実践する
シリーズ:医療人類学における実践的課題
解説:池田光穂
現地調査(フィールドワーク)
現地調査とは研究対象となる現象が実際に生じている場所に出かけて、資料を採集することをい う。この方法は実に様々な学問領域で用いられており、その技術的な問題や具体的な戦略についてはそれについて論じてある書物に譲りたい。ここでは医療人類 学における野外調査に限定して、その方法の理念とそれにまつわる問題を中心に紹介する。つまり生物医学で最も基本的な資料と言える(一)疫学と人類学の関 係、民族学から受け継いだ(二)民族誌的方法、そして比較的限定された地域、例えば村落や都市の一区画などで行う(三)家庭レベルでの調査のためのガイド ライン、について説明する。予め断わっておかねばならないのは医療人類学の領域はすでに幾度も述べているように未だ確定されたものではないので、新しい領 域を開拓していこうという研究者はすでに他の学問分野で確立された方法論を野外調査に適用させていったり、新しい方法を開発する試みを怠ってはならないと いうことである(5)。
(1) 疫学と人類学
どの教科書をみても疫学と医療人類学の関係は必ずしも明確にされてきたわけではない。むしろ別 個の学問的体系として、医療人類学は疫学の理論やその成果を利用してきたのである。疫学とはもともと集団の病理の原因を追求するという理念のもとに流行病 の学問として出発したが、現在では公衆衛生における意志決定理論(desicion making theory)という地位を占めつつある。特に統計学や数量モデルを用いた理論的な成果は、医療統計の分析や臨床疫学に反映されており、この資料を用いる 研究者には疫学的方法を検討することは欠かすことはできない。しかしここでは具体的な疫学の調査法や資料の検討は類書に委ね(6)、その有効性と問題につ いてのみ触れたい。
疫学者は人間の集団の健康と疾病についての複雑な社会的過程について関心を寄せそれを数量化し ようとするのに対して、人類学者は特定の集団の日々の行動を中心に定性的に記述する傾向がある。人類学的問題に引き寄せた疫学への関心は、感染症、慢性病 や成人病などの非感染症あるいは心理−社会的な状態が集団の健康状態に与える影響であり、特に文化によるライフスタイルの差や近代化によるその変動の表れ 方の違いなどに焦点が当てられる。 さて両分野の共同に関する問題であるが、疫学の理念は生物医学に基づいてあらゆる疾病の普遍性を仮定している。従って疫学上の資料は通文化的な比較に耐 える(エティックな)指標であると考えられている。現地で具体的な調査に入るときには研究者は住民の疫学的な資料を採集したり、既に収集された公官庁や地 元の保健所の疫学資料を検討する。疫学資料によって調査地を選択したり、調査地の人口集団の疫学的な偏りを考慮する。調査地とその周辺地域の資料の比較は 共時的な分析であり、同じ時間系列の中での疫学という視点からみた空間的な差異についての理解を深めるのである。また調査地の疫学資料を時間的な継起の中 で比較、すなわち通時的に分析すれば、集団の時間的な遷移の中で疾病と集団の関係性が明らかになる。しかし対象集団が疫学的に理想であること、つまり疫学 モデルに完全に一致することは現実には有り得ないし、また普遍的な臨床カテゴリー(clinical universal category)自体も歴史的および文化的な分析でしばしば批判にさらされている。
しかし疫学資料の問題は、理念上のことよりも具体的な資料採集において重要になる。つまり資料 の精度の不均等やそれ自体の誤謬性によるものであり、資料批判上の問題である。特に第三世界のフィールドで研究する医療人類学者たちのひとつの不満は現地 機関の発表する疫学上の資料に不正確さや偏りがしばしば認められることである。そのために現地の資料は大まかな動向を知るための資料としてしか役立たな い。また疫学研究の為にそのような調査地で資料を採集しても比較に耐える他の資料がないのである。これは疫学的資料だけではなく、現地において幾つかの機 関が発表する統計資料に大きな食い違いが見られるのである。これはすべての数字的資料を等質なものとして扱う疫学者にとって致命的ですらある。従ってその 弊害を取り除くためには組織的で均質な調査計画が実行されなければならないが、この問題はすでに医療人類学の研究領域を越える問題である。人間の集団と健 康の問題は医療人類学にとっても重要なテーマであるが、疫学による数量的な資料と人類学の定性的資料(例えば次に述べる民族誌的資料)をどのように調和さ せるかという議論はまだ端緒についたばかりなのである(7)。
◆ 資料論文
Epidemiology and Cultural Anthropology, by Mistuho Ikeda
(2) 民族誌的方法:
特定の社会集団の文化現象の直接的な観察に基づく記述を民族誌という。この記述を完成させるた めの方法を我々は民族誌的方法と呼んでいる。この手法はもともと民族学あるいは文化人類学において用いられてきた技術であるが、社会学者にも質的な資料を 採集する際にこの手法を援用することがある。民族誌的方法は以下のような具体的方法に分けられる。
(a)民族誌的方法:インタビュー
インタビューは大きく公式なものと、非公式な形に分けられる。
公式インタビュー(formal interview)とは社会的に公式的という意味ではなく、質問者が予め<特定のテーマ>に関する質問を用意しておいて、それに対する回答者の応答を記 述していくスタイルを取るインタビューのことを言う。一般的に質問と応答が紋切り型になりやすいが、質問を論理的に構造化することによって聞きたい内容の レベルを深めることも可能である。ただし<論理的な構造化>は通文化的に一定ではなく、それぞれの文化の論理構造が異なることに留意する。もし質問者が病 気の原因はすべて物質的な裏付けがあるはずであると仮定して質問を構築していても、回答者が病気の原因を「たたり」という超自然的な現象で説明すると質問 者はそこから先の質問が不可能になる。回答者の答えは質問者の属性(性別、年齢、異邦人か否か、社会的役割など)に大きく影響される。現代社会ではプライ ベートな質問は回答の拒否や虚偽を導く可能性がある。病気を超自然的な原因に帰す伝統的社会は多いが、そのような社会において、もし診療所の医師が患者に 対して「あなたの病気はたたりによるものですか?」と聞き、たとえ誰も肯定的な答えをしなかったとしても、患者はそれを信じていないと結論することはでき ない。患者はそのような病気になったときには現代医学の医師を訪れないからである。また医師に対して超自然的な病気について語ることを嫌う場合すらある。 なぜなら西洋医はそのような病気に関与することができないからである。
非公式インタビューは<ある種のテーマ>についてより自由な質問形式をとる。調査者は質問の概 要を予め決めておき、それに従い質問を行っていく。公式インタビューと違って応答者の反応によっては追加的な質問を付加していく。もしある種の薬草につい てその治療法に質問をしているうちに、答えがその薬草と関連した民俗的な病気に触れた場合、調査者はその病気の内容や原因について質問する。また質問者、 回答者の両者にとって公式インタビューほどの退屈さは感じないし、追加的に質問することによって回答者の言っている意味を再確認することができる。ただし 回答者の反応を記録することは、公式のものよりも骨がおれるし、回答の質は質問の文脈に依存するので注意が必要である。
(b)民族誌的方法:会話(conversation)
ある個人との対話や小グループの会話はインタビューよりもさらに自由度の高い情報が得られる。 会話には、発話者が他者に対して質問をするというインタビュー的な要素がなくはないが、反応的に質問に答えるという必然性がない点でインタビューとは異な る。また内容はインタビューよりもさらに会話の脈絡に依存するので、正確な資料採集は難しくなる。しかしその全体の情報量は多く、人々が日常生活の中でど のように現実を理解しているかという研究には、この会話の分析が欠かせない。D・ハイムズは「談話の民族誌」(8)という研究領域を提唱したが、臨床の場 はその意味でこの研究の宝庫である。会話と非公式インタビューという調査法を過激にしたものにエスノメソドロジーがある。これは(世界を構成する)いかな る社会的な合意を我々が日常生活のなかで取り決めているかを明かにするために、意図的な方法でその合意を踏みにじる行為を行なったり、徹底的な会話分析を 行い、それを我々自身の意識の上に浮かび上がらせる。D・スミスはひとりの人間が精神病と識別されていく過程を会話分析し、まわりの人々が事後的に辻褄を 合わせてその人間を精神病者に仕立てていくことを発見した(9)。
(c)民族誌的方法:観察(observation)
今までの二つの方法はどちらかと言うと言語的な活動に関心が置かれたが、この観察と次に述べる 参与的観察は言語以外の活動にも焦点を当てる。医療人類学者は社会的な出来事や人々の行為を注意深く観察する。社会的な出来事はマクロ的な視点から観察さ れ、人間の行為はミクロ的な観察による。後者は特に非言語的(ノンバーバル)なコミュニケーションに注目する。臨床的な活動におけるこの種のコミュニケー ションは最近特に注目を浴びている。その際、心理学や行動学は通文化的な共通性、すなわち生物医学的な特性に根拠を求める傾向があり、人類学では文化的な 因子がいかに個体の身体や行動を規制するかを強調する。観察は一回きりにしか生起しない事象を記録することであるが、再現性を持たせる技術がある。すなわ ち写真や映画あるいはビデオテープによって映像的に記録し分析する手法が開発されている(10)。
(d)民族誌的方法:参与的観察(participant observation)
観察の一種だが民族誌的方法論を特徴づけるものである。狭い意味では観察者が同時に観察される 対象の集団のメンバーであることを言う。しかし広義には、被観察者である人々によって観察者が外来者であり、彼らを観察することを認められているような状 況にある観察である。一般に人類学者の参与観察とは後者のことをさす。参与観察の利点は、観察において被観察者が調査者によってその行動に偏りが掛かる危 険性を少なくすることができることである。参与観察によって観察者と被観察者の境界は曖昧になり、観察者は調査対象の人々の思考について一定の理解が可能 になる。「民族誌家の課題は行動そのものを予言することではなく、むしろ文化的に適切な行動の規則を述べることにある」とフレイクは述べているが、このよ うな芸当は参与観察によって初めて可能になると言える。しかし、参与観察で得られるメリットはその対象集団のものだけに限定されるし、全体的な状況のうち の一部だけであるという批判もある。
以上のような説明は伝統社会での調査における基本的な方法論であり、現代社会に住む人々にたい する調査はこれを基本にさらに洗練された手法を必要とするかもしれない。つまり医療者がインフォーマント(現地調査における情報提供者)になったり逆に調 査者になったりする地位の移動の問題、異文化ではない同文化に属する人間が人類学調査者になる「現地人の人類学者」(native anthropologist)のことが将来問題になるであろう。また民族誌記述と臨床医学におけるアナムネーゼ(ドイツ語で病歴採集の意)は現象として は非常に似通ったものとなっているが、根本的に異なっている点は、後者が発話の内容を臨床医学の概念や用語で解釈したところで終わるのに対して、前者は発 話者の解釈を引き出すことから研究が始まるのである。
医療人類学における民族誌的な記述を私は医療民族誌(medical ethnography)と呼ぶ。これは<医療>とよばれる現象を、医者(=治療者)、患者、治療、医薬、診断(=原因追求)、予後(=結果または経過) 等という現代医学のカテゴリーからなる医療体系に当てはめようとする試みではない。むしろ我々が通常思い浮かべる「医療」という限定された言葉のイメージ をいったん留保し、それらに関与するあらゆる事象をちょうど植物の根を辿るように拡張していったときに、我々に感じるそれらの事象の連関を記述するのであ る。そうすると<医療>は現代医療的なものにとどまらず、我々の生活全体に根ざした幅の広い現象であったことは容易に想像できる。冒頭で述べた<医療>と いう言葉にたいするルーズな理解が必要とされる理由はここにある。さてこのような試みはフレイクやグリックによって先駆的に検討されてきた。とくにグリッ クは西洋的な基準から離れてこのような問題を考えた際に医療がいわゆる宗教的なものと密接に関わっていることを指摘し、「民族誌のカテゴリー (ethnographic category)」として医療というものを捉えた。彼の研究上の関心は、現地の知識の体系の分析的記述的研究、すなわちエスノサイエンスとして現地の 「医療」を検討することによってそれが文化の「普遍的なカテゴリー(universal categories)」として通用しうるかどうかにあったが、我々は方法論的にその議論には拘泥しないでおこう(11)。医療民族誌において大切なこと はむしろ、我々が持っているひとつの文化的なフィルターである「医療」という言葉にまつわるイメージを徐々に拡大し、それが持つ意味の裾野を広げることに より、最初にあったイメージを解体させることである。最初から普遍的なカテゴリーを想定するよりも、我々の文化的な偏見に満ちたイメージから具体的に解釈 を試み、それによって分析できないという限界性に突き当たり再考を促すほうが、示唆的でかつ有益であると思われる。また医療民族誌は伝統社会の<宗教>や <儀礼>に関する議論を現代医療にも存在するものとして解釈してみることの重要性も主張する。キャッツは現代医療の象徴である手術室において穢れ(=感染 の原因となる汚染)をめぐる儀礼が支配する世界を描き出している(12)。
そのように見ると、医療民族誌は(a)従来の民族医学研究における伝統的な研究のスタイルの系 譜、つまり医療と宗教という両方のカテゴリーの境界にあた る領域の民族誌研究と、(b)臨床人類学に見られるように臨床的なパラダイムと人類学研究の境界に位置する研究、という二つに領域に分けることができよ う。前者は現在まで多くの人類学者が残してきた事例が多数あるが、後者は歴史的に日が浅いということもあって研究が少ない。数少ない後者の例として近年精 神医学を中心とした医療人類学に多大な影響を与えているクラインマンの著作『文化のコンテクストにおける患者と治療者』(一九八〇)(13)をあげること ができる。それによると、台湾の患者は身体化(somatization)という文化を通して病気を構造化しており、その環境の中で働く現地の精神科医で さえ台湾の文化の影響を受け心因性疾患にたいして身体的な疾患のラベルを貼ることが多いということを彼は指摘する。クラインマンの業績の中で注目すべき点 は現地調査に基づく資料を(ある程度)臨床的に応用可能なかたちで図式化したことである。つまり臨床的リアリティー(clinical reality)、説明モデル(Explanatory Model,EM)、治癒過程(healing process)等の独特の分析視点から、台湾(漢人)における精神疾患を中心に、治療セクター(つまり、家庭内、シャーマン、中医、現代医学の精神科 医)の調査資料を解釈していったのである。このようなアプローチは、文化相対主義にのっとって調査地で起こる現象を全体論的に記述していく旧来の民族誌的 方法と一線を画しており、その方法の可能性や限界について十分な検討が必要である。しかし医学と人類学の領域にまたがる調査のための一定のガイドライン を、事例に即して提示したことは疑いがない。
民族誌が人類学の中でも中心的な役割を果たしてきたのは、それがひとつの社会や集団を全体論的 に捉えているかのような印象を与えてきたからに他ならない。記述することの客観性が疑われなかった時代には民族誌は文化の一覧表を埋めることに存在理由を 見いだしたが、現在では記述される内容が研究者の位相によって影響を受けることが指摘され、中立で客観的な記述を信じることが不可能になってしまった (14)。しかし民族誌の現在、はそれが<作品そのもの>として評価される時代になったにもかかわらず、民族誌上の断片が客観的な実在として別の研究者の 考察の中に<密輸>されるという事態が続いている。だがこの行為は文化人類学のパラダイムにおいて、論争を可能ならしめるものとして容認されている。また 新参者は民族誌に断片という補遺を加えるが、それは民族誌それ自体を完成させるために必要不可欠なものとなる。断片を否定する全体論が断片によって保証さ れるというこの逆説にもかかわらず、民族誌が人類学的想像力の源泉になってきたのは調査者と対象が織りなすダイナミズムなのである。その意味でも医療人類 学において民族誌採集という研究のスタイルはますます重要になっていくであろうと思われる。
(3) 資料収集のガイドライン
偏りのない調査を心がけたいのは調査者の一般的な通念であるが、調査に着手する以前にそれを未 然に防ぐ方法もあまり期待できない。調査における偏りは、調査地を決めようとして踏査を始めた時点から調査地で調査を行っている期間を通じて、そして調査 地から帰って現地で得た資料を整理するまでの全ての過程の中から生まれるものである。踏査や調査地の決定をする以前に「正確を期すために」あれこれ悩むの は得策ではないし、むしろ<正確な調査>の理念の信奉こそが弊害になる場合が多いことを銘記すべきである。このような偏りを克服する万能の方法は今のとこ ろない。現地調査では、ひとつの方法にとらわれず多角的な視点から観察することによって、妥当性のある見解を出そうと試みる以外に救いはないと思われる。
調査に先だって、調査地域全体に関する情報や基本的な概念および理念の整理が必要であることは 言うまでもない。調査を行う目的は−−旅に出たいというロマンティックな欲求(15)の他に−−文献的な研究のなかで生まれてきた仮説や理論を実証したい という実利的要求が潜んでいる。しかしその仮説や理論などは現実の調査が行われる中で<変節>していったり(人類学を賛美する人は「現実によって鍛えられ た理論」という修辞を用いる)、仮説や理論が放棄されることもある。そこで調査者は現地で新たな仮説を構築せざるを得ない。現地調査における理論と実証 は、実験室のような主体と客体の明確な二元論的な区分ができない。そこにまた現地調査の醍醐味もある。調査者と研究対象である現地の人々との間の相互作用 が生じるにもかかわらず、調査者のアイデンティティーが完全に崩壊することは稀である。それは文献研究で使われたノートや重要な民族誌、研究書は現地に赴 く調査者のリュックサックのなかに入っているからであろう。
調査地を決める以前に地域全体をあれこれ観てまわる踏査ということが一般に行われる。踏査はひ とつあるいは複数の調査地を選択するための前段階の過程である。地理的な情報、人口ならびに人口構成、社会的状況、伝統的ならびに現代医療の状態、などを 自分の感覚と現地の人たちとの簡単なインタビューで採集していく。踏査は、自分が集めた資料に客観性を持たせようとする努力と調査者個人のそれぞれの調査 候補地に対する印象をうまく統制させることが肝要である。調査をやらなければならない重要性を痛感しても、本人の触手が動かされない調査地は魅力がない。 また現地の人たちが「あそこは調査にふさわしくない」と忠告してくれても、意外と調査者にとって快適な調査地になることもある。調査地が選択される過程は 我々が常識的に考えるほど合理的ではない。調査にあたって<理想的な>調査地が選択されるべきであると誰もが考えるが、そのようなものは調査者の心の中に できた印象であるか、第三者が調査報告を主観的に評価する際の価値にほかならない。
調査地が決定したら関係官庁への調査許可申請にはじまり現地の人々と接触、交流、そして下宿や 住居の決定まで様々な所用が待っている。人類学調査は後に述べる参与観察に代表されるような現地の人々の中に入っていくアプローチを特色とし、彼らとの信 頼関係(ラポール)や社会的な行動そのものを理解するために長期間現地に滞在することを余儀なくさせられる。つまり質的な資料を得るために時間がかかる。 そのための時間を埋めるという技術的な問題と、現地で起こる様々なことに対して理解を深めるために「足で稼ぐ」資料の収集に努める。それは現地で話されて いる言語を習得したり、調査地の地図を作成したり、家族構成や家屋配置を調べたり、付近の村落への小旅行などである。このようなことで調査地の人々に「顔 を売る」ことができるのである。
ここでは村落部において「家庭レベルでの保健追求行動」を調査することを前提に調査の指針(ガ イドライン)を紹介する(16)。家族レベルでの調査は従来の民族誌調査における少数のインフォーマントをかなりの数の住民に敷衍させる方法であるが、基 本的にはサンプル調査方法に準拠する。つまり地図作成の際に記入された各家屋に番号づけを行い、ランダムに標本を採集する。五歳以下の乳幼児を含む資料が 必要な場合は該当しないものは排除し、標本抽出を続ける。統計学に基づくこれらの一連の世帯抽出の具体的方法は類書に譲る。そのような作業によって抽出さ れた家族は継続的な調査対象となり、家族構成、家屋の状況、社会経済的状況、病気の生起状況、医療資源(病院、保健所、売薬、民間療法、薬草、医師、看護 婦、産婆、呪術師など)の利用状況などが調べられる。
以上のことを踏まえて踏査の段階以降の調査される事項を整理すると表のような項目が列挙されよ う(17)。ここでも重要なのは、このガイドラインに従えばいつでも妥当な調査ができるという訳ではなく、これ以外に妥当な方法はいくらでもあり調査者は その可能性の探求を怠ってはならないということである。
共同体に関する情収集
地理的な特徴
位置
都市の中心地からの距離
公的な保健サービス機関からの距離
地誌・地勢
気候、季節
ハイウェー、一般道路、鉄道、水路
輸送機関−利用性と費用
人口学的な特徴
人口
民族集団(エスニックグループ)
性集団
年齢集団
経済活動人口
移動−移入と移出
人口増加
社会経済的な特徴
集団の経済活動
主たる生業形態
雇用の安定度
土地所有あるいは土地権
財産の移動
家族あるいは家庭構成
核家族/拡大家族
居住形態
土地の分配
共同体組織の強度とその実態
政府のサービスや費用に対する態度
地元の権威者
指導者
様々なグループ(クラブ、宗教的、業種別、など)
保健[を提供する]資源
共同体内外の保健を提供する資源
現地由来のもの
施術師
現代あるいは西洋医学のもの
医師、看護婦、保健普及員など
施設
個々の家族に関する情報
家族構成
家屋の状況
他の社会経済的指標
健康と病気の定義
どのように人は健康(または病気)であることを知るのか
最も一般的な病気はなにか
それぞれの病気に対する知識と信条(症状、原因、処方)
それぞれの病気の一年間での生起回数
子供の一般的な病気とその解決法
各々の病気に対する知識と経験。病気の重さと深刻さの程度。適切な処置と療法。療法に伴う経 済的出費(例えば、その病気に罹ったらどうしますか?、もしもっとお金があればどうしますか−別の療法を考えますか?) 病気の例、下痢、回虫、風邪、熱、はしか、他の病気(現地で理解されているもの)
母親と子供の食事
母親と子供(五歳以下)が通常的に食べる一日の食物(全ての食餌と間食を含む)
乳児にふさわしい(と考えられている)食物
離乳の時期とその方法
固形の食物を食べさせる時期とその内容
子供(女/男)、働いている女、妊娠した女、授乳させている女にとって適切と考えられている 食物の<質>
病気の子供の食事
それぞれの病気になったときに制限される食物、およびその理由
健康と食餌、病気と食餌、食餌と成長について関係があると考えられているか
罹患記録−全ての家族成員
過去二週間の家族のすべての成員についての病気
病気の原因と考えられているもの
誰が、どのような病気に、どれくらいの期間、どんな処置を、どの程度の 出費で、その結果 はどうだったか
罹患記録−子供
過去二週間の五歳以下の子供の病気の記録
なぜその子供が病気になったか
(遡及的に、誰が、どんな症状で、期間は、処置は、出費は、その結果は、について質問)
(その時点で、病気や症状の経過、誰が病人を看たか、助言は誰がおこなったか、ふさわしい治療、 その決定をした人は誰か、実際の治療、出費、結果など)
家庭療法の目録
採用された全ての療法(民俗的、現代医学の両方)、その療法は何によく効くか、その起源、費 用、最近ではいつ行ったか
最近/現在の妊娠と出産の記録
最後の出産の時期、妊娠を知った時期は、どのように知ったか、誰が面倒を見たか、いつ出産前 の配慮を始めたか、理想的な配慮とは、実際の出産前の配慮、妊娠中に食べれる/食べれない食物、どこで出産したか、その状況、誰が出産に立ち会ったか、そ の人が選ばれた理由、どのようにへその緒を切ったか、へその緒の管理、出産後の面倒は誰が看た、出産後の食事
保健資源の利用
親族、隣人あるいは友人、民俗的治療者、シャーマンあるいは呪医、心霊師、堂守、マッサージ師、 接骨師、ホメオパシー医、薬草師、看護婦、産婆、注射処方師、薬剤師、商店、市場、保健普及員、簡易保健所、保健センター、移動保健ユニット、開業医、病 院、自己、他人
公的な保健資源の利用状況
最後に利用したのはいつか、そのサービスに対する意見、公的な機関の人間の訪問状況、その際 の状況、五歳以下の子供の予防接種状況
実践研究
医療人類学の位置づけのなかで最も論争を呼びやすいものはその応用と実践の問題であろう。先に米 国の人類学界における臨床人類学の位置づけをめぐる話題について簡単に紹介したが、はたして医療人類学者は<治療者>やそれに類似した<医学的介入 (medical intervention)の行為者>たるべきか否かは日本でも避けては通れない問題になろう。まず否定的な意見は文化人類学が特色としてきたように、あ る現象に対して外部から冷静に分析していく批判的姿勢が実践に関わることで崩れてしまうことを危惧する。また治療に携わる医療人類学者はもはや臨床人類学 者ではなくてそれは人類学的な治療者(anthropological clinicians)とも言うべきだだという論者もいる(18)。前者の危惧はさらに応用的介入を行う医療人類学に対する批判にもなっている。これらの 批判に対して、私は医療人類学は内的にも外的にも既存の医療にたいしてこの分野の持ち味を発揮してどんどん介入すべきだと主張する。またこの介入、言い替 えれば「コミットメント」が医療人類学的な想像力の源泉になるとも考える(19)。実践研究が他の調査研究と著しく異なる特色は、後者が調査者が研究対象 を外化して冷静にそれを観察していくのに対して、前者では調査者の研究対象への介入し、それらが共に変化していくことである。調査者は研究対象との関わり において変容していくので、自らも研究対象としてその変化の原因についてあれこれと考えをめぐらすことになる。また自己の介入が他者の変化に影響を及ぼす ことは常に倫理的な問題を意識せざるを得ない。
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