はじめに よんでください

倫理的行為としての読書/読むことの倫理学

"Reading is ethical act" and / or  readers' ethics

池田光穂

このページでは次の2つのことについて検証しようと 思う。

1)倫理的な行為としての読書と、

2)読むことにまつわる倫理学である。

このことを通して、人間は、倫理的に読書しなければ ならないとか、読書する人間は倫理的であらねばならないというわけではない。もちろん、そのような読書はある。宗教的な聖典である、新旧の聖書、コーラン (クルアーン)、さまざまな仏典は、読者(信者)にとって、心して読まなければならないテキストであると同時に、読むことを通して倫理的存在になるという 「目的(機能?)」も期待されているはずだ。

他方で、娯楽小説やポルノ小説はどうだろうか?それ らを読む行為を通して興奮したとしても、それは想像界の出来事であれば、あるいは、社会がその書物を禁書目録にリストアップしていないかぎり、読者の「あ らゆるテクストを読む自由」や、その楽しいあるいが淫らな書物を通して「読む喜び」を享受することが、むしろ啓蒙理性の実践のはじまりそのものであるとい う主張もある(サド公爵、ロラン・バルト、ミッシェル・フーコーらの緒論)。

私が、ここで言及しているテキストは、そのような読 者に想像力豊かな詩情を感じさせるようなものではない。それは実証主義的な精神で書かれたエスノ グラフィー(民族誌)のことである。そして、私が議論したい、理想的な読者は、文化人類学者やその学問に興味をもち入門した学生や院生である。

ここで私が思い出したのは、カリフォルニア州の学術 都市であるバークレー市にある古書店 Moe's Books がそのお店の標語に掲げ、またそこで販売しているさまざまなグッズに書かれていた「読むことはセクシーである(Reading is Sexy)」——最近は、このSexyがもつ含意が問題にされているようで、現在は消えている。

また、ツヴェタン・トドロフの『アメリカの征服』で ある。マーカスとフィッシャーはこの書物を次のように評価する。

「トドロフの本は、サーリンズがやろうとしたことをみごとに反復している。つまり歴史を、時間進 行にそって語られる物語としてではなく、意味の構造の移行として説明するのである。さらにはこの ような移行をたんに相互作用の観点から見るのではなく、コミュニケーション技術と道徳的立場とに 結びつけている。単純化して言えば、書かれたものが欠如していれば話者が登場し、反復される儀礼 的形式による口頭伝承が必要となる」マーカスとフィッシャー『文化批判としての人類学』紀伊国屋書店版、p.200.

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