かならずよんで ね!

仮構を紡ぎ出す武器の性格について

On ficiton, firearm, and censorship

池田光穂・池田信虎

(1)文学作品はフィクション(仮構)と言われる。 でも日本には私小説もルポルタージュな小説もあるではないかと反論されるかもしれない。だが、それらには作家の実体験に基づいていても詳細な取材を基にし てもなお、作家による作品性という意味で構築されたものである。現実(リアル)なものに基づいていても、文体や文章構成、物語展開などでの仮構性のある 「虚構」であることに異論をもつ読者はいまい。作者は、文学作品を読むという行為を通して「虚構の消費者」となるのだ。虚構の消費者は、その作品の中にリ アリティ(現実性)を感じても、それが現実に存在したか否か/現実に存在しえるかどうかは、重要な問題ではないと言うかもしれない。

(2)だが、虚構の消費者は、作者が読んで欲しいよ うに読んでいるのだろうか。そんなことはありえない。作品性という可処分可能な虚構を手にした虚構の消費者は、なにを消費してもかわない。つまらないから といって、作品を放棄する自由もある。作者の意図など糞くらえというわけである。それゆえ、作家はみんなに読んでもらえるような作品を生産する。ポルノ小 説やライトノベルという「業界」での評価が芳しくない作品群ですら「よい」作品と「悪い作品」の評価軸は決まっている。より多くの虚構の消費者にアピール する作品を世に送りこまねばならない。数多の消費者には多様性があるが、より多くの人に読まれる作品でないと作品の価値は高まらない。作品の価値は次の作 品を編む作家の価値に反映される。今日の近代社会では、フィクションあるいはノンフィクションを問わず文学作品の生産システムは、この「虚構消費の市場メ カニズム」が良好に機能しているのである。

(3)それにも関わらず、私は作家の虚構を構築する 創造性の意義に異論を差し挟むことはしない。そもそも、読書行為の前に、作品が制作されていなければならないからだ。また、読者の多様な反響とは無関係 に、読者の予想を裏切るものを生産することも可能だ。作者には読者と異なり、それまでとは異なった文学ジャンルでの虚構の創造空間をつくりあげる自由があ る。ただし、消費者がいなくては、作家は作品を紡げない。だが、その作家がつくりあげた文学ジャンルに作品の特許権を設定することなどできない。そのため に、その作家がいなくても、別の作者が類似の作品をつくりあげ、以前の作家を凌駕することが可能である。これもまた——個々の作家には脅威になるが——読 者にとってのこの福音は作品消費の自由市場メカニズムのおかげである。

(4)私は「文学ジャンルに作品の特許権を設定する ことなどできない」と書いたが、だが本当にそうだろうか。ひとつの思考実験をしてみよう。表現の自由が許せない全体主義体制のもとでの検閲について考えて みよう(「わいせつ文書」の取り締まりでもいい=完全自由を取り締まる点で類似だからである)。そこでの「禁止語」とは、特許権が設定されていて権力者や 特権階級しか使えないものだとすれば、検閲は立派な特許や商標などに代表される権利所有者に許諾が必要な禁止語・検閲語などである。過激な政治的メッセー ジもその禁止や検閲の対象と同値である(=劣情をもたらす「わいせつ文」はその意味で過激な政治的意味をもつことと同値である)。さまざまな作家や思想家 が「ペンを武器にして」という自由を守るために闘ったといわれる。ペン(=筆記道具、現在ならキーボード)は現実の事物で、武器はその隠喩である。しか し、検閲が実施されている社会において、あらゆる思考としての仮構を紡ぎ出すペン(=キーボード)は武器そのものなのである。

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Maya_Abeja

Mitzub'ixi Quq Ch'ij, 2017

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