Transformation of tragedy
「周知のようにアリストテレスは悲劇における行動の根源として2つのこと、思考と性格(ディアノイア・カイ・エートス)をあ
げているが、同時に眼目は目的(テロス)であって、人物は性格を現すために行動するのではなく、性格が
行動(ハンドルング)のために受け入れられるのだと注意している※01。ここに現代悲劇との相違があるのは容易に気づ
きうるであろう。つまり古代の悲劇に特有なことは、行動が性格からのみ生ずるのではなく、行動
が十分に主観的に反省されておらず、行動自体が相対的な受苦の付加物を持っていることである。
したがって古代の悲劇は対話(デイアローグ)を、そのなかにいっさいがこめられるほど十分な反省にまでは発展さ
せない。それは本来独白(モノローグ)とコロス※02のなかに対話とは別個の諸契機を持っている。なぜなら、コロ
スがより多く叙事詩的な現実性や抒情詩的な感激に近づ<にしても、それはやはり、個性のなかでは
汲みつくされない、いわば余分のものを暗示するのである。また独白はより多く抒情詩的集中であっ
て、行動とシュチュエーションのなかでは汲みつくされない余分のものを持っている。行動自体が
古代の悲劇においてはある叙事詩的契機を含んでいて、行動であると同時に事件なのである。とこ
ろでこのことはもちろん、古代世界は主体性を自己みずからのうちに反省していなかったということ
に基づいている。個人が自由に活動しようとも、それはやはり国家・血族・運命などの現実的諸規定
のなかに包まれていた。この現実的諸規定がギリシア悲劇の本来的に運命的なものであって、その真
の特異性である。それゆえ主人公の没落は単に自分の行動の結果ではなく、同時に1つの受苦である
が、それに反して近世の悲劇における主人公の没落は本来的には受苦ではなくて。1つの行為であ/
る。したがって近世においては本来シュチュエーションと性格が支配的なものである。悲劇の主人公は
主観的に自己のなかに反省されており、この反省は彼を国家・一族・運命へのあらゆる直接的関係か
ら引き離すばかりか、しばしば自分自身のこれまでの生からさえ引き離したのである。われわれの関
心をひくのは、彼の生のなかで彼自身の業(わざ)として現われるある特定の契機である。したがって悲劇的
なものはシュチュエーションと対話(でイアローグ)のなかで汲みつくれる。もはや直接的なものはなにも残ってい
ないからである。だから現代の悲劇は叙事詩的な前景も叙事詩的な残り物も持たない。主人公はひた
すら彼自身の行為とともに立ち、ともに倒れるのである
」(キルケゴール 1995:229-230)。
※01:アリストテレス「詩学」第6章、ただし引用はヘーゲル『美学』からの引用。
※02:コロス=コーラス隊、劇中で状況の説明したりする役割を担う
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Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1997-2099