モラル・エコノミー
What is a peasant's Moral Economy ?
解説:池田光穂
モラル・エコノミー(moral economy, 道徳経済)とは、経済的な行為や行動を支えている論理の中に人々 の道徳的なもの(倫理)がある場合、そのような原理で動く経済活動や実践のことをいう。
モラル・エコノミーは、1970年代後半に、政治経済(political economy)と対峙して論争になったことがある。後者(=ポリティカル・エコノミー)の立場は、経済的な行為や行動を支えている中核に人間の合理的な 計算や打算——典型的発想としては最小の投資で最大の利潤を引き出すこと——を見いだす立場であり、今日の政治経済の基本的な枠組みに立脚するものである (経済人類学における<実体論>対<形式論>の論争の後者に相当する)。
今日的な意味での、モラル・エコノミーの概念を最初に主張したのはE.P.トムスン(Thompson[1971])である。彼=トムスンは、19世 紀の英国の民衆暴動において、社会が飢餓状態の時に暴徒が暴利を貪る者をうち倒したり、必需品を適正価格で売ろうとすることを当然視するような態度のこと に着目し、それをモラル・エコノミーと呼んだ。これは、資本主義において、稀少なものを需要と供給の関係においてより効果に売ろうとする経 済の倫理規範と は異なる原理、つまりモラル・エコノミーが働いていると指摘したのである。このような経済感覚は、政治経済という立場からみると非合理だが、我々の身の回 りにしばしばみられる点で、非常識とは言えない。
E・P・トムスンの解説から明らかであるが、モラル・エコノミーとは、(生存条件が侵された)被抑圧者の抵抗や革命的暴力は、ヒステリックな非 合理的な行為ではなく、なによりもまず「倫理的行為」でもあるという含意がある。
さて、モラル・エコノミーの議論をもっとも有名にさせたのは、同名の書物もあるジェームズ・スコット(James C. Scott)[1976]である。
スコットが調査したマレーシアの匿名の村であるセダカでは、貧しい農民は強力な国家機構の中で日常的な抑圧(権力者による逮捕、警告、法的 規制、治安政策など)にさらされている。このような中では、露骨な政治的抵抗は失敗に終わる。そのため、農民たちは日常的、かつ散発的に、遅刻、とぼけ る、こそ泥、口先だけの同意、さらには放火やサボタージュなどを通して、国家の抑圧機構に抵抗しているという。このような日常的抵抗は、人 々の農業技術の 進歩に対する否定的反応にも表れている。豊かな農民は、農業技術の進歩(例:コンバインの導入)に対する貧しい農民たちが、それを受け入れないことを未開 性をもって非難する。他方、貧しい農民たちは、農業技術の進歩が、田畑を傷つけ、農民の伝統的な価値観を損なったことを非難し、結果的に、経済的にも採算 の合わないものであると主張する。つまり、貧しい農民たちは、自 分たちのモラル・エコノミーの観点から、国家や経済的豊かさを独占する人たちを批判してい るのであり、進歩に対する非協力な態度は、その倫理性の表れであると[スコットは]いうのだ[Scott 1985]。
スコットに反対する代表格がS・ポプキンである。ベトナムの農民の歴史的分析をおこなった、彼=ポプキンは、農民の行動は合理的に利益を求める行動をし ており、社会的倫理関係は、むしろ、行動のリスクの評価と投資[戦略における]選択によるとスコットを批判する。
詳しくは参照文献——特に高橋[1999]の解説——を参考のこと。
以上を概観すると、爾来モラルエコノミーの議論をする人たちは、伝統的社会や資本主義体制下の被抑圧民(例:農民やプロレタリアート)たち に、モラルエコノミーがあるとみる見方をもっており、近代の資本主義は、モラルエコノミーを支えている倫理の環礁から倫理とは無関係な合理的経済活動=行 動が「離礁」したのだと考えている点である。
モラルエコノミーの存在を認める人たちは、日常の市井の人たちを観察するフィールドワーカー(とりわけ人類学者や歴史学者)に多く、人間の経済
合理性や経済的のみに「意味のある行動」を観察し、それを統計などの客観的資料として分析する人たちには、この発想は希薄であることがわかる(→ポラン
ニーの批判[文献]を参照)。研究者の研究対象に対するパースペクティヴィズムの
影響かもしれない。
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文献