はじめによんでください

反キリスト教入門

Introduction to Anti-Christ

「アンチクリストの誕生」ルカス・クラナッハ(子)『教皇制の図』1545年

池田光穂

☆よきキリスト教徒になるとは、ニーチェによれば、他者に対する寛容を打ち消し、肉体を嫌悪し、精神、共時、勇気、自由、知的放埓などを憎悪することである。

キリスト教においては、屈服した者や圧迫された者の本能が前景にでている
キリスト教は権力について敏感な宗教である
ここで己れの救いをもとめているのは最下層の階級である。
キリスト教の救済は、階級概念(そその解放)と結びついている。
ここでは、暇つぶしとして、退屈しのぎの手段として、罪についての議論が、自己批判が、良心の糾問がおこなわれる。
キリスト教の《罪》の概念は、退屈しのぎにつくりだされた、瑣末な思考である。
ここでは(神とよばれる)権力により生み出される感情が(祈祷により)強められる。
神と権力はむすびつき、神を想像する感情が、キリスト教の儀礼により高められる。
ここでは、最高のものは達成されないもの、贈り物、「恩寵」とみなされる。
恩寵を不可能なものとして、先送りするのが、キリスト教の道徳である。あるいは、恩寵の定義とは不可能ということだ。
ここには公明さも欠けている。
論理明晰を嫌う、これがキリスト教のモットーだ。
隠れ場と暗がりがキリスト教的である。
キリスト教の場所は、暗くてじめじめしている。だから、もっと光をとキリスト教徒は求めるのである。
ここでは、肉体が軽蔑され、衛生学は官能的だとしりぞけられる。
肉体の軽蔑、快楽を否定が、キリスト教の本質だ。
教会は清潔さに対してすら身を守る。
光を求めるキリスト教は、逆説的に、清潔さを憎悪する。
(ムーア人追放後にキリスト教徒がなした最初の処置は、コルドバだけでも270あった公衆浴場を閉鎖することであった)。

キリスト教的なのは、自己と他者に対する或る種の残酷さである、不信仰者への憎悪である、迫害の意志である。
キリスト教は、自己と他者に対して厳しい、いや、残酷な思考をもつ。その極限は、不信仰者や、異教徒である。それを迫害するのに快楽すら覚える始末の悪い連中である。
……キリスト教的なのは、精神、共時、勇気、自由、知的放埓に対する憎悪である。
キリスト教は、禁欲というよりも、快楽や自由を憎悪をし、精神の解放から背を向ける。
キリスト教的なのは、感覚、感覚の歓び、歓び一般に対する憎悪である。
総じて、キリスト教とは、反官能的、歓び一般を否定する。

リ ンク

文 献

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