ジンルイガクシャの嘆き
Cry for idiot-anthros!!!
The apparition of Our Lady of Guadalupe
01:重荷人類学、あるいは母(オモニ)なる人類学
形容詞つきの人類学が増えてきた。
俺っちは、医療人類学者だが、ガッ コーでは文化人類学を教えている(元職場の文化表象学教室という内容が分からない教室の メンバーとして:この文化表象学を命名したのは俺だが……)。
この形容詞人類学の名称は、文化人類学が直面している様々な諸問題を表象するのにぴったり だ。曰く、ポストモダン人類学、モダン人類学、医療人類学、看護人類学、老年人類学、応用人類学、応用臨床医療人類学なんてけったいな造語もそれほど不自 然でない時代だ。
おそろしいことに、文化人類学の膾炙のために(俺はそう好意的に受け取っている)、文化麺類 学という造語をつくった専門家もいるくらいだ(元・某国立研究機関の館長である)。
ここまでくれば、自己諧謔的に、老後人類学、バイアグラ人類学、ゲリラ人類学、反人類学、自 称人類学、コロニアリスト人類学などと、言葉を滅茶苦茶に連結してみたくなるような気もする。不思議なことに、このような無意味な連結によってできたジン ルイガクが、なぜか実際に存在する(既視感)ようになるから不思議である。
しかし、俺にとって問題は医療人類学である。あるいは俺の自称である医療人類学者だ。
ちょっと前に(あ、もう1年も前なのに随分前のような気がする、この業界もドッグイヤー化が 進んでいるのだ:ドッグイヤー人類学も入れておこう!)医療人類学の本まさに『実践の医療人類学』(世界 思想社)を出した後、自分の自称にあった自負というものが重荷なってきた(嘘つけ!第一人者でもあるまいに、その通り、だがそうだから仕方がない じゃん!)
02:人類学の特異体質
人類学が自任する第一の認識論的意義は「常識の解体」にある。
これは、母なるフランス社会学と、父なる進化主義的人類学から受け継いだ、それぞれもっとも 良質な衣鉢である(父と母を入れ替えても、同性でもかまわない)。
我々が授業で人類学を勉強して本当によかったと思う瞬間とは、人間の社会文化的現象に対し て、まったくこれまで気づかなかったことをズバリを指摘してくれる文言——つまり気の利いた発言——に出会うときである。
ここでいう気の利いたとは、パーティやシンポジウムで人の気をさらう機能以上のもの、何かこ うこれまでの人生が変わるような意味での気の利いた文言・言説・思想・ヒントである。
人類学者にはいけずな奴やとんでもない傲慢な奴やいけ好かない奴がいっぱい居る(まあどの業 界でもそうだという説もあるが)。しかし、人類学者の指摘ほど私を魅了してくれたものはいない。
マリノフスキー、フレーザー、エバンズ=プリチャード、ボアズ、レヴィ=ストロース、ミード、ベネディクト、ギアツ、ダグラス、リーチ、山口昌 男、そして、あのカスタネダの著作に出てくるドン・ファンやターナーのムチョナやクラ パンザーノのトゥハミ(Tuhami, 1980)もまた人類学者の口を通して、気の利いたことを言い、私の人生を変えてきた。
なぜ人類学者(私のM・マクルーハンを除いて)が、このようなマジックを弄することができる のか? 例えばキョウダイ学問である社会学ではない人類学なのか。(→アドバンスド人類学)
人類学の特異体質性の源泉は、管見によると、人類学者が取り扱う学問には、他の学問に共通す る「時間・情報・空間」の概念がかなり異なるということが挙げられる。このようなズレがどこから来るのか、それは人類学が作り出した抽象的なフィクション である「異文化」概念に由来するものと思われる。ここから、さまざまなアイディアが生まれてくるのだ。
たとえば薬だ。呪薬は薬にも毒にもなる。薬学者なら、投与量という一次元的な尺度のなかで薬 と毒を同時に説明する。しかし、人類学者は毒は薬であり薬は毒だ、などと一見滅茶苦茶なことをいう(鬼籍に入った脱構築主義者J・デリダから影響を受けた 議論ですが・・・)。人類学者はこのことを「両義性」という概念でとらえる。ふたつの次元を両義性という概念で調停させるのだ。その意味は、毒は薬であ り、薬は毒であることを理解するために、この「両義性」という概念を持ち出し、両義性の他の事例を呈示する。
つまり異質なものどうしが、両義性という概念で節合されるのである。このような芸当をする連 中は、かなり変人に違いない。彼/彼女らの時間・空間・情報にはコモン・センスからずれているはずだ。
もし、そうだとしたら、この論理を転倒させて、人類学者とはそれなりに説得力のあるケッタイ なことを言う連中のことであると定義すればどうだろう? (現実の人類学者は何んも変哲のないふつうの人たちだ)我々の周りにはいかに反・人類学者が多い ことだろう。
03:人類学教育を徹底化する
最近、大学教育における文化人類学のヘゲモニーは衰退しつつあると危惧する声がある。
そのための処方は、(1)既存の人類学者ががんばり社会的にアピールするようにがんばる(業 績をあげる)、(2)人類学教育の重要性を大学教育や科学研究費給付機関にアピールしてゆく、(3)人類学の標準的な教育をさらに推進するために共通の教 科書をつくる、ということなどがガッカイなどで考えられているらしい。
しかし、これはどこか虫のよい話ではある。
私のように人類学はすばらしい、人類学によって人生が変わった!という原理主義的な人間であ るなら、この考えにはつぎのようないやらしさがある。つまり、世の中には、人類学を講じて(=教育して)生計をたてる人類学者と、人類学を教えてもらう人 間という2種類がいて、後者の消費者への呼びかけを強化することばかりに力点が置かれているような気がする。
人類学が素晴らしい学問なら、すべての人間が人類学者になれば、もっとすばらしい社会がくる のではないだろうか?
えっ! オマエは上のほうで、ジンルイガクシャにはいけ好かない連中がいると言った舌の根の 乾かぬうちに、こんなことを言うのか? 世の中がジンルイガクシャだらけなら、もっとひどい世の中になるのでは?と指摘されそうだ。
心配ご無用、口数は多くなるけれど、バイオレンスになる連中は少ない、批判と反省の学問だか ら、手を出すことよりも口を出すほうが好きなので、世の中は五月蠅くはなるけれど、口先以外の武器はなくなるはずだ。
04:人類学者の能力に関する神話
私は人類学者に対する同僚の以下のような評価が「神話」であることを信じるものである。
(1)人類学者はジェネラリストである。
(2)人類学者はある地域に関するスペシャリストである。
(3)人類学者は、ある文化事象(例:古くは親族、宗教、神話m新しくは医療、開発、教 育)のスペシャリストである。
これらの偏見(人によっては至福)がどこから由来するのか検討してみよう。
(1)人類学者はジェネラリストである。
文化の定義でおなじみのE.B.タイラーの例の文化は人間がつくりだし、伝えているすべ てのものであるという便利な定義(現在では誰もそれを信じるものはいない)に由来する。
もちろん人類学者は当初からタイラーの定義は問題のあるものであると認識をもっていた が、最近になるまでだれも強く批判ものはいなかった。
タイラーの定義は問題のあるものとしても、研究対象の包摂性・包括性を疑う人類学者はい ない。なぜなら、人類学の破壊力は先に述べたように他の社会科学に比べてその「時間・情報・空間」の概念が異なるからであり、守備範囲を広くとらないと ——目配せを広くとるがゆえに——気の利いたことが言えなかったからだ。
(2)人類学者はある地域に関するスペシャリストである。
(3)人類学者は、ある文化事象(例:古くは親族、宗教、神話もしくは医療、開発、教育)の スペシャリストである。
【未完】
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