状況のなかでの学び:私の経験
From my experience in Honduras, mid-1980s
■ 状況のなかでの学び:私の経験03
私は一九八三年から八七年までの三年間、ホンジュラス共和国の保健省(Ministerio de Salud )に派遣された。協力隊の任期すなわち通常の派遣期間は二年間であるが、私は申請をしてもう一年間延長を許可された――「二年間延長した」と主格で話さな いのが協力隊の精神(エートス)なのである。数年前に私の赴任から二〇年以上経って保健省の本庁に赴いたが、その建物がほとんど変わっていないことに驚い た。日本は、経済不況だと言われているにもかかわらず公的な機関の建物はどんどん良くなる。他方、時間が止まったかに思えたホンジュラス保健省への再訪時 の心証は、この国にはどのような変化があったのかという私の知的欲求をかき立てるものがあった。
さて当時の私の仕事のひとつは、疫学局に属してマラリア対策や公衆衛生の基礎知識や技法に関する住民教育をおこなうことであった。放課後の小学 校で、地元の人たちに集まってもらって講習会を開催し、さまざまな課題(ワーク)を通して公衆衛生や基礎臨床医学に関する知識を住民のあいだに普及してい くこと。住民を組織して、自分たちの健康は自分たちで守ろうという健康の自衛的活動の補助もおこなった。政府が薬や器具を無償で提供するということではな く、住民の人たちじしんが必要な欲求=要求(ニーズ)というものを発見し、何がもっとも必要であるのかを検討し、必要であれば政府やNGO、さまざまな ミッション、外国政府を動かすことを住民は学ぶのである。健康は自分たちじしんで獲得するのであり、私たち制度的ボランティアはその働きを側面から支える (ファシリテート)のだという論理で動かしていた。このような行動の論理は、プライマリヘルスケア・ドクトリンと呼ばれ、世界保健機関(WHO)が一九七 〇年代後半に「西暦二〇〇〇年までの世界のすべての人たちに健康を」というスローガンのもとで提唱していたものであった(池田 2001:53-56, 72-73)。
もちろん、西洋社会がこういう考え方に到達することができたのは、保健医療協力活動がその前の植民地時代から実地経験を積んでいたからである。 最初は、植民地政府を動かす白人の人たちが病気にならないために、現地の人たちの病気を減らそうという白人中心のものであった。その後のかつての植民地で ある途上国がどんどん独立していくと、今度は「途上国の人たちの健康改善が、最終的には先進国の人たちの健康改善につながる」、あるいは「全世界が健康に ならなければ地球レベルでの経済発展は望めない」という主張が登場し、経済に貢献する健康の改善というふうに医療の役割に対する考え方が変わってゆく。こ の考え方は、もちろん先進国が途上国に医療協力する際のつよい動機にもなってゆく。
「ここは貧しいから何かくれ。トイレが全然ないから、トイレをただで造ってくれ」という途上国の人に直接応えるのではなく「資材は提供するけれ ども、そういう人力(マンパワー)はあなたたちじしんが調達しないとならない」という形で先進国(=援助する)側は自助努力を促す。そういう国際協力の枠 組みが出来上がっていった。現在の私たちの感覚では、あたり前のように思われるこの健康達成の自助努力の発想も、そこに到達するためには半世紀ぐらいの期 間を要していたことになる。
他方で、健康の自助努力――ひいては健康の自己決定権――については、まったく逆の方向性を示唆する経験を私はしている。村で生活していたある 日の朝、遠く離れた集落から病人が運ばれてきた。男性たちが長い二本の棒のあいだにビニールの紐で編んだハンモックを渡して担架とし、その中に年老いた病 人がかなりすり切れたタオルケットのなかにくるまれている。男性たちに話を聞くと、真夜中に出発し数時間かけてようやく車の通るこの村までやってきたので あった。そこからは未舗装ながら道路があるのでピックアップトラックをチャーターして県庁所在地にある国立病院にこれから運ぼうというのである。病人は貧 しい家族の一員であり、男性たちはその集落の隣人たちによって組織されたローカル・ボランティアであった。
この現象を表面的に理解(=「浅い解釈」)し、そこから私たちが教訓を得るとこうなる。開発途上地域には急病人を運ぶ車道を整備しないとならな いし、道の整備とともに救急車による搬送のサービスが必要だということになる。しかし、そのためには膨大な投下コストがかり、救急搬送のシステムを管理し つづけるためには維持コストが長期に必要になるが、これらのコストは救われる人の人道に叶ったものであると。このような発想はこれまでさんざん非難されて いるにもかかわらず、現在でもしぶとく生き残っている政府開発援助(ODA)が地域の開発計画を立ち上げる際に、恥ずかし気もなく公言される紋切り表現で ある。
他方、現地の事情に精通する国際ボランティアは、このハンモック担架搬送がおこなわれる人びとの動きから学ぼうとする理解(=「深い解釈」)に 向かうはずだ。まず最初に、病人の異変に気づき、周辺の人たちがそれに配慮する村落の人びとの共感の強さというものがある。隣人の男性たちが担架部隊を臨 機応変に編成する集団の組織力がみられる。そして、長い棒を二本とハンモックを使って担架をつくる[ブリコラージュ]能力やそのような実践的知識の継承が ある。これらのことはそれぞれの人の動き、人の知恵、人の技(ルビ:わざ)が、みごとに調和しているが、現場で経験しないと得られない認識である。もちろ ん近代医療からみれば非力であるが、近代医療の影響力が及ばない地域で、相互扶助の原理にもとづいて、人がいかにたくましく病人のケアをおこなうことがで きるのかという生きた見本になっている。国際ボランティアは、このような共同体の潜在力を、外部からやってくる西洋医学がもたらす保健資源とうまく関連づ けることができないだろうかと、考えることを余儀なくさせる。これがこの現象の「深い解釈」の部分である。
このことを病人の本復への効率性という観点から、当面その現場に定着しそうもない〈近代医療の救急搬送システム〉と〈現地社会の人員動員システ ム〉(=ローカルな対応)を比較しても話にならない。この2つの発想は水準が異なるという意味で比較することができないからだ。大切なことは、現地社会に 埋め込まれた人びとによる人びとのための人びとの〈ローカルなケアシステム〉が、実際どのように作動し維持することができるのか、その現場における人びと の技について、国際ボランティアが学ぶことができるかということである。そして、この〈ローカルなケアシステム〉を、国家が提供する保健システムとどのよ うに整合的に関連づけてゆくことができるのか。これらはまさに大いなる挑戦になる。
〈ローカルなケアシステム〉あるいは草の根医療を、本来の意味での社会開発医療(social development medicine)と呼んでもいいのではないかと私は思う。社会開発医療というのは、人びとに外部由来の治療資源を授けて健康にするという発想ではなく、 人びとの健康維持というものが実は地域社会や隣人の顔が見えるコミュニティの潜在力に深くかかわっているという認識に根ざすものである。つまり足もとから の貧困の撲滅、あるいは等身大(ヒューマンスケール)の技術の提供や現地での創造。資金供給やハイテクによって維持するものではなく、住民の人たちが十分 使えるような技術で健康を少しずつよくしていく持続可能な方法である。
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