関与=介入する
シリーズ:医療人類学における実践的課題
解説:池田光穂
実践研究の場としての臨床医療
応用的な動機のもとで調査研究を始めると、調査対象と調査者の関係のあり方を常に考えさせられ る。調査対象を客観的に眺めることと対象に介入することが正反対のことだと考えられているからである。実験は対象への介入の一例であるが、人間を対象にす る実験は<神聖な個人>という近代的な人間観のもとで慎重に取り扱わざるを得ない。しかしまた医療という人間への介入は<神聖な個人>を守るという我々の 人道主義的な主張とあいまって比較的大胆な行為も容認される傾向がある。
まず現代医療の場での可能性について考えてみよう。医療者が調査者として同僚や他のスタッフを 研究対象にすることは参与的観察に相当し、民族誌的方法論が採用される。このような研究は調査する側とされる側(20)の画定とその意識がはっきりしてい るので従来の民族誌の理論の諸研究を参考に調査を行うことができる。このような表現をすると自分の同僚を調査対象にすることはモラルに反するという意見が 出てこよう。しかしそのような考え方は自己の帰属する集団の専門的な優位性を保持するというイデオロギーから由来している(21)ことを「医療」の専門家 は銘記すべきである。大切なことはむしろ調査者が調査される側のメンバーにその目的を十分に知らしめ、密接な信頼関係を確立することである。民族誌調査は 決して「暴露もの」であってはならないのである。従って現実に実践研究の名に値するものは、医療者としてある現代医療の職場にいて具体的に職務を遂行しな がら調査資料を採集していく方法である。そこでは調査対象である患者や患者をめぐる集団、あるいは他の医療スタッフが自己との関わりにおいて常に変動する ものとして捉えられる。このような変動はさまざまな観察のレベルから鳥瞰できる。まず最初に眼について観察しやすいのは、集団の状態である。患者や医療者 の集団としてのあり方を記述的に定義していくのである。専門の社会学者だけでなく我々自身も自分たちの集団の状態について常に配慮し、それは日常の関心事 になっている。そこにはその集団が属している社会や文化固有の価値観や構造が見られるのか、あるいはその集団独自のものかについて配慮すべきである。この 観察は次に述べる医療者−患者関係の調査のための基礎となる。
医療者−患者関係という問題の立て方は、従来の社会学や心理学などの分野で長い間論じられてき た。その場合、医療者と患者はともに個人であり、医療者集団や患者と患者の家族というような臨床の場の背景にある社会的な繋がりは考慮しなかった。した がって、近代医療の理想的な臨床の場には、医療者という個人と患者という二つの要素だけが出会い相互作用を形成するものだと考えられてきたのである。この ようなことはすでに述べたように、現代医療においても純粋にはなかなか生起しないし、伝統医療においてはそれが一層困難になると言われている(22)。民 族医学の研究者なら次のように言うだろう。もし伝統医学において医療者−患者関係が成り立つならば、それは医療者には伝統的治療者とその仕事を支える超自 然的存在(例えば守護霊や治癒神)を含め、患者にはその家族や親族そして患者に憑いている悪霊なども含むことがあり、治療儀礼という<臨床の場>は一対一 の個人が交流する場ではなく家族や共同体の成員が参加する場であると。しかし近代医療の世界的規模での拡散と浸透は、このような<個人としての医療者>と <個人としての患者>という理念も普及するという効果も与えたので、医療者−患者関係における通文化的比較研究の可能性も現実にでてきた。このような議論 を踏まえて、ここでは医療者−患者関係をとらえた際に、この関係の中にいる当事者が、はたして調査者になれるのかという問題を取り扱う。
現実の医療者−患者関係のなかで医療者が調査者たりうることは、調査の<客観性神話>が否定さ れ、調査の際には調査者の偏りを明らかにしなければならないという問題意識が出てきたため、逆に展望が開けてきたといえる。なぜならそれは医療者=医療の 実践者、調査者=医療の観察者という杓子定規的なアプローチを否定することに繋がるからである。これは以下で述べるアクションリサーチと関連する問題であ るが、実践者であると同時に調査者であることは両立しうるのである。ただしその調査資料の解釈に際しては、今までとは違った調査の位置づけをおこなうとい う条件のもとでそれが可能になるのである。 クラインマンの「説明モデル」(Explanatory Model,EM)は医療者側にも患者側にも病気を説明する際にいくつかの共通点があることを指摘し、その五つの項目に留意して医療者と患者の考え方の相 違を明らかにしようと試みた。それは次のようなものになり、( )内は生物医学的な説明である。
このような項目からなる説明体系は個々の医療者や患者から採集できるだけでなく、近代医学や伝統 医療という大きな文化的枠組みの中の共通項という意味で位置づけすることもできる(23)。 さて医療に従事することは調査を中断することではない。自己の医療行為を実践しながら、それを臨床的および社会的な環境のもとでどのように位置づけられ ているかを記述していく。記述とは文字や言葉などの言語化された資料に整理していくことである。我々のすべての日常体験は決して言語化され得ないことは周 知の事実であるが、言語化を通して意識を明確にする以外に有効な手だてはない。このような方法は<一人称の民族誌>とよばれ、日記、手記、手紙、独白など に代表され、文化の記述を個人の内面から描いていくことに焦点を置く。我々の社会では、この一人称の民族誌は医療者よりも患者のほうが得意としているだろ う。いわゆるおびただしい数の闘病記は病気に関する一人称民族誌の宝庫ともいえる。その点では患者はこの実践研究における偉大な先達である。実践研究にお いては患者は研究対象だけではなく十全な地位を持った研究者であることを銘記しよう。ただし医療者の地位は資格を剥奪されない限り永続的であるが、患者は 「患者になったり」、「患者にされる」という点で一時的ないしは通過的である。実践研究の患者側からのアプローチの特殊な例は「偽患者」である。その著名 な例はローゼンハン(Rosenhan,D.L.)の偽精神病患者の実験である。つまり彼とその仲間はある種の徴候をまね収容された後、「精神分裂病の寛 解」とされて退院する7日から52日まで(平均19日)全く常人として振舞ったが、彼らは収容が解かれるまで病院のスタッフには精神分裂病の患者として取 り扱われた。唯一病院に収容されている他の患者のみが彼らを偽患者として疑ったというのである。日本においても精神医療の荒廃を告発するという意図のもと に行われたルポルタージュがあるが、将来にわたって永続的な研究を続ける研究者には不向きな方法である(24)。
アクションリサーチ(Action Research)
一九四〇年代にラテンアメリカの伝統的な社会に文化人類学者が派遣された。その目的のひとつは 設置して十年になるそれらの地域の保健センターが十分機能していない原因がなぜなのかを知ることにあった。その結果、彼らは二つの説明にたどりついた。ひ とつは現地の人達が慣れ親しんできた伝統的な医療と保健センターの近代医療が競合をおこして前者が後者に優っているのではないかということ。他のひとつは 文化的な障壁による説明である。つまり保健センターが取った公衆衛生の改善つまり、環境衛生、予防接種、母子保健などの予防医学的な対策は現地の人達に十 分理解されていない。人々は近代医療に対して治療的な医学(curative medicine)を期待する。しかしセンターは「米国型の」予防医学に施策の焦点を置いてきたのである(25)。この後者の説明は医療援助が行ってきた 数々の失敗の原因を代表するものとされているが、プロジェクトは住民の現実のニーズに答えていなかったのである。このようにして人類学者がプロジェクトの 要員として派遣され調査が行なわれる在り方を行政的モデル(administration model)という。人類学的な方法は行政あるいは施行する側の技術として用いられる。
それに対してアク ションリサーチ(action resarch)あるいは唱道的アプローチ(advocacy approach)はプロジェクトを施行する側と住民(行政モデルではしばしばクライアントと呼ばれた)を明確に区別せず、住民の主体的な発展を促すため に人類学者がプロジェクトに参画しながら調査を行なうというスタイルのことをさす。南米ペルーで行なわれたビコス・プロジェクト(The Vicos Project)では、アシエンダという大土地所有制にのもとで働く小作のインディオにたいして人類学者は長期にわたって介入し、土地所有に関する伝統的 な考え方を変えさせ同時に農業的な改良を行なった。その結果インディオは自分達の手で地主から土地を買い上げることに成功したという。また米国中西部でお こなわれたフォックス・インディアンへの介入は行動人類学(action anthropology)として有名であるが、そこでは人類学者が開発やその目標のための枠組みは提示するがプロジェクトを直接指導しないという原則が 守られた。にもかかわらず人類学者は住民の自助努力を強調するあまり、外部社会の影響を排除しようとし逆に住民から反発を受けたと言われている(26)。
国際的な医療援助における介入はプライマリーヘルスケアの実施において急増した。しかしその医 療人類学的介入のスタイルは依然「行政的モデル」によっている。なぜならば<健康の追求はすべての社会にとって主要な関心事である>という理念が先行しそ の内容の多様性が十分に検討されていないからである。しかしラテンアメリカの保健センターの事例が教えるように健康への追求の内容は社会によって多様であ り、住民が自らの健康観を自覚しそのための方策を講じるならばアクション・リサーチ的な介入は必然となろう。我々に対するアクション・リサーチの反語的な 教訓は、文化的[あるいは医学的]な問題に精通している人類学者[医療者]の介入が必ずしも成功を約束するものではないこと、プロジェクトの成功はその計 画の妥当性以上にそれが行なわれる地域的な変数(歴史、政治、経済など)の影響を受けやすいことである。
文献的研究にはじまりアクションリサーチに至るさまざまな研究や調査のあり方は、医療人類学が 現実の医療にどのように理解し対応していくかということの<態度による表明>であるといえる。理論的な研究が先行し具体的な資料の蓄積が少ない、あるいは 調査の方法が確定されていないというのが、日本のこの分野への主たる批判や不満である。研究調査法にかんする実質的な論議が今後に期待される。
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わが国の医療人類学においては、十分に確立された方法論といったものはなく、いろいろな立場 や多様な手法からのアプローチが盛んに試みられているというのが現状である。以下に医療人類学の研究をおこなう上で、留意すべき課題を、文献的研究、現地 調査、実践研究、の3つに分け、簡単に説明している。
■クレジット:池田光穂「関与=介入する」シリーズ:医療人類学における実践的課題
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