か ならず読んでください

病気の文明史

Global History of Health and Disease

Mixed image of Descartes plus Herpes virus/ Delphine Planas et al. Reduced sensitivity of SARS-CoV-2 variant Delta to antibody neutralization. Nature https://doi.org/10.1038/s41586-021-03777-9

池田光穂

Écoutant, en effet, les cris d'allégresse qui montaient de la ville, Rieux se souvenait que cette allégresse était toujours menacée. Car il savait ce que cette foule en joie ignorait, et qu'on peut lire dans les livres, que le bacille de la peste ne meurt ni ne disparaît jamais, qu'il peut rester pendant des dizaines d'années endormi dans les meubles et le linge, qu'il attend patiemment dans les chambres, les caves, les malles, les mouchoirs et les paperasses, et que, peut-être, le jour viendrait où, pour le malheur et l'enseignement des hommes, la peste réveillerait ses rats et les enverrait mourir dans une cité heureuse. - Albert Camus, LA PESTE (1947)

クレジット:『生活の地域史』(地域の世界史シリーズ,第7巻)[共著]川田順造・石毛直道 編,山川出版社(担当箇所第3部第1章「病気の文明史」),pp.258-289,2000年3月、の出版後の改訂版です。

第III部 第1章 病気の文明史 池田光穂 history_disease_civilization.pdf→レジュメ[印刷初期原稿版]資料はパスワードが必要です:FaceBookで「垂水源之介」を探して聞いてくださ い。

初稿時の入稿原稿です。引用する際には、ご面倒でも定稿の文献(『生活の地域史』(地域の世界史シリーズ,第7巻)[共著]川田順造・石毛直道 編,山川出版社, 2000)をご参照ください。

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目 次


1.第一節 旧大陸における疾病の流通――人類誕生から十六世紀まで

 1.1 仮説としての疾病史

 人類は病気と共に始まり病気とともに歩み続けてきた。人間とは病む存在である。この常識のため病気を理解することは我々にとって難しくな いように思える。しかしそのような常識は禁物である。この章を理解するため次の三つの前提を確認しておこう。

 (1)病気体験は歴史や社会によってきわめて多 様である

 我々の病気体験は、人類の祖先が体験したものと必ずしも同じではない。同じ種類の病気でも時代や場所によって発病の様式が異なる、つまり 病状が全く別の ものとして取り扱われることがある。民族学の現地調査から、おなじ病気に感染しても、病状の訴え方には、社会によって著しい多様性があることも報告されて いる。したがって歴史的記述の中や異文化における病気の経験について知ることはきわめて困難である。二十世紀初頭のインフルエンザ(スペイン風邪)の流行 によって世界中で二千万から数千万の人びとが死んでいったという怖ろしい事態を現在では誰が容易に想像することができるだろうか。

 (2)歴史上の病気の判定は、臨床的な診断では なく状況証拠にもとづく推測である。

 過去の時代の人びとの病気の体験が現在と異なるということは、病気の歴史的検証において大きな問題になる。なぜなら過去にさかのぼって病 原を特定するこ とができないので、研究者は史料に残っている個々の病状や流行の様式から、それらの病名や原因を推測する。しかし、手がかりとなる流行様式や病状が異なる ため、それらの診断はきわめて難しい。人類が経験してきた流行病はこのような推測によってかりに病名が付けられているだけであって、将来の研究の進展いか んでは異なる病気として認定されることもあり得るのだ。

 (3)どのような病気の歴史もあくまでも仮説で ある。

 病気の知識に関する問題はより深刻である。現在の病気研究は十九世紀以降しだいに世界中で影響力をもちはじめ、現在では標準となっている 近代医学の知識 による。病気の統計などもこの医学体系に基づいて十九世紀以降に蓄積されるようになってきた。しかし診断基準は不断に変化する。つまり、ヨーロッパにおい てさえ十八世紀以前には科学的に信頼がおける病気研究のための資料は限られている。病気の文明史とは、歴史学や「疫学」(病気の原因や動態を明らかにする 学問)の研究成果を利用して再構成されたものにすぎない。

 我々はここで自然科学的に定義される人間の疾患を「疾病」と呼び、人びとに解釈され社会的な意味をもつとき、それを「病気」と呼んで区別 しておこう。本 章が焦点をあてるのは人類の「病気」理解のための「疾病」史の基礎である。

 1.2 人類と病気の誕生

 我々と類人猿は同じ祖先をもつ。現代の霊長類にはダニ、ノミ、蝿などの節足動物や蠕虫類などの消化管寄生虫が寄生しており、また多種多様 の原生動物、菌類、細菌、ウイルスに感染している。そのため我々の祖先も同じような寄生虫や感染症をかかえて生活していたと考えられる。人類の祖先は森林 性の雑食性動物として同じ環境に住む他の哺乳類と同様な生態的地位にあった。しかし森林の後退によって平原に進出することをやむなくされた我々の祖先は、 やがて直立姿勢や二足歩行をおこなうようになり、これに伴って大脳が大きくなってきたと考えられている。今から五百万年前である。草原は森林とは異なる生 態環境にあるので、最初の人類はその生息環境の変化にともなって、草原性の動物に寄生していた別の寄生虫や細菌、ウイルスの感染を受けた。これが生育環境 の変化にともなって人類が感染症から受けた最初の衝撃である。

 人類の起源は熱帯アフリカにあるとされているが、彼らは環境への高度な適応能力をもっていたために百万年前には温帯から寒帯におよぶ地球 上の広い地域へ の拡散を始めたと考えられている。とくに温帯へは感染症を媒介する寄生生物が熱帯に比べて相対的に少ないために、比較的短時間のうちに居住地域を広げるこ とができた。 

 自然界において高等哺乳類と病原生物とのあいだには一定の共存が保たれている。宿主(人間)が寄生体(病原生物)にさらされ宿主は感染し 発病するが、生 き残った個体には免疫が獲得されるからである。また、強い毒性をもった寄生体は短い期間のうちに弱毒化することが知られている。こうすることによって宿主 集団の内部において寄生体が長期的に生き残ることが可能になるからである。

 初期の人類は、他の哺乳類より特異な生態的地位を得たことから、このような寄生体との共存関係をより頻繁にもつように生物学的な適応をと げた。他方、人 類の適応能力の高さは、生息地を拡大することで、病気の感染を回避する行動を獲得するようになった。

 1.3 狩猟採集生活と健康

 数十万年前に始まっていた人類の各地への移動は、およそ一万年前に完成した。つまり、その頃には地球上のほとんどの場所に人類が住むよう になった。彼らの食物の調達は狩猟採集によっていた。その食生活は、漁労や狩猟から得られる動物タンパク質に加えて、採集にもとづく多様で豊かな植物から 構成されていた。狩猟採集民の集団は大きくても数十人で、移動生活をおこなっていた。この時期に獲物は豊富にあったが、狩猟能力や移動能力に限度があった ために、集団の大きさがそれ以上大きくなることはなかった。人口が低水準に保たれていたのは、受胎制限をしたり出産間隔を広げたりしたからである。またよ り積極的な人口調整の手段として嬰児殺しがおこなわれた可能性がある。一万年前の地球の人口は数百万人程度とみられている。

 狩猟採集民の健康状態については、病気や飢餓に常時さらされており生存ぎりぎりの水準で生活していたという仮説が長い間信じられてきた。 結核、ハンセン 病やトリポネーマ症なども小さな集団のなかで流行していた可能性がある。熱帯地方では昆虫やダニなどの節足動物によって媒介されるアルボウイルスの感染が 考えられ、熱帯アフリカではマラリア原虫に感染していた可能性が高い。しかし、それらはみな地方病のレベルにとどまっており、集団を越えて大流行すること はなかった。なぜなら広い範囲に流行をもたらすほど個々の採集狩猟民の集団は大きくなく、そのサイズは彼ら自身を健康的に維持するのに十分な数にとどまっ ていたからである。また現代の採集狩猟民の調査によると、彼らには癌、肥満、糖尿病、高血圧や心臓病などの成人病はほとんど見つからない。このため先天性 の疾患など乳幼児期の生存の危機を乗り越えた成人の健康状態は比較的良好だったのではないかと思われている。唯一の例外は関節炎が多かったことで、出土し た骨にそのような病変が多くみられる。健康と栄養の観点からいうと、農耕生活よりも狩猟採集のほうが、自由時間も多く、食物の栄養のバランスもよかったこ とが、現代の狩猟採集民から推測される(表1と図1)。


(Sahlins 1972:19) McArthur, Margaret, 1960. "Food Consumption and Dietary Levels of Groups of Aborigines Living on Naturally Occurring Foods," in C. P. Mountford (ed.), Records 0/ the Australian-American Scientific Expedition to Arnhem Land, Vol. 2: Anthropology and Nutrition. Melbourne: Melbourne University Press.

 小集団が感染し、伝染をくり返し維持できる病原寄生体の種類は中間宿主を必要とする感染症がほとんどであった(図2a)。たとえば中間宿 主とは住血吸虫 症の場合、淡水に住む巻貝である。住血吸虫は、感染者の尿や糞便ととも排出された卵が小川の中で孵化し、その幼虫が巻貝のなかで感染可能な幼虫になるまで そこですごす。巻貝から出た幼虫が、小川や運河などで水浴したり洗濯する人の皮膚をとおして人体に入りさまざまな症状、すなわち住血吸虫症を引き起こす。 吸虫は人間の身体の中で成虫になり交尾をおこない人体から卵を産卵する。寄生虫にとって、中間宿主の利用は人口密度にあまり影響されずに効率よく安定した 感染を引き起こすことができる。つまり狩猟採集民は後の人類が経験することになる人対人の流行病にさらされることは少なかった。このことは逆に、狩猟採集 民の生活は健康的であったが、未知の病原寄生体には集団としての抵抗力は弱かったと思われる。

 1.4 流行病の農耕生活起源説

 人類が草原に進出して以来、人類の健康の歴史における次の衝撃は一万年前頃の農耕の誕生の際におこった。農耕の発明がただちに狩猟採集の 生活の放棄を意味するものではなかった。粗放的な農耕の時代には狩猟採集生活の要素が続いていた。狩猟採集生活に対する農耕生活の利点は土地面積あたりの 生産性の向上であり、高カロリーの炭水化物の食物を提供したことにある。その後の農耕生活は、採集狩猟時におけるメニューの多様性や栄養価を犠牲にしても 高カロリーの食物への依存を高めていった。同時により高い農耕生産性を維持するために、労働の強化がおこなわれるようになった。このことにより人びとのほ とんどの生活時間が労働に使われるようになった。集約的な農耕を通して余剰生産物を蓄積する方法を選択する人びとが登場したのである。

 集約的な農耕の導入と人口増加の因果関係をめぐっては二つの意見の対立があり論争のテーマになっている。ひとつは、人類は農耕の導入を通 してそれが結果 的に人口増加につながったという見解である。農耕は人類が偶然に発見し、それが人間の生活にとって革新的な効果を生んだと考える。この仮説は古くはマルサ スから今日にいたるまで多くの人たちによって支持されてきた。しかし世界の各地で気候風土に応じた農作物の栽培がなぜ同じ時期に誕生したかということを単 なる偶然の一致でしか説明できないという欠陥がある。

 それに対して経済学者エスター・ボズラップはマルサス的見解とは異なる解釈を提出する。彼女によると、狩猟採集民の生活の中にはすでに粗 放的農耕を生み 出す要素があり、粗放的農耕による人口増加によって集約的な農耕の技術の導入と発展が順次始まっていったと説明する。人口が一定の限度を超えて成長した地 域において文明が発生したのである。文明の人口基盤が集約的な農耕の受容を促進し、この農耕の発展がさらに人口を増加させるという相乗効果を生んだと考え る。

 文明圏における農耕の発展が人間の健康にもたらした影響は二つの面がある。ひとつは農耕が食生活に与えた影響であり、他のひとつは人口の 増大における感 染症流行の出現である。農耕生活が食生活に与えた最大の影響は栄養面での変化である。農耕時代に劣らず狩猟採集時代も人びとの食事の多くは植物に依存して いたが、農耕時代は高カロリーの炭水化物からなる栽培植物に依存する割合が高くなった。人口の増大によって炭水化物への依存がさらに高まると、長期的には 食事におけるタンパク質、ビタミン、ミネラル不足が生じる。穀物の偏食からくる脚気、ペラグラ、くる病は農耕時代になってはじめて生じた。また食物全体の カロリーに比してタンパク質が不足するとクワシオルコル症を引き起こす。農耕生活における栄養面での貧困化に歯止めをかけた唯一のものは乳製品である。し かしながらこれは新大陸および東アジア地域ではほとんど消費されなかった。

 人口が増え栄養条件が悪化すると病気の流行がおこりやすくなる。大きな人口集団では病原体がつねに集団のどこかにいて他の人びとに感染す るチャンスが生 じるからである。集団の大きさは病気の感染の様式や潜伏期間、感染が患者に与える影響や致死率などによって決まる。感染症を中心とする病気の流行と人口維 持には一般に次のような周期が生じることが考えられる。まず(a)人口増加によって密度が増大する。人口密度が増大すると引き続いて次の二つの事態が起こ る。(b-1)集団の栄養条件が悪化する、(b-2)感染症の流行によって死亡率が高まる。これらの状態が続くと(c)出生率が低下する。そして結果的に は(d)人口の減少によって元の人口水準に戻る。

 人口集中による衛生状態の悪化、貧困の増大、食糧の供給不足などは、流行病の蔓延をさらに促進させる。都市の集住は人びとに感染の機会を 与え、食糧不足 や貧困の状態は寄生虫疾患の病状を悪化させ、また流行病への抵抗力を低下させるという効果をもつ。しかし文明はそれに対処する方法と同時に感染症と共存す る方法を自らのシステムの中に発明しようとしていた。

 1.5 文明がつくる感染症

 集約的農耕による余剰生産とその蓄積は政治権力の基盤を生じさせた。そのような文明の圏内ではさまざまな感染症が蔓延していた。問題はど のようにして文明が感染の危険性を克服することができたかということである。歴史家ウィリアム・マクニールによると、文明そのものが独自の感染症の伝染様 式を発達させ、それらの感染症を貯蔵し、感染症の定期的な流行を通して人口集団に対して免疫機構を付与したという。またさらに彼は、文明はそのような感染 のメカニズムを社会制度としても確立したという。これは次の二つの現象が同一の文明圏内で発達した結果であるとされる。

 (1)中間宿主を必要としない感染症の誕生

 文明圏が誕生する以前の小集団社会において、病原寄生体による感染症が維持されてゆくためには中間宿主が必要であった。しかし、人口密度 がある一定の数 に達すると、直接人間どうしが感染しあい、中間宿主を必要としない病原生物――この場合はバクテリアとウイルスが主となる――が引き起こす疾病が優勢にな る(図2b)。これは人口密度の上昇によって直接感染する病気の伝搬効率が、中間宿主を介する病気の伝搬効率を上回るからであり、このような現象は都市生 活に伴って新しく生じたものと考えられる。

 (2)「ミクロ寄生」と「マクロ寄生」

 ミクロ寄生とは人間に感染する病原性生物がもつ本来の寄生の様式である。それに対してマクロ寄生は社会における一種の搾取メカニズム、例 えば軍事組織な どをさす。人間に寄生する細菌や昆虫は身体に寄生することを通して人間の生存を脅かすが、マクロ寄生も人体の外部から経済的搾取や侵略などを通してそれと 同じ効果をもたらすからである。ミクロ寄生という通常の感染現象以外に、マクロ寄生という類似のメカニズムを想定することによって、ミクロとマクロの寄生 が競争的にあるいは相互補完的に、人口集団の成長に影響を与えていると考える。

 成立したての農耕社会は、外部の武力による略奪に抵抗の術をもたなかったが、余剰生産物の蓄積によって、農耕社会が武力集団を一定の割合 で雇うことがで きるようになり、外部からの権力に対抗することができるようになった。マクニールは、これを農耕社会が外部に対して一定の抵抗力、すなわち「免疫」を確保 するようになったと考える。自分の文明圏の軍隊は他の文明圏の軍隊が持ち込む感染症(ミクロ寄生)から防衛はしてくれるが、軍隊はその社会における余剰生 産を食いつぶすマクロ寄生体そのものである。

 このように文明は新しいタイプの感染の様式をつくり出し、その感染症を圏内に維持し圏外からの感染症に対して疫学的ならびに社会的に防衛 する広義の「免疫」メカニズムを発達させた。農耕化に伴う感染症からの危機を、文明圏をつくることで人類は病気と独自の共存関係をつくりあげた。マクニー ルはこのような文明の領域を「文明化した疾病の供給源」(Civilized Disease Pool)と呼んだ。彼の主張を整理し模式的に示したのが図3である。この模式図では「文明化した疾病の供給源」は疾病文明圏とし、文明圏において疾病を認識し対処してきた社会的活動としての医療体系をつ け加えた。どのような文明圏においてもさまざまな種類の治療者がおり、社会階層などに応じて一定の分化をとげているからである。それらを宮廷医療、大衆医 療、土着医療からなりたつ多元的な医療体系として表現してある。歴史の資料としてもっともよく残っているのは、王宮や貴族に仕えた医師たちが残した歴史資 料である。だが実際には都市に住む大衆を対象にしたり村落民を対象にする医療が存在していた。これらの医療の実態は歴史的資料として残されることは少な かった。同じ疾病文明圏内の疾病構造は類似しているために、それらの疾病観や治療法は、それぞれの医療のあいだで相互に関連したり類似していたであろう。

 1.6 疾病文明圏と疾病交換

 文明の成熟が疾病文明圏の成立をうながす。地球上で最初の疾病文明圏 は西アジアでおこり、中国、インド、および地中海地域もほどなくしてそれを確立させた。紀元前十世紀から紀元前五百年ごろまでの間である。疾病文明圏の誕 生によって、文明は疾病に対処する技術や思想を生み出す。それは医療という限定された領域での技術にとどまらず、特定の社会行動やそれを正当化させるイデ オロギーにまでおよぶ。


中国医学ではふるくから身体に関する理論が発達し、薬草や鍼灸などの技術もそれに連動して発展してきた。加納喜光によると、中国医 学が洗 練させてきた 「経絡」――鍼灸のツボを結ぶ経路の体系――は、古代中国文明の国土にはり巡らされた水路とそれにもとづく水利工学の発達との関連が示唆されるという。中 国医学における陰陽五行にもとづく身体や宇宙の構成要素の均衡によって健康を説明する発想は、中国文明の一種の環境思想と深く関わりをもつ。マクニールは インド文明におけるカースト制度は感染症に対する一種の防疫機能から生まれたとする。インド文明における厳密なカースト制度は、文明からみた猖獗の地であ る「森の民」を直接的にはコントロールできなかったために、一種の心理的な障壁として辺境の民をタブー視し排除すると同時に、不可触賎民として社会の最下 のカーストとして組み込んだという。このような類推にもとづく医療の発達や疾患の予防の実際の効果について実証することは困難をきわめる。しかし病気の認 識の中に社会の認識が反映されることは、多くの社会においても指摘されており、実際的な効果の有無にかかわらず、そのような考えが疾病文明圏内に形成され たことは想像に難くない。

 疾病文明圏では感染症がどこかに常在しており、それが定期的に流行を繰り返す。流行の様式は、都市の人口規模によって異なることがわかっ ている。人口密 集地帯での感染症流行の様式には、(I)病気の発生をつねに抱えながら大流行を周期的に繰り返すもの、(II)流行は周期的だが流行の間には病気の発生が みとめられないもの、(III)不規則な周期をもち流行の間に病気の発生がみとめられないもの、があると言われている。計算機によるシュミレーションで は、人口二十万人を越えると(I)の様式が、人口が十万から二十万では(II)の様式が、そして人口が十万未満では(III)の様式をとるようで、これら は実際にあった歴史的事実にもあてはまる。文明の初期において二十万人を越えて密集するところでは、病気の流行は規則的な流行の様式をとり、流行のおさ まった後でもつねに集団に病原体が存在したであろう。このような発生パターンを地方病的(エンデミック)という。このようにして疾病文明圏の中では、特定 の感染症が流行を繰り返しながら維持されている。

 これに対して病気の流行が次から次へと広がり最終的に世界的に広まることを大流行(パンデミック)という。それぞれの文明圏が発達するに つれて近隣の文 明圏への軍事侵攻がおこったが、軍隊の移動にともなって、ある文明圏の病原菌が異なる文明圏に侵入する。また帰還兵を通して異種の病原菌が故郷の文明にも たらされる。疾病文明圏の外縁では、マクロ寄生による食物の搾取が引き起こす栄養条件の悪化と、中心部から波状的に拡がる疾病流行によって無人の緩衝地帯 が形成される。疾病文明圏の間で異なる感染症が双方向で伝わるとき、これは疾病が相互に交換されているとみる(図3)。疾病の交換には、軍事侵攻という感 染の機会が強度のものから交易を通して感染症の伝播という比較的低度のものまである。

 1.7 ユーラシア疾病大文明圏の成立

 疾病の交換という事態は陸路および海路を通して文明圏間での人の流通が大きくなればなるほど活発になる。紀元二世紀ごろにはシルクロード で知られた交易ルートが東地中海から西アジア、インド、中国にまで確立していた。これによって文明圏の相互の疾病の交換は以前にもまして活発になり、この 頃にはユーラシア大陸の各文明圏の疾病の均質化はほぼ達成されようとしていた。

 しかし外部からの病気に対する免疫力にはそれぞれの文明圏によって違いがあった。例えば中国とローマ帝国を中心としたヨーロッパ世界は、 二世紀から七世 紀を通して疫病の流行が繰り返されたが、これは疾病の交換の規模が当時まだ小さく、それぞれの集団にとって免疫の獲得されていない感染症が数多く存在した からである。

 十世紀にいたり、中国とヨーロッパ世界は感染症に対する生物学的適応がユーラシア大陸のなかで最初に達成された。この時期以降、中国と ヨーロッパの地域 は人口増加に転ずる。これは西アジアとインドという疾病文明圏に対する相対的な力の優位を意味する。マクロ寄生の発達、つまり軍事遠征や交易の発達により アジアならびにアフリカの周辺諸民族も疾病が循環する圏内に組み込まれることになった。ユーラシア大陸のはずれにある日本列島とグレートブリテン島の疾病 史をひもとけば大陸における感染症の伝播について興味深いことがわかる。これらの島々は大陸とは海峡を隔てているが、有史以降大陸からの感染症が繰り返し 到来し、周期的にその人口構造に大きな打撃をあたえていた。日本列島において大陸起源の感染症が常在し、免疫をもった安定した人口集団を達成するのは十三 世紀になってからである。他方、大陸の西端のグレートブリテン島では、ペスト(黒死病)の流行がくり返されたため人口が安定するのは十五世紀ごろまでか かった。


The spred of the Black Death in Europe of the 14th century, from William H. McNeill, "Plagues and peoples," p.148, Garden City, N.Y. : Anchor Press, 1976

黒死病の流行1347年12月〜1350年6月(文庫版、下巻4章、33ページ以降を参照)

 ユーラシア大陸全般の疾病の交換に寄与したのは、遊牧民の大規模な移動である。疾病文明圏が確立して以降、遊牧民が文明圏の住民に劣らな い高い免疫能力 を次第に獲得していき、病気の運搬者としての機能を果たすようになったからである。特に地球レベルでの感染症の拡散に貢献したのが十三世紀から十四世紀の 半ばまでのモンゴル帝国の軍事遠征と支配である。彼らは東西の疾病の交換を急速に推し進めた。彼らが運んだ最大の感染症はペストである。もともとペスト は、それよりさらに南のヒマラヤ山麓の地方病であった。一二五二年のモンゴルの騎兵隊が雲南からビルマに侵攻した際にそこから持ち出され、その後の短い間 にユーラシアの草原地帯に住む齧歯類に感染するようになったと思われている。この草原地帯がペスト菌の供給地となってヨーロッパに持ち込まれた可能性があ る。ただし、この仮説には次のような問題がある。雲南への軍事侵攻から数十年間は、ペスト菌は草原にすむ野生の齧歯類の間に保存され、その近くに住む人間 に病気の流行をもたらさなかった。中国でペストが最初に流行するのが一三三一年、ヨーロッパでは一三四七年であり、それまでは中国でもヨーロッパでもペス トの流行がなかった。どのような理由でペストが流行病になることなくユーラシア草原に維持されていたか明快な説明は今のところない。

モ ンゴル帝国(Wiki)より

 いづれにせよペストが野生の齧歯類から文明圏に住むネズミにノミを介して感染したために、ペストは最初の世界規模の流行病になる。中国で の最初のペスト 流行以降から十六年後の一三四七年にクリミアで流行し、そこから海路を通って地中海地方の都市に入り、一三五〇年にかけて陸地に沿いに北欧にむかって波状 に伝播の波が拡がっていった。この時期のペストにかかった患者は内出血をともない遺体の皮膚は黒ずんだためこの病気は「黒死病」と呼ばれた。この流行に よってヨーロッパの人口の四分の一から三分の一が死亡した。当時のヨーロッパの人口が八千五百万であるので、死亡者数は二千百万から二千八百万人が死んだ 計算になる。ペストは腺ペストから肺ペストに変化しながらも流行を繰り返す。じつは六、七世紀にローマをふくむ地中海地域はしばしば腺ペストが大流行して いたが、集団の免疫はすでに消失していた。七世紀のペストに比べて十四世紀のペスト流行は死者の規模や流行の広さにおいて空前のものであった。ヨーロッパ では十八世紀になるまでペストはくり返し流行する。インドでも東アフリカにおいても十三世紀以降ペストが流行している。

 この時期におけるユーラシア大陸で広範囲にわたる疾病の交換がおこなわれた感染症はペストのほかには天然痘と麻疹(はしか)である。アフ リカ大陸の疾病 文明圏については不明のところが多い。十四世紀におけるユーラシア大陸の広範囲にわたっておこなれた疾病の交換によって疾病文明圏の人口は三割から半数近 くに減少したと推定される。
 
 2. 第二節 世界システムとしての疾病流行――十六世紀から十七世紀半ばまで

 2.1 新大陸の悲劇――「白人は酷い病気をもってくる/知らない病気をもってくる/部族は全滅/体中はうみだら け」――レスリ・マルモン・シルコ(1977)

南北両アメリカ大陸へのヨーロッパ人の植民は人類が経験したおそらく最後で最大の疾病の交換であった。とくに新大陸の先住民が感染症から 受けた衝撃は大きかった。この理由は明らかである。モンゴロイドが到達した一万数千年前から十六世紀にいたるまでこの大陸はユーラシアから隔離された大陸 であったこと。また中央アメリカを中心に拡がっていたメソアメリカと南米のペルーを中心とする文明をのぞけば、人口が集中していた巨大な都市が存在しな かったことである。ヨーロッパの植民者がやってくる以前には、新大陸では広範囲に流行病が蔓延したという歴史的資料はなく、また先住民の神話や説話にも疫 病の流行というテーマやエピソードは見つからない。つまり同じ時期にユーラシアの人びとが体験していた強度の感染をくり返し受け、人口が激減するという経 験を十六世紀以前の新大陸の先住民はもたなかった。

これに対して複数の疾病文明圏をもち広範囲にわたって疾病の交換が完了していたユーラシア大陸の文明圏の人間は、ほとんどの感染症に対する 免疫を持って いた。スペイン人たちが僅かな装備と少数の兵隊できわめて短期間にアステカならびにインカという二つの大きな新大陸文明を滅ぼしたことができたのは、武力 によってではなく、この持ち込まれた疫病によってである。新大陸の征服戦争は細菌戦争であり、極端な一方通行の疾病の交換であった。新大陸に持ち込まれた 感染症は、天然痘、麻疹(はしか)、ジフテリア、百日咳、水痘、腺ペスト、発疹チフス、インフルエンザ、コレラ、デング熱、トラコーマなどであり、後には 奴隷貿易の黒人を介してマラリアと黄熱病が持ち込まれた。

天然痘は一五一八年のイスパニョーラ島を皮切りに、二年後にはコルテスの増援部隊とともにメキシコ中央高地に到達し、アステカ帝国の都テノ チティトラン の陥落に大きな影響を与えた。イスパニョーラ島の天然痘はコルテスの侵攻と同じ時期に、別の経路で伝わり一五二〇年には中米地峡のグアテマラに達し、太平 洋岸を経由して二六年にはインカ帝国に到達した。ピサロの征服においてもまた、感染症は潜在的な武器になったのである。他方、北アメリカには十六世紀のは じめにフロリダに天然痘が上陸し、メキシコ湾岸および大西洋東海岸を交易路に沿って北上したと考えられ、二十年後には五大湖地方まで到達した。

新大陸へのヨーロッパの植民が本格化するにしたがってさまざな感染症が津波のように旧大陸から押し寄せ続けた。麻疹(はしか)は一五三〇年 から三一年に メキシコとペルーにおいて大流行した。インフルエンザは一五五六年から四年間ヨーロッパで猛威を振るったが、新大陸では最初の流行から二年後の一五五八年 から五九年にかけて流行する。見えない感染症の脅威は、侵略者にとって自分たちの行為の正当化と神の加護のあかしと思ったであろうし、被征服民にとっては 自分たちの神の無力さを認めさせることになった。被征服民となることを恐れた先住民が絶望的な最後の抵抗を試みたり、徹底的にヨーロッパ人との接触を避け 奥地に逃避するという行動が形成されたのはこの感染症の威力によってであった。

中間宿主を媒介とする感染症のうちヨーロッパ人たちが新大陸に持ち込んだのはマラリアと黄熱病である。ただし流行はアフリカからの奴隷の導 入からしばら くたってからである。これらの病気を媒介する動物――それぞれハマダラ蚊とヤブ蚊――が新大陸の環境に適応するために時間がかかったためである。先住民人 口がほぼ壊滅したカリブ海島嶼地域および人口が激減したブラジルにおいて先住民労働力を補うためにアフリカから奴隷が導入される。マラリアはその十七世紀 以降にくり返し流行をしたために、先住民人口の減少に拍車をかけたと同時に、ヨーロッパからの入植者に対しても大きな脅威になった。

狩猟採集民集団は免疫力が弱く都市住民からの接触を受けるだけで感染症によって容易に打撃を受ける。カリフォルニア半島では十八世紀の七十 数年間に疫病 によって四万二千人の人口の九割が死滅した。先住民人口の急激な減少は、皮肉にも彼らを救おうとした宣教師自身が持ち込んだ感染症が原因であった。コロン ブス以前の新大陸の人口推計は容易ではないが、現在では当時一億人を下らない人口であったとされている。これが一番最低の水準に落ち込んだ時点では全人口 の二十五分の一つまり四百万から五百万人まで減少したという。
 
 2.2 地球規模に拡大する疾病文明圏

 十三世紀から十五世紀にかけてのモンゴル帝国にはじまる疾病の長距離の移動によって、十二世紀までの旧大陸の疾病文明圏が崩壊し、アフリ カおよびユーラシア大陸という大きな疾病圏が形成された。そしてユーラシア大陸起源の多くの感染症はヨーロッパの植民者およびアフリカの奴隷民を通して、 新大陸に導入され先住民人口の激減という結果をもたらした。これに引き続く十七世紀前半までの大航海時代によって疾病の世界循環がほぼ終わろうとしてい た。十六世紀になるまでほとんど旧大陸民との交渉がなく、かつ大きな疾病文明圏が発達しなかった新大陸の先住民におこったことと同じことが世界中の隔絶し ていた少数先住民族におこった。ヨーロッパと接触した世界の先住民つまり新大陸のインディヘナに引き続き、太平洋島嶼民、オーストラリアのアボリジニー、 シベリアの諸民族、南アフリカの先住民族たちの人口は極端に減少していった。その結果、旧大陸との接触があったところでは、先住民人口の急速な減少がおこ り、彼らの文化や生物学的な多様性が失われた。

 さて新大陸の征服以降に世界史に登場した疾病のうち重要なものが梅毒と発疹チフスである。イタリアでは一四九四年に梅毒と思われる流行病 が発生し、戦争 を介してヨーロッパ全土に拡がる。この流行病はインドでは一四九八年に、広東には一五〇五年頃に到達し、日本の京都には一五一二年にはすでに発病するもの が現れている。梅毒は一般にはコロンブスが新大陸からヨーロッパに持ち込んだ病気であると言われてきた。しかし熱帯性の地方病であるフランベジアと梅毒の 症状や経過が極めて類似しており、またそれらを引き起こすトレポネーマも形態的には区別できないことが明らかにされて以来、梅毒の新大陸起源説には疑問が もたれるようになった。いづれにせよ梅毒と認められる病気の世界的流行は十六世紀になって登場し、人間の長距離の移動と性交によって世界中に急速に伝播し た。しかし、梅毒がもつ毒性は百年もたたないうちに弱まり、結果的に梅毒によって世界人口の減少はおこらなかった。発疹チフスは梅毒と同じ時期にヨーロッ パに登場する。シラミが媒介するこの病気は二十世紀にいたるまで貧困や戦争による栄養状況が悪化した集団の死亡率を高めたが、これもすでに始まっていた世 界の人口の増加を止めるにはいたらなかった。

 2.3 疾病と健康の均質化

 先住民人口が減少した世界のさまざまな土地に入植してきたのがヨーロッパの植民者たちである。彼らは旧大陸由来の病気に対する免疫をも ち、かつさまざまな感染症を持ち込んだ可能性があるので、植民地の最前線において、その奥地に隠れるように住んでいた先住民族の人口低下に拍車をかけたこ とはすでに述べた。

 そのような無人に近い空間に入った入植者たちがおこなったことは、ヨーロッパ由来の農作物を植え、その生育にふさわしい環境に改変して いったことであ る。植民者たちは、気候的にヨーロッパと似たような土地である高地や温帯地帯へ積極的に植民を進めた。彼らはヨーロッパ由来の種子を蒔き、新大陸の各地を ヨーロッパ的な景観に改変していった。

 他方ヨーロッパ人は、新大陸の先住民が栽培していた作物を旧大陸の各地に導入する。新大陸起源の作物にはトウモロコシ、インゲンマメ、 ジャガイモ、トウ ガラシ、トマト、サツマイモ、タバコなどがある。サハラ以南のアフリカに導入されたトウモロコシとキャッサバは現地の住民の人口増加に大きな影響を与え た。またインドでは新大陸起源のトウガラシは今日ではなくてはならない食物になったが、それは十八世紀に急速に普及したもので、十七世紀にはまだ十分に知 られた食物ではなかった。トウガラシはビタミン類を豊富に含むので、インドの人びとの食生活はこの作物の導入によって飛躍的に改善された。

 環境史家アルフレッド・クロスビーはヨーロッパ植民者たちが世界の温帯の固有の生態環境を破壊し、その後に自分たちの生活に都合のいいよ うに造り上げた という事実について指摘し、そのように造り上げられた疑似ヨーロッパ的な環境をネオ・ヨーロッパとよんだ。ネオ・ヨーロッパの創出は、生態学的な景観にと どまらず、植民地行政府の建築や近代的な政治システムや、ヨーロッパ起源の近代的な衛生や医療行政というシステムを含めた広範囲にわたる空間の改造でも あったと理解することができる。

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 3.第三節 人類文明と健康――十七世紀半ばから現在まで

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 3.1 人口爆発のはじまり

 では疾病をめぐる地球規模の動きの中で「医療」という制度がはたしてどれほどの効果をもっていたのだろうか。結論を先に言えば、医療が流 行病を制圧し、人口を押し上げるほどの可能性をもつようになるのは過去百年間ほどにすぎない。ヨーロッパの十八世紀以降の医療を「近代医療」と呼んでみ る。そして「近代医療システム」を広く近代化の一環としてとらえ、世界的なレベルでの食生活を含む栄養の改善や衛生政策であると定義すると、十九世紀以降 の近代医療システムが、限定された人口集団や疾病構造に与えてきた影響は大きい。その過去二世紀にわたる変遷をみてみよう。

 十七世紀の後半から十八世紀を通して特徴的なことはヨーロッパと中国での人口増大であった。ヨーロッパでは十七世紀半ばから十八世紀半ば までの百年間の 間に人口が増加し、およそ一億数千万人の人口に到達するようになった。中国では一八世紀の百年間に人口は一億五千万から三億人一千万と倍以上の増加がみら れた。中国における人口増加の原因は、土地に投下する農民の労働力を強化して生産性を向上させたことと、新大陸起源の作物――サツマイモ、トウモロコシ、 ピーナッツなど――の導入である。それ以外の疾病文明圏地域、例えばインドやエジプトなどでは十九世紀になるまで大幅な人口増加がみられた形跡はみられな い。

 先住民人口が激減した新大陸、とくに北アメリカではヨーロッパからの入植がさかんになり、ヨーロッパ起源の白人や先住民との混血の人口が 増加する傾向に 転じた。世界のさまざな地域において新種の農作物が導入されたことは、その土地の生態的な条件の改変を意味した。この一連の出来事は栄養状態の改善のみな らず、それまで感染症を媒介していた昆虫やネズミなどを結果的に駆逐することにつながった。

 環境改変と感染症の撲滅の一例を十八世紀の産業革命期のヨーロッパとくにイギリスにみてみよう。労働者雇用の発生よって都市の人口が増大 し、その後背地 の田園地帯に食糧増産の必要性が生じた。そのため農耕の方法において従来の休閑地をやめてカブやウマゴヤシなどが植えられるようになった。ウマゴヤシの作 付けは牛の飼育を促進し、食肉と牛乳の生産が増大した。牛の数が増えたことは、それまでマラリアを媒介していたハマダラ蚊が、人間の血液よりも牛の血液を 吸う機会を増大させ、それまで広く分布していたマラリアが大幅に減少した。十六世紀の第一次囲い込み、さらに産業革命期の第二次囲い込みによって、家畜の 過剰飼育が押さえられ、家畜の健康状態が改善されるととともに、人間と家畜の接触による感染症が減少するという結果を生んだ。

 十八世紀には世界各地の民間療法として経験的に知られていた種痘の方法がヨーロッパにおいて次第に洗練されてくる。一七九八年にジェン ナーによって牛痘 の手法が確立され、わずか十年もたたないうちに世界中でその手法が導入されるようになった。人類が歴史上経験してきた三大疫病である天然痘、はしか、ペス トが克服される最初の契機になった。

 3.2 医療政策と環境統御――コレラ流行

 十九世紀におけるコレラの地球的規模における流行は、世界の人口に大きな打撃を与えると同時に、西洋を中心とした近代医療システムを完成 させ、さらにそれを世界のすみずみまで拡散させる働きをしたという点で重要である。
 コレラは一八一七年のカルカッタでの流行以前においては、インドのベンガル地方の地方病として周辺の地域の流行を引き起こしていたにすぎなかった。地方 病としてのコレラは、その流行のパターンがヒンドゥー教徒の祝祭日と巡礼のカレンダーに対応していたことが確かめられている。インドでは十八世紀後半から 始まったイギリスの東インド会社の支配が続いていた。その権益を守るためイギリス軍は流行の前年から一八一八年にかけてベンガルからインド北部国境地帯で 軍事活動した。イギリス軍はコレラに感染していたため、それに敵対していたネパールやアフガンの住民にも感染した。他方、東側の海路に沿って一八二〇年か ら二二年にはセイロン島、インドネシアから中国や日本にも流行した。特に中国と日本ではコレラがその後も定着しつづけた。西方にはアラビア半島からアフリ カ東海岸へと南下し、北方には中央アジアまで到達したが、ヨーロッパには流行が伝播しなかった。しかし一八二六年の流行では、南ロシアからペルシャ、トル コ、ポーランドと、同時起こった戦争と軍事行動によって一九三〇年頃にはヨーロッパにまで伝播し、三一年にはイギリス、翌年にはアイルランドからカナダ、 アメリカ合衆国、三三年にはメキシコにまで流行病として伝播した。

 一八二六年にベンガル地方ではじまるコレラの流行は、一八三一年にメッカに波及し一九一二年までそこに定着し、間欠的に流行を繰り返し た。巡礼のための 交通手段――蒸気船と鉄道――が格段に近代化をとげた一八世紀後半から二十世紀前半は、西はモロッコから東はフィリピンのミンダナオ島まで、また西アフリ カ各地のイスラム圏にいたるまでコレラは世界拡散を続けた。

 コレラのヨーロッパにおける大流行は、当時ようやく今日の姿に近づきつつあった近代医療の形成にとって決定的な影響を与えた。コレラが最 初にヨーロッパ に大流行した際に、その治療をめぐって西洋医学における二つの伝統的な理論が真っ向から対立したからである。そのひとつはミアスマとよばれる腐敗した有機 物や湖沼から発生する一種の気体が原因とされる仮説である。もうひとつはコンタギウムとよばれる感染性の実体によるものという仮説である。

 コンタギウムによる仮説は一四世紀のペスト流行の際に地中海の都市において採用されて以来、流行病に対する支配的な考え方であった。しか し、十九世紀前 半のヨーロッパではフランスの医学者による黄熱病の流行の研究においてミアスマ説が広く医療の専門家に支持されるようになり、コンタギウム説は学問的影響 力をほとんど失いかけていた。そのような矢先ロンドンの医者ジョン・スノーがコレラの発生源としての一つの汚染された井戸を証明する報告書を一八五四年に 発刊する。スノーの解釈は当時ほとんど注目されなかったが、一八八〇年代になり感染症を引き起こす「細菌」仮説が証明されるにいたって、はじめて評価され るようになる。しかしながらコレラ菌が一八八三年に「発見」されても、この事実は容易には認められなかった。

 コレラ菌がコレラを引き起こすことは明白のように思われるが、ヨーロッパのコレラ対策は細菌学説によって成功をおさめたのではない。コレ ラ対策の実質的 な推進者は、国民の健康に基づく富国強兵を推進させようとした理想主義的な軍医や医事官僚たちであった。その起源は十七世紀に遡ることができるが、十八世 紀には軍医学校の制度のなかで、兵隊の健康維持を目的としたさまざまな実験的治療が試みられるようになっていた。そして十九世紀には病気を集団管理の立場 から防御管理する保健制度がヨーロッパの都市社会に整備される。イギリスでは一八三二年のコレラの最初の流行において各地に保健委員会が設立され、以後の 流行においても同様の委員会が組織されるようになった。衛生委員会の中から衛生改革の推進者が登場し、住居、上下水道、環境などの改善に貢献した。このよ うな制度づくりはヨーロッパや北アメリカで十九世紀を通して普及していったが、その背景にあったのはコレラへの脅威であった。

 このヨーロッパの公衆衛生に関する基本的な対策は、世界各地のヨーロッパの植民地の都市や近代制度の導入に熱心だった国民国家に順次採用 されてゆくこと になる。他方ヨーロッパ由来の近代医療制度が、宗主国の住民に普及するようになるのは、二十世紀も後半になってからある。近代医療が整備される以前に防疫 を中心とした公衆衛生政策が先に根を下ろした。つまり臨床医学が感染症の流行に効力を発揮したというのは神話であり、実際は公衆衛生上の改革による感染症 対策によって人びとの健康が引き上げられたのだ。

 二十世紀初頭になって、ロンドンにおいて流入人口に依存することなしに都市人口が増加する。つまり都市における出生率が死亡率を上まわる ようになった。 これに似た状況は公衆衛生的改革が波及した世界各地の都市で起こるようになった。

 3.3 開発原病

 一八八〇年代に登場する細菌学説は感染症の原因をつきとめ、それに対するワクチンの開発を促進させることに貢献した。ただし二十世紀の最 初の二十年間はワクチンの技術の開発はほとんど軍事組織の中で兵隊を使った疫学実験すなわち人体実験によって有効性が確かめられていった。また十七世紀以 降の栄養条件の長期的な改善と、十九世紀以降本格化する公衆衛生的改革によって徐々に感染症は人間にとって大きな脅威ではなくなってきた。例えば十四世紀 以降ヨーロッパにおいて結核は常に住民に脅威を与える感染症であり、十九世紀に入って産業化をとげる都市の住民の間で蔓延し恐れられた。しかし十九世紀の 後半から死亡率は徐々に減少し、結核の化学療法やBCGの接種がおこなわれるようになる二十世紀中ごろにはヨーロッパでは結核による死亡率はすでに低下し た後だった(図4)。ただし結核は現在でもオセアニア、アジア、アフリカの低開発地域における脅威的な感染症でありつづけている。

 環境改善による感染症の制圧によって世界各地で人口増加がもたらされたが、他方で人口増加は世界の先進地域と後進地域における公衆衛生と 医療水準の格差 を広げるという結果を生んだ。第二次大戦後にできた国際連合の世界保健機関が直面した課題は、この格差をどのように埋めるのかということであった。

 一九五〇年代になると冷戦構造の深刻化によって東西のイデオロギー的陣営が相対することになりそれぞれのブロックに属する国家間で援助競 争を生んだ。低 開発地域の人びとは開発国がいう近代化の夢に酔った。しかし十年もたたないうちに経済開発の副作用は次第に深刻さを増してゆく。開発が試みられたところで 生態系の撹乱やライフスタイルの変化がおこり「開発原病」と呼ばれる新しい流行病が生じた。これは流行病の発生原因に注目して命名されたもので、土地の開 墾、道路建設や潅漑事業などの経済開発を目的とする環境破壊によって生態系のバランスが破壊され、人口流動性などの要因も絡んで、新種の感染症あるいは極 めて低い発生しかみられなかった既存の感染症が流行することをさす。

 アフリカでは一九五八年のカリバ・ダム(中央アフリカ)を皮切りに、ボルタ(ガーナ)、アスワン・ハイ、ナセル・ハイ(ともにエジプ ト)、カインジ(ナ イジェリア)などの大型ダムが建設された。しかし、これらのダム建設に伴いビルハルツ住血吸虫の中間宿主の巻貝が繁殖し流域住民に住血吸虫症が大流行し た。ビルハルツ住血吸虫症は寄生虫病のなかで最も急速に広がったもののひとつである。エジプトでは、アスワン・ハイとナセル・ハイの二つのダム建設によっ てまずナイル河上流域に住血吸虫症が広がり、やがて下流のナイルデルタへと広がり短期間で流行の波は地中海沿岸にまで到達した。これらの規模のダム建設で は約五万人規模の流域住民の移住が伴ったが、移住先における新環境への不適応や援助依存の問題など深刻な社会問題が引き起こされた。

 森林伐採等の生態系の撹乱もその地域における潜在的な病気を流行病にかえる。南インドでは、森林伐採の後の陽当たりがよくなった跡に繁殖 するダニが、微 生物であるリケッチアを媒介しキャサヌール森林病という熱病が流行し た。このような新種の流行病はその病気の同定や感染経路が解明されるまで時間がかかる ので、そのあいだ現地の人びとの間でさまざまな文化的な憶測にもとづく社会的混乱がおこる。

 道路開発による人びとの移動が促進されることで、それまで地方病であった感染症が道路沿いに広域的な流行病に変化することがある。トリパ ノソーマ感染症 (睡眠病)を媒介するツェツェバエは湿地や川に繁殖する。経済開発の社会基盤の整備のために新しい道路が開通して人の往来が激しくなった西アフリカでは、 バスや車で長距離を移動する人たちが休憩のために、感染地域の川の近くで涼をとった。そのためにツェツェバエの吸血行動が変化し旅行者を刺すようになっ た。そしてハエそのものがバスに乗り長距離を移動したために、睡眠病は道路に沿いながら広い地域において流行した。十九世紀のコレラの世界的流行以降、交 通機関の発達が流行病の発生原因となった典型的な例である。

 開発の犠牲は低開発国の国民に限られない。ブラジルでは一九六〇年代から七〇年代にかけての高度経済成長期に、経済成長とともに幼児死亡 率もまた増加し た。低賃金と集約労働が労働時間の延長を促し、国民の消費水準が下がり子供に対する栄養物の消費も抑制されたためである。経済的な好景気によって富が偏っ た方向に再配分され貧富の格差が開いた。政府は経済開発への投資のために保健予算を削減した。このような影響のもとで社会的弱者である低所得者層の乳幼児 が犠牲になったのである。栄養条件の悪化はまず乳幼児の死亡率に反映し、長期にわたる人口構造に影響を与える。コロンビアのカウカ谷周辺において米国開発 局、多国籍企業、世銀などが関与した大規模な商品作物開発プロジェクトによって、伝統的なものから近代化した農法に転換したために、農民の子供たちの栄養 条件が悪化し、およそ半数以上の子どもたちが栄養失調に陥った。この地域は周辺の地域に比べて肥沃で生産性の高い地域であったが、農業条件の産業化が現地 の人たちの衛生条件の改善に必ずしも結びつかないということを示している。

 3.4 人間と健康の未来

 人間と感染症の関わりは終わることがないと言ってもよいだろう。天然痘は一九八〇年に世界保健機関から絶滅宣言がなされた。人類史上はじ めて感染症の病原が人為的に絶滅させられた。だがこのようなことはめったに起こることではない。絶滅宣言の翌八一年アメリカ合衆国政府の防疫センターがエ イズ(後天性免疫不全症候群)の公式発表した。のちにHIV(ヒト免疫不全ウイルス)に感染することから発症するこの病気は、その十年後には全世界で一千 万人、一九九五年には二千五百万人の感染者数(推定)になろうとしている。重要な点は患者の数以上にエイズ感染者の九割以上が「開発途上国」の人びとであ るということだ。また九五年のザイールにおけるエボラ出血熱などの流行など、我々は新たな感染症の時代を迎えようとしている。

 さらに先進開発地帯では事態は急変しつつある。社会医学者のトマス・マッケオンは十八世紀以降の工業化の中で、「豊かさ病」とよばれる生 活スタイルの変 化から引き起こされる新種の病気のグループが登場してきたことを強調する。この豊かさとは彼自身が指摘するように、富裕な人たちが罹る病気という意味では なく、栄養状態が改善され感染症から解放された後に新しく登場した心疾患、糖尿病、癌など一連の病気をさす。このような生活習慣や環境が原因と考えられる 病気にはライフスタイルを変えるなどの予防的行動が強調されるようになってきた。

 他方、世界の多くの低開発地域――開発途上国のみならず先進工業国においても、低開発のもとにおかれ資源やサービスが行き届かない地域な どが含まれるの で私はこのように呼ぶ――では感染症は住民にとって昔も今も大きな脅威である。感染症対策は世界保健機関でもつねに緊急かつ重要な課題としてとりあげられ ている。世界人口は二十一世紀末に百億人に達し安定化するのではないかと予測されている。しかし、その道のりは世界的な規模で生じる食糧不足と貧困の格差 の増大、およびそれらが引き起こす不衛生と局地的な感染症の流行という危険性をつねにはらんだものであろう。近代の衛生改革思想家の多くはいつの日か疾病 の時代の終焉を迎えることを夢見たことであろう。しかし疾病の文明史には決して終わりはないだろう。

X. X 現代(2018)の世界の死亡率統計について

 Our Word in Data によると、現在の二大死因は、心疾患とガンによる死因で、六大死因までカウントすると、それらに加えて、呼吸器病、糖尿病・血液・内分泌疾患、痴呆症(認 知症)、下気道(声帯から下部)呼吸器病である。かつて重要な感染症とされた下痢性疾患や新生児の死亡は、その順位に後に後退している(下図参照)

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参考文献

参照・引用文献

【図表】※当初案であり、本文で挿入された図表とは対応していません。

【原稿分量】全体40字×608行(本文40字×587行)//図表を除く。

W・H・マクニール『疾病と世界史』佐々木昭夫訳、新潮社、1985年(McNeill, William H., 1976, Plegues and Peoples. Dobleday.)ノート

「われわれが知っている病気の形は、われわれの先祖の病気の体験とは根本的に違っている」ウィリアム・マクニール

【資料上の制約】

・臨床上の正確なデータは十九世紀以前には実質的に手に入らない。

・博覧強記のマクニールにも限界がある。たとえば彼の文明史観を形成する基盤は、十九世紀の西洋中心主義的なビジョンの影響のもとにある。 あるいは中東や サハラ以南のアフリカの資料の扱い方が軽いなど。

・他方、好事家の収集するエピソードは、それ自体では有益だ。問題はそれを因果関係の連鎖?にまとめる構想力である、と言いたいのか (pp.10- 11)。

・よってマクニール説は壮大な仮説であることを何度も確認する必要がある。

・(1)著者をして『疫病と民衆』を書かす最初のアイディアは「なぜ軍事力において徹底的に劣るコルテス軍が短期間にアステカ帝国を征服す ることができた か」という疑問に答えることだった(答え:それは旧大陸からもたらされた天然痘によって)。(2)この暫定的な答えを出せば問題は連鎖反応をおこす。つま り、どうして旧大陸の人間は疫病から免れたのか。この問題を突き詰めれば、(3)今までの世界史が疫病と人口集団の文明史に関して無頓着であったこと、つ まり新しいが重要である大きな研究テーマに突き当たる(pp.8-9)。

【章立て】

1.狩猟者としての人類

2.歴史時代へ

3.ユーラシア大陸における疾病常生地としての各文明圏の交流(500B.C.--1200A.D.)

4.モンゴル帝国勃興の影響による疾病バランスの激変(1200A.D.--1500A.D.)

5.大洋を越えての疾病交換(1500--1700A.D.)

6.1700年以降の医学と医療組織がもたらした生態的影響

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【以下、落ち穂拾い】

●COVID-19時代の「病気の文明史

●病気流行のパターンの要因

・病原性生物と宿主である人間の生活史のパターンと、中間宿主である他の動物との生活史のパターンには相互関係がある。

・集団の免疫獲得と疫病の発生のパターンには相互関係がある。

・病気の流行とその定着は、単純な原因と結果では説明する事例は少なく、複数の要因が関わるモデルを考える必要がある。

●人間の進化

・(1)人間が食物連鎖の頂点に達したこと、(2)人間間において生態的な搾取が始まったこと(p.13)。

・しかし、人間の病気体験には「普遍的な固い核のようなもの」がある。それは身体的不調のために仕事ができなくなった人間を「病気」と認定 することである (p.15)。

・熱帯に起源をもつ人間の祖先。しかし、人類の成功は、その後の温帯および寒帯への進出だと考えられている。ここで狩猟活動の多様性を獲得 し、また農耕を 生むきっかけとなった。他方、この地方への進出は、結局、大型狩猟動物の激減を招き、いよいよ農耕への依存が高まった。

 かつては狩猟採集民よりも農耕民のほうが栄養状態が好ましいと見なされていたが、それ以降に発表された生態人類学ならびに民族誌学的研究 の成果から、農 耕民よりも狩猟採集民のほうが生活時間の利用に関して余裕があり、また栄養学的にも必ずしも劣った食生活を営んでいるとは言えないことがことが明らかにさ れた。

●植民地時代の開発原病

 熱帯林ならびにサバンナ地帯への人類の大規模な進出は、十九世紀以降始まったが、西洋の植民地行政が不適切なヨーロッパ的な牧畜ならびに 農耕を持ち込ん だために、ツェツェバエによる睡眠病の大流行を招いた(ウガンダ、ベルギー領コンゴ、タンガニーカ、ローデシア、ナイジェリアなど)。

●疫病の周期的消長

 感染症と人口集団の相互関係は次のようなサイクルを描く。これは、一般に疫学的に認められている最も単純なモデルである(p.30)。つ まり、(1)人 口密度の上昇、→(2)人口密度が臨界点に達する、→(3)感染症の過剰感染、→(4)人口の急激な減少、であり、(4)から(1)へとサイクルが繰り返 されることである。ただし、このモデルの特徴は、集団が後天的に獲得する免疫性を考えない。

 マクニールは、このような人口構成に多大な影響を与える周期的な消長は、人口密度が一定の規模になるまで続くと考えているようだ(彼は日 本や英国のパ ターンからそう主張しているようだ。see p.132)。文明における病気は、その集団の地方病になり常在しかつ穏やかな消長パターンにとって代わるのである。(日本では、それが十三世紀になって ようやく達成された。p.131)

●病気の進化論

 マクニール(1985:53)によると、人間の小集団では病気の媒介に中間宿主が必要なのであるが、人口密度がある一定の量に達すると中 間宿主を必要と しない病原生物――この場合はバクテリアとウイルス――が常に存在するという感染パターンが成立するという。この仮説の根拠は、通常の病気の伝播パターン には中間宿主を介する効率が、人口密度の上昇によって直接感染する効率を上回るからであり、このような現象は中間宿主を介する伝染様式よりも後から生じた というのである(1985:54)。(★しかしこれは本当なのかね?)

●ミクロ寄生/マクロ寄生

 ミクロ寄生とは人間に感染する病原性生物の寄生の様式であり、マクロ寄生とは、人間の社会的に搾取する国家や軍隊による侵略や戦利行為な どを言うようで ある(マクロ初出はp.49?)。マクニールのこのミクロとマクロの寄生の様式論において重要なことは、これらが相互補完的な機能をもって、人口集団の成 長や他の地域への侵略にとって大きな意味をもたらすことである。

●「権力の免疫学説」

 成立したての農耕社会は、外部の武力による略奪に抵抗の術をもたなかったが、余剰生産物の蓄積によって、農耕社会が武力集団を一定の割合 で雇うことがで きるようになり、外部からの権力に対抗することができるようになった。マクニールは、これを農耕社会が外部に対して一定の抵抗力、すなわち「免疫」を確保 するようになったと考える(1985:57-58)。

 彼はこの免疫仮説をたんなるメタファー以上のものとして理解している。つまり、免疫が確保されるのは、集団を常に病気という脅威に曝され ているからであ り、集団の強固さはここに由来する。つまり、病気のない社会よりも適度に病気がある社会のほうが強度がある。また、外部からもたらされる脅威としての軍事 集団は、またそれ自体が病気のメタファーであるが、軍事集団はまた病気のキャリアーであると指摘する。

●病気の文明圏

 マクニール仮説によると、紀元前500年頃(要確認)には世界の各地で文明圏が確立するのだが、その文明圏の人口と病気との間には一定の 均衡、つまりそ れぞれの人口集団がその地方の病気のストックに対して適応していたと考えられる。この均衡が一種の定常状態を形成していたと彼は考えているようだ。

 この文明圏は、中国、インド、西アジア、および地中海地域にあった。

 文明圏の成立は、別の見方からすれば、病気の文明圏の確立のことである。これらは、マクニールによると、文明圏の統治システムと不可分の 関係にあり、病 気と文明の形成は別々に論じられないほどである。例えば、インド文明における厳密なカースト制度は、文明からみた猖獗の地である「森の民」を直接的にはコ ントロール(=マクロ寄生?)できなかったために、一種の心理的な障壁として辺境の民をタブー視し排除すると同時に、不可触賎民として社会の最下のカース トとして組み込んだという。これは、病気への集団的対処行動の原理が、支配する文明をして社会制度として確立せしめた例であるというのである。 (p.74,p.92前後)

 ただし、文明圏によって外部からの病気に対する免疫力には違いがある。そのなかで中国とヨーロッパ(ローマ世界)は、紀元2世紀から7世 紀ごろには疫病 による大打撃を受けていたころだった(p.108-110)。

 十世紀にいたり、中国とヨーロッパは感染症に対する人口の生物学的適応が達成され、この時期以降、この二つの地域は人口増加に転ずる。こ れは西アジアと インドに対する相対的な力の優位を意味した。またこれによりアジアならびにアフリカの周辺諸民族も「疾病循環圏」(p.135)に組み込まれることになっ た。旧大陸の一種の世界システムがすでに完成していたというのだ。このような状況のなかで遊牧民は文明圏の住民に劣らない高い免疫能力をもっていた。この ような免疫力は彼らの交易と政治構造に由来すると言う(p.135)。

●疫病の三大チャンピオン

 天然痘、はしか、ペスト(p.134-)

イグナチオ・デ・ロヨラ『ある巡礼者の物語』門脇佳吉訳、岩波文庫、岩波書店、2000年、Pp.98-99、にペスト流行のため健康 証明書が必要という記載がある。

●全制的制度としてのペスト

ヨーロッパでのペスト流行は、一三四七年以降ほぼ二十年間に三度大流行する毎に人口構成を変え、ひいては社会的経済的構造に大打撃を与える ことになる (p.155)。

トマス・アクイナスの主知的な神学が次第に影響力を失い、神秘主義などの信仰が隆盛する原因は、蔓延するペストに対する病気治療への無力さ のためである と言う(p.168)。また病気の流行そのものがカトリックの典礼に対する人びとの信仰心を揺るがしたとも。

【私の過剰解釈】ボッカチオやチョーサーが疫病を神のみわざとしたことは、儀礼における神秘主義を促したとともに、別の局面では、冷徹な個 人のモラルの確 立にも貢献したのではないだろうか?。そのようなものがルネサンスやユマニスモを形成することを促進させたのではないだろうか。


Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099

池田光穂