かならずよんで ね!

日本型ファシズムと民俗精神について

Japanese Type of Fascism and Japanese authentic folk mind


竹内栖鳳による国民精神総動員啓蒙ポスター(1940)

池田光穂

日本型ファシズムについては議論のあるところだが (→「ファシズム」)、鈴木正崇によるとこうなる。

「決定的な差異は日本では西欧のファシズム成立の 契機となった第一次世界大戦による損害は皆無に近く、軍需景気によって経済的には潤った。前提条件も発展形 態も全く異なり、大陸と島国という立地条件の差も大きい。西欧のファシズムとは別の展開を遂げたのである。 日本は、近代化の過程で、国民国家体制の確立と東アジアでの勢力拡大を短期間になしとげた。「日本型ファ シズム」の考察に先立って成立と展開の時期を見定める必要がある。植民地化の指標となる日本の海外進出は、 明治7(1874)年の台湾出兵に始まったが、昭和12(1927)年の日中戦争までは、「帝国」と「立憲」のせめ ぎ合いが継続した(坂野 2017)。しかし、昭和12年以後は統御が失われて軍部の独裁が全面的となり終戦まで 続いた。この時代を「日本型ファシズム」と呼ぶことは可能であろう」(鈴木 2020:25)

1895 下関条約(日清講和条約)により台湾領有 が開始される。

1899 義和団事件(庚子事変)。これ以降、中国は(最大の海外派兵をおこなった)日本 を含め西洋列強に賠償金を支払う。

1910 

宇野圓空、東京帝国大学文科大学卒業「平安朝の修験 道」(指導教員は姉崎正治)。京都帝国大学大学院に入学。

この年、日韓併合。

1911 米国、北京議定書の賠償金の減額、緩和措 置により清華学堂(後の清華大学)を設置する。日本は、このモデルを「東方文化事業」 において約10年後にそれを実行に移す。

1912 圓空、仏教専門学校(後の佛教大学)教 授。

1919 エミル・ブートルー『現代哲学に於ける科 学と宗教』宇野圓空・赤松智城訳 博文館

1920 圓空、フランス・ドイツ・オランダに留 学。マルセル・モース、ウィルヘルム・シュミットに師事。

1920s 

義和団の乱以降の、中国大陸における抗日運動を対す る文化事業として1923年に日中共同の東方文化事業が運営がはじまる。

1920-1923智城、欧米に留学。

1922 圓空、龍谷大学教授。シー・エッチ・トー イ『宗教史概論 上巻』宇野圓空・赤松智城訳 博文館。

1923 

圓空、ヨーロッパより帰国。

3月この頃から「東方文化事業」 がはじまる。「日本政府は義和団事件の賠償金、および山東半島利権返還の補償金を基金に「対支文化事業特別会計」を設け、日中両国における学術研究機関・ 図書館の設立、諸団体による社会活動への援助、留学生招聘などの文化交流を計画した。これに基づき同年5月には外務省内に「対支文化事務局」(のち文化事 業部と改称)が設置され、まず東亜同文会の中国における中国人教育施設に援 助が与えられた」東方文化事業

1925 論文「宗教人類学の提唱」『宗教研究』2 -2. 6-12月東南アジア研究旅行

1926 12月上海自然科学研究所(開所は 1931年)の設立計画が発表。

1927 

圓空、東京帝国大学助教授。赤松智城、京城帝国大学 助教授に就任。『原始民族の宗教と呪術』 / ハートランド著 ; 中井龍瑞譯(岡書院 , 1927 . - (原始文化叢書, 第1篇))。『呪法と呪物崇拝』  / ハッドン著 ; 植木謙英譯(岡書院 , 1927 . - (原始文化叢書, 第2篇))

10月北京人文科学研究所(東方文化図書館)の設立 計画が発表(ただし実現には至らなかった)

1928 

『原始文化傳播説』  / リヴァーズ著 ; 長岡曠若譯(岡書院 , 1928 . - (原始文化叢書, 5))

日本の山東出兵を発端に済南事件が起こる

1929 

宇野圓空『宗教民族学』岡書院。智城『輓 近宗教學説の研究』同文館。智城『現代の宗教哲学』文科大学講座 イデア書院 1929年。

4月外務省管轄の東方文化事業により「東方文化学院」発足、東京(→後の東文研)・京都(→のち の人文研)の2ヵ所に研究所を設置した。

1930 日本宗教学会創設。『先靈觀 : 原始の超自然觀 』 / マレット著 ; 野村了本譯(岡書院 , 1930 . - (原始文化叢書, 6))

1931 満州事変。圓空『宗教学』岩波書店。『宗 教史の史実と理論』同文館。

1932 宗教史方法論 / 赤松智城著 . 近世日本の國際觀念の發達 / 尾佐竹猛著、共立社 , 1932.12. - (現代史學大系 ; 第5卷)。

1933 3-9月ベルギーに出張。

1934 日本民族学会創設。圓空『修験道』東方書 院。

「『修験道』1934年)では「民族」の用語が多用される(以下、傍線筆者)。いくつかの節を以下に掲げる。「修験 道の成立は佛敦特に密教の観念を中心として頭陀練行の一門を形づくったのであったが、その中には当時の民間 信仰となっていた支那思想も含まれて居り、ことにその根底には山岳や森林に関する民族的の信念と儀礼がはた らいていたのである。この意味に於て修験道は表面上全く佛教の一門流でありながら、いちじるしく民族化され た佛教であり、その実質に於てはむしろ日本的な宗教的儀礼と認め得るのであって、それが民族的な宗教として 自然的に成立したところにその生命があった」(5頁)、鎌倉佛教に先立ち、「これらの新宗派よりもさらに多く民 族化されたもの」(6頁)、「修験道が民族的の宗教意識に立脚したことは、また平民的宗教としてひろく民間に普 遍せしむる所以でもあった」(6頁)、「修験道は習合思想の結果としての一つの産物であるのみならず、これを実 際上に徹底せしめたものでもあり、さらに遡つてはむしろ実修上の要求からこの思想を生み出した―つの運動と も見ることができるのであって、この点でそれは国民的宗教意識の発展の上にすこぶる重大な役目をはたらいた ものと云はなければならない」(6頁)、「信仰の淵源となった民族的信仰は、何より山岳及び森林の崇拝であって、 修験の自修的儀礼はこの信仰の産物といってもいい位である」(9-10 頁)「宗教的な浄械の観念にもとづいて 種々の禁忌祓除の儀礼を行ふことは、実に我が民族的宗教の最も著しい特徴」(9頁)などとある」(鈴木 2020:32)。

1935 

民間伝承の会(後の日本民俗学会)創設

臺灣本島人の宗教  / 増田福太郎著, 明治聖徳記念學會 , 1935

1936 12月北京近代科学図書館開館。

1937(昭和十二年)

国体の本義」は、は天皇機関説問題への対応としての「国体明徴・日本精神闡明」 あり1933年の思想対策協議委員幹事会で創案され、1935年9月「国体本義」の編纂頒布が予算要求に盛り込まれたもの。原稿を書いたのは、久松潜一とその弟子志田延義が中心だと言われる。

3月(在上海)日本近代科学図書館が開館。

7月7日「盧溝橋事件」。8月24日「挙国一致」 「尽忠報国」「堅忍持久」のスローガン。9月「国民精神総動員」運動の発 足。「国家のために自己を犠牲にして尽くす国民の精神(滅私奉公)」の涵養が説かれる。

赤松智城, 秋葉隆共編『朝鮮巫俗の研究』 京城 : 大阪屋號書店 , 1937.6-1938.10

1938 

4月国家総動員法の公布・制定。東方文化学院は、東京の東方文化学院(新)と京都の 東方文化研究所として分離独立した。

9月企画院の外郭団体として東亜研究所(東研)が 設置される。「総裁には近衛文麿、副総裁には大蔵公望(満鉄理事、貴族院議員)、常務理事に唐沢俊樹らが就任したが、事実上の所長として運営を切り回して いたのは大蔵であった。人文・社会・自然科学の総合的視点に立ち、東アジア全般の地域研究に加え、ソ連・南方(東南アジア)・中近東など、当時の日本の地 域研究においてほとんど手つかずだった諸地域の研究を進め、日中戦争(支那事変)の遂行および、これらの地域に対する国策の樹立に貢献することが期待され た」東亜研究所

圓空は、東亜研究所のエスノグラフィーの翻訳として 『ス マトラの民族』1943-1944年を杉浦健一と共訳で出版。弟子の棚瀬讓爾は『比 律賓の民族』1943年

1940 

4月国民精神総動員運動は、運動組織が内閣総理大臣 を会長とする「国民精神総動員本部」に一本化された。

「1940年(昭和15年)以降、満鉄調査部と共同 で、中国社会に対する最初の総合的現地調査である「中国農村慣行調査」(華北農村慣行調査)を行ったことで知られている。太平洋戦争(大東亜戦争)期の南 方占領地軍政においては、第16軍(ジャワ軍政監部)のもとで柘植秀臣を班 長として旧蘭印(インドネシア)のジャワ占領地における調査活動を担当した」東亜研 究所

帝国学士院東亜諸民族調査室が設置、宇野圓空は調査 主任になる(〜1944年)。圓空は、東京帝国大学南方研究会の会長を務める。

1941 圓空『マライシヤに於ける稲米儀礼』東洋 文庫。東京帝国大学東洋文化 研究所の創設。初代所長は、桑田芳蔵(1941.11.26-1943.3.31)

「ウィキペディアのライターは41年の東文研に一本 づりされたが後継組織ではないと強弁する。このライターたちは少々頭がおかしいのではないかと思う→「東大移管を拒否した東方文化学院でも、1941年に やはり研究領域の重なる東京 大学東洋文化研究所(東文研)が発足すると研究者の一本釣りが始まり所員の東文研移籍が続いた。」 https://bit.ly/3kXdywc.

智城『満蒙の民族と宗教』秋葉隆共著 大阪屋号書店。 同年、智城は依願免官を申し出て、日本に帰国し、以降、植民地とは関わりのない生活をする。

大東亞法秩序と民俗  / 増田福太郎著, 日本法理研究會 , 1941 . - (日本法理叢書 / 日本法理研究會編, 第8輯)

1942 

圓空『大東亜の民族と文化』文部省教学部 (→1943年に『東亜諸民族と文化』 日本文化中央連盟、があるが末尾に宇野圓空の講演速記の旨がある)。

東亞宗教の課題  / 増田福太郎, 堀一郎[共著], 国民精神文化研究所 , 1942 . - (大東亞文化建設研究 / 國民精神文化研究所編, 第2冊)

1943 

圓空『宗教学通論』八洲書房。4月圓空、東京帝国大 学東洋文化研究所所 長(〜1946年10月5日)。

1943年に『東亜諸民族と文化』 日本文化中央連盟、があるが末尾に宇野圓空の講演速記の旨があるが、これによると「帝国学士院東亜諸民族調査室」がシベリアからエニセイ河、新疆、西蔵、 アッサム、東印度諸島、ニューギニアとモルッカまで民族分類し、「色別で95,6」になり、「台湾の高砂族」まで184民族の分類をしていると冒頭で報告 している。

東亜の農耕文化の「その基本の性格に於て、古くから の東南アジア民族のそれと相通ずるものがあることを否定し得ないのである。そして又ここに恐らく将来の東亜の文化と民族を指導して行く一つの基本理念があ りはしないかと思ふ。しかもこれを単なるイデオロギーとして論理的に考えるでなしに、多少の考古学的な資料や民族文化の系統の上から考へる時に、斯様な諸 点が将来の新しき建設といふことにも、一つの方向づけをするに役だつのではないかと私かに考えて居る」(東亜諸民族と文化』29 ページ)。

1944

1945

1957 未開社会における法の成立  / 増田福太郎著, 増田福太郎 , 1957

本文……

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