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アリストテレス「詩学」

Aristoteles Collected Works: Poetics


解説:池田光穂

詩学 (アリストテレス)—— ウィキペディア(日本語より)「『詩学』(しがく、希: Περὶ Ποιητικῆς、羅: De Poetica、英: Poetics)は、詩作について論じた古代ギリシャの哲学者アリストテレスの著作。原題の「ペリ・ポイエーティケース」は、直訳すると「創作術につい て」、意訳すると「詩作(ポイエーシス)の技術について」といった程度の意味[1]。 彼の著作中では、『弁論術』と共に、制作学(創作学)に分類される著作である(どちらも「修辞・文芸」的要素と「演劇」的要素の組み合わせによって成り 立っている)。またプラトンによる『国家』第10巻と共に、文芸論・物語論・演劇論の起源とされている。」

「プラトンとアリストテレスによる評価の差異 アリストテレスの師であるプラトンは、『ソクラテスの弁明』『イオン』『国家』第10巻などで述べているように、詩(創作)の魅力は認めるものの、それは 「弁論術・論争術・ソフィストの術(詭弁術)」や「絵画の術」と同じように、対象の真実についての知識や技術を持ち合わせないままそれを(感覚・感情・快 楽を刺激するように誇張的に)「模倣」(真似)して、人々の魂を誘導し、対象の真実から遠ざけていってしまうものであり、また更にそれを扱う詩人(作家) の中にも、弁論家・ソフィストと同じようにそのことに無自覚で、それらの術を以て知りもしないことを知っていると思い込んでいる傲慢な者が少なからずいる として、批判的に扱っている。 それに対してアリストテレスは、『弁論術』の場合と同じく、プラトンの考え方を引き継ぎつつも、それを肯定的に捉え直そうと努めている。すなわち「模 倣」(再現)を行い、「模倣」(再現)によって学び(真似び)、また「模倣」(再現)されたものを見て悦ぶというのは、人間の本性に根ざした自然な傾向で あるとして、詩作をそうした人間性質の反映の一種(「人間の営為」の「模倣」(再現))として捉え、その性質の完成という目的(テロス)に向けた発展過程 として、詩作的営みの全体像を説明しようとしている(第4章)。したがって、本書『詩学』において、アリストテレスの関心と記述は専ら、詩 作の最も発展成熟した形態としての「悲劇」とその構造分析に費やされている。」

●構造

第1章 - 論述の範囲、詩作と再現、再現の媒体について。
第2章 - 再現する対象の差異について。
第3章 - 再現の方法の差異について、劇という名称の由来について、悲劇・喜劇の発祥地についてのドーリス人の主張。
第4章 - 詩作の起源とその発展について。
第5章 - 喜劇について、悲劇と叙事詩の相違について。
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第6章 - 悲劇の定義と悲劇の構成要素について。
第7章 - 筋の組み立て、その秩序と長さについて。
第8章 - 筋の統一について。
第9章 - 詩と歴史の相違、詩作の普遍的性格、場面偏重の筋、驚きの要素について。
第10章 - 単一な筋と複合的な筋について。
第11章 - 逆転と認知、苦難について。
第12章 - 悲劇作品の部分について。
第13章 - 筋の組みたてにおける目標について。
第14章 - おそれとあわれみの効果の出し方について。
第15章 - 性格の描写について。
第16章 - 認知の種類について。
第17章 - 悲劇の制作について―矛盾・不自然の回避、普遍的筋書きの作成。
第18章 - ふたたび悲劇の制作について―結び合わせ、解決、悲劇の種類。
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第19章 - 思想、語法について。
第20章 - 語法について。
第21章 - 詩的語法に関する考察。
第22章 - 文体(語法)についての注意。
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第23章 - 叙事詩について。―その一
第24章 - 叙事詩について。―その二
第25章 - 詩に対する批判とその解決。
第26章 - 叙事詩と悲劇の比較。

 I

I propose to treat of Poetry in itself and of its various kinds, noting the essential quality of each; to inquire into the structure of the plot as requisite to a good poem; into the number and nature of the parts of which a poem is composed; and similarly into whatever else falls within the same inquiry. Following, then, the order of nature, let us begin with the principles which come first.

Epic poetry and Tragedy, Comedy also and Dithyrambic: poetry, and the music of the flute and of the lyre in most of their forms, are all in their general conception modes of imitation. They differ, however, from one: another in three respects,―the medium, the objects, the manner or mode of imitation, being in each case distinct.

For as there are persons who, by conscious art or mere habit, imitate and represent various objects through the medium of colour and form, or again by the voice; so in the arts above mentioned, taken as a whole, the imitation is produced by rhythm, language, or 'harmony,' either singly or combined.

Thus in the music of the flute and of the lyre, 'harmony' and rhythm alone are employed; also in other arts, such as that of the shepherd's pipe, which are essentially similar to these. In dancing, rhythm alone is used without 'harmony'; for even dancing imitates character, emotion, and action, by rhythmical movement.

There is another art which imitates by means of language alone, and that either in prose or verse―which, verse, again, may either combine different metres or consist of but one kind―but this has hitherto been without a name. For there is no common term we could apply to the mimes of Sophron and Xenarchus and the Socratic dialogues on the one hand; and, on the other, to poetic imitations in iambic, elegiac, or any similar metre. People do, indeed, add the word 'maker' or 'poet' to the name of the metre, and speak of elegiac poets, or epic (that is, hexameter) poets, as if it were not the imitation that makes the poet, but the verse that entitles them all indiscriminately to the name. Even when a treatise on medicine or natural science is brought out in verse, the name of poet is by custom given to the author; and yet Homer and Empedocles have nothing in common but the metre, so that it would be right to call the one poet, the other physicist rather than poet. On the same principle, even if a writer in his poetic imitation were to combine all metres, as Chaeremon did in his Centaur, which is a medley composed of metres of all kinds, we should bring him too under the general term poet. So much then for these distinctions.

There are, again, some arts which employ all the means above mentioned, namely, rhythm, tune, and metre. Such are Dithyrambic and Nomic poetry, and also Tragedy and Comedy; but between them the difference is, that in the first two cases these means are all employed in combination, in the latter, now one means is employed, now another.

Such, then, are the differences of the arts with respect to the medium of imitation.
1. 論述の範囲、詩作と再現、再現の媒 体について

私たちの主題は、創作(従来訳は詩作)の技術それ自体とその様々な種である。つまり、その一つ一つがどの ような能力を持っているのか、創作が上手く行くためには物語はどのように構成されるべき なのか、さらに創作はどのような部分を幾つ持つのかであるが、同様にまた創作術の探求に 属する限りの他の事柄についても論じるだろう。私たちは、本性上第一に来る諸規定を第一 に論じることで議論を始めることにしよう(1447a9-13)。 ——北野正弘訳(2015)
περὶ ποιητικῆς αὐτῆς τε καὶ τῶν εἰδῶν αὐτῆς, ἥν τινα δύναμιν ἕκαστον ἔχει, καὶ πῶς δεῖ συνίστασθαι τοὺς μύθους [10] εἰ μέλλει καλῶς ἕξειν ἡ ποίησις, ἔτι δὲ ἐκ πόσων καὶ ποίων ἐστὶ μορίων, ὁμοίως δὲ καὶ περὶ τῶν ἄλλων ὅσα τῆς αὐτῆς ἐστι μεθόδου, λέγωμεν ἀρξάμενοι κατὰ φύσιν πρῶτον ἀπὸ τῶν πρώτων.

Aristotle, Poetics(ギ リシャ語テキスト

私は、詩それ自体とその様々な種類を扱い、それぞれの本質的な質に注目することを提案する。良い詩に必要なプロットの構造について、詩が構成される部分の 数と性質について、そして同様に、同じ調査の範囲内にある他のあらゆるものについて、調査することを提案する。それでは、自然の摂理に従って、まず最初に 来る原理から始めよう。

叙事詩と悲劇、喜劇とディサイラムの詩、そしてフルートと竪琴の音楽は、そのほとんどの形式において、すべてその一般的概念において模倣の様式である。し かし、これらは3つの点で互いに異なる。-媒体、対象、模倣の方法または態様は、それぞれのケースで異なっている。

意識的な芸術や単なる習慣によって、色や形を媒介に、あるいはまた声を媒介に、さまざまな対象を模倣し表現する人々がいるように、全体としてみれば、上記 の芸術において、模倣はリズム、言語、あるいは「調和」によって、単独または複合的に生み出されている。

フルートと竪琴の音楽では、「ハーモニー」とリズムだけが用いられる。 ダンスでは、「ハーモニー」なしでリズムだけが使われる。ダンスでさえ、リズミカル な動きによって、性格、感情、行動を模倣するからである。(→「君もラッパーになれ る」)


言語のみによって模倣する別の芸術があり、それは散文か詩のどちらかである。詩は、やはり異なる音律を組み合わせたり、一種類だけで構成されたりするが、 これはこれまで名称がなかった。ソフロンやクセナルコスのパントマイムやソクラテスの対話に適用できる共通の用語はなく、他方、イアンビック、エレジアッ ク、あるいは類似の音律による詩の模倣にも適用できないからである。実際、人々はメトルの名称に「製作者」や「詩人」という言葉を付け加え、エレジアック 詩人や叙事詩(つまりヘキサメター)詩人について語るが、それはまるで詩人を作るのは模倣ではなく、詩がすべて無差別にその名を与える資格があるかのよう である。医学や自然科学の論文が詩で発表されるときでさえ、慣習的に作者には詩人の 名が与えられる。しかし、ホメロスとエンペドクレスには音律以外に共通 点はなく、詩人というより、一方を詩人、他方を物理学者と呼ぶのが正しいだろう。同じ原理で、シェレモンが『ケンタウルス』で行ったように、詩的な模倣を 行う作家があらゆる音律を組み合わせて、あらゆる種類の音律からなるメドレーを作ったとしても、我々は彼をも詩人という一般用語に引き入れるべきである。 このような区別はここまでである。

また、上記の手段、すなわちリズム、調性、メトレをすべて用いる芸術もある。しかし両者の違いは、前二者の場合、これらの手段はすべて組み合わせて使わ れ、後者では、ある手段が使われたり、別の手段が使われたりすることである。

このように、模倣の媒体に関する芸術の違いは、次のようなものである。
II

Since the objects of imitation are men in action, and these men must be either of a higher or a lower type (for moral character mainly answers to these divisions, goodness and badness being the distinguishing marks of moral differences), it follows that we must represent men either as better than in real life, or as worse, or as they are. It is the same in painting. Polygnotus depicted men as nobler than they are, Pauson as less noble, Dionysius drew them true to life.

Now it is evident that each of the modes of imitation above mentioned will exhibit these differences, and become a distinct kind in imitating objects that are thus distinct. Such diversities may be found even in dancing, flute-playing, and lyre-playing. So again in language, whether prose or verse unaccompanied by music. Homer, for example, makes men better than they are; Cleophon as they are; Hegemon the Thasian, the inventor of parodies, and Nicochares, the author of the Deiliad, worse than they are. The same thing holds good of Dithyrambs and Nomes; here too one may portray different types, as Timotheus and Philoxenus differed in representing their Cyclopes. The same distinction marks off Tragedy from Comedy; for Comedy aims at representing men as worse, Tragedy as better than in actual life.
2. 論述の範囲、詩作と再現、再現の媒 体について

模倣の対象は行動する人間であり、これらの人間は高いタイプか低いタイプのどちらかでなければならないので(道徳的性格は主にこれらの区分に答え、善と悪 は道徳的差異の識別マークである)、我々は人間を実生活より良いものとして、または悪いものとして、またはそのままの形で表現しなければならないことにな る。絵画の世界でも同じである。ポリグノトスは人間を実際よりも高貴に、パウソンはそれほど高貴でなく、ディオニュソスは実生活に忠実に描いた。

さて、上記のような模倣の様式は、それぞれこのような差異を示し、このように異なる対象を模倣することによって、異なる種類となることは明らかである。こ のような多様性は、ダンス、フルート演奏、竪琴演奏においてさえも見出すことができる。また、散文であれ、音楽が伴わない詩であれ、言語においても同様で ある。例えば、ホメロスは人を実際よりも良くし、クレオフォンは実際と同じにし、パロディの発明者であるターシャ人のヘゲモンや、『デイリアス』の作者ニ コチャレスは実際よりも悪くしている。このことは、ディシラムとノームについても同様である。ティモテウスとフィロクセヌスがキュクロプスを表現する際に 異なったように、ここでも異なるタイプを描くことができる。同じように、悲劇と喜劇を区別する。喜劇は人間を実際の生活よりも悪く、悲劇はより良く表現す ることを目的としているからである。
III

There is still a third difference―the manner in which each of these objects may be imitated. For the medium being the same, and the objects the same, the poet may imitate by narration―in which case he can either take another personality as Homer does, or speak in his own person, unchanged―or he may present all his characters as living and moving before us.

These, then, as we said at the beginning, are the three differences which distinguish artistic imitation,―the medium, the objects, and the manner. So that from one point of view, Sophocles is an imitator of the same kind as Homer―for both imitate higher types of character; from another point of view, of the same kind as Aristophanes―for both imitate persons acting and doing. Hence, some say, the name of 'drama' is given to such poems, as representing action. For the same reason the Dorians claim the invention both of Tragedy and Comedy. The claim to Comedy is put forward by the Megarians,―not only by those of Greece proper, who allege that it originated under their democracy, but also by the Megarians of Sicily, for the poet Epicharmus, who is much earlier than Chionides and Magnes, belonged to that country. Tragedy too is claimed by certain Dorians of the Peloponnese. In each case they appeal to the evidence of language. The outlying villages, they say, are by them called {kappa omega mu alpha iota}, by the Athenians {delta eta mu iota}: and they assume that Comedians were so named not from {kappa omega mu 'alpha zeta epsilon iota nu}, 'to revel,' but because they wandered from village to village (kappa alpha tau alpha / kappa omega mu alpha sigma), being excluded contemptuously from the city. They add also that the Dorian word for 'doing' is {delta rho alpha nu}, and the Athenian, {pi rho alpha tau tau epsilon iota nu}.

This may suffice as to the number and nature of the various modes of imitation.
3. 再現の方法の差異について 劇とい う名称の由来について 悲劇・喜劇の発祥地についてのドーリス人の主張

第三の違いは、これらの対象がそれぞれどのように模倣されうるか、という点である。媒体が同じであり、対象も同じであるため、詩人は語りによって模倣する ことができる。この場合、ホメロスのように別の人格になりきることも、そのままの姿で語ることもできるし、すべての登場人物を生きていて目の前で動いてい るように見せることもできる。

つまり、冒頭で述べたように、芸術的模倣を区別する三つの違い、すなわち媒体、対象、方法である。つまり、ある観点から見れば、ソフォクレスはホメロスと 同じ種類の模倣者であり、両者ともより高いタイプのキャラクターを模倣している。別の観点から見れば、アリストファネスと同じ種類の模倣者であり、両者と も行動し実行する人物を模倣しているのである。それゆえ、このような詩には、行動を表現するものとして「ドラマ」という名前が付けられたと言う人もいる。 同じ理由で、ドーリア人は悲劇と喜劇の両方の発明を主張する。喜劇の発明は、ギリシャのメガリア人が主張している。メガリア人はギリシャの民主主義のもと で喜劇が生まれたと主張しているが、シチリアのメガリア人も同様で、キオニデスやマグネスよりもずっと以前の詩人エピカルモスはこの国に属していたからで ある。悲劇はペロポネソス半島のあるドーリア人によっても主張されている。いずれの場合も、彼らは言語の証拠に訴えている。彼らは、辺境の村々を彼らは {kappa omega mu alpha iota}と呼び、アテネ人は{delta eta mu iota}と呼ぶという。そして彼らは、コメデイア人は{kappa omega mu 'alpha zeta epsilon iota nu}の「宴を開く」からではなく、村から村へ放浪し(kappa alpha tau alpha / kappa omega mu alpha sigma)、都市から軽蔑的に排除されるのでそう呼ばれたと推測している。また、ドーリア語の「する」は{delta rho alpha nu}であり、アテネ語の{pi rho alpha tau tau epsilon iota nu}であることも付け加えている。

模倣の様々な様式の数と性質については、これで十分であろう。
IV

Poetry in general seems to have sprung from two causes, each of them lying deep in our nature. First, the instinct of imitation is implanted in man from childhood, one difference between him and other animals being that he is the most imitative of living creatures, and through imitation learns his earliest lessons; and no less universal is the pleasure felt in things imitated. We have evidence of this in the facts of experience. Objects which in themselves we view with pain, we delight to contemplate when reproduced with minute fidelity: such as the forms of the most ignoble animals and of dead bodies. The cause of this again is, that to learn gives the liveliest pleasure, not only to philosophers but to men in general; whose capacity, however, of learning is more limited. Thus the reason why men enjoy seeing a likeness is, that in contemplating it they find themselves learning or inferring, and saying perhaps, 'Ah, that is he.' For if you happen not to have seen the original, the pleasure will be due not to the imitation as such, but to the execution, the colouring, or some such other cause.

Imitation, then, is one instinct of our nature. Next, there is the instinct for 'harmony' and rhythm, metres being manifestly sections of rhythm. Persons, therefore, starting with this natural gift developed by degrees their special aptitudes, till their rude improvisations gave birth to Poetry.

Poetry now diverged in two directions, according to the individual character of the writers. The graver spirits imitated noble actions, and the actions of good men. The more trivial sort imitated the actions of meaner persons, at first composing satires, as the former did hymns to the gods and the praises of famous men. A poem of the satirical kind cannot indeed be put down to any author earlier than Homer; though many such writers probably there were. But from Homer onward, instances can be cited,―his own Margites, for example, and other similar compositions. The appropriate metre was also here introduced; hence the measure is still called the iambic or lampooning measure, being that in which people lampooned one another. Thus the older poets were distinguished as writers of heroic or of lampooning verse.

As, in the serious style, Homer is pre-eminent among poets, for he alone combined dramatic form with excellence of imitation, so he too first laid down the main lines of Comedy, by dramatising the ludicrous instead of writing personal satire. His Margites bears the same relation to Comedy that the Iliad and Odyssey do to Tragedy. But when Tragedy and Comedy came to light, the two classes of poets still followed their natural bent: the lampooners became writers of Comedy, and the Epic poets were succeeded by Tragedians, since the drama was a larger and higher form of art.

Whether Tragedy has as yet perfected its proper types or not; and whether it is to be judged in itself, or in relation also to the audience,―this raises another question. Be that as it may, Tragedy―as also Comedy―was at first mere improvisation. The one originated with the authors of the Dithyramb, the other with those of the phallic songs, which are still in use in many of our cities. Tragedy advanced by slow degrees; each new element that showed itself was in turn developed. Having passed through many changes, it found its natural form, and there it stopped.

Aeschylus first introduced a second actor; he diminished the importance of the Chorus, and assigned the leading part to the dialogue. Sophocles raised the number of actors to three, and added scene-painting. Moreover, it was not till late that the short plot was discarded for one of greater compass, and the grotesque diction of the earlier satyric form for the stately manner of Tragedy. The iambic measure then replaced the trochaic tetrameter, which was originally employed when the poetry was of the Satyric order, and had greater affinities with dancing. Once dialogue had come in, Nature herself discovered the appropriate measure. For the iambic is, of all measures, the most colloquial: we see it in the fact that conversational speech runs into iambic lines more frequently than into any other kind of verse; rarely into hexameters, and only when we drop the colloquial intonation. The additions to the number of 'episodes' or acts, and the other accessories of which tradition; tells, must be taken as already described; for to discuss them in detail would, doubtless, be a large undertaking.
4. 詩作の起源とその発展について

一般に詩は二つの原因から生まれたと思われるが、いずれも人間の本性に深く横たわっている。第一に、模倣の本能は子供の頃から人間に備わっている。他の動 物と異なる点は、人間は生き物の中で最も模倣的であり、模倣を通じて最も初期の教訓を学ぶことである。また、模倣されたものに感じる喜びは、それに劣らず 普遍的である。このことは、経験上の事実として証明されている。それ自体は苦痛を伴うものであっても、それが忠実に再現されると、喜びを感じるのである。 この原因はまた、学ぶことが、哲学者のみならず一般的な人間にとって最も生き生きとした喜びを与えるからである。このように、人が似顔絵を見て喜ぶのは、 それを観賞しているうちに、自分自身が学習したり推論したりして、おそらく「ああ、これは彼だ」と言うことに気づくからである。たまたま原画を見たことが ない場合、その喜びは模写そのものではなく、技巧や色彩など、他の原因によるものだろう。

つまり、模倣は人間の本能の1つである。次に、「調 和」と「リズム」に対する本能があり、メートルは明らかにリズムの一部である。したがって、この天賦の 才から出発した人々は、次第に特別な才能を開花させ、その無骨な即興が詩を誕生させるに至ったのである。

詩は、書き手の個性によって、二つの方向に分かれた。重厚な精神の持ち主は、高貴な行為や善良な人物の行為を模倣した。よりくだらないものは、より卑しい 人物の行為を模倣し、最初は風刺詩を作り、前者が神々への賛美歌や有名人の賛美を作ったように、風刺詩を作るようになった。風刺的な詩は、ホメロスより以 前の作者によるものではありえないが、そのような作者はおそらく多くいたのだろう。しかし、ホメロス以降には、例えばホメロス自身の『マルギテス』や、そ の他の類似の作品の例を挙げることができる。適切な音律もここに導入された。それゆえ、この音律は現在でもイアンビック音律またはランプーン音律と呼ば れ、人々が互いにランプーンし合う音律となっているのである。このように、古い詩人たちは、英雄的な詩の作者として、あるいは風刺的な詩の作者として区別 されていた。

真面目なスタイルでは、ホメロスが詩人の中で傑出しているが、それは彼だけが劇的な形式と優れた模倣を組み合わせたからであり、彼もまた、個人的な風刺を 書く代わりに滑稽なものを劇化して、喜劇の本筋を最初に打ち立てた。彼の『マルギテス』は、『イリアス』や『オデュッセイア』が悲劇と同じように、喜劇と 同じような関係にある。しかし、悲劇と喜劇が登場すると、2つの詩人階級は依然としてその自然な傾向に従っていた。風刺詩人は喜劇の作家となり、叙事詩人 は悲劇家に引き継がれた。

悲劇がまだ適切な型を完成していないのか、また、それ自体で判断するのか、それとも観客との関係で判断するのか、これは別の問題を提起している。それはと もかく、悲劇も喜劇と同様に、最初は単なる即興であった。一方は『ディシラム』の作者から、もう一方は、今でも多くの都市で使われている男根の歌の作者か ら生まれた。悲劇はゆっくりとした経過をたどり、新しい要素が現れるたびに、それを発展させていった。多くの変化を経て、悲劇はその自然な形を見つけ、そ こで止まった。

アイスキュロスはまず二人目の俳優を導入し、合唱の重要性を減らして、対話に主役の座を割り当てた。ソフォクレスは俳優の数を3人に増やし、場面転換を加 えた。さらに、短い筋書きを捨ててより広い範囲の筋書きにし、初期の風刺的な形式のグロテスクな語法を悲劇の堂々とした態度に変えたのは、遅くまで待たね ばならなかった。この小節は、もともと詩がサテュロス風のもので、踊りと親和性の高いものであったときに使われていた。対話が導入されると、自然は自ら適 切な小節を発見した。それは、会話文が他のどの詩よりも頻繁にイアンビック行に入り、ヘキサメターにはほとんど入らず、口語的なイントネーションを取り除 いた場合にのみ入るという事実からもわかる。また、「エピソード」や「幕」の数の増加や、その他伝統的に語られてきた付属物については、すでに説明したと おりとしなければならない。
V

Comedy is, as we have said, an imitation of characters of a lower type, not, however, in the full sense of the word bad, the Ludicrous being merely a subdivision of the ugly. It consists in some defect or ugliness which is not painful or destructive. To take an obvious example, the comic mask is ugly and distorted, but does not imply pain.

The successive changes through which Tragedy passed, and the authors of these changes, are well known, whereas Comedy has had no history, because it was not at first treated seriously. It was late before the Archon granted a comic chorus to a poet; the performers were till then voluntary. Comedy had already taken definite shape when comic poets, distinctively so called, are heard of. Who furnished it with masks, or prologues, or increased the number of actors,―these and other similar details remain unknown. As for the plot, it came originally from Sicily; but of Athenian writers Crates was the first who, abandoning the 'iambic' or lampooning form, generalised his themes and plots.

Epic poetry agrees with Tragedy in so far as it is an imitation in verse of characters of a higher type. They differ, in that Epic poetry admits but one kind of metre, and is narrative in form. They differ, again, in their length: for Tragedy endeavours, as far as possible, to confine itself to a single revolution of the sun, or but slightly to exceed this limit; whereas the Epic action has no limits of time. This, then, is a second point of difference; though at first the same freedom was admitted in Tragedy as in Epic poetry.

Of their constituent parts some are common to both, some peculiar to Tragedy, whoever, therefore, knows what is good or bad Tragedy, knows also about Epic poetry. All the elements of an Epic poem are found in Tragedy, but the elements of a Tragedy are not all found in the Epic poem.
5. 喜劇について 悲劇と叙事詩の相違 について

喜劇は、これまで述べてきたように、より低いタイプのキャラクターの模倣である。しかし、悪いという言葉の完全な意味ではなく、滑稽は単に醜いものの下位 分類に過ぎないのである。それは、苦痛や破壊を伴わない何らかの欠陥や醜さによって成り立つ。分かりやすい例を挙げると、滑稽な仮面は醜く歪んでいるが、 痛みを伴わない。

悲劇が通過した連続的な変化とその作者はよく知られているが、喜劇は歴史を持たず、なぜなら最初はまじめに扱われなかったからである。アルコンが詩人に喜 劇の合唱を許可したのは遅く、それまでは出演者は任意であった。喜劇は、喜劇詩人と呼ばれる人たちが耳にしたときには、すでに明確な形をとっていた。誰が 仮面をつけたのか、プロローグをつけたのか、役者の数を増やしたのか-これらや他の類似の詳細は不明である。しかし、アテネの作家の中では、クラテスが初 めて、「イアンビック」または「ランプーン」の形式を捨て、テーマとプロットを一般化した。

叙事詩は、より高いタイプの人物の詩による模倣である限り、悲劇と一致する。両者は、叙事詩が一種類の音律しか認めず、形式が物語的であるという点で異な る。悲劇は、できる限り太陽の一回転に収まるように、あるいはその限界をわずかに超えるように努力するが、叙事詩の行為には時間の限界がない。この点が第 二の相違点である。しかし、当初は悲劇にも叙事詩と同じ自由が認められていた。

その構成部分のうち、あるものは両者に共通し、あるものは悲劇に特有である。したがって、何が良い悲劇か悪い悲劇かを知る者は、叙事詩についても知ってい るのである。叙事詩の要素はすべて悲劇に見られるが、悲劇の要素がすべて叙事詩に見られるわけではない。
VI

Of the poetry which imitates in hexameter verse, and of Comedy, we will speak hereafter. Let us now discuss Tragedy, resuming its formal definition, as resulting from what has been already said.

Tragedy, then, is an imitation of an action that is serious, complete, and of a certain magnitude; in language embellished with each kind of artistic ornament, the several kinds being found in separate parts of the play; in the form of action, not of narrative; through pity and fear effecting the proper purgation of these emotions. By 'language embellished,' I mean language into which rhythm, 'harmony,' and song enter. By 'the several kinds in separate parts,' I mean, that some parts are rendered through the medium of verse alone, others again with the aid of song.

Now as tragic imitation implies persons acting, it necessarily follows, in the first place, that Spectacular equipment will be a part of Tragedy. Next, Song and Diction, for these are the medium of imitation. By 'Diction' I mean the mere metrical arrangement of the words: as for 'Song,' it is a term whose sense every one understands.

Again, Tragedy is the imitation of an action; and an action implies personal agents, who necessarily possess certain distinctive qualities both of character and thought; for it is by these that we qualify actions themselves, and these―thought and character―are the two natural causes from which actions spring, and on actions again all success or failure depends. Hence, the Plot is the imitation of the action: for by plot I here mean the arrangement of the incidents. By Character I mean that in virtue of which we ascribe certain qualities to the agents. Thought is required wherever a statement is proved, or, it may be, a general truth enunciated. Every Tragedy, therefore, must have six parts, which parts determine its quality―namely, Plot, Character, Diction, Thought, Spectacle, Song. Two of the parts constitute the medium of imitation, one the manner, and three the objects of imitation. And these complete the list. These elements have been employed, we may say, by the poets to a man; in fact, every play contains Spectacular elements as well as Character, Plot, Diction, Song, and Thought.

But most important of all is the structure of the incidents. For Tragedy is an imitation, not of men, but of an action and of life, and life consists in action, and its end is a mode of action, not a quality. Now character determines men's qualities, but it is by their actions that they are happy or the reverse. Dramatic action, therefore, is not with a view to the representation of character: character comes in as subsidiary to the actions. Hence the incidents and the plot are the end of a tragedy; and the end is the chief thing of all. Again, without action there cannot be a tragedy; there may be without character. The tragedies of most of our modern poets fail in the rendering of character; and of poets in general this is often true. It is the same in painting; and here lies the difference between Zeuxis and Polygnotus. Polygnotus delineates character well: the style of Zeuxis is devoid of ethical quality. Again, if you string together a set of speeches expressive of character, and well finished in point of diction and thought, you will not produce the essential tragic effect nearly so well as with a play which, however deficient in these respects, yet has a plot and artistically constructed incidents. Besides which, the most powerful elements of emotional: interest in Tragedy Peripeteia or Reversal of the Situation, and Recognition scenes―are parts of the plot. A further proof is, that novices in the art attain to finish: of diction and precision of portraiture before they can construct the plot. It is the same with almost all the early poets.

The Plot, then, is the first principle, and, as it were, the soul of a tragedy: Character holds the second place. A similar fact is seen in painting. The most beautiful colours, laid on confusedly, will not give as much pleasure as the chalk outline of a portrait. Thus Tragedy is the imitation of an action, and of the agents mainly with a view to the action.

Third in order is Thought,―that is, the faculty of saying what is possible and pertinent in given circumstances. In the case of oratory, this is the function of the Political art and of the art of rhetoric: and so indeed the older poets make their characters speak the language of civic life; the poets of our time, the language of the rhetoricians. Character is that which reveals moral purpose, showing what kind of things a man chooses or avoids. Speeches, therefore, which do not make this manifest, or in which the speaker does not choose or avoid anything whatever, are not expressive of character. Thought, on the other hand, is found where something is proved to be, or not to be, or a general maxim is enunciated.

Fourth among the elements enumerated comes Diction; by which I mean, as has been already said, the expression of the meaning in words; and its essence is the same both in verse and prose.

Of the remaining elements Song holds the chief place among the embellishments.

The Spectacle has, indeed, an emotional attraction of its own, but, of all the parts, it is the least artistic, and connected least with the art of poetry. For the power of Tragedy, we may be sure, is felt even apart from representation and actors. Besides, the production of spectacular effects depends more on the art of the stage machinist than on that of the poet.
6. 悲劇の定義と悲劇の構成要素につい て

ヘクサメートル詩で模倣する詩と喜劇については、この後で述べる。悲劇とは、深刻で、完全で、ある種の大きさを持つ行為の模倣である。それぞれの種類の芸 術的装飾で飾られた言語で、そのいくつかの種類は劇の別々の部分に見られる。装飾された言語」とは、リズム、「ハーモニー」、歌が入る言語のことである。 悲劇的な模倣は人が演じることを意味するので、まず第一に、必然的に壮大な装置が悲劇の一部となる。次に、歌と語法であるが、これらは模倣の媒体である。 ディクション」とは、言葉の単なる計量的な配列のことである。「歌」については、誰もがその意味を理解する用語である。また、悲劇は行為の模倣であり、行 為は個人的な行為者を意味し、その行為者は必然的に、性格と思考の両方においてある種の特徴的な資質を有している。それゆえ、筋書きとは行為を模倣するこ とであり、筋書きとは事件の配置を意味する。性格とは、行為者にある特質を与えることを意味する。思想が必要とされるのは、ある主張が証明される場合、あ るいは一般的な真理が宣言される場合であろう。したがって、あらゆる悲劇には6つの部分が必要であり、この部分がその質を決定する。すなわち、筋、性格、 語法、思考、スペクタクル、歌である。このうち2つの部分は模倣の媒体となり、1つは模倣の方法、3つは模倣の対象となる。そして、これらがリストを完成 させる。これらの要素は、詩人たちによって徹底的に採用されてきたと言える。実際、どの劇にも、キャラクター、プロット、語法、歌、思想のほかに、スペク タクルの要素が含まれている。しかし、何よりも重要なのは、事件の構造である。悲劇は人間の模倣ではなく、行為と人生の模倣であり、人生は行為から成り立 ち、その終わりは行為様式であって、資質ではないからだ。人生とは行動によって成り立つものであり、その目的は行動様式であって、資質ではない。したがっ て、ドラマのアクションは、人格を表現するためにあるのではない。それゆえ、事件と筋書きは悲劇の目的であり、目的こそがすべての最重要事項なのである。 行動なくして悲劇はありえない。現代の詩人たちの悲劇は、人物の描写に失敗している。それは絵画においても同じで、ゼウキスとポリグノトスの違いはここに ある。ポリグノトスは人物描写に優れているが、ゼウクシスの作風には倫理性がない。また、性格を表現し、語法と思想の点でよく仕上がった一連の演説を並べ たとしても、これらの点で不十分であっても、筋書きと芸術的に構成された事件を持つ戯曲ほど、本質的な悲劇的効果は得られないだろう。その上、悲劇におけ る最も強力な感情的要素である「ペリペテイア」(状況の反転)や「認識」の場面は、プロットの一部である。さらにその証拠に、この芸術の初心者は、プロッ トを構築する前に、ディクションの完成度と肖像画の正確さに到達している。これはほとんどすべての初期の詩人に共通することである。プロットは第一の原則 であり、いわば悲劇の魂である: キャラクターはその次である。同じようなことが絵画にも見られる。同じようなことが絵画にも見られる。最も美しい色彩を混乱したように塗っても、チョーク で描かれた肖像画の輪郭ほどの喜びは得られない。このように、悲劇とは行為の模倣であり、主に行為を念頭に置いた行為者の模倣である。第3位は思考であ り、すなわち、与えられた状況において可能で適切なことを言う能力である。演説の場合、これは政治術と修辞術の機能であり、実際、古い詩人たちは登場人物 に市民生活の言葉を語らせ、現代の詩人たちは修辞学者たちの言葉を語らせる。性格とは、道徳的な目的を明らかにするものであり、人間がどのようなものを選 び、あるいは避けるかを示すものである。したがって、このことを明らかにしない、あるいは話し手が何一つ選んだり避けたりしないスピーチは、人格を表現す るものではない。一方、思想は、何かがある、あるいはないことが証明されたり、一般的な格言が述べられたりするところに見出される。列挙した要素のうち4 番目に、ディクションが挙げられる。ディクションとは、すでに述べたように、意味を言葉で表現することを意味し、その本質は詩でも散文でも同じである。 残りの要素の中で、歌は装飾の中で最も重要な位置を占めている。スペクタクルは、確かにそれ自体の感情的な魅力を持っているが、すべての部分の中で最も芸 術的ではなく、詩の芸術と最も関係が薄い。というのも、悲劇の力は、表現と俳優を離れても感じられるからである。その上、スペクタクルな効果を生み出すの は、詩人よりも舞台装置職人の技量によるところが大きい。
VII

These principles being established, let us now discuss the proper structure of the Plot, since this is the first and most important thing in Tragedy.

Now, according to our definition, Tragedy is an imitation of an action that is complete, and whole, and of a certain magnitude; for there may be a whole that is wanting in magnitude. A whole is that which has a beginning, a middle, and an end. A beginning is that which does not itself follow anything by causal necessity, but after which something naturally is or comes to be. An end, on the contrary, is that which itself naturally follows some other thing, either by necessity, or as a rule, but has nothing following it. A middle is that which follows something as some other thing follows it. A well constructed plot, therefore, must neither begin nor end at haphazard, but conform to these principles.

Again, a beautiful object, whether it be a living organism or any whole composed of parts, must not only have an orderly arrangement of parts, but must also be of a certain magnitude; for beauty depends on magnitude and order. Hence a very small animal organism cannot be beautiful; for the view of it is confused, the object being seen in an almost imperceptible moment of time. Nor, again, can one of vast size be beautiful; for as the eye cannot take it all in at once, the unity and sense of the whole is lost for the spectator; as for instance if there were one a thousand miles long. As, therefore, in the case of animate bodies and organisms a certain magnitude is necessary, and a magnitude which may be easily embraced in one view; so in the plot, a certain length is necessary, and a length which can be easily embraced by the memory. The limit of length in relation to dramatic competition and sensuous presentment, is no part of artistic theory. For had it been the rule for a hundred tragedies to compete together, the performance would have been regulated by the water-clock,―as indeed we are told was formerly done. But the limit as fixed by the nature of the drama itself is this: the greater the length, the more beautiful will the piece be by reason of its size, provided that the whole be perspicuous. And to define the matter roughly, we may say that the proper magnitude is comprised within such limits, that the sequence of events, according to the law of probability or necessity, will admit of a change from bad fortune to good, or from good fortune to bad.
7. 筋の組み立て、その秩序と長さにつ いて

さて、我々の定義によれば、悲劇とは、完全で、全体的で、一定の大きさを持つ行為の模倣である。全体とは、始まり、中間、終わりを持つものである。始まり とは、それ自体は因果的必然性によって何ものにも従わないが、その後に何かが自然に存在する、あるいは存在するようになることである。それとは反対に、終 わりとは、それ自体が必然的に、あるいは規則として、他のものに自然に従うが、その後に何も続かないものである。中間とは、他のものがそれに続くように、 何かに続くものである。したがって、よく構成された筋書きは、行き当たりばったりで始まったり終わったりしてはならず、これらの原則に従わなければならな い。また、美しい対象は、それが生命体であれ、部分からなる全体であれ、部分の整然とした配置を持っているだけでなく、一定の大きさを持っていなければな らない。というのは、美は大きさと秩序に依存するからである。したがって、非常に小さな動物有機体は美しくない。また、巨大なものも美しくはありえない。 なぜなら、目はすべてを一度に受け止めることができないので、全体の統一感や感覚は観客にとって失われてしまうからである。したがって、生き物や生物の場 合、一定の大きさが必要であり、それは一望すれば容易に理解できる大きさであるように、筋書きにおいても一定の長さが必要であり、それは記憶によって容易 に理解できる長さである。劇的な競争や感覚的な表現との関係における長さの限界は、芸術理論の一部ではない。もし100の悲劇を一緒に上演するのが決まり であったなら、上演は水時計によって規制されたであろう。長さが長ければ長いほど、全体が明瞭であれば、その大きさゆえに作品はより美しくなる。大雑把に 定義すれば、適切な大きさは、確率や必然性の法則に従って、悪い運勢から良い運勢へ、あるいは良い運勢から悪い運勢への変化を許容するような限界の範囲内 で構成される、ということである。
VIII

Unity of plot does not, as some persons think, consist in the Unity of the hero. For infinitely various are the incidents in one man's life which cannot be reduced to unity; and so, too, there are many actions of one man out of which we cannot make one action. Hence, the error, as it appears, of all poets who have composed a Heracleid, a Theseid, or other poems of the kind. They imagine that as Heracles was one man, the story of Heracles must also be a unity. But Homer, as in all else he is of surpassing merit, here too―whether from art or natural genius―seems to have happily discerned the truth. In composing the Odyssey he did not include all the adventures of Odysseus―such as his wound on Parnassus, or his feigned madness at the mustering of the host―incidents between which there was no necessary or probable connection: but he made the Odyssey, and likewise the Iliad, to centre round an action that in our sense of the word is one. As therefore, in the other imitative arts, the imitation is one when the object imitated is one, so the plot, being an imitation of an action, must imitate one action and that a whole, the structural union of the parts being such that, if any one of them is displaced or removed, the whole will be disjointed and disturbed. For a thing whose presence or absence makes no visible difference, is not an organic part of the whole.
8. 筋の統一について

ある人が考えるように、筋書きの統一は、主人公の統一にあるのではない。というのも、一人の人間の人生には、統一することのできない無限にさまざまな出来 事があるからである。それゆえ、ヘラクレス詩やテセイド詩、あるいはこの種の詩を作った詩人たちはみな、このような誤りを犯しているのである。彼らは、ヘ ラクレスが一人の人間であったように、ヘラクレスの物語もまた一つのものでなければならないと考えている。しかしホメロスは、他のすべてにおいて卓越した 才能を発揮しているように、ここでもまた、芸術的なものであれ、天賦の才能によるものであれ、真理を見事に見抜いているように思われる。彼は『オデュッセ イア』を書くにあたって、オデュッセウスの冒険--たとえば、パルナッソスでの傷や、軍勢の招集の際の見せかけの狂気など--をすべて盛り込まなかった。 それゆえ、他の模倣芸術において、模倣される対象が一つであれば模倣も一つであるように、筋書きは、行為の模倣である以上、一つの行為、それも全体を模倣 しなければならない。あってもなくても目に見える違いがないものは、全体の有機的な一部ではないからだ。
IX

It is, moreover, evident from what has been said, that it is not the function of the poet to relate what has happened, but what may happen,―what is possible according to the law of probability or necessity. The poet and the historian differ not by writing in verse or in prose. The work of Herodotus might be put into verse, and it would still be a species of history, with metre no less than without it. The true difference is that one relates what has happened, the other what may happen. Poetry, therefore, is a more philosophical and a higher thing than history: for poetry tends to express the universal, history the particular. By the universal, I mean how a person of a certain type will on occasion speak or act, according to the law of probability or necessity; and it is this universality at which poetry aims in the names she attaches to the personages. The particular is―for example―what Alcibiades did or suffered. In Comedy this is already apparent: for here the poet first constructs the plot on the lines of probability, and then inserts characteristic names;―unlike the lampooners who write about particular individuals. But tragedians still keep to real names, the reason being that what is possible is credible: what has not happened we do not at once feel sure to be possible: but what has happened is manifestly possible: otherwise it would not have happened. Still there are even some tragedies in which there are only one or two well known names, the rest being fictitious. In others, none are well known, as in Agathon's Antheus, where incidents and names alike are fictitious, and yet they give none the less pleasure. We must not, therefore, at all costs keep to the received legends, which are the usual subjects of Tragedy. Indeed, it would be absurd to attempt it; for even subjects that are known are known only to a few, and yet give pleasure to all. It clearly follows that the poet or 'maker' should be the maker of plots rather than of verses; since he is a poet because he imitates, and what he imitates are actions. And even if he chances to take an historical subject, he is none the less a poet; for there is no reason why some events that have actually happened should not conform to the law of the probable and possible, and in virtue of that quality in them he is their poet or maker.

Of all plots and actions the epeisodic are the worst. I call a plot 'epeisodic' in which the episodes or acts succeed one another without probable or necessary sequence. Bad poets compose such pieces by their own fault, good poets, to please the players; for, as they write show pieces for competition, they stretch the plot beyond its capacity, and are often forced to break the natural continuity.

But again, Tragedy is an imitation not only of a complete action, but of events inspiring fear or pity. Such an effect is best produced when the events come on us by surprise; and the effect is heightened when, at the same time, they follow as cause and effect. The tragic wonder will thee be greater than if they happened of themselves or by accident; for even coincidences are most striking when they have an air of design. We may instance the statue of Mitys at Argos, which fell upon his murderer while he was a spectator at a festival, and killed him. Such events seem not to be due to mere chance. Plots, therefore, constructed on these principles are necessarily the best.
9. 詩と歴史の相違、詩作の普遍的性 格、場面偏重の筋、驚きの要素について

「歴史家は実際に起こったことを語るが、詩人は起こりうるようなことを語るということである。それゆえ、詩作(ポイエーシス)は歴史(ヒストリアー)より もいっそう哲学的であり、いっそう重大な意義をもつのである。というのも、詩作は普遍的な事柄を語り、歴史は個別的な事柄を語るからである」アリストテレ ス「詩学」1451b、朴一功訳、『アリストテレス全集』岩波書店、2017年
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さらに、これまで述べてきたことから明らかなように、詩人の役割は、起こったことではなく、起こりうること、つまり確率や必然性の法則にしたがって可能な ことを語ることである。詩人と歴史家は、詩で書くか散文で書くかの違いではない。ヘロドトスの作品を詩にしても、それは歴史の一種であることに変わりはな く、メトレがない場合と同様に、メトレがある場合にも変わりはない。真の違いは、一方は起こったことを報告し、他方は起こりうることを報告することであ る。それゆえ、詩は歴史よりも哲学的で高尚なものである。詩は普遍的なものを、歴史は特殊なものを表現する傾向があるからである。普遍的なものとは、ある 種の人間が、確率や必然の法則に従って、時にどのように発言したり行動したりするかを意味し、詩が人物に付ける名前において目指しているのは、この普遍性 なのである。特殊とは、たとえばアルキビアデスが何をし、何に苦しんだかということである。喜劇では、このことはすでに明らかである。なぜなら、ここで は、詩人はまず確率の線上にプロットを構築し、次に特徴的な名前を挿入するからである--特定の個人について書く風刺作家とは異なる。しかし、悲劇家は依 然として実名にこだわる。その理由は、可能なことは信頼できることであり、起こっていないことは、すぐに可能であると確信できないからである。しかし、起 こったことは明らかに可能であり、さもなければ起こらなかったであろう。それでも、よく知られた名前が1人か2人しか出てこない悲劇もあり、残りは架空の ものである。また、アガトンの『アンテウス』のように、事件も名前も架空のものでありながら、それ以上に楽しみを与えてくれるものもない。したがって、悲 劇によく登場する伝説を、何としてでも守らなければならないわけではない。実際、それを試みるのは不合理なことである。なぜなら、知られている題材でさ え、少数の人にしか知られておらず、しかもすべての人に喜びを与えるからである。なぜなら、詩人は模倣するから詩人なのであり、模倣するのは行動だからで ある。そして、たとえ彼が歴史的な題材を取る機会があったとしても、彼が詩人であることに変わりはない。なぜなら、実際に起こったいくつかの出来事が、可 能性と確率の法則に適合しない理由はなく、その性質によって彼はその詩人または製作者なのである。

すべての筋書きと行動の中で、「エピソード的」なものは最悪である。私はプロットを「epeisodic」と呼んでいるが、これはエピソードや行為が確率 的あるいは必然的な順序を経ずに互いに連続するものである。悪い詩人は自分の責任でこのような作品を作るが、良い詩人は演奏家を喜ばせるために作る。なぜ なら、彼らは競争のためにショーピースを書くので、プロットをその能力を超えて引き伸ばし、しばしば自然の連続性を壊すことを余儀なくされるからである。

しかし、繰り返すが、悲劇は、完全な行動の模倣であるだけでなく、恐怖や憐れみを刺 激する出来事の模倣でもある。このような効果は、出来事が不意打ちで襲ってくるときに最もよく発揮され、同時にそれらが原因となり結果となるとき、その効 果は増大する。偶然の一致であっても、それが意図的なものであれば、最も印象的である。例えば、アルゴスのミテュスの像が、祭りで見物していた殺人者の上 に落ちてきて、彼を殺してしまった。このような出来事は、単なる偶然の産物ではないようだ。したがって、このような原則に基づいて構築されたプロットは、 必然的に最良のものとなる
X

Plots are either Simple or Complex, for the actions in real life, of which the plots are an imitation, obviously show a similar distinction. An action which is one and continuous in the sense above defined, I call Simple, when the change of fortune takes place without Reversal of the Situation and without Recognition.

A Complex action is one in which the change is accompanied by such Reversal, or by Recognition, or by both. These last should arise from the internal structure of the plot, so that what follows should be the necessary or probable result of the preceding action. It makes all the difference whether any given event is a case of propter hoc or post hoc.
10. 単一な筋と複合的な筋について

プロットは単純か複雑かのどちらかであり、プロットが模倣である現実の生活における行動も、明らかに同様の区別を示すからである。単純な行動とは、状況が 逆転することなく、また認識されることなく、運勢の変化が起こるものである。複雑な行動とは、そのような逆転、あるいは認識、あるいはその両方を伴う変化 である。複雑なアクションとは、そのような「逆転」や「認識」、あるいはその両方を伴う変化をいう。これらの最後の変化は、プロットの内部構造から生じる ものであり、その後に続くものは、先行するアクションの必然的な結果、あるいは可能性の高い結果でなければならない。ある出来事がpropter hocのケースであるかpost hocのケースであるかは、すべての違いを生む。
XI

Reversal of the Situation is a change by which the action veers round to its opposite, subject always to our rule of probability or necessity. Thus in the Oedipus, the messenger comes to cheer Oedipus and free him from his alarms about his mother, but by revealing who he is, he produces the opposite effect. Again in the Lynceus, Lynceus is being led away to his death, and Danaus goes with him, meaning, to slay him; but the outcome of the preceding incidents is that Danaus is killed and Lynceus saved. Recognition, as the name indicates, is a change from ignorance to knowledge, producing love or hate between the persons destined by the poet for good or bad fortune. The best form of recognition is coincident with a Reversal of the Situation, as in the Oedipus. There are indeed other forms. Even inanimate things of the most trivial kind may in a sense be objects of recognition. Again, we may recognise or discover whether a person has done a thing or not. But the recognition which is most intimately connected with the plot and action is, as we have said, the recognition of persons. This recognition, combined, with Reversal, will produce either pity or fear; and actions producing these effects are those which, by our definition, Tragedy represents. Moreover, it is upon such situations that the issues of good or bad fortune will depend. Recognition, then, being between persons, it may happen that one person only is recognised by the other-when the latter is already known―or it may be necessary that the recognition should be on both sides. Thus Iphigenia is revealed to Orestes by the sending of the letter; but another act of recognition is required to make Orestes known to Iphigenia.

Two parts, then, of the Plot―Reversal of the Situation and Recognition―turn upon surprises. A third part is the Scene of Suffering. The Scene of Suffering is a destructive or painful action, such as death on the stage, bodily agony, wounds and the like.

11. 逆転と認知、苦難について

状況の逆転とは、常に確率や必然性のルールに従いつつ、作用がその反対へと向かう変化のことである。このように『オイディプス』では、使者はオイディプス を励まし、母親に対する不安から解放するためにやって来るが、使者が何者であるかを明らかにすることで、逆の効果をもたらす。リュケウス』でも、リュケウ スは死に導かれ、ダナウスはリュケウスを殺すために一緒に行くが、その結果、ダナウスは殺され、リュケウスは助かる。認識とは、その名が示すように、無知 から知識への変化であり、詩人によって幸運または不運を運命づけられた人々の間に愛や憎しみを生み出す。認知の最も良い形は、『オイディプス』のように、 状況の逆転と一致することである。確かに他の形もある。最も些細な種類の無生物でさえ、ある意味では認識の対象となりうる。また、ある人があることをした かどうかを認識したり、発見したりすることもある。しかし、筋書きや行動と最も密接に関係する認識は、これまで述べてきたように、人物の認識である。この 認識と逆転が組み合わさることで、同情か恐怖が生まれる。そして、これらの効果をもたらす行動は、我々の定義によれば、悲劇が表現するものである。さら に、幸運か不運かはこのような状況に左右される。認識とは、人と人との間に生じるものであり、一方の人間だけが他方の人間に認識されることもあれば、他方 の人間がすでに知っているときに認識されることもある。このように、イフィゲニアは手紙を送ることによってオレステスに知られることになるが、オレステス がイフィゲニアに知られるためには、もう一つの認識行為が必要となる。第三の部分は「苦しみの場面」である。苦難の場面とは、舞台上の死、肉体的苦痛、傷 など、破壊的または苦痛を伴う行為のことである。
XII

[The parts of Tragedy which must be treated as elements of the whole have been already mentioned. We now come to the quantitative parts, and the separate parts into which Tragedy is divided, namely, Prologue, Episode, Exode, Choric song; this last being divided into Parode and Stasimon. These are common to all plays: peculiar to some are the songs of actors from the stage and the Commoi.

The Prologue is that entire part of a tragedy which precedes the Parode of the Chorus. The Episode is that entire part of a tragedy which is between complete choric songs. The Exode is that entire part of a tragedy which has no choric song after it. Of the Choric part the Parode is the first undivided utterance of the Chorus: the Stasimon is a Choric ode without anapaests or trochaic tetrameters: the Commos is a joint lamentation of Chorus and actors. The parts of Tragedy which must be treated as elements of the whole have been already mentioned. The quantitative parts the separate parts into which it is divided―are here enumerated.]
12. 悲劇作品の部分(構成)について

[悲劇全体を構成する要素として扱われるべき部分についてはすでに述べた。プロローグ、エピソード、エキソード、合唱歌、この最後の部分はパローデ とスタシモンに分けられる。プロローグは、合唱のパローデに先立つ悲劇全体の部分である。エピソードは、完全な合唱の歌の間にある悲劇全体の部分である。 エクソードは、悲劇全体のうち、その後に合唱の歌のない部分である。パロード(Parode)は、合唱が最初に発する分割されていない歌であり、スタシモ ン(Stasimon)は、アナペストやトローチ四部形式のない合唱の頌歌であり、コモス(Commos)は、合唱と俳優の共同哀歌である。悲劇におい て、全体の要素として扱われるべき部分についてはすでに述べた。量的な部分、つまり悲劇が分割された個別の部分をここに列挙する]。
【整理】
1)プロロゴス:序幕
2)パロドス:パロドスという劇場の部分を通りコロスが入場する。
3)エペイソディオン:エイソドスから俳優が登場する。対話と所作で劇が進行。
4)スタシモン:コロスが整列して複雑な韻律を歌唱する。
5)エクソドス:コロスの退場より。ただし、スタシモンの後半の部分を含む。



XIII

As the sequel to what has already been said, we must proceed to consider what the poet should aim at, and what he should avoid, in constructing his plots; and by what means the specific effect of Tragedy will be produced.

A perfect tragedy should, as we have seen, be arranged not on the simple but on the complex plan. It should, moreover, imitate actions which excite pity and fear, this being the distinctive mark of tragic imitation. It follows plainly, in the first place, that the change, of fortune presented must not be the spectacle of a virtuous man brought from prosperity to adversity: for this moves neither pity nor fear; it merely shocks us. Nor, again, that of a bad man passing from adversity to prosperity: for nothing can be more alien to the spirit of Tragedy; it possesses no single tragic quality; it neither satisfies the moral sense nor calls forth pity or fear. Nor, again, should the downfall of the utter villain be exhibited. A plot of this kind would, doubtless, satisfy the moral sense, but it would inspire neither pity nor fear; for pity is aroused by unmerited misfortune, fear by the misfortune of a man like ourselves. Such an event, therefore, will be neither pitiful nor terrible. There remains, then, the character between these two extremes,―that of a man who is not eminently good and just,-yet whose misfortune is brought about not by vice or depravity, but by some error or frailty. He must be one who is highly renowned and prosperous,―a personage like Oedipus, Thyestes, or other illustrious men of such families.

A well constructed plot should, therefore, be single in its issue, rather than double as some maintain. The change of fortune should be not from bad to good, but, reversely, from good to bad. It should come about as the result not of vice, but of some great error or frailty, in a character either such as we have described, or better rather than worse. The practice of the stage bears out our view. At first the poets recounted any legend that came in their way. Now, the best tragedies are founded on the story of a few houses, on the fortunes of Alcmaeon, Oedipus, Orestes, Meleager, Thyestes, Telephus, and those others who have done or suffered something terrible. A tragedy, then, to be perfect according to the rules of art should be of this construction. Hence they are in error who censure Euripides just because he follows this principle in his plays, many of which end unhappily. It is, as we have said, the right ending. The best proof is that on the stage and in dramatic competition, such plays, if well worked out, are the most tragic in effect; and Euripides, faulty though he may be in the general management of his subject, yet is felt to be the most tragic of the poets.

In the second rank comes the kind of tragedy which some place first. Like the Odyssey, it has a double thread of plot, and also an opposite catastrophe for the good and for the bad. It is accounted the best because of the weakness of the spectators; for the poet is guided in what he writes by the wishes of his audience. The pleasure, however, thence derived is not the true tragic pleasure. It is proper rather to Comedy, where those who, in the piece, are the deadliest enemies―like Orestes and Aegisthus―quit the stage as friends at the close, and no one slays or is slain.
13. 筋の組みたてにおける目標につい て

完璧な悲劇は、これまで見てきたように、単純な計画ではなく、複雑な計 画の上に配置されるべきである。さらに、同情と恐怖を興奮させる行動を模倣すべきである。まず第一に、提示される運命の変化は、徳のある人 間が繁栄から逆境に陥るようなものであってはならない。また、悪人が逆境から繁栄に転じるようなものであってはならない。これほど悲劇の精神とかけ離れた ものはない。また、完全な悪役の没落を描くべきではない。この種の筋書きは、間違いなく道徳的感覚を満足させるだろうが、同情も恐怖も呼び起こさないだろ う。同情は招かれざる不幸によって、恐怖は私たちのような人間の不幸によって呼び起こされるからだ。それゆえ、そのような出来事は哀れでも恐ろしくもな い。では、この両極端の中間にある人物像が残る。それは、きわめて善良で正義感が強いわけではないが、悪徳や堕落によってではなく、何らかの誤りや虚弱に よって不幸がもたらされた人物である。オイディプスやティエステスなど、そのような家柄の輝かしい人物のような人物でなければならない。運命の変化は、悪 いものから良いものへではなく、逆に良いものから悪いものへであるべきだ。それは悪の結果ではなく、何らかの大きな過ちや虚弱の結果として起こるものでな ければならない。舞台での実践は、私たちの見解を裏付けている。最初、詩人たちは、自分たちの邪魔になる伝説は何でも再話した。今、最良の悲劇は、アルク メオン、オイディプス、オレステス、メレジャー、ティエステス、テレフォス、その他、何か恐ろしいことをしたり苦しんだりした人たちの運命を、数軒の家の 物語を土台にしている。悲劇は、芸術の規則に従って完璧であるためには、このような構造でなければならない。それゆえ、エウリピデスが不幸な結末を迎える 戯曲の多くでこの原則に従っているからといって、それを非難する人々は間違っている。それは、これまで述べてきたように、正しい結末なのである。そしてエ ウリピデスは、その主題の一般的な扱い方において欠陥があったとしても、詩人の中では最も悲劇的であると感じられる。オデュッセイアのように、この悲劇に は二重の筋立てがあり、善と悪の対極にある破局もある。この悲劇が最も優れているとされるのは、観客が弱いからである。しかし、そこから得られる喜びは、 真の悲劇的喜びではない。むしろ喜劇にふさわしいのは、作品中では最凶の敵であるオレステスとアイギストスのように、舞台の最後には友人として退場し、誰 も殺さず、殺されることもない喜劇である。
XIV

Fear and pity may be aroused by spectacular means; but they may also result from the inner structure of the piece, which is the better way, and indicates a superior poet. For the plot ought to be so constructed that, even without the aid of the eye, he who hears the tale told will thrill with horror and melt to pity at what takes place. This is the impression we should receive from hearing the story of the Oedipus. But to produce this effect by the mere spectacle is a less artistic method, and dependent on extraneous aids. Those who employ spectacular means to create a sense not of the terrible but only of the monstrous, are strangers to the purpose of Tragedy; for we must not demand of Tragedy any and every kind of pleasure, but only that which is proper to it. And since the pleasure which the poet should afford is that which comes from pity and fear through imitation, it is evident that this quality must be impressed upon the incidents.

Let us then determine what are the circumstances which strike us as terrible or pitiful.

Actions capable of this effect must happen between persons who are either friends or enemies or indifferent to one another. If an enemy kills an enemy, there is nothing to excite pity either in the act or the intention,―except so far as the suffering in itself is pitiful. So again with indifferent persons. But when the tragic incident occurs between those who are near or dear to one another―if, for example, a brother kills, or intends to kill, a brother, a son his father, a mother her son, a son his mother, or any other deed of the kind is done―these are the situations to be looked for by the poet. He may not indeed destroy the framework of the received legends―the fact, for instance, that Clytemnestra was slain by Orestes and Eriphyle by Alcmaeon but he ought to show invention of his own, and skilfully handle the traditional material. Let us explain more clearly what is meant by skilful handling.

The action may be done consciously and with knowledge of the persons, in the manner of the older poets. It is thus too that Euripides makes Medea slay her children. Or, again, the deed of horror may be done, but done in ignorance, and the tie of kinship or friendship be discovered afterwards. The Oedipus of Sophocles is an example. Here, indeed, the incident is outside the drama proper; but cases occur where it falls within the action of the play: one may cite the Alcmaeon of Astydamas, or Telegonus in the Wounded Odysseus. Again, there is a third case,― (to be about to act with knowledge of the persons and then not to act. The fourth case is) when some one is about to do an irreparable deed through ignorance, and makes the discovery before it is done. These are the only possible ways. For the deed must either be done or not done,―and that wittingly or unwittingly. But of all these ways, to be about to act knowing the persons, and then not to act, is the worst. It is shocking without being tragic, for no disaster follows. It is, therefore, never, or very rarely, found in poetry. One instance, however, is in the Antigone, where Haemon threatens to kill Creon. The next and better way is that the deed should be perpetrated. Still better, that it should be perpetrated in ignorance, and the discovery made afterwards. There is then nothing to shock us, while the discovery produces a startling effect. The last case is the best, as when in the Cresphontes Merope is about to slay her son, but, recognising who he is, spares his life. So in the Iphigenia, the sister recognises the brother just in time. Again in the Helle, the son recognises the mother when on the point of giving her up. This, then, is why a few families only, as has been already observed, furnish the subjects of tragedy. It was not art, but happy chance, that led the poets in search of subjects to impress the tragic quality upon their plots. They are compelled, therefore, to have recourse to those houses whose history contains moving incidents like these.

Enough has now been said concerning the structure of the incidents, and the right kind of plot.
14. おそれとあわれみの効果の出し方 について


恐怖と憐憫は、派手な手段によって喚起されることもあるが、作品の内部構造から生じることもある。筋書きは、たとえ視覚の助けを借りなくても、その物語を 聞いた人が恐怖におののき、その出来事に憐憫の情を抱くように組み立てられていなければならない。これがオイディプスの物語から受けるべき印象である。し かし、単なる見世物によってこの効果を生み出すのは、芸術的な方法とは言い難く、余計な補助に依存している。悲劇にあらゆる種類の快楽を求めてはならな い。そして、詩人が与えるべき快楽は、模倣によって同情と恐怖からもたらされるものであるから、この性質が事件に印象づけられなければならないことは明ら かである。では、恐ろしい、あるいは哀れであるとわれわれに思わせる状況とはどのようなものであるかを判断してみよう。このような効果をもたらすような行 為は、互いに敵か味方か、あるいは無関心である人々の間で起こるはずである。敵が敵を殺したとしても、その行為にも意図にも同情を誘うようなものはない。 無関心な者同士でも同様である。しかし、悲劇的な出来事が、互いに近しい者同士、あるいは親しい者同士の間で起こる場合、たとえば、兄弟が兄弟を殺す、あ るいは殺そうとする場合、息子が父親を殺す、母親が息子を殺す、息子が母親を殺す、あるいはその他のこの種の行為が行われる場合、詩人が探し求めるべき状 況はこのようなものである。例えば、クリュテムネストラがオレステスに殺され、エリフィレがアルクマイオンに殺されたというようなことである。しかし、詩 人は自分の創意を発揮し、伝統的な素材を巧みに扱うべきである。その行為は、古い詩人たちのやり方で、意識的に、そして人物を知った上で行われるかもしれ ない。エウリピデスがメデアに自分の子供たちを殺させるのも、そうである。エウリピデスがメデアに自分の子供たちを殺させるのも、そのためである。あるい はまた、恐怖の行為が行われるかもしれないが、それは無知のうちに行われ、親族関係や友情の絆が後から発見されるかもしれない。ソフォクレスの『オイディ プス』がその例である。アスティダマスのアルカメオンや、『傷だらけのオデュッセウス』のテレゴヌスがその例である。また、第三のケースとして、(人物を 知っていて行動しようとしていたのに、行動しない)場合がある。第四のケースは)無知ゆえに取り返しのつかない行為をしようとしていて、それが実行される 前に発見する場合である。これらは唯一可能な方法である。というのも、行為は行われるか、行われないかのどちらかでなければならないからである。しかし、 これらの方法の中でも、その人物を知っていながら行為に及ぼうとし、そして行為に及ばないというのは最悪のものである。悲劇的ではなくても衝撃的である。 それゆえ、このような方法は詩には見られないか、あるいは非常に稀である。しかし、『アンティゴネー』では、ヘーモンがクレオンを殺すと脅している。次に よりよい方法は、その行為が実行されることである。さらに良いのは、無知のうちに実行され、その後に発見されることである。そうすれば、私たちに衝撃を与 えるものは何もない。最後のケースは、『クレスポンテス』でメローペが息子を殺そうとしたが、その正体を知って命を助けたように、最良のものである。イ フィゲニア』では、妹が間一髪で兄に気づく。ヘレ』でも、息子は母親を捨てる寸前で、その正体を見破った。こうして、すでに述べたように、ごく少数の家族 だけが悲劇の題材となるのである。題材を求める詩人たちを悲劇的なプロットへと導いたのは、芸術ではなく、幸福な偶然であった。それゆえ、詩人たちは、こ のような感動的な事件が歴史に含まれている家に頼らざるを得ないのである。
XV

In respect of Character there are four things to be aimed at. First, and most important, it must be good. Now any speech or action that manifests moral purpose of any kind will be expressive of character: the character will be good if the purpose is good. This rule is relative to each class. Even a woman may be good, and also a slave; though the woman may be said to be an inferior being, and the slave quite worthless. The second thing to aim at is propriety. There is a type of manly valour; but valour in a woman, or unscrupulous cleverness, is inappropriate. Thirdly, character must be true to life: for this is a distinct thing from goodness and propriety, as here described. The fourth point is consistency: for though the subject of the imitation, who suggested the type, be inconsistent, still he must be consistently inconsistent. As an example of motiveless degradation of character, we have Menelaus in the Orestes: of character indecorous and inappropriate, the lament of Odysseus in the Scylla, and the speech of Melanippe: of inconsistency, the Iphigenia at Aulis,―for Iphigenia the suppliant in no way resembles her later self.

As in the structure of the plot, so too in the portraiture of character, the poet should always aim either at the necessary or the probable. Thus a person of a given character should speak or act in a given way, by the rule either of necessity or of probability; just as this event should follow that by necessary or probable sequence. It is therefore evident that the unravelling of the plot, no less than the complication, must arise out of the plot itself, it must not be brought about by the 'Deus ex Machina'―as in the Medea, or in the Return of the Greeks in the Iliad. The 'Deus ex Machina' should be employed only for events external to the drama,―for antecedent or subsequent events, which lie beyond the range of human knowledge, and which require to be reported or foretold; for to the gods we ascribe the power of seeing all things. Within the action there must be nothing irrational. If the irrational cannot be excluded, it should be outside the scope of the tragedy. Such is the irrational element in the Oedipus of Sophocles.

Again, since Tragedy is an imitation of persons who are above the common level, the example of good portrait-painters should be followed. They, while reproducing the distinctive form of the original, make a likeness which is true to life and yet more beautiful. So too the poet, in representing men who are irascible or indolent, or have other defects of character, should preserve the type and yet ennoble it. In this way Achilles is portrayed by Agathon and Homer.

These then are rules the poet should observe. Nor should he neglect those appeals to the senses, which, though not among the essentials, are the concomitants of poetry; for here too there is much room for error. But of this enough has been said in our published treatises.
15. 性格の描写について

性格に関しては、目指すべきことが4つある。第一に、そして最も重要なことは、それが善でなければならないということである。目的が善であれば、人格は善 である。このルールは各階級に関係する。たとえ女性であっても、また奴隷であっても、善良であるかもしれない。しかし、女性は劣った存在であり、奴隷は まったく無価値であると言えるかもしれない。第二に目指すべきは礼儀正しさである。男らしい武勇というものがあるが、女性の武勇や不謹慎な賢さは不適切で ある。第三に、性格は人生に忠実でなければならない。第四のポイントは一貫性である。型を示唆した模倣の対象が一貫していなくても、一貫して一貫していな ければならないからである。動機のない性格の劣化の例としては、『オレステス』のメネラウスがある。卑猥で不適切な性格の例としては、『スキュラ』のオ デュッセウスの嘆きや、メラニッペの演説がある。矛盾の例としては、『アウリスのイフィゲニア』がある。このように、ある人物は、必然的な法則か確率的な 法則のどちらかによって、ある話し方をしたり、ある行動をしたりするはずである。それゆえ、筋書きの解明は、複雑化もさることながら、筋書きそのものから 生じるものでなければならないことは明らかで、「デウス・エクス・マキナ」によってもたらされてはならない--『メデア』や『イーリアス』のギリシア人の 帰還のように。デウス・エクス・マキナ」は、戯曲の外部にある出来事、つまり、人間の知識の及ぶ範囲を超えていて、報告や予言が必要な、先行あるいは後続 の出来事にのみ用いられるべきである。行為には非合理的なものがあってはならない。非合理的なものを排除できないのであれば、それは悲劇の範囲外であるべ きだ。ソフォクレスの『オイディプス』には、そのような非合理的な要素がある。悲劇とは、一般的な水準よりも高い人物の模倣であるから、優れた肖像画家の 例に倣うべきである。彼らは、元の人物の特徴的な形を再現しながら、人生に忠実で、さらに美しい似顔絵を描く。だから詩人も、怒りっぽかったり、不摂生 だったり、性格に欠点がある人物を描くときは、原型を保ちつつも、その人物に磨きをかけるべきなのだ。アガソンやホメロスはこのようにアキレウスを描いて いる。また、本質的なものではないにせよ、詩の付随物である感覚への訴えをないがしろにしてはならない。しかし、このことについては、私たちが出版してい る論説で十分に語られている。
XVI

What Recognition is has been already explained. We will now enumerate its kinds.

First, the least artistic form, which, from poverty of wit, is most commonly employed recognition by signs. Of these some are congenital,―such as 'the spear which the earth-born race bear on their bodies,' or the stars introduced by Carcinus in his Thyestes. Others are acquired after birth; and of these some are bodily marks, as scars; some external tokens, as necklaces, or the little ark in the Tyro by which the discovery is effected. Even these admit of more or less skilful treatment. Thus in the recognition of Odysseus by his scar, the discovery is made in one way by the nurse, in another by the swineherds. The use of tokens for the express purpose of proof―and, indeed, any formal proof with or without tokens―is a less artistic mode of recognition. A better kind is that which comes about by a turn of incident, as in the Bath Scene in the Odyssey.

Next come the recognitions invented at will by the poet, and on that account wanting in art. For example, Orestes in the Iphigenia reveals the fact that he is Orestes. She, indeed, makes herself known by the letter; but he, by speaking himself, and saying what the poet, not what the plot requires. This, therefore, is nearly allied to the fault above mentioned:―for Orestes might as well have brought tokens with him. Another similar instance is the 'voice of the shuttle' in the Tereus of Sophocles.

The third kind depends on memory when the sight of some object awakens a feeling: as in the Cyprians of Dicaeogenes, where the hero breaks into tears on seeing the picture; or again in the 'Lay of Alcinous,' where Odysseus, hearing the minstrel play the lyre, recalls the past and weeps; and hence the recognition.

The fourth kind is by process of reasoning. Thus in the Choephori: 'Some one resembling me has come: no one resembles me but Orestes: therefore Orestes has come.' Such too is the discovery made by Iphigenia in the play of Polyidus the Sophist. It was a natural reflection for Orestes to make, 'So I too must die at the altar like my sister.' So, again, in the Tydeus of Theodectes, the father says, 'I came to find my son, and I lose my own life.' So too in the Phineidae: the women, on seeing the place, inferred their fate:―'Here we are doomed to die, for here we were cast forth.' Again, there is a composite kind of recognition involving false inference on the part of one of the characters, as in the Odysseus Disguised as a Messenger. A said (that no one else was able to bend the bow;... hence B (the disguised Odysseus) imagined that A would) recognise the bow which, in fact, he had not seen; and to bring about a recognition by this means that the expectation A would recognise the bow is false inference.

But, of all recognitions, the best is that which arises from the incidents themselves, where the startling discovery is made by natural means. Such is that in the Oedipus of Sophocles, and in the Iphigenia; for it was natural that Iphigenia should wish to dispatch a letter. These recognitions alone dispense with the artificial aid of tokens or amulets. Next come the recognitions by process of reasoning.
16. 認知の種類について

認識とは何かはすでに説明した。第一に、最も芸術的でない形式であり、機知に乏しいことから、記号による認識が最も一般的である。そのうちのいくつかは先 天性のものであり、たとえば「地上に生まれた種族がその身に負う槍」や、カルキヌスが『ティステス』の中で紹介した星のようなものである。また、傷跡のよ うに身体に刻まれるものもあれば、ネックレスやチロの小さな箱舟のように、発見される前に外部に示すものもある。このようなものであっても、多かれ少なか れ巧みな扱いが可能である。オデュッセウスがその傷跡によって発見されたのは、ある意味では看護婦によるものであり、別の意味では豚飼いたちによるもので ある。証明という明確な目的のためにトークンを使用すること、そして実際、トークンの有無にかかわらず、形式的な証明は、あまり芸術的でない認識方法であ る。次に来るのは、詩人が気ままに創作した認識であり、その点では芸術性に欠ける。例えば、『イフィゲニア』のオレステスは、自分がオレステスであること を明かす。彼女は手紙によって自分自身を明らかにするが、彼は自分自身を語ることによって、筋書きが要求することではなく詩人が要求することを語るのであ る。それゆえ、これは上に述べた欠点とほとんど同じである。もう一つの類似した例は、ソフォクレスの『テレウス』における「シャトルの声」である。第三の 種類は、ある対象を見たときに感情が呼び覚まされるときの記憶によるもので、ディカエオゲネスの『シプリアス』では、主人公が絵を見て涙を流す;また、 『アルキノスの寝床』では、オデュッセウスが吟遊詩人が竪琴を弾くのを聞いて、過去を思い出して涙を流す。このように『チョエフォリ』では、「私に似た者 が来た:私に似た者はオレステス以外にはいない:だからオレステスが来た」。ソフィストであるポリュイドスの戯曲の中でイフィゲニアが発見したのもこのよ うなことである。だから私も妹のように祭壇で死ななければならない』。テオデクテスの『テュデウス』でも、父親は『息子を探しに来たのに、自分の命を失 う』と言う。女たちはその場所を見て、「私たちはここで死ぬ運命にある。オデュッセウスは使者に変装した』のように、登場人物の一人が誤った推論をする複 合的な認識もある。Aは(誰も弓を曲げられないと言った;...それゆえB(変装したオデュッセウス)は、Aは実際には見たこともない弓を)認識するだろ うと想像したのである。ソフォクレスの『オイディプス』や『イフィゲニア』がそうである。イフィゲニアが手紙を出したいと思うのは自然なことだったからで ある。次に来るのは、推論による認識である。
XVII

In constructing the plot and working it out with the proper diction, the poet should place the scene, as far as possible, before his eyes. In this way, seeing everything with the utmost vividness, as if he were a spectator of the action, he will discover what is in keeping with it, and be most unlikely to overlook inconsistencies. The need of such a rule is shown by the fault found in Carcinus. Amphiaraus was on his way from the temple. This fact escaped the observation of one who did not see the situation. On the stage, however, the piece failed, the audience being offended at the oversight.

Again, the poet should work out his play, to the best of his power, with appropriate gestures; for those who feel emotion are most convincing through natural sympathy with the characters they represent; and one who is agitated storms, one who is angry rages, with the most life-like reality. Hence poetry implies either a happy gift of nature or a strain of madness. In the one case a man can take the mould of any character; in the other, he is lifted out of his proper self.

As for the story, whether the poet takes it ready made or constructs it for himself, he should first sketch its general outline, and then fill in the episodes and amplify in detail. The general plan may be illustrated by the Iphigenia. A young girl is sacrificed; she disappears mysteriously from the eyes of those who sacrificed her; She is transported to another country, where the custom is to offer up all strangers to the goddess. To this ministry she is appointed. Some time later her own brother chances to arrive. The fact that the oracle for some reason ordered him to go there, is outside the general plan of the play. The purpose, again, of his coming is outside the action proper. However, he comes, he is seized, and, when on the point of being sacrificed, reveals who he is. The mode of recognition may be either that of Euripides or of Polyidus, in whose play he exclaims very naturally:―'So it was not my sister only, but I too, who was doomed to be sacrificed'; and by that remark he is saved.

After this, the names being once given, it remains to fill in the episodes. We must see that they are relevant to the action. In the case of Orestes, for example, there is the madness which led to his capture, and his deliverance by means of the purificatory rite. In the drama, the episodes are short, but it is these that give extension to Epic poetry. Thus the story of the Odyssey can be stated briefly. A certain man is absent from home for many years; he is jealously watched by Poseidon, and left desolate. Meanwhile his home is in a wretched plight―suitors are wasting his substance and plotting against his son. At length, tempest-tost, he himself arrives; he makes certain persons acquainted with him; he attacks the suitors with his own hand, and is himself preserved while he destroys them. This is the essence of the plot; the rest is episode.
17. 悲劇の制作について―矛盾・不自 然の回避、普遍的筋書きの作成

プロットを構成し、適切なディクションを駆使する際、詩人は可能な限りその場面を目の前に置くべきである。そうすれば、まるで自分がその行為の観客である かのように、すべてを鮮明に見ることができる。このようなルールの必要性は、カルキヌスに見られる欠点が示している。アムピアラオスは神殿から帰る途中 だった。この事実は、その状況を見ていない者の観察からは漏れていた。繰り返すが、詩人は自分の戯曲を、自分の力の限りを尽くして、適切な身振りで表現す べきである。感情を感じる者は、表現する人物との自然な共感によって最も説得力を持つ。それゆえ詩は、自然からの幸福な贈り物か、狂気のひずみのどちらか を意味する。物語については、詩人が出来合いのものを受け取るにせよ、自分で構築するにせよ、まずその大枠をスケッチし、それからエピソードを埋め、細部 を増幅させるべきである。大まかな計画は、『イフィゲニア』で説明できる。若い娘が生け贄に捧げられ、生け贄に捧げた人々の目から謎の失踪を遂げる。彼女 はその聖職に任命される。しばらくして、彼女の実の兄が偶然やってくる。神託が何らかの理由で彼にそこへ行くように命じたという事実は、劇の一般的な計画 から外れている。兄がやって来た目的も、また芝居の本質から外れている。しかし、彼はやって来て、取り押さえられ、生け贄にされる寸前になって、自分が何 者であるかを明かす。その認識の仕方は、エウリピデスかポリュイドスのどちらかであろう。ポリュイドスの戯曲では、彼はごく自然にこう叫ぶ--「生贄にさ れる運命にあったのは妹だけでなく、私も同じだったのだ」と。この後、名前が一度与えられたら、あとはエピソードを埋めていくだけである。例えば、オレス テスの場合、彼が捕らえられるに至った狂気と、清めの儀式による解放がある。戯曲ではエピソードは短いが、叙事詩に広がりを与えるのはこれらのエピソード である。したがって、『オデュッセイア』の物語を簡単に説明することができる。ある男が何年も家を空け、ポセイドンに嫉妬深く見張られ、荒れ果てたままに なっている。その間、彼の家は惨めな状態にあった。やがて、癇癪持ちの息子自身が到着し、ある人物に自分のことを知らせ、自分の手で求婚者たちを攻撃し、 彼らを滅ぼす間、自分は守られる。これが筋書きの本質であり、残りはエピソードである。
XVIII

Every tragedy falls into two parts,―Complication and Unravelling or Denouement. Incidents extraneous to the action are frequently combined with a portion of the action proper, to form the Complication; the rest is the Unravelling. By the Complication I mean all that extends from the beginning of the action to the part which marks the turning-point to good or bad fortune. The Unravelling is that which extends from the beginning of the change to the end. Thus, in the Lynceus of Theodectes, the Complication consists of the incidents presupposed in the drama, the seizure of the child, and then again, The Unravelling extends from the accusation of murder to the end.

There are four kinds of Tragedy, the Complex, depending entirely on Reversal of the Situation and Recognition; the Pathetic (where the motive is passion),―such as the tragedies on Ajax and Ixion; the Ethical (where the motives are ethical),―such as the Phthiotides and the Peleus. The fourth kind is the Simple (We here exclude the purely spectacular element), exemplified by the Phorcides, the Prometheus, and scenes laid in Hades. The poet should endeavour, if possible, to combine all poetic elements; or failing that, the greatest number and those the most important; the more so, in face of the cavilling criticism of the day. For whereas there have hitherto been good poets, each in his own branch, the critics now expect one man to surpass all others in their several lines of excellence.

In speaking of a tragedy as the same or different, the best test to take is the plot. Identity exists where the Complication and Unravelling are the same. Many poets tie the knot well, but unravel it ill. Both arts, however, should always be mastered.

Again, the poet should remember what has been often said, and not make an Epic structure into a Tragedy―by an Epic structure I mean one with a multiplicity of plots―as if, for instance, you were to make a tragedy out of the entire story of the Iliad. In the Epic poem, owing to its length, each part assumes its proper magnitude. In the drama the result is far from answering to the poet's expectation. The proof is that the poets who have dramatised the whole story of the Fall of Troy, instead of selecting portions, like Euripides; or who have taken the whole tale of Niobe, and not a part of her story, like Aeschylus, either fail utterly or meet with poor success on the stage. Even Agathon has been known to fail from this one defect. In his Reversals of the Situation, however, he shows a marvellous skill in the effort to hit the popular taste,―to produce a tragic effect that satisfies the moral sense. This effect is produced when the clever rogue, like Sisyphus, is outwitted, or the brave villain defeated. Such an event is probable in Agathon's sense of the word: 'it is probable,' he says, 'that many things should happen contrary to probability.'

The Chorus too should be regarded as one of the actors; it should be an integral part of the whole, and share in the action, in the manner not of Euripides but of Sophocles. As for the later poets, their choral songs pertain as little to the subject of the piece as to that of any other tragedy. They are, therefore, sung as mere interludes, a practice first begun by Agathon. Yet what difference is there between introducing such choral interludes, and transferring a speech, or even a whole act, from one play to another?
18. ふたたび悲劇の制作について―結 び合わせ、解決、悲劇の種類

すべての悲劇は、「複雑化」と「解明」または「結末」の2つの部分に分かれる。その行為に無関係な事件が、その行為の一部と組み合わさって「複雑化」を形 成し、残りが「解明」である。コンプリケーションとは、行動の始まりから、吉凶の分岐点となる部分までのすべてを指す。解明とは、変化の始まりから終わり までのことである。このように、『テオデクテス』の『リンセウス』では、「複雑化」は、ドラマの前提となる事件、子供の奪取から構成され、そしてまた、 「解明」は、殺人の告発から終わりまで続く。 悲劇には4つの種類があり、状況の逆転と認識に完全に依存する「複合型」、エイジャックスやイクシオンの悲劇に代表される「悲愴型」(動機が情熱の場 合)、『フィチオティデス』や『ペレウス』に代表される「倫理型」(動機が倫理的な場合)である。第四は、『フォルシデス』、『プロメテウス』、『黄泉の 国』などに代表される単純なものである。詩人は、可能であれば、すべての詩的要素を組み合わせるように努めるべきである。それができなければ、最も数が多 く、最も重要な要素を組み合わせるべきである。それまでは、それぞれの分野で優れた詩人がいたのに対して、批評家たちは今、一人の男がそれぞれの優れた分 野で他のすべての人を凌駕することを期待しているのだから。悲劇が同じか違うかを語るとき、最も良いテストは筋書きである。悲劇が同じか違うかを語ると き、最もよいテストは筋書きである。複雑さと解明が同じであれば、同一性が存在する。多くの詩人は結び目をうまく結ぶが、解き明かしは下手だ。繰り返しに なるが、詩人はよく言われていることを肝に銘じて、叙事詩の構造を悲劇にすべきではない。叙事詩の構造とは、複数のプロットを持つものを意味する。叙事詩 では、その長さゆえに、それぞれの部分が適切な大きさを持つ。戯曲では、詩人の期待に応えるにはほど遠い結果となる。その証拠に、エウリピデスのように一 部を選んで劇化するのではなく、トロイ陥落の物語全体を劇化した詩人や、アイスキュロスのようにニオベの物語の一部ではなく全体を劇化した詩人は、まった く失敗するか、舞台での成功率が低い。アガソンでさえ、この一つの欠点から失敗することが知られている。しかし、『状況の逆転』では、大衆の嗜好をとら え、道徳的感覚を満足させる悲劇的効果を生み出そうとする努力において、驚くべき手腕を発揮している。このような効果を生み出すのは、シジフォスのように 賢い悪党が出し抜かれたり、勇敢な悪党が打ち負かされたりするときである。コーラスもまた俳優の一人とみなされるべきであり、エウリピデスではなくソフォ クレスのように、全体の不可欠な一部であり、アクションを共有すべきである。後世の詩人たちの合唱曲は、他の悲劇と同様、作品の主題とはほとんど関係がな い。そのため、単なる間奏曲として歌われるが、これはアガトンが最初に始めた習慣である。しかし、このような合唱の間奏を導入することと、ある劇から別の 劇に台詞を、あるいは全幕を移すことの間に、どのような違いがあるのだろうか。
XIX

It remains to speak of Diction and Thought, the other parts of Tragedy having been already discussed. Concerning Thought, we may assume what is said in the Rhetoric, to which inquiry the subject more strictly belongs. Under Thought is included every effect which has to be produced by speech, the subdivisions being,―proof and refutation; the excitation of the feelings, such as pity, fear, anger, and the like; the suggestion of importance or its opposite. Now, it is evident that the dramatic incidents must be treated from the same points of view as the dramatic speeches, when the object is to evoke the sense of pity, fear, importance, or probability. The only difference is, that the incidents should speak for themselves without verbal exposition; while the effects aimed at in speech should be produced by the speaker, and as a result of the speech. For what were the business of a speaker, if the Thought were revealed quite apart from what he says?

Next, as regards Diction. One branch of the inquiry treats of the Modes of Utterance. But this province of knowledge belongs to the art of Delivery and to the masters of that science. It includes, for instance,―what is a command, a prayer, a statement, a threat, a question, an answer, and so forth. To know or not to know these things involves no serious censure upon the poet's art. For who can admit the fault imputed to Homer by Protagoras,―that in the words, 'Sing, goddess, of the wrath,' he gives a command under the idea that he utters a prayer? For to tell some one to do a thing or not to do it is, he says, a command. We may, therefore, pass this over as an inquiry that belongs to another art, not to poetry.
19. 思想、語法について

悲劇の他の部分についてはすでに述べたが、残るは語法と思想についてである。思考」については、「修辞学」で述べられていることを前提にしてもよい。その 下位には、証明と反論、同情、恐怖、怒りなどの感情の喚起、重要性の示唆、あるいはその反対などがある。さて、憐憫、恐怖、重要性、蓋然性の感覚を呼び起 こすことを目的とする場合、劇的な事件は劇的なスピーチと同じ観点から扱われなければならないことは明らかである。唯一の違いは、事件は言葉で説明するこ となく、それ自体で語られるべきであるということである。一方、スピーチで狙われる効果は、話し手によって、スピーチの結果として生み出されるべきであ る。次に、ディクションについて。この研究の一部門は、発話の様式について扱っている。しかし、この分野の知識は話術とその達人に属するものである。例え ば、命令とは何か、祈りとは何か、声明とは何か、脅しとは何か、質問とは何か、答えとは何か、などである。これらのことを知っていても知らなくても、詩人 の芸術に対する深刻な非難にはならない。プロタゴラスがホメロスに課した過ち、すなわち、「女神よ、怒りの歌を歌え」という言葉において、ホメロスは祈り の言葉を発したつもりで命令を下している、という過ちを誰が認めることができようか。あることをするように、あるいはしないように言うことは、命令なので ある。したがって、これは詩の問題ではなく、別の芸術の問題である。
XX

[Language in general includes the following parts:―Letter, Syllable, Connecting word, Noun, Verb, Inflexion or Case, Sentence or Phrase.

A Letter is an indivisible sound, yet not every such sound, but only one which can form part of a group of sounds. For even brutes utter indivisible sounds, none of which I call a letter. The sound I mean may be either a vowel, a semi-vowel, or a mute. A vowel is that which without impact of tongue or lip has an audible sound. A semi-vowel, that which with such impact has an audible sound, as S and R. A mute, that which with such impact has by itself no sound, but joined to a vowel sound becomes audible, as G and D. These are distinguished according to the form assumed by the mouth and the place where they are produced; according as they are aspirated or smooth, long or short; as they are acute, grave, or of an intermediate tone; which inquiry belongs in detail to the writers on metre.

A Syllable is a non-significant sound, composed of a mute and a vowel: for GR without A is a syllable, as also with A,―GRA. But the investigation of these differences belongs also to metrical science.

A Connecting word is a non-significant sound, which neither causes nor hinders the union of many sounds into one significant sound; it may be placed at either end or in the middle of a sentence. Or, a non-significant sound, which out of several sounds, each of them significant, is capable of forming one significant sound,―as {alpha mu theta iota}, {pi epsilon rho iota}, and the like. Or, a non-significant sound, which marks the beginning, end, or division of a sentence; such, however, that it cannot correctly stand by itself at the beginning of a sentence, as {mu epsilon nu}, {eta tau omicron iota}, {delta epsilon}.

A Noun is a composite significant sound, not marking time, of which no part is in itself significant: for in double or compound words we do not employ the separate parts as if each were in itself significant. Thus in Theodorus, 'god-given,' the {delta omega rho omicron nu} or 'gift' is not in itself significant.

A Verb is a composite significant sound, marking time, in which, as in the noun, no part is in itself significant. For 'man,' or 'white' does not express the idea of 'when'; but 'he walks,' or 'he has walked' does connote time, present or past.

Inflexion belongs both to the noun and verb, and expresses either the relation 'of,' 'to,' or the like; or that of number, whether one or many, as 'man' or 'men '; or the modes or tones in actual delivery, e.g. a question or a command. 'Did he go?' and 'go' are verbal inflexions of this kind.

A Sentence or Phrase is a composite significant sound, some at least of whose parts are in themselves significant; for not every such group of words consists of verbs and nouns―'the definition of man,' for example―but it may dispense even with the verb. Still it will always have some significant part, as 'in walking,' or 'Cleon son of Cleon.' A sentence or phrase may form a unity in two ways,―either as signifying one thing, or as consisting of several parts linked together. Thus the Iliad is one by the linking together of parts, the definition of man by the unity of the thing signified.]
20. 語法について

[文字、音節、接続語、名詞、動詞、屈折または格、文または句。文字は不可分の音であるが、そのようなすべての音ではなく、音のグループの一部を形成でき るものだけである。獣でさえも不可分の音を発するが、私はそのどれをも文字とは呼ばない。私が言う音とは、母音、半母音、無声音のいずれかである。母音と は、舌や唇の衝撃を受けずに聞こえる音のことである。半母音とは、SやRのように、舌や唇に衝撃を与えることで可聴域に達する音である。シラブルは、 ミュートと母音からなる重要でない音である。GRからAを除いたものはシラブルであり、GRAからAを除いたものもシラブルである。接続語は重要でない音 であり、多くの音を1つの重要な音に結合させる原因とも妨げともならない。または、{alpha mu theta iota}、{pi epsilon rho iota}などのように、いくつかの音のうち、それぞれが重要な音でありながら、重要な音を1つ形成することができる、重要でない音。あるいは、文頭、文 末、または文節を示す非有意音。しかし、{mu epsilon nu}、{eta tau omicron iota}、{delta epsilon}のように、文頭に単独で存在することはできない。動詞は、名詞と同様に、それ自体が重要な意味を持つ部分はない。屈折は名詞と動詞の両方 に属し、「~の」「~に」などの関係や、「男」「男たち」のように一人であろうと多数であろうと、数の関係や、質問や命令などの実際の伝達における様式や 調子を表す。文や句は複合的な重要な音であり、少なくともいくつかの部分はそれ自体が重要である。このような語群はすべて動詞と名詞で構成されているわけ ではなく、たとえば「the definition of man(人間の定義)」のように、動詞を含まない場合もある。それでも、「歩きながら」や「クレオンの息子クレオン」のように、必ず何らかの重要な部分を 持っている。文や語句は、ひとつのことを意味する場合と、いくつかの部分が結びついて構成されている場合とで、二通りの統一体を形成することがある。この ように、『イーリアス』は部分と部分との連結によってひとつとなり、『人間の定義』は意味されるものの単一性によって定義されるのである]。
XXI

Words are of two kinds, simple and double. By simple I mean those composed of non-significant elements, such as {gamma eta}. By double or compound, those composed either of a significant and non-significant element (though within the whole word no element is significant), or of elements that are both significant. A word may likewise be triple, quadruple, or multiple in form, like so many Massilian expressions, e.g. 'Hermo-caico-xanthus who prayed to Father Zeus>.'

Every word is either current, or strange, or metaphorical, or ornamental, or newly-coined, or lengthened, or contracted, or altered.

By a current or proper word I mean one which is in general use among a people; by a strange word, one which is in use in another country. Plainly, therefore, the same word may be at once strange and current, but not in relation to the same people. The word {sigma iota gamma upsilon nu omicron nu}, 'lance,' is to the Cyprians a current term but to us a strange one.

Metaphor is the application of an alien name by transference either from genus to species, or from species to genus, or from species to species, or by analogy, that is, proportion. Thus from genus to species, as: 'There lies my ship'; for lying at anchor is a species of lying. From species to genus, as: 'Verily ten thousand noble deeds hath Odysseus wrought'; for ten thousand is a species of large number, and is here used for a large number generally. From species to species, as: 'With blade of bronze drew away the life,' and 'Cleft the water with the vessel of unyielding bronze.' Here {alpha rho upsilon rho alpha iota}, 'to draw away,' is used for {tau alpha mu epsilon iota nu}, 'to cleave,' and {tau alpha mu epsilon iota nu} again for {alpha rho upsilon alpha iota},―each being a species of taking away. Analogy or proportion is when the second term is to the first as the fourth to the third. We may then use the fourth for the second, or the second for the fourth. Sometimes too we qualify the metaphor by adding the term to which the proper word is relative. Thus the cup is to Dionysus as the shield to Ares. The cup may, therefore, be called 'the shield of Dionysus,' and the shield 'the cup of Ares.' Or, again, as old age is to life, so is evening to day. Evening may therefore be called 'the old age of the day,' and old age, 'the evening of life,' or, in the phrase of Empedocles, 'life's setting sun.' For some of the terms of the proportion there is at times no word in existence; still the metaphor may be used. For instance, to scatter seed is called sowing: but the action of the sun in scattering his rays is nameless. Still this process bears to the sun the same relation as sowing to the seed. Hence the expression of the poet 'sowing the god-created light.' There is another way in which this kind of metaphor may be employed. We may apply an alien term, and then deny of that term one of its proper attributes; as if we were to call the shield, not 'the cup of Ares,' but 'the wineless cup.'

{An ornamental word...}

A newly-coined word is one which has never been even in local use, but is adopted by the poet himself. Some such words there appear to be: as {epsilon rho nu upsilon gamma epsilon sigma}, 'sprouters,' for {kappa epsilon rho alpha tau alpha}, 'horns,' and {alpha rho eta tau eta rho}, 'supplicator,' for {iota epsilon rho epsilon upsilon sigma}, 'priest.'

A word is lengthened when its own vowel is exchanged for a longer one, or when a syllable is inserted. A word is contracted when some part of it is removed. Instances of lengthening are,―{pi omicron lambda eta omicron sigma} for {pi omicron lambda epsilon omega sigma}, and {Pi eta lambda eta iota alpha delta epsilon omega} for {Pi eta lambda epsilon iota delta omicron upsilon}: of contraction,―{kappa rho iota}, {delta omega}, and {omicron psi}, as in {mu iota alpha / gamma iota nu epsilon tau alpha iota / alpha mu phi omicron tau episilon rho omega nu / omicron psi}.

An altered word is one in which part of the ordinary form is left unchanged, and part is re-cast; as in {delta epsilon xi iota-tau epsilon rho omicron nu / kappa alpha tau alpha / mu alpha zeta omicron nu}, {delta epsilon xi iota tau epsilon rho omicron nu} is for {delta epsilon xi iota omicron nu}.

[Nouns in themselves are either masculine, feminine, or neuter. Masculine are such as end in {nu}, {rho}, {sigma}, or in some letter compounded with {sigma},―these being two, and {xi}. Feminine, such as end in vowels that are always long, namely {eta} and {omega}, and―of vowels that admit of lengthening―those in {alpha}. Thus the number of letters in which nouns masculine and feminine end is the same; for {psi} and {xi} are equivalent to endings in {sigma}. No noun ends in a mute or a vowel short by nature. Three only end in {iota},―{mu eta lambda iota}, {kappa omicron mu mu iota}, {pi epsilon pi epsilon rho iota}: five end in {upsilon}. Neuter nouns end in these two latter vowels; also in {nu} and {sigma}.]
21. 詩的語法に関する考察

言葉には、単純なものと二重のものがある。単純とは、{gamma eta}のような有意でない要素で構成されるものをいう。二重または複合とは、有意な要素と有意でない要素(ただし単語全体では有意な要素はない)、また は両方が有意な要素で構成されているものをいう。単語は同様に、例えば「父ゼウスに祈ったヘルモ・カイコ・キサス」のような多くのマッシル語の表現のよう に、三重、四重、または多重の形式であることもある。

すべての単語は、時事的か、奇妙か、比喩的か、装飾的か、新しく造語されたか、長くなったか、収縮したか、変化したかのいずれかである。

流行の言葉や適切な言葉というのは、ある国民の間で一般的に使われているものを意味し、奇妙な言葉というのは、他の国で使われているものを意味する。した がって、同じ言葉が奇妙であると同時に流行の言葉でもあるが、同じ人々との関係ではそうではないことは明らかである。シグマ・イオタ・ガンマ・ウプシロ ン・ヌ・オミクロン・ヌ}という言葉、「ランス」は、キプロス人にとっては現在の言葉であるが、我々にとっては奇妙な言葉である。

比喩とは、属から種へ、種から属へ、種から種へ、あるいは類推、すなわち比例によって、外来名を適用することである。したがって、属から種へ、として。碇 を降ろしているのは嘘の一種である。種から属へ、とは オデュッセウスは1万もの高貴な行いをした」;1万は大きな数の種であり、ここでは一般的に大きな数に対して使われる。種から種へ 青銅の刃で命を引き離した」「屈強な青銅の容器で水を裂いた」のように、種から種へ。ここでは{alpha rho upsilon rho alpha iota}の「引き離す」が{tau alpha mu epsilon iota nu}の「裂く」に使われ、{tau alpha mu epsilon iota nu}がまた{alpha rho upsilon alpha iota}に用いられ、それぞれが奪うという種になっている。相似または比例とは、第2項が第1項に対して第4項が第3項であるような場合である。その場 合、4番目を2番目に、あるいは2番目を4番目に使うことができる。また、適切な言葉が相対する言葉を追加することによって、比喩を修飾することもある。 このように、杯はディオニュソスにとって、アレスの盾のようなものである。したがって、杯は「ディオニュソスの盾」と呼ばれ、盾は「アレスの杯」と呼ばれ ることがある。あるいはまた、老いが人生にとってそうであるように、夕べが昼にとってそうである。したがって、夕方は「昼の老年」、老年は「人生の夕 方」、エンペドクレスの言葉を借りれば「人生の落日」と呼ぶことができる。割合の用語の中には、現存する言葉がないものもあるが、それでも比喩が使われる ことがある。例えば、種を撒くことを種蒔きというが、太陽が光線を撒くという行為には名前がない。しかし、この過程は、種をまくのと同じ関係を太陽に対し て持っている。だから、詩人は「神が創った光を蒔く」と表現したのである。この種の比喩を用いる方法は、もう一つある。例えば、盾を「アレスの杯」ではな く、「勝利のない杯」と呼ぶようなものである。

XXII

The perfection of style is to be clear without being mean. The clearest style is that which uses only current or proper words; at the same time it is mean:―witness the poetry of Cleophon and of Sthenelus. That diction, on the other hand, is lofty and raised above the commonplace which employs unusual words. By unusual, I mean strange (or rare) words, metaphorical, lengthened,―anything, in short, that differs from the normal idiom. Yet a style wholly composed of such words is either a riddle or a jargon; a riddle, if it consists of metaphors; a jargon, if it consists of strange (or rare) words. For the essence of a riddle is to express true facts under impossible combinations. Now this cannot be done by any arrangement of ordinary words, but by the use of metaphor it can. Such is the riddle:―'A man I saw who on another man had glued the bronze by aid of fire,' and others of the same kind. A diction that is made up of strange (or rare) terms is a jargon. A certain infusion, therefore, of these elements is necessary to style; for the strange (or rare) word, the metaphorical, the ornamental, and the other kinds above mentioned, will raise it above the commonplace and mean, while the use of proper words will make it perspicuous. But nothing contributes more to produce a clearness of diction that is remote from commonness than the lengthening, contraction, and alteration of words. For by deviating in exceptional cases from the normal idiom, the language will gain distinction; while, at the same time, the partial conformity with usage will give perspicuity. The critics, therefore, are in error who censure these licenses of speech, and hold the author up to ridicule. Thus Eucleides, the elder, declared that it would be an easy matter to be a poet if you might lengthen syllables at will. He caricatured the practice in the very form of his diction, as in the verse: '{Epsilon pi iota chi alpha rho eta nu / epsilon iota delta omicron nu / Mu alpha rho alpha theta omega nu alpha delta epsilon / Beta alpha delta iota zeta omicron nu tau alpha}, or, {omicron upsilon kappa / alpha nu / gamma / epsilon rho alpha mu epsilon nu omicron sigma / tau omicron nu / epsilon kappa epsilon iota nu omicron upsilon /epsilon lambda lambda epsilon beta omicron rho omicron nu}. To employ such license at all obtrusively is, no doubt, grotesque; but in any mode of poetic diction there must be moderation. Even metaphors, strange (or rare) words, or any similar forms of speech, would produce the like effect if used without propriety and with the express purpose of being ludicrous. How great a difference is made by the appropriate use of lengthening, may be seen in Epic poetry by the insertion of ordinary forms in the verse. So, again, if we take a strange (or rare) word, a metaphor, or any similar mode of expression, and replace it by the current or proper term, the truth of our observation will be manifest. For example Aeschylus and Euripides each composed the same iambic line. But the alteration of a single word by Euripides, who employed the rarer term instead of the ordinary one, makes one verse appear beautiful and the other trivial. Aeschylus in his Philoctetes says: {Phi alpha gamma epsilon delta alpha iota nu alpha / delta / eta / mu omicron upsilon / sigma alpha rho kappa alpha sigma / epsilon rho theta iota epsilon iota / pi omicron delta omicron sigma}.

Euripides substitutes {Theta omicron iota nu alpha tau alpha iota} 'feasts on' for {epsilon sigma theta iota epsilon iota} 'feeds on.' Again, in the line, {nu upsilon nu / delta epsilon / mu /epsilon omega nu / omicron lambda iota gamma iota gamma upsilon sigma / tau epsilon / kappa alpha iota / omicron upsilon tau iota delta alpha nu omicron sigma / kappa alpha iota / alpha epsilon iota kappa eta sigma), the difference will be felt if we substitute the common words, {nu upsilon nu / delta epsilon / mu / epsilon omega nu / mu iota kappa rho omicron sigma / tau epsilon / kappa alpha iota / alpha rho theta epsilon nu iota kappa omicron sigma / kappa alpha iota / alpha epsilon iota delta gamma sigma}. Or, if for the line, {delta iota phi rho omicron nu / alpha epsilon iota kappa epsilon lambda iota omicron nu / kappa alpha tau alpha theta epsilon iota sigma / omicron lambda iota gamma eta nu / tau epsilon / tau rho alpha pi epsilon iota sigma / omicron lambda iota gamma eta nu / tau epsilon / tau rho alpha pi epsilon zeta alpha nu,} We read, {delta iota phi rho omicron nu / mu omicron chi theta eta rho omicron nu / kappa alpha tau alpha theta epsilon iota sigma / mu iota kappa rho alpha nu / tau epsilon / tau rho alpha pi epsilon zeta alpha nu}.

Or, for {eta iota omicron nu epsilon sigma / beta omicron omicron omega rho iota nu, eta iota omicron nu epsilon sigma kappa rho alpha zeta omicron upsilon rho iota nu}

Again, Ariphrades ridiculed the tragedians for using phrases which no one would employ in ordinary speech: for example, {delta omega mu alpha tau omega nu / alpha pi omicron} instead of {alpha pi omicron / delta omega mu alpha tau omega nu}, {rho epsilon theta epsilon nu}, {epsilon gamma omega / delta epsilon / nu iota nu}, {Alpha chi iota lambda lambda epsilon omega sigma / pi epsilon rho iota} instead of {pi epsilon rho iota / 'Alpha chi iota lambda lambda epsilon omega sigma}, and the like. It is precisely because such phrases are not part of the current idiom that they give distinction to the style. This, however, he failed to see.

It is a great matter to observe propriety in these several modes of expression, as also in compound words, strange (or rare) words, and so forth. But the greatest thing by far is to have a command of metaphor. This alone cannot be imparted by another; it is the mark of genius, for to make good metaphors implies an eye for resemblances.

Of the various kinds of words, the compound are best adapted to Dithyrambs, rare words to heroic poetry, metaphors to iambic. In heroic poetry, indeed, all these varieties are serviceable. But in iambic verse, which reproduces, as far as may be, familiar speech, the most appropriate words are those which are found even in prose. These are,―the current or proper, the metaphorical, the ornamental.

Concerning Tragedy and imitation by means of action this may suffice.
22. 文体(語法)についての注意

文体の完璧さとは、卑屈にならずに明瞭であることである。最も明瞭な文体は、現在使われている言葉や適切な言葉だけを使ったものであるが、同時に卑しいも のでもある。一方、高尚で平凡な言葉よりも高められた言葉遣いは、普通でない言葉を使う。普通でないとは、奇妙な(あるいは珍しい)言葉、隠喩的な、長っ たらしい、要するに普通の慣用句とは異なるものすべてを意味する。しかし、そのような言葉だけで構成された文体は、なぞなぞか専門用語のいずれかである。 比喩で構成されていればなぞなぞ、奇妙な(あるいは珍しい)言葉で構成されていれば専門用語である。なぞなぞの本質は、真の事実を不可能な組み合わせで表 現することだからだ。このことは、普通の言葉のどんな配列によってもできないが、比喩の使用によって可能になる。例えば、「私が見た男が、別の男の上に、 火の助けを借りて青銅を接着した」というなぞなぞや、その他同じようなものがある。奇妙な(あるいは珍しい)用語で構成される語法は専門用語である。とい うのも、奇妙な(あるいは珍しい)言葉、比喩的な表現、装飾的な表現、その他上記のようなものが、文体を平凡で無意味なものから引き上げ、適切な言葉を使 うことが文体を明瞭にするのである。しかし、言葉を長くしたり、縮めたり、変化させたりすることほど、一般性からかけ離れた明瞭な表現に寄与するものはな い。なぜなら、通常の慣用句から例外的に逸脱することで、言語は区別を獲得し、同時に、使用法に部分的に適合することで、明瞭さがもたらされるからであ る。したがって、このような言いまわしを非難し、作者を嘲笑の的とする批評家は誤りである。このように、長老エウクレイデスは、音節を自由に長くすること ができれば、詩人になるのは簡単なことだと断言した。彼はこの習慣を、次の詩のように、まさに自分の語法の形で戯画化したのである。……・とすることがで きる。しかし、どのような詩的表現であれ、節度は必要である。しかし、どのような詩的表現であっても、節度がなければならない。比喩や奇妙な(あるいは珍 しい)言葉、あるいは同様の表現形式であっても、適切でなく、滑稽であるという明確な目的を持って使用すれば、同様の効果を生むだろう。長さを適切に使用 することによって、どれほど大きな違いが生まれるかは、叙事詩において、詩の中に普通の形を挿入することで見ることができる。また、奇妙な(あるいは珍し い)言葉、比喩、あるいは類似の表現方法を取り上げ、それを現在の、あるいは適切な用語に置き換えれば、我々の観察の真実が明らかになるであろう。例え ば、エスキルスとエウリピデスは、それぞれ同じイアンビック行を構成している。しかし、エウリピデスが一語を変更し、通常の用語の代わりに希少な用語を使 用したため、一方の詩は美しく、他方はつまらなく見えてしまうのである。アエスキルスは『フィロクテテス』の中で次のように述べている:…………

XXIII

As to that poetic imitation which is narrative in form and employs a single metre, the plot manifestly ought, as in a tragedy, to be constructed on dramatic principles. It should have for its subject a single action, whole and complete, with a beginning, a middle, and an end. It will thus resemble a living organism in all its unity, and produce the pleasure proper to it. It will differ in structure from historical compositions, which of necessity present not a single action, but a single period, and all that happened within that period to one person or to many, little connected together as the events may be. For as the sea-fight at Salamis and the battle with the Carthaginians in Sicily took place at the same time, but did not tend to any one result, so in the sequence of events, one thing sometimes follows another, and yet no single result is thereby produced. Such is the practice, we may say, of most poets. Here again, then, as has been already observed, the transcendent excellence of Homer is manifest. He never attempts to make the whole war of Troy the subject of his poem, though that war had a beginning and an end. It would have been too vast a theme, and not easily embraced in a single view. If, again, he had kept it within moderate limits, it must have been over-complicated by the variety of the incidents. As it is, he detaches a single portion, and admits as episodes many events from the general story of the war―such as the Catalogue of the ships and others―thus diversifying the poem. All other poets take a single hero, a single period, or an action single indeed, but with a multiplicity of parts. Thus did the author of the Cypria and of the Little Iliad. For this reason the Iliad and the Odyssey each furnish the subject of one tragedy, or, at most, of two; while the Cypria supplies materials for many, and the Little Iliad for eight―the Award of the Arms, the Philoctetes, the Neoptolemus, the Eurypylus, the Mendicant Odysseus, the Laconian Women, the Fall of Ilium, the Departure of the Fleet.
23. 叙事詩について―その一

詩的な模倣は、形式的には物語であり、単一の音律を用いるが、筋書きは明らかに、悲劇と同様に、演劇的原則に基づいて構成されるべきである。その主題は、 始まり、中間、終わりのある、全体的で完全な一つの行動でなければならない。そうすることで、一つの生命体のような一体感が生まれ、その生命体にふさわし い喜びが生まれる。歴史的な作品は、必然的に一つの行為ではなく、一つの期間と、その期間内に一人の人間に起こったこと、あるいは多くの人間に起こったこ とのすべてを提示しなければならない。サラミス島での海戦とシチリア島でのカルタゴ人との戦いが同時期に起こったにもかかわらず、ひとつの結果には結びつ かなかったように、出来事の順序においても、あることが別のことに続いて起こることがあるが、それによってひとつの結果がもたらされることはない。ほとん どの詩人がそうである。ここにもまた、すでに述べたように、ホメロスの超越的な卓越性が現れている。トロイ戦争には始まりと終わりがあったにもかかわら ず、ホメロスはトロイ戦争全体を詩の主題にしようとはしなかった。それはあまりに広大なテーマであり、一望することは容易ではなかっただろう。また、適度 な範囲に収めたとしても、さまざまな事件によって複雑になりすぎたに違いない。そのため、彼は一つの部分を切り離し、戦争の一般的な物語から多くの出来 事、たとえば船の目録などをエピソードとして認め、詩を多様化している。他の詩人たちはみな、一人の英雄、一人の時代、一人の行動を、確かに一回だけ取り 上げるが、その部分は多岐にわたる。シプリア』や『小イリアス』の作者もそうだった。このため、『イーリアス』と『オデュッセイア』は、それぞれ1つ、多 くても2つの悲劇の題材を提供している。一方、『キプリア』は多くの悲劇の題材を、『小イーリアス』は8つの悲劇の題材を提供している(武器の授与、フィ ロクテテテス、ネオプトレムス、エウリュピロス、托鉢僧オデュッセウス、ラコン人の女たち、イリウムの陥落、船団の出発)。
XXIV

Again, Epic poetry must have as many kinds as Tragedy: it must be simple, or complex, or 'ethical,' or 'pathetic.' The parts also, with the exception of song and spectacle, are the same; for it requires Reversals of the Situation, Recognitions, and Scenes of Suffering. Moreover, the thoughts and the diction must be artistic. In all these respects Homer is our earliest and sufficient model. Indeed each of his poems has a twofold character. The Iliad is at once simple and 'pathetic,' and the Odyssey complex (for Recognition scenes run through it), and at the same time 'ethical.' Moreover, in diction and thought they are supreme.

Epic poetry differs from Tragedy in the scale on which it is constructed, and in its metre. As regards scale or length, we have already laid down an adequate limit:―the beginning and the end must be capable of being brought within a single view. This condition will be satisfied by poems on a smaller scale than the old epics, and answering in length to the group of tragedies presented at a single sitting.

Epic poetry has, however, a great―a special―capacity for enlarging its dimensions, and we can see the reason. In Tragedy we cannot imitate several lines of actions carried on at one and the same time; we must confine ourselves to the action on the stage and the part taken by the players. But in Epic poetry, owing to the narrative form, many events simultaneously transacted can be presented; and these, if relevant to the subject, add mass and dignity to the poem. The Epic has here an advantage, and one that conduces to grandeur of effect, to diverting the mind of the hearer, and relieving the story with varying episodes. For sameness of incident soon produces satiety, and makes tragedies fail on the stage.

As for the metre, the heroic measure has proved its fitness by the test of experience. If a narrative poem in any other metre or in many metres were now composed, it would be found incongruous. For of all measures the heroic is the stateliest and the most massive; and hence it most readily admits rare words and metaphors, which is another point in which the narrative form of imitation stands alone. On the other hand, the iambic and the trochaic tetrameter are stirring measures, the latter being akin to dancing, the former expressive of action. Still more absurd would it be to mix together different metres, as was done by Chaeremon. Hence no one has ever composed a poem on a great scale in any other than heroic verse. Nature herself, as we have said, teaches the choice of the proper measure.

Homer, admirable in all respects, has the special merit of being the only poet who rightly appreciates the part he should take himself. The poet should speak as little as possible in his own person, for it is not this that makes him an imitator. Other poets appear themselves upon the scene throughout, and imitate but little and rarely. Homer, after a few prefatory words, at once brings in a man, or woman, or other personage; none of them wanting in characteristic qualities, but each with a character of his own.

The element of the wonderful is required in Tragedy. The irrational, on which the wonderful depends for its chief effects, has wider scope in Epic poetry, because there the person acting is not seen. Thus, the pursuit of Hector would be ludicrous if placed upon the stage―the Greeks standing still and not joining in the pursuit, and Achilles waving them back. But in the Epic poem the absurdity passes unnoticed. Now the wonderful is pleasing: as may be inferred from the fact that every one tells a story with some addition of his own, knowing that his hearers like it. It is Homer who has chiefly taught other poets the art of telling lies skilfully. The secret of it lies in a fallacy, For, assuming that if one thing is or becomes, a second is or becomes, men imagine that, if the second is, the first likewise is or becomes. But this is a false inference. Hence, where the first thing is untrue, it is quite unnecessary, provided the second be true, to add that the first is or has become. For the mind, knowing the second to be true, falsely infers the truth of the first. There is an example of this in the Bath Scene of the Odyssey.

Accordingly, the poet should prefer probable impossibilities to improbable possibilities. The tragic plot must not be composed of irrational parts. Everything irrational should, if possible, be excluded; or, at all events, it should lie outside the action of the play (as, in the Oedipus, the hero's ignorance as to the manner of Laius' death); not within the drama,―as in the Electra, the messenger's account of the Pythian games; or, as in the Mysians, the man who has come from Tegea to Mysia and is still speechless. The plea that otherwise the plot would have been ruined, is ridiculous; such a plot should not in the first instance be constructed. But once the irrational has been introduced and an air of likelihood imparted to it, we must accept it in spite of the absurdity. Take even the irrational incidents in the Odyssey, where Odysseus is left upon the shore of Ithaca. How intolerable even these might have been would be apparent if an inferior poet were to treat the subject. As it is, the absurdity is veiled by the poetic charm with which the poet invests it.

The diction should be elaborated in the pauses of the action, where there is no expression of character or thought. For, conversely, character and thought are merely obscured by a diction that is over brilliant.
24. 叙事詩について―その二

また、叙事詩には悲劇と同じように多くの種類がなければならない。単純なもの、複雑なもの、倫理的なもの、悲愴なもの。また、歌とスペクタクルを除けば、 パートも同じである。状況の逆転、認識、苦しみの場面が必要だからである。さらに、思考と語法は芸術的でなければならない。これらの点で、ホメロスは私た ちの最も古く十分な模範である。実際、ホメロスの詩はどれも二重の性格を持っている。イリアス』は単純で「悲愴」であり、『オデュッセイア』は複雑で(認 識の場面が貫かれているため)、同時に「倫理的」である。叙事詩が悲劇と異なるのは、それが構築される規模とその音律である。規模や長さに関しては、我々 はすでに適切な制限を設けた。この条件は、古い叙事詩よりも小規模で、一度に上演される悲劇群に匹敵する長さの詩によって満たされる。しかし叙事詩には、 その寸法を拡大するための大きな、特別な能力があり、その理由はわかる。悲劇では、同時に何行にもわたって行われる行動を模倣することはできない。しかし 叙事詩では、物語形式のおかげで、同時に進行する多くの出来事を提示することができ、それらが主題に関連するものであれば、詩に重厚さと威厳を与える。叙 事詩にはここにも利点があり、それは壮大な効果をもたらし、聞き手の心をそらし、変化に富んだエピソードで物語を和ませることである。同じような事件ばか りではすぐに飽きが来て、悲劇は舞台で失敗してしまうからである。他の音律で、あるいは多くの音律で物語詩が作られたとしても、不釣り合いであることが分 かるだろう。なぜなら、あらゆる音律の中で、英雄的音律は最も重厚で堂々としており、それゆえ、珍しい言葉や比喩を最も容易に受け入れることができるから である。一方、イアンビックとトロカイック・テトラメー ターは刺激的な小節で、後者は踊りに似ており、前者は行動を表現する。シェレモンがやったように、異なる音律を混在させるのはもっと馬鹿げている。それゆ え、英雄詩以外で大規模な詩を作った者はいない。ホメロスは、あらゆる点で称賛に値するが、唯一、詩人自身が担うべき役割を正しく認識した詩人であるとい う特別な長所がある。詩人は、できるだけ自分自身の人格を語るべきでない。他の詩人たちは、終始自分自身を登場させ、模倣はほとんどしない。ホメロスは、 いくつかの前置きの言葉を述べた後、すぐに男や女やその他の人物を登場させる。その誰もが特徴的な資質を欠いているわけではなく、それぞれが独自の性格を 持っている。非合理的な要素は、その主な効果を素晴らしいものに依存させるが、叙事詩ではその範囲が広い。したがって、ヘクトルの追跡は、舞台の上に置か れれば滑稽なものとなる-ギリシア人はじっと立って追跡に加わらず、アキレウスは手を振って追い返す-。しかし叙事詩では、その不条理は気づかれることな く過ぎ去ってしまう。誰もが、聴衆がその物語を好むことを知りながら、自分なりの脚色を加えて物語を語るという事実からも推察できる。他の詩人たちに巧み に嘘を語る術を教えたのは、主としてホメロスである。その秘密は誤謬にある。というのも、あるものが「ある」、あるいは「なる」なら、第二のものも「あ る」、あるいは「なる」と仮定すると、人は第二のものが「ある」なら、第一のものも同様に「ある」、あるいは「なる」と想像する。しかし、これは誤った推 論である。それゆえ、第一のものが真実でない場合、第二のものが真実であれば、第一のものがある、あるいはなったということを付け加える必要はまったくな い。というのも、心は第二のものが真であると知りながら、第一のものの真偽を誤って推論してしまうからである。オデュッセイア』の風呂の場面にこの例があ る。したがって、詩人は、ありえない可能性よりも、ありそうな不可能性を優先すべきである。悲劇的プロットは、非合理的な部分で構成されてはならない。オ イディプス』では、ライオスの死に方に関する主人公の無知がそうであるように)、『エレクトラ』では、ピュティアの競技に関する使者の説明がそうであるよ うに)、『ミュシア人』では、テギアからミュシアにやってきて、まだ言葉を失っている男がそうであるように)。そうでなければ筋書きが台無しになってしま うという弁明は馬鹿げている。しかし、ひとたび非合理的なものが導入され、ありそうな雰囲気が醸し出されれば、不合理にもかかわらず、私たちはそれを受け 入れなければならない。オデュッセウスがイサカの海岸に置き去りにされる『オデュッセイア』の非合理的な出来事を考えてみよう。劣った詩人がこの題材を扱 えば、このような不条理がどれほど耐え難いものであったかは明らかだろう。その不条理は、詩人が詩的な魅力によって覆い隠されているのである。逆に言え ば、華麗すぎる語法は、性格や思想を見えにくくしているだけなのだ。
XXV

With respect to critical difficulties and their solutions, the number and nature of the sources from which they may be drawn may be thus exhibited.

The poet being an imitator, like a painter or any other artist, must of necessity imitate one of three objects,―things as they were or are, things as they are said or thought to be, or things as they ought to be. The vehicle of expression is language,―either current terms or, it may be, rare words or metaphors. There are also many modifications of language, which we concede to the poets. Add to this, that the standard of correctness is not the same in poetry and politics, any more than in poetry and any other art. Within the art of poetry itself there are two kinds of faults, those which touch its essence, and those which are accidental. If a poet has chosen to imitate something, (but has imitated it incorrectly) through want of capacity, the error is inherent in the poetry. But if the failure is due to a wrong choice if he has represented a horse as throwing out both his off legs at once, or introduced technical inaccuracies in medicine, for example, or in any other art the error is not essential to the poetry. These are the points of view from which we should consider and answer the objections raised by the critics.

First as to matters which concern the poet's own art. If he describes the impossible, he is guilty of an error; but the error may be justified, if the end of the art be thereby attained (the end being that already mentioned), if, that is, the effect of this or any other part of the poem is thus rendered more striking. A case in point is the pursuit of Hector. If, however, the end might have been as well, or better, attained without violating the special rules of the poetic art, the error is not justified: for every kind of error should, if possible, be avoided.

Again, does the error touch the essentials of the poetic art, or some accident of it? For example,―not to know that a hind has no horns is a less serious matter than to paint it inartistically.

Further, if it be objected that the description is not true to fact, the poet may perhaps reply,―'But the objects are as they ought to be': just as Sophocles said that he drew men as they ought to be; Euripides, as they are. In this way the objection may be met. If, however, the representation be of neither kind, the poet may answer,―This is how men say the thing is.' This applies to tales about the gods. It may well be that these stories are not higher than fact nor yet true to fact: they are, very possibly, what Xenophanes says of them. But anyhow, 'this is what is said.' Again, a description may be no better than the fact: 'still, it was the fact'; as in the passage about the arms: 'Upright upon their butt-ends stood the spears.' This was the custom then, as it now is among the Illyrians.

Again, in examining whether what has been said or done by some one is poetically right or not, we must not look merely to the particular act or saying, and ask whether it is poetically good or bad. We must also consider by whom it is said or done, to whom, when, by what means, or for what end; whether, for instance, it be to secure a greater good, or avert a greater evil.

Other difficulties may be resolved by due regard to the usage of language. We may note a rare word, as in {omicron upsilon rho eta alpha sigma / mu epsilon nu / pi rho omega tau omicron nu}, where the poet perhaps employs {omicron upsilon rho eta alpha sigma} not in the sense of mules, but of sentinels. So, again, of Dolon: 'ill-favoured indeed he was to look upon.' It is not meant that his body was ill-shaped, but that his face was ugly; for the Cretans use the word {epsilon upsilon epsilon iota delta epsilon sigma}, 'well-favoured,' to denote a fair face. Again, {zeta omega rho omicron tau epsilon rho omicron nu / delta epsilon / kappa epsilon rho alpha iota epsilon}, 'mix the drink livelier,' does not mean `mix it stronger' as for hard drinkers, but 'mix it quicker.'

Sometimes an expression is metaphorical, as 'Now all gods and men were sleeping through the night,'―while at the same time the poet says: 'Often indeed as he turned his gaze to the Trojan plain, he marvelled at the sound of flutes and pipes.' 'All' is here used metaphorically for 'many,' all being a species of many. So in the verse,―'alone she hath no part...,' {omicron iota eta}, 'alone,' is metaphorical; for the best known may be called the only one.

Again, the solution may depend upon accent or breathing. Thus Hippias of Thasos solved the difficulties in the lines,―{delta iota delta omicron mu epsilon nu (delta iota delta omicron mu epsilon nu) delta epsilon / omicron iota,} and { tau omicron / mu epsilon nu / omicron upsilon (omicron upsilon) kappa alpha tau alpha pi upsilon theta epsilon tau alpha iota / omicron mu beta rho omega}.

Or again, the question may be solved by punctuation, as in Empedocles,―'Of a sudden things became mortal that before had learnt to be immortal, and things unmixed before mixed.'

Or again, by ambiguity of meaning,―as {pi alpha rho omega chi eta kappa epsilon nu / delta epsilon / pi lambda epsilon omega / nu upsilon xi}, where the word {pi lambda epsilon omega} is ambiguous.

Or by the usage of language. Thus any mixed drink is called {omicron iota nu omicron sigma}, 'wine.' Hence Ganymede is said 'to pour the wine to Zeus,' though the gods do not drink wine. So too workers in iron are called {chi alpha lambda kappa epsilon alpha sigma}, or workers in bronze. This, however, may also be taken as a metaphor.

Again, when a word seems to involve some inconsistency of meaning, we should consider how many senses it may bear in the particular passage. For example: 'there was stayed the spear of bronze'―we should ask in how many ways we may take 'being checked there.' The true mode of interpretation is the precise opposite of what Glaucon mentions. Critics, he says, jump at certain groundless conclusions; they pass adverse judgment and then proceed to reason on it; and, assuming that the poet has said whatever they happen to think, find fault if a thing is inconsistent with their own fancy. The question about Icarius has been treated in this fashion. The critics imagine he was a Lacedaemonian. They think it strange, therefore, that Telemachus should not have met him when he went to Lacedaemon. But the Cephallenian story may perhaps be the true one. They allege that Odysseus took a wife from among themselves, and that her father was Icadius not Icarius. It is merely a mistake, then, that gives plausibility to the objection.

In general, the impossible must be justified by reference to artistic requirements, or to the higher reality, or to received opinion. With respect to the requirements of art, a probable impossibility is to be preferred to a thing improbable and yet possible. Again, it may be impossible that there should be men such as Zeuxis painted. 'Yes,' we say, 'but the impossible is the higher thing; for the ideal type must surpass the reality.' To justify the irrational, we appeal to what is commonly said to be. In addition to which, we urge that the irrational sometimes does not violate reason; just as 'it is probable that a thing may happen contrary to probability.'

Things that sound contradictory should be examined by the same rules as in dialectical refutation whether the same thing is meant, in the same relation, and in the same sense. We should therefore solve the question by reference to what the poet says himself, or to what is tacitly assumed by a person of intelligence.

The element of the irrational, and, similarly, depravity of character, are justly censured when there is no inner necessity for introducing them. Such is the irrational element in the introduction of Aegeus by Euripides and the badness of Menelaus in the Orestes.

Thus, there are five sources from which critical objections are drawn. Things are censured either as impossible, or irrational, or morally hurtful, or contradictory, or contrary to artistic correctness. The answers should be sought under the twelve heads above mentioned.
25. 詩にたいする批判とその解決

批評上の難問とその解決法については、その源となるものの数と性質が、このように示されることがある。

詩人は、画家や他の芸術家と同様、模倣者であるため、必然的に3つの対象のうちの1つを模倣しなければならない。表現の手段は言語であり、現在の用語、あ るいは珍しい言葉や比喩かもしれない。また、言語には多くの改良が加えられているが、それは詩人たちに認められている。これに加え、詩と政治では、詩と他 の芸術の場合と同様、正しさの基準が同じでないことがあります。詩という芸術そのものには、その本質に触れるものと、偶発的なものと、二種類の誤りがある のです。もし詩人が能力の欠如によって何かを模倣することを選んだ(しかし間違って模倣してしまった)場合、その誤りは詩に内在するものである。しかし、 もし失敗が間違った選択によるもので、馬が両足を一度に投げ出すように表現したり、例えば医学や他の芸術における技術的な不正確さを取り入れたりした場 合、その誤りは詩にとって本質的なものではない。これらの観点から、私たちは批評家たちが提起した反論を検討し、それに答えるべきでしょう。

まず、詩人自身の芸術に関する事柄についてです。しかし、芸術の目的がそれによって達成されるなら(目的とはすでに述べたものである)、つまり、詩のこの 部分または他の部分の効果がそれによってより顕著になるなら、その誤りは正当化されるかもしれない。その一例が、ヘクトルの追跡である。しかし、詩的芸術 の特別な規則に違反することなく、同じように、あるいはそれ以上に目的を達成できたかもしれない場合、その誤りは正当化されない。なぜなら、あらゆる種類 の誤りは、可能ならば避けなければならないからである。

また、その誤りは、詩的芸術の本質に触れているか、あるいはその偶然性に触れているか。例えば、後肢に角がないことを知らないことは、それを無芸に描くこ とより重大な問題ではない。

さらに、描写が事実に即していないと反論された場合、詩人は「しかし、対象はあるべき姿である」と答えることができるかもしれない。このようにして、反論 に対処することができる。しかし、その表現がどちらとも言えない場合、詩人はこう答えることができる、「これは、人々がその物事をどのように言っているか である」。これは神々に関する物語にも当てはまる。これらの物語は、事実より高いものでもなければ、事実に忠実なものでもないということは十分にあり得 る。しかし、いずれにせよ、「これは言われていることである」。また、描写は事実に勝るとも劣らないかもしれない:「それでも事実だった」;武器に関する 一節のように、「槍はその尻の端に直立していた」のである。これは当時の習慣であり、現在もイリュリア人の間ではそうである。

また、ある人の言動が詩的に正しいか否かを検討する際には、単に特定の行為や言動をみて、それが詩的に良いか悪いかを問うだけではいけない。また、それが 誰によって、いつ、誰に対して、どのような手段で、あるいはどのような目的のために言われ、あるいは行われたのか、例えば、より大きな善を確保するためな のか、あるいはより大きな悪を避けるためなのか、ということも考えなければならない。


…………

また、ある単語が意味の矛盾を含んでいるように見えるとき、その単語が特定のパッセージの中でどれだけの意味を持ちうるかを検討すべきである。例えば、 「青銅の槍はそこに留まっていた」-「そこに留まっていた」をどのような意味で捉えることができるかを問うべきだろう。真の解釈のあり方は、グラウコンが 言及するのとは正反対である。批評家は、ある根拠のない結論に飛びつき、不利な判断を下して、それについて推論を進める。そして、詩人が自分の考えること を何でも言ったと仮定して、あることが自分の空想と矛盾していれば、誤りを指摘するのだ、と彼は言う。イカリウスに関する問題は、このような方法で扱われ てきた。批評家たちは、彼がラケダエモン人であったと想像している。それゆえ、テレマコスがラケダエモンに行ったときに彼に会わなかったのはおかしいと考 える。しかし、セファレン人の話がおそらく真実なのだろう。彼らは、オデュッセウスが自分たちの中から妻を娶り、その父親はイカロスではなくイカディウス であったと主張している。となると、この反論に説得力を与えているのは、単なる間違いに過ぎない。

一般に、不可能なことは、芸術的要件、より高い現実、あるいは通説に照らして正当化されなければならない。芸術の要件に関しては、ありえないけれども可能 なことよりも、可能性のある不可能の方が好まれる。ここでも、ゼウクシスのような人物が描かれることはありえないかもしれない。そうだ」と我々は言う。 「しかし、不可能なことこそ、より高次のものである。非合理的なことを正当化するために、私たちは一般的に言われていることに訴える。それに加えて、「あ ることが確率に反して起こる可能性がある」ように、非合理的なことも時には理性に反しないことがあることを主張する。

矛盾しているように聞こえるものは、弁証法的反論と同じ規則で、同じものが、同じ関係で、同じ意味で意味されているかどうかを調べるべきである。したがっ て、詩人自身が言っていること、あるいは知性のある人が暗黙のうちに想定していることを参考にして、問題を解決すべきなのである。

非理性的な要素や、同様に人格の堕落は、それらを導入する内的な必然性がない場合には、当然に非難される。エウリピデスによるエーゲウスの紹介や、『オレ ステス』におけるメネラウスの悪さには、そうした非合理的な要素があるのである。

このように、批判的な反論が導き出される源は5つある。物事は,不可能であるか,不合理であるか,道徳的に有害であるか,矛盾しているか,芸術的な正しさ に反しているかのいずれかであると非難される.その答えは、上に述べた12の見出しの下に探されるべきものである。
XXVI

The question may be raised whether the Epic or Tragic mode of imitation is the higher. If the more refined art is the higher, and the more refined in every case is that which appeals to the better sort of audience, the art which imitates anything and everything is manifestly most unrefined. The audience is supposed to be too dull to comprehend unless something of their own is thrown in by the performers, who therefore indulge in restless movements. Bad flute-players twist and twirl, if they have to represent 'the quoit-throw,' or hustle the coryphaeus when they perform the 'Scylla.' Tragedy, it is said, has this same defect. We may compare the opinion that the older actors entertained of their successors. Mynniscus used to call Callippides 'ape' on account of the extravagance of his action, and the same view was held of Pindarus. Tragic art, then, as a whole, stands to Epic in the same relation as the younger to the elder actors. So we are told that Epic poetry is addressed to a cultivated audience, who do not need gesture; Tragedy, to an inferior public. Being then unrefined, it is evidently the lower of the two.

Now, in the first place, this censure attaches not to the poetic but to the histrionic art; for gesticulation may be equally overdone in epic recitation, as by Sosi-stratus, or in lyrical competition, as by Mnasitheus the Opuntian. Next, all action is not to be condemned any more than all dancing―but only that of bad performers. Such was the fault found in Callippides, as also in others of our own day, who are censured for representing degraded women. Again, Tragedy like Epic poetry produces its effect even without action; it reveals its power by mere reading. If, then, in all other respects it is superior, this fault, we say, is not inherent in it.

And superior it is, because it has all the epic elements―it may even use the epic metre―with the music and spectacular effects as important accessories; and these produce the most vivid of pleasures. Further, it has vividness of impression in reading as well as in representation. Moreover, the art attains its end within narrower limits; for the concentrated effect is more pleasurable than one which is spread over a long time and so diluted. What, for example, would be the effect of the Oedipus of Sophocles, if it were cast into a form as long as the Iliad? Once more, the Epic imitation has less unity; as is shown by this, that any Epic poem will furnish subjects for several tragedies. Thus if the story adopted by the poet has a strict unity, it must either be concisely told and appear truncated; or, if it conform to the Epic canon of length, it must seem weak and watery. (Such length implies some loss of unity,) if, I mean, the poem is constructed out of several actions, like the Iliad and the Odyssey, which have many such parts, each with a certain magnitude of its own. Yet these poems are as perfect as possible in structure; each is, in the highest degree attainable, an imitation of a single action.

If, then, Tragedy is superior to Epic poetry in all these respects, and, moreover, fulfils its specific function better as an art for each art ought to produce, not any chance pleasure, but the pleasure proper to it, as already stated it plainly follows that Tragedy is the higher art, as attaining its end more perfectly.

Thus much may suffice concerning Tragic and Epic poetry in general; their several kinds and parts, with the number of each and their differences; the causes that make a poem good or bad; the objections of the critics and the answers to these objections.
END OF TEXT
26. 叙事詩と悲劇の比較

模倣の様式が叙事詩的なものか悲劇的なものかは、より高度なものであるかどうかという疑問が生じるかもしれない。より洗練された芸術がより高尚であり、あ らゆる場合においてより洗練されたものとは、より優れた種類の観客に訴えるものであるとすれば、何でもかんでも模倣する芸術は、明らかに最も洗練されてい ないものである。観客は、演奏者が何か自分なりのことをしなければ理解できないほど鈍いと考えられており、そのため演奏者は落ち着きのない動きにふける。 下手な笛吹きは、「quoit-throw」を表現しなければならないときは体をくねらせ、「Scylla」を演じるときはコリフェウスを急がせるのであ る。悲劇もこれと同じ欠点を持っていると言われている。古い役者たちが後継者たちに対して抱いていた意見を比較することができる。ミンニスクスはカリッピ デスをその行動の贅沢さのゆえに「猿」と呼んだし、ピンダロスも同じように考えていた。悲劇芸術は全体として、年長の俳優に対する年少者のような関係で叙 事詩に対峙しているのである。つまり、叙事詩は身振りを必要としない教養ある聴衆に向けられ、悲劇は劣った大衆に向けられるということである。このよう に、叙事詩は洗練されていないため、明らかに両者のうち下層に位置するものである。

そもそも、この非難は詩的な芸術ではなく、歴史的な芸術に対してなされるものである。叙事詩の朗読ではソシストラトゥスのように、また叙情詩の競演ではオ プンティア人のムナシテウスのように身振りが過剰になることがあるからである。次に、すべてのダンスと同様に、すべてのアクションが非難されるわけではな いが、悪いパフォーマーのものだけである。このような欠点はカリッピデスに見られ、また現代の他の人々も、品位のない女性を表現したために非難される。ま た、叙事詩のような悲劇は、行動がなくてもその効果を発揮し、ただ読むだけでその力を明らかにする。他のすべての点で、悲劇が優れているとすれば、この欠 点は、悲劇に固有のものではないと言える。

なぜなら、叙事詩には叙事詩のすべての要素があり、叙事詩のメトルを使うことさえあり、音楽とスペクタクルな効果が重要な付属物としてあり、これらは最も 鮮明な快楽を生み出すからである。さらに、読むときも、表現するときも、印象が鮮明である。さらに、この芸術は狭い範囲内でその目的を達成する。集中した 効果は、長い時間をかけて希釈されたものよりも快楽的であるためだ。たとえば、ソフォクレスの『オイディプス』を『イーリアス』のような長い形式の作品に したら、どんな効果があるだろうか。もう一点、叙事詩の模倣は統一性に欠ける。このことは、どの叙事詩もいくつかの悲劇の題材となることからもわかる。こ のように、詩人が採用した物語に厳密な統一性があるとすれば、簡潔に語られて切り捨てられたように見えるか、叙事詩の長さの規範に準拠しているとすれば、 弱く水っぽいように見えるかのどちらかでなければならない。(このような長さは、統一性の喪失を意味する)もし、詩がいくつかの行動から構成されているの であれば、イーリアスやオデュッセイアのように、そのような部分がたくさんあり、それぞれが一定の大きさをもっているような場合である。しかし、これらの 詩は、構造において可能な限り完璧であり、それぞれが、到達しうる最高の程度において、単一の行為の模倣である。

もし悲劇が叙事詩よりもこれらの点で優れており、さらに、それぞれの芸術が偶然の喜びではなく、それにふさわしい喜びを生み出すべきものとして、その特定 の機能をよりよく果たしているならば、すでに述べたように、悲劇はその目的をより完全に達成するものとして、より高い芸術であるということが明白になるの である。

悲劇的な詩と叙事詩の一般的な説明、そのいくつかの種類と部分、それぞれの数とその違い、詩の良し悪しを決める原因、批評家の反論とそれに対する答えな ど、これだけで十分であろう。

★アリストテレス年譜

アリストテレス(アリストテレース、古希: Ἀριστοτέλης - Aristotélēs、羅: Aristotelēs、前384年 - 前322年3月7日)は、古代ギリシアの哲学者である。……

前384 トラキア地方のスタゲイロス(後のスタゲイラ)にて出生

前367 紀元前367年、17-18歳にして、「ギリシアの学校」とペリクレスの謳ったアテナイに上り、そこでプラトン主催の学園、アカデメ イアに入門

前347 プラトンが亡くなると、その甥に当たるスペウシッポスが学頭に選ばれる。この時期、アリストテレスは学園を辞してアテナイを去る

前345 ヘルミアスがペルシア帝国によって捕縛されると難を逃れるためにアッソスの対岸に位置するレスボス島のミュティレネに移住、生物学の 研究に従事

前342 42歳頃、マケドニア王フィリッポス2世の招聘により、当時13歳であった王子アレクサンドロス(後のアレクサンドロス大王)の師傅 となる

前335 49歳頃、アテナイに戻り、自身の指示によりアテナイ郊外に学園「リュケイオン」を開設

前323 アレクサンドロス大王、34歳で急逝。61歳頃、母方の故郷であるエウボイア島のカルキスに身を寄せた

前322 62歳で死亡」https://goo.gl/3wofEB

著作

論理学

    『オルガノン』(古希: Όργανον)
        『範疇論』(古希: Κατηγορίαι、『カテゴリー論』とも)
        『命題論』(古希: Περὶ Ἑρμηνείας)
        『分析論前書』(古希: Αναλυτικων πρότερων)
        『分析論後書』(古希: Αναλυτικων υστερων)
        『トピカ』(古希: Τόποι、羅: Topica)
        『詭弁論駁論』(古希: Περὶ σοφιστικῶν ἐλέγχων)

自然学

    『自然学』(古希: Φυσικῆς ἀκροάσεως)
    『天体論』(古希: Περὶ οὐρανοῦ)
    『生成消滅論』(古希: Περὶ γενέσεως καὶ φθορᾶς)
    『気象論』(古希: Μετεωρολογικῶν)

生物・動物学

    『霊魂論』(古希: Περὶ Ψυχῆς)
    『自然学小論集』(古希: Μικρὰ φυσικά、羅: Parva Naturalia)
        『感覚と感覚されるものについて』(希: Περὶ αἰσθήσεως καὶ αἰσθητῶν)
        『記憶と想起について』(古希: Περί μνήμης και αναμνήσεως)
        『睡眠と覚醒について』(古希: Περὶ ύπνου και εγρηγόρσεως)
        『夢について』(古希: Περὶ ἐνυπνίων)
        『夢占いについて』(古希: Περὶ τῆς καθ᾽ ὕπνον μαντικῆς)
        『長命と短命について』(古希: Περὶ μακροβιότητος καὶ βραχυβιότητος)
        『青年と老年について、生と死について、呼吸について』(古希: Περὶ νεότητος καὶ γήρως, καὶ ζωῆς καὶ θανάτου, καὶ ἀναπνοῆς)
    『動物誌』(古希: Περὶ Τὰ Ζῷα Ἱστορίαι)
    『動物部分論』(古希: Περὶ ζώων μορίων)
    『動物運動論』(古希: Περὶ ζώων κινήσεως)
    『動物進行論』(古希: Περὶ πορειας ζωων)
    『動物発生論』(古希: Περὶ ζωων γενεσεως)

形而上学

    『形而上学』(古希: Μεταφυσικά)

倫理学

    『ニコマコス倫理学』(古希: Ἠθικὰ Νικομάχεια)
    『大道徳学』(古希: Ηθικά Μεγάλα、羅: Magna Moralia, マグナ・モラリア)
    『エウデモス倫理学』(古希: Ηθικά Εὔδημια)

政治学

    『政治学』(古希: Πολιτικά)
    『アテナイ人の国制』(古希: Ἀθηναίων πολιτεία)

レトリックと詩学

    『弁論術』(古希: τέχνη ῥητορική)
    『詩学』(古希: Περὶ ποιητικῆς)

偽書

ほとんどはペリパトス派(逍遙学派)の後輩たちの手による著作である。

    『宇宙論』(古希: Περὶ κόσμου)
    『気息について』(古希: Περὶ πνεύματος)
    『小品集』(羅: Opuscula)
        『色について』(古希: Περὶ χρωμάτων)
        『聞こえるものについて』(古希: Περὶ ακουστῶν)
        『人相学』(古希: Φυσιογνωμονικά)
        『植物について』(古希: Περὶ φυτῶν)
        『異聞集』(古希: Περὶ θαυμασίων ἀκουσμάτων)
        『機械学』(古希: Μηχανικά)
        『不可分の線について』(古希: Περὶ ἀτόμων γραμμῶν)
        『風の方位と名称について』(古希: Ἀνέμων θέσεις καὶ προσηγορίαι)
        『メリッソス、クセノパネス、ゴルギアスについて』(古希: Περὶ Μελίσσου, Ξενοφάνους καὶ Γοργίου)
    『問題集』(古希: Προβλήματα)
    『徳と悪徳について』(古希: Περὶ αρετων και κακιων)
    『経済学』(古希: Οἰκονομικά、『家政学(家政術・家政論)』『オイコノミカ』とも)
    『アレクサンドロスに贈る弁論術』(古希: Ρητορική προς Αλέξανδρον)

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