が必要だと言われるが、 生活の厳しいアントニオは自転車を質に入れていた。妻のマリアが家のベッドのシーツを質に入れ、その金で自転車を取り戻す。新しい職に浮かれるアントニオ を見て、6歳になる息子のブルーノも心を躍らせる。
社会が正常化して「まっとうに働くこと」 の美徳が映像化される。

ブルーノを自転車に乗せ、意気揚々と出 勤するアントニオ。しかし仕事の初日、ポスターを貼っている最中に自転車を盗まれてしまう。警察に届けるも「自分で探せ」と言われる始末。自転車がなけれ ば職を失う。新しい自転車を買う金もない。アントニオは自力で自転車を探し始める。
事件の発端。ここから不幸の物語がはじま る。アントニオとブルーノの子連れ狼ならぬ子連れ羊の放浪がはじまる。
友人のバイオッコに相談し、翌朝に広場 のマーケットへ探しに行くことに。広場には大量の自転車が売りに出されていたが、アントニオの自転車は見つからない。
最初の希望が絶たれる
雨が降り、二人はずぶ濡れだ。息子とも に途方に暮れている中、アントニオは犯人らしき男が老人と会話しているのを見かける。男を追いかけるも逃げられてしまい、戻って老人を追う。老人は「何も 知らない」と言い張り、施しを行う教会に入った。アントニオはミサの行われる中で老人を問い詰め、男の住所を聞き出す。アントニオは老人をその男のところ まで同行させようとするが、老人は「せめて施しの食事を食わせてくれ」と頼む。アントニオはそれを許すが、その隙に老人は逃げる。アントニオの不手際を責 めるブルーノの顔を、アントニオはぶってしまう。
これは新約聖書におけるイエス・キリスト の遍歴と似ていることもない。イエスとアントニオの違いは、奇跡がいく先々でまったくおこらないことだ。おまけに、アントニオ・イエスは大事な使徒ブルー ノすらぶってしまう
いじけたブルーノを慰めるために、高級 レストランに入るアントニオ。周囲が豪華な食事をする中、肩身の狭い思いで食事をする。ポスター貼りを続けられればもっと生活が楽になるんだ、だからなん としても自転車を見つけたい、とアントニオは息子に語る。
アントニオ・イエスの使徒ブルーノへの釈 明(山上ならぬレストランの垂訓)
昨日までインチキだとこき下ろしていた 占い師にも頼ってみるが、「すぐに見つかるか、出てこないかだ」としか言われず何の進展もない。
溺れる者は藁をも掴む——愚行の例え
貧民街で犯人とおぼしき男を見つけたア ントニオは、激しく男を問い詰める。しかし男は何も知らないと言い張り、発作を起こしてそのまま倒れる。昂ぶった街の男たちに取り囲まれたアントニオの元 へ、ブルーノが警官を連れてくる。警官とともに男の家を捜索するが、自転車は見当たらない。証拠もなく、証人もいなければこれ以上の捜査はできないと警官 が言う。アントニオはあきらめ、住民に激しくなじられながら貧民街をあとにする。
アントニオ・イエスは、司直から有害視さ れるまでに転落する。イエスは、世間から受け入れられない。
あてもなく歩き、サッカーの試合を開催 しているスタジアムの前で座り込む二人。目の前には観客が乗ってきた大量の自転車。背後には人気のない通りに一台の自転車が止まっている。アントニオは立 ち上がり、何度も振り返って一台の自転車を気にする。やがて試合が終わり、退場する観客で通りが混雑し始める。思いつめたアントニオは息子に金を渡し、先 に帰って待っていろと言う。そして背後の通りへ恐る恐る歩いていく。
アントニオ・イエスの最初の誘惑——犯罪 への意思。使徒ブルーノにもこの非道徳は見せられないというのは、言い方を変えるとイエスの本質は骨の髄まで「善良(virtue)」だということだ。
人気のないことを確認し、自転車を盗む アントニオ。しかしすぐに気づかれ、追いかけられる。必死に逃げるアントニオを、路面電車に乗り遅れたブルーノも見つける。アントニオはあえなく捕まり、 取り押さえられた。泣きながら父にしがみつこうとするブルーノ。 捕まえた男たちはアントニオを警察に突き出そうとしたが、自転車の持ち主はブルーノを見て、「もういい、見逃してやる」と言う。アントニオは男たちの罵倒 を背中に受けながら解放された。
アントニオ・イエスの犯罪(原罪)と処罰 を、使徒ブルーノは助けることを通して、世俗的犯罪の罪を「救済する」である。
弱弱しく歩くアントニオ。次第に涙がこ ぼれ始める。父の涙を見たブルーノは、強くアントニオの手を握る。手をつないだまま、親子は街の雑踏の中を歩いていく」 https://bit.ly/2POe4Nn
アントニオ・イエスの犯罪(原罪)を、使 徒ブルーノが「赦す」のである。したがって、この物語は、神と御子との和解、御子こそが、「共にいること」と「その関係性を引き受け」そして「共にいるこ と」を現象学的にも了解することを物語っている。ネオレアリズモ(ネオリアリズム)とは、現象学的了解であることを、この映画は図らずも動画図像表象を通 して我々に教えているのである。

泥棒共産主義を実践して、アントニオは、物語の終盤で男たちに捕まってしまう。堅気のアントニオは、筋金入りの泥棒共産主義者になんかになれっ こないのだ。ここには、あの懐かしき熱帯にある(と西洋人が夢想する)原始共産主義や互 酬性などというものはないのだ。生きるか死ぬかの泥棒共産主義は、ひょっとして、まだ、多少メリトクラシーが機能するかもしれない資本主義より厳 しいのだ。もっとも、冷戦期以降の資本主義も、共産主義の自滅で命脈を保っているだけで盤石ではない。「資本主義について彼らが言わない23のこと」を参考のこと。

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文献

その他

Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1997-2099

池田蛙