Muchas Gracias! 感謝のコーナー(1999年まで)
書籍・論文・報告書関係
臼杵陽『原理主義』岩波書店、1999年
グラシアス!(1999.12.11)
松田素二『抵抗する都市』岩波書店、1999年
サンキュー!(1999.12.11)
高木光太郎「正統的周辺参加論におけるアイデンティティ構築概念の拡張」東京学芸大学海外子 女教育センター研究紀要、第10集、pp.1-14、1999年;高木光太郎「「状況論的アプローチ」における学習概念の検討」東京大学教育学部紀要、第 32巻、pp.265-273、1992年
インターネットで論文は読んでおりましたが、厚かましくも抜刷を要求してしまいました。 本当に読みたい論文でしたので感激。私の認知関係のウェブ・ページ(高木さんの上の2つの論文に直 接アクセスできます!)は、高木さんの論文から多大なる影響を受けているというか、ほとんど恩恵にあずかりっぱなしですので、是非ともこちらの人 類学のデータでその学恩に答えないとあきませんねぇ(1999.12.11)。
柘植あづみ『文化としての生殖技術』松籟社、1999年
うーんこれは分厚い。序のところに書かれてあるように、この調査の動機は生殖技術の医療 化傾向の批判にある。医療化を正当化するさまざまな語りの仕組みを、その動向を推進する権力者としての医師の語りから批判的に抽出しようとしたものだろう ――実際そう書いてある。もしそうであるならば、いったいどんな人がこの本を読むのだろうか? いったい誰に読まれることを願ってこのタイトルを冠したの だろうか? 謎がますます深まるばかりだ。さあ、この本をそのような問題の発生と謎解き物語(ミステリー)として読もう!(1999.12.10)
大林雅之『バイオエシックス教育のために』メディカ出版、1999年
山口大学医学部における医療環境論の非常勤講師として出講した際に大林さんから直接手渡 しでいただきました。その際に大林さんから“かつての「中川米造フォーラム」という過激なスピリットをもった活動が最近は見られないのは残念ですね”とか つての当事者の私としては身に沁みるコメントをいただきました。そのとおりです!。さて、本書は前半が著者の論文、後半が近年発行された生命倫理関係の論 文の紹介という構成になっていますね。生命倫理について勉強しようとする学生が何か取っ掛かりを得るためにはヒントになる文献かも知れません。 (1999.12.9)。
加藤朗『21世紀の安全保障――多元的紛争管理体制を目指して』南窓社、1999年
加藤さんは中公新書以来のファンでしたので、民博での研究会にその謦咳に触れたのと同 様、この書物を頂戴したのは本当に嬉しかったです! 序文にある寺山修司の短歌と“第三次世界大戦としての冷戦の終焉”という指摘は胸に響きますなあ。私 のフィールドである中央アメリカもIMF構造調整以降、ほとんど経済を中心とする市民生活の破局的戦争――勝者のない奇妙な戦争――状態にあります。これ からしっかり読みたいと思います(1999.10.29)。
宗教社会学の会編『神々宿りし都市――世俗都市の宗教社会学』創元社、1999年
英知大学の三木英さんからいただきました。宗教社会学の会は、私もかつて一緒に調査をさ せていただき、私をフィールドワークの面白みの中に誘ってくれた私にとっては一種の<学校>です(生 駒の修験系行者の語りや治療についての論文を書いたことも私はあるのです?!――ここでリンク)。最近の私は幽霊会員ですが、最近の定例会ではこ れからの研究プロジェクトのテーマが「神頼み・癒し・死」と、なにやら私の再登場を期待されているのではないかと勝手に想像している次第です。全く、私の 趣味的関心からですが、オカルト系をとりあつかった種田・吉永・対馬論文にとても惹かれました(1999.10.29)。
戈木クレイグヒル滋子『闘いの軌跡――小児がんによる子どもの喪失と母親の成長』川島書店、 1999年
医療と社会科学 メーリングリストに御礼を掲載しました。そのときグレイグヒルと間違えてお名前を書いたのでお叱りのメールをいただきました。その節は失礼しまし た! しかし、これは大変な魅力的な本です。これは表題のタイトルのみならず、日本の医学界の「科学主義」(それもかなり歪 な)の症例研究に対する正統派の医療人類学からの著者じしんの人間主義的な転回に よる「闘いの軌跡」の記録でもありますので、是非ご一読をお勧めします(1999.10.13)。
文光堂発行の『Quality Nursing』2000年1月号に書評を載せました。ご覧下さい。
Chihiro Shirakawa, "Dengue Fever Outbreak and the Place of Traditional Medicine among the People of Tongoa, Vanuatu," Man and Culture in Oceania 15:45-64, 1999
国立民族学博物館で白川さんから直接いただきました。土着知識と公的な疫病対策の意味論 的な交換などについての報告もお聞きしたかったですね(1999.10.15)。
『旭川医大における性暴力の被害者を支える会ニュースレター』同会編集、ウィメンズネット旭 川発行、1999年
この報告によると大学当局の対応は、セカンド・レイプそのもののように思われます。大学 当局が真摯に真相の究明に取り組み、再びこのような事態を繰り返さないような対応をとるように要請します。またウィメンズネット旭川の活動をモラルサ ポートします(1999.10.08)。
阿部公子「多彩色土器にみるマヤの空間意識」『関西大学西洋史論叢』創刊号、1999年
10月3日にグアテマラから帰国しました。もらったばっかりで、まだ読んでないの。コメ ントするまえに、取り急ぎ感謝!(1999.10.08)
篠原徹『アフリカでケチを考えた:エチオピア・コンソの人びとと暮らし』ちくまプリマーブッ クス118、筑摩書房、1998
今回、熊本大学文学部に非常勤講師としてお招きした篠原徹さん(国 立歴史民俗博物館:しかし英訳にはNational Museum of Japanese Historyとありfolkloreがないんですねぇ?)には、これ以外にThe symbolic meaning of the pot and roof, Nilo-Ethiopion Studies 1:57-73, 1993ほかの論文も数多くいただきました。本の最後にちらりと触れてありましたが、団塊の時代の教養人のある種の<独特なエトス>を臭わす冒険談として 読ませていただきました。こりゃ民俗学界の小田実「なんでもみてやろう」だっ!あるいはそんな雰囲気が充満してますねぇ。篠原さんのお人柄とフィールド ワークのたくましさがにじみ出ている好著です。それに、この本には<アフリカ研究における京都学派>その他のいろいろな人脈との交流なども描かれており、 意外とこの方面の人類学の科学社会学的研究のためのテキストになるかもねぇ。松田素二さんの<初期アフリカニスト>論文とならんで、この方面の重要な本に なります(1999.06.18)。
柴田潮音「マヤ・カミナルフユ文化編年におけるアウロラ期の再考」『文明の考古学』(貞末堯 司先生古稀記念論集)、pp.165-194、1998年12月
グアテマラ市のもっとも著名なマヤ遺跡に関する報告書であることまでは理解できるのです が、そこからは門外漢の悲しいところ。「アウロラ期」という編年の時期区分を批判するという趣旨なのでしょうが、それが文中では「アウロラ期の存在が否定 された」となっていて、あたかも、その時期が一度存在した後に、実証的に否定されるという修辞法で書かれています。妥当な編年の解釈をめぐる議論なのです から、もう少し適切な表現にしたほうがよいかもしれませんね。これを私の議論の修辞法に関する他山の石として、とても勉強になりました。 (1999.05.21)
リン・ペイヤー『医療と文化』円山誓信・張知夫訳、世界思想社、1999年
張さんの遺稿の翻訳を引き継いで出版された円山さんに感謝! お値段もお手頃で、看護学 部や医学部など医療系の比較文化論や文化人類学(医療人類学)の入門には最適の本ですね。ジャーナリスト出身の著者によるこの本は、幅の広い該博な知識を 駆使した「国家的枠組」を前提とする文化論になっていることが特徴です。西洋近代医療が、国家枠組に境界づけられた多様なものであり、そこに文化のバイア スをみるという手法はもはや時代おくれのような気がします。ただし、この枠組を越えて、イリイチやゾラ的な自文化の医療システムの批判に結びついてゆくよ うに、この本は活用できますし、そう読まれるべきであると考えます。そう考えると、膨大な脚注を割愛したのは、残念です。編集者の感性を問いたいです。
明治生命厚生事業団編『健康文化』No.5, 1999、(財)明治生命厚生事業団
旧年度の研究助成を受けた論文集ですね。しかし、この雑誌は単なる業績集にとどまらず、 日本語で書かれた健康についての人文科学・社会科学研究の代表的な雑誌になりつつありますね。目が離せないのは、委員長の立川昭二先生ほかの審査員のすぐ れた選考によるものかも知れません。我々も助成を受けたので、贔屓の引き倒しかもしれませんが・・?
村田充八『コンミューンと宗教』行路社、1999年
村田さんとは宗教社会学の会の生駒調査以来のおつき合いです。村田さんは、宗教を通して の社会(性)のなりたちを常に具体的事例を具体的調査(言葉の正しい意味での実証的)によって論証されてこられました。奧付けをみると昨年は学位も取られ たとのこと。ますますのご研究の発展をお祈りします。
追記:熊本大附属図書館中央館に著者寄贈として収書されたようです。村田さんには、改め て感謝します。(1999.05.21)
原田隆司・寺岡伸悟「腕時計の視線─経験社会学の試み─」『甲南女子大学研究紀要』第35 号、1999年
難波の茶店で論文の梗概は聞いていましたが、この論文は読みやすくておもしろい。紀要と いうひっそりとしたメディアなのが惜しいですね。器用な寺岡さんのことでしょうから、たぶんウェブページ版も出るでしょう。その時には、即リンクします。
城達也『意味と自由─現代ドイツにおける知識人の社会秩序観の変容─』文部省科学研究費補助 金報告書、熊本大学文学部城研究室、1999年
ドイツの保守思想家の研究がご専門の社会学者の同僚城さんが過去10年間書いてきたもの の論集。読み応えありそうですが、私は、この中の何本かを以前に読んだきりです。申し訳ないm(_ _)m。今年は彼と一緒に参加している別の科研の最終年度なので、城さんの論文もバリバリ読んで咀嚼しまっせ〜っ!
鈴木清史・山本誠編『装いの人類学』人文書院、1999年
総合研究大学院大学を卒業した若手と中堅による「装い」の民族学。装丁は著名なゲージュ ツ家により、なかなかオシャレですね。ただし帯紙の「人はなぜ装うのか」というコピーは、相変わらず総研大=民博的ですね。
野村一夫『社会学の作法・初級編─社会学的リテラシー構築のためのレッスン─』【改訂版】文 化書房博文社、1999年
インターネットやハイパーメディア領域におけるニューウェーブの真の啓蒙家の野村さんな らではの著作。改訂版のあとがきにある「マニュアルやハウツウものというのは、明確な動機をもった人には貴重だけれども、動機のない人には退屈な蘊蓄話に すぎないもの」という指摘は、教師笛ふけど学生踊らずの現状に身近に接している人間にはボディーブローのように効いてきますなぁ。
ブルーノ・ラトゥール『科学が作られるいるとき―人類学的考察―』川崎勝・高田紀代志訳、産 業図書、1999年
川崎さんたちの努力によって我が国にラトゥールが本格的に紹介されるでしょう。
田村克己編著『文化の生産』ドメス出版、1999年
国立民族学博物館でのシンポジウムの記録がようやく書籍になりました。内容は、一言でいうと玉石混淆。ただし、さまざまなアイディアの 倉庫です。文化の生産の「主体」が国家に限定されているところが、焦点を定める点では利点であり、文化生産はもっと日常的なものであるという観点からみる と不満は残ります。2匹の兎を追わなかったところが編者の見識かも知れません。
渡辺良編著『国際教育協力の人材の発掘・確保と人材活用の進め方に関する研究』平成10年度 文部省科学研究費補助金(基盤A-1)報告書、国立教育研究所、1999年
以前アンケートに答えた返礼でしょうか? 私には統計の分析より巻末の現場の生の声のほうに興味をそそられました。
『Las Culturas Indigenas』カパック・ニャン(Capac N~an)編集発行
新大陸(中南米中心の)考古学の学術雑誌。掲載されている諸論文はオタッキーあるいは<日本>考古学的些末主義の寄寄せ集めの感がいな めないですなぁ。しかし編集後記を読むと、それを脱却するのだ!という決意表明があって、もうアンバランスなのが進んでるのかも知れない。
『アジアセンターニュース』国際交流基金アジアセンター
アジアのハイ・カルチャーに関する情報満載ですね。これと大衆路線・態勢批判系のアジア太平洋資料センターとの情報を組み合わせればもうバッチリで すねぇ(え?何がバッチリ?―そりゃ自分で考えてね)
『まほら』近畿日本ツーリスト・旅の文化研究所
写真が美しく含蓄のあるエッセーが載ります。やっぱり観光現象に対する批判的視点がないなどと言うと「はしたない奴だ」とか「礼儀をわ きまえない奴」だとかお叱りをうけるでしょうねぇ。
『書斎の窓』有斐閣
現在(1999.4-)連載されている牟田和恵(甲南女子大学)さんの「ジェンダー論から見る現代社会」を愛読しています。とくにセク ハラ問題の指摘は、この領域において多角的に考察されてきた筆者ならでは、鋭い切り口に舌を巻きます。得るところ大です。