コンパニオン・スピーシズの問題系
Problematique of the "Companion Species"
コンパニオン・スピーシーズ(companion species)というのは文化人類学者でかつ思想家でかつイヌの愛好家であるダ ナ・ハラウェイが提唱した重要な概念である。日本語の翻訳ではコンパニオ ンは伴侶(はんりょ)、コンパニオン・スピーシーズは伴侶種となっている。生物種をあらわす種であるスピーシーズ(species)は、単語としては単複 同形であるが、この場合の「彼女」の定義によると、それは一種類の動物種ではなく、複数形であるという。いわく、〈ニンゲン〉と〈イヌ〉はコンパニオン・ スピーシーズである。それどころか、この考え方は、人間中心主義のこれまでの動物観のみならず人間どうしのジェンダー観、環境観ひいては世界観にも従来の 見方への変更をもたらし、人間と犬の生き方とこの両種の未来を大きく切り開くとハラウェイは主張している。例えばハラウェイを、我々のジェンダー区分カテ ゴリーの慣用法を使って「彼女」と呼ぶことと、その固有名「ダナ」と呼ぶことは根本的に異なる。そのため以下では、ハラウェイを、彼女のファーストネーム を使ってダナと呼ぼう。
さて日本語の翻訳者たちがひねり出した夫婦や「つが い(番)」(=動物のカップル)をさす「伴侶(はんりょ)」の訳語は、いっけん適切のようにみえるが、ダナの理論から見るとじつは誤解を招くものである- ---そもそも漢字が人偏(にんべん)(!)である。それは、ダナが、人間と動物あるいは人間と機械の間の関係について長年考察してきた学術的な趣旨と大 きく相反するからである。コンパニオン・スピーシーズという語は、たしかに日本語では、犬と人間は仲が良くまるで「伴侶」のような関係だと言いたい気持ち になる。しかし、それはハラウェイの論法にしたがうと、人間の男女とりわけ夫婦の「よい」関係性を想起してしまう点でイエローカード(=誤解を招く翻訳) なのである。
番
う(つがう)出典:https://sgyk.exblog.jp/15677714/
伴侶のような、人間のジェンダーバイアスがかかった 〈男・女〉の非対称な関係性の名詞ではなく、それはむしろ真の同僚に見いだす中間(なかま)=コンパニオンなのである……ここでも人偏が入るのでそれを省 いた。ラテン語でコンパニオンは、コンパニース(com- together + pān-is bread)つまりパン=食卓を共にする仲間のことをさす。したがって、同じ釜の飯を食う連帯感、くつろぎ感、そして食事に至るまでの苦楽を共にするコン パニオンを意味するからである。犬と人間は、コンパニオン・スピーシーズというのは、生物としての長い間の連帯から生まれた(種的)共在感覚に裏付けられ るが、それは「人間が犬を使う」という意識を乗り越える必要がある。犬と人間は、お互いにコンパニオンとしての人類史の中でこの共在関係を構築してきた。 その関係について、私たち(犬と人間の双方である)は新たな自覚化の段階に到達しつつある。
犬は人間にとって重要 なお友達であり、時に家族と同 様の価値をもち、ケアや死を通して人間の子供たちに「いのちの大切さ」を教える存在だ。しかし、それをなぜわざわざコンパニオン・スピー シーズと呼び、そ のことを哲学的に論じる必要があるのか、読者は不審に思われることであろう。ダナの『コンパニオン・スピーシーズ宣言』や『種どうしが出会う時』と呼ばれ る書物を通して、ダナがどうして、犬に対するひたむきな愛情や親密感を、高度に理論化して論じなければならないのか、怪しむ向きもあるであろう。そのため には、いましばらくは、ここに到達するまでのダナの「サイボーグ宣言」の来歴などを知る必要があるかもしれない。
ダナは1944年生まれ、米国はコロラドのデンバー で生まれた。父親のフランクは『デンバー・ポスト』という地元紙のスポーツ記事やコラムを書くライターで、母親はアイルランド系の篤信のカソリック教徒。 その影響を受けてカソリックのミッションスクールの高校に通う。しかしダナ16歳の時に心臓発作で母は他界する。ダナのその影響は大きかったようで、自分 を紹介する時に「カソリック教育の消せない徴(しるし)を魂に刻まれし者」とも表現することがある。それに対して父親は、身障者でありながら果敢にスポー ツに親しみ、スポーツ・ライターという天職を全うした彼とは、良好な関係が長く続いた。スポーツがもたらす共同性やコンパニオン感覚は後のイヌのスポーツ であるアジリティー競技へののめり込みにも投影されている。父親は幼少時から結核を患い大腿骨や骨盤までを蝕み、少年時代には車椅子生活を余儀なくされ た。成人になり車椅子を克服しても、松葉杖を離せなかったが、彼への尊敬と同僚としてのコンパニオンの意識は長く続いた。
自らの著書のなかでダ ナ自身を「スポーツ記者の娘」 と自称し、スポーツ・ライターの父親に関しては、彼の自身の生い立ちや現役時代のエピソードなどの多くを記している。それらの記述に触れると、私たちは、 父親の人生や思い出を通して、ダナが後に紡ぎ出すようになる理論の片鱗を読むことができる。たとえば、父フランクは晩年、松葉杖が使えなくなり再度車椅子 生活に戻るが、その時の父の姿を車椅子と一体化したサイボーグと呼んでいる。また、母親によりダナ自身もカトリック教徒であり、その信仰生活に親しみ母親 と心身ともに同一化した時には、父親にカトリックに改宗するように懇願したり、いささか人間中心主義ではあるが、心と肉体の合一の感覚を父にも感じてほし いと真に思ったりしている。ダナがこのことを述懐し、懐かしくもなかば韜晦(とうかい)した口ぶり(=書きぶり)で表現するようになるのは、彼が父であり かつコンパニオンとして同時に存在したからであろう。
ダナの学部時代は、動物学、哲学、そして文学という 学問横断的な分野に親しみ、エール大学の大学院に進学した時には科学史研究に従事し「20世紀初頭の発生生物学における有機体のイメージ(隠喩)」の分析 で博士号の学位をとり、6年後の1976年に最初の著書としてそれを出版している。最初の著書の出版から九年後にダナは、ポストモダン思想界、とりわけ、 身体論、サイバーメディア論、フェミニズムといった領域における、時代の寵児になる。それが「社会主義者(ソーシャリスト)レビュー」誌に掲載された「サ イボーグたちのためのマニュフェスト:1980年代における科学、技術、社会主義フェミニズム」という論文であり、その三年後に発表され「フェミ ニスト研 究」誌の「状況的諸知識:フェミニズムにおける科学問題と部分的なパースペクティブ」という二つの論文である。
おおまかにまとめるとすると、1960年代のカウン ターカルチャー運動は、その後の20年間のなかで次第に沈静化していったのではなく、むしろ思想世界では科学研究における人間と機械、男性と女性、心と体 などのような分析的理性が求める二分法の概念を解体する方向に向かわせしめ重要な転換を迎えたのである。サイボーグの議論は、人間が機械を支配していると いう従来の信念を解体した。またフェミニズム理論は男性中心主義的な秩序が自然で当然なものではなく、それらの区分を解体し、男女の関係を再定義できる可 能性を示した。サイボーグ論とフェミニズム理論の融合はどのような人や事物に影響を与えただろうか。それは社会主義者たちが抑圧者と被抑圧者の従来のあり 方を解体し、後者の解放について思いをめぐらすこと似て、解放のプログラムを提起した。科学史や科学社会学の研究では、人間と機械の関係、男性と女性の関 係、人間と動物の関係などが、再吟味されることになり議論が活発化した。
このような一種の〈固
定観念の解体業〉としての名声
を獲得したダナは、その後も矢継ぎ早に『霊長類のヴィジョン:現代科学の世界におけるジェンダー・人種・自然』『コンパニオン・スピーシーズ宣言:犬・人
間・重要な他者』『種と種が出会う時』を世に送ることになる。人間と犬との関係性の根本的な見直しを問う「コンパニオン・スピーシーズ宣言」とは、20世
紀の政治文書の要綱のように明確なテーゼと体系性をとったプログラムではない。犬と人間の関係が描かれたエッセーを中心に15の短い章からなるアンソロ
ジーである。なかには、自分の飼い犬たち(カイエンヌがもっとも有名)がおこなう犬の調教競技アジリティーのトレーニングに関する話が嬉々としてつづられ
るだけである。もちろん中には、コンパニオン・スピーシーズの哲学の要衝を示す記述もある。それはホワイトヘッドの哲学にみられる本来の「存在」とは唯一
の本質指し示すものではなく複数の事物の関係のなかではじめて現れ出るものというテーゼなのだ。しかし、それらの断片的な命題や文章だけを拾い読みをし
て、ダナの犬好きの蘊蓄を読み飛ばすとコンパニオン・スピーシーズの哲学は永遠に不完全な理解しかできないことになるだろう。あるいはコンパニオンである
ことに満足することが重要なのではなく、コンパニオンであることを可能にする世界を組み替えること、これが重要なのかもしれない。
アニメや漫画の親友関係を表現するクリーシェを使う のなら「ふたりは仲良し!」という描写的表現よりも(犬と人間とは)「ふたりでひとつの存在!」なのである。しかし、それは犬と人間の合一----「犬と 人間はお互いによく似たものどうしだ」----ではなく、それぞれ全く異なった存在であるからこそ、犬と人間は絶対的な友情をもつことを可能にする--- -「抱握(prehensions)」という言葉で表現される----関係性で示されるようなものだという。
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★犬からみた人類史 / 大石高典, 近藤祉秋, 池田光穂編, 勉誠出版 , 2019年
犬をめぐる刺激的な思考実験の旅!人は最も身近なパートナーである犬と、どのようにして関係 を築いてきたのか?進化生物学から、文化人類学、民俗学、考古学、実際の狩猟現場…、過去から未来まで、様々な角度からとらえた犬の目線から語られる、 「犬好きの、犬好きのための、犬好きの執筆陣による」全く新しい人類史!!
犬革命宣言—犬から人類史をみる
第1部 犬革命(イヌはなぜ吠えるか—牧畜とイヌ;犬を使用する狩猟法(犬猟)の人類史;動 物考古学からみた縄文時代のイヌ;犬の性格を遺伝子からみる;イヌとヒトをつなぐ眼;犬祖神話と動物観)
第2部 犬と人の社会史(カメルーンのバカ・ピグミーにおける犬をめぐる社会関係とトレーニ ング;猟犬の死をめぐる考察—宮崎県椎葉村における猟師と猟犬の接触領域に着目して;御猟場と見切り猟—猟法と犬利用の歴史的変遷;「聞く犬」の誕生—内 陸アラスカにおける人と犬の百年;樺太アイヌのヌソ(犬ぞり);忠犬ハチ公と軍犬;紀州犬における犬種の「合成」と衰退—日本犬とはなんだったのか;狩猟 者から見た日本の狩猟犬事情)
第3部 犬と人の未来学(境界で吠える犬たち—人類学と小説のあいだで;葬られた犬—その心
意と歴史的変遷;犬を「パートナー」とすること—ドイツにおける動物性愛者のセクシュアリティ;ブータンの街角にたむろするイヌたち;イヌとニンゲンの
“共存”についての覚え書き)
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文献
その他の情報