はじめによんでください

疫学と文化人類学

Epidemiology and Cultural Anthropology


池田光穂(1996)*

疫学者は疾病の動態を時間的・空間的に とらえる。他方、文化人類学(民族学)者は人間の疾病への対処行動を社会・文化的にとらえる。疾病 の動態を分析する際に、文化的に価値づけられた人間行動を理解することは不可欠である。個々の疾病は、長期にわたって人間生活の文化的局面に影響を与え る。したがって疫学者と文化人類学者は互いに問題意識を共有することが多く、歴史的に交流を保ってきた。

本稿において、私は疫学の研究領域に文 化人類学がどのように貢献してきたかについて2つの歴史的事例を検討する。次に今日の疫学における 最大の実践的課題のひとつであるHIV感染症対策に対して、文化人類学者の挑戦について紹介する。


1.鎌状赤血球形質とマラリア


鎌状赤血球形質(sickle cell trait)は元来、インドから中東、地中海および中央アフリカにかけての地域でみられた赤血球の遺伝的な異常である。ホモ接合体 (homozygote)は激しい貧血症で死亡する。そのためホモ接合体(homozygote)をもつ個体は子孫をつくれない。したがって理論的には、 この遺伝子をもつ集団はしだいにその遺伝子頻度(gene frecuency)を下げてゆくはずである。ところが西アフリカにおいて、鎌状赤血球形質の頻度は一定に保たれている。この要因として考えられているの がマラリアである。鎌状赤血球形質の分布が熱帯熱マラリア(falciparum malaria)に耐性があることを指摘したのは疫学者 Allison(1954)であった。人類学者 Livingstone(1958)は西アフリカでの鎌状赤血球陽性率(positive rate)を、言語集団をもとにする民族ごとに集計し、それを地図上に描いた。彼は、このような分布の偏りを民族の移動、生業と環境の変化などから次のよ うな仮説で説明した。

西アフリカでは、最初に鎌状赤血球をも たない West Atlantic 諸語(languages)を話していたグループの人たちが広く住んでいた。そして、東方および北東からほかの言語を話す人々が移住してきた。Kwa諸語 を話す人は、大きく2波にわたってやってきた。最初の波は、KruやLagoon語を話す人々であったが、彼らは鎌状赤血球を持たない人びとであった。次 にAkanやGa語などを話し、現在KruやLagoonの東側に住む人々が西に移住してきた。このAkanやGa語などを話す人びとの形質の頻度 (trait frequency)が高いことから、西アフリカの海岸地帯に鎌状赤血球形質を持ち込んだと考えられる。Mande諸語を話す人びとにも同様のことがみら れる。はじめに北東から移住してきた人びとは鎌状赤血球をもたず、後に移住してきた人びとが鎌状赤血球を持ち込んだ。後にWest Atlantic諸語を話す人びとと合わさる(interbreed)ことによってMande 諸語を話す人びとのなかに鎌状赤血球形質がもたらされた。この状況は、West Atlantic諸語を話す人々の地域では、海岸地帯から内陸に入るほど、鎌状赤血球の陽性度が上昇する現実と符合する。


リヴィングストン(1958)の鎌状貧血 症の分布(左図)と言語学的分布(右図)Livingston, F.B. Anthropological implications of sickle cell gene distribution in West Africa. American Anthropologist 60: 533-562, 1958.

他方、Gambiaなどの熱帯雨林地帯 では状況がことなる。海岸の熱帯雨林地帯では陽性率が高く、内陸の乾燥地帯にゆくほど、その頻度が 低下する。これは人びとの生業との関係によるものである。熱帯雨林地帯では、ヤムイモ(yam)による農耕が行われ、乾燥地帯に向かうほどモロコシ (sorghum)などの雑穀栽培(millet cultivation)が行われている。熱帯雨林地帯の高い陽性率(positive rate)はヤムイモ農耕民にみられ、同じ地帯に住む採取狩猟民の鎌状赤血球の陽性率は低い。ヤムイモ農耕民の陽性率の高さは、Kwa諸語のうちKru, Lagoonを話す人々においても同様に言える。

人類学者 Wisenfeld(1967)もまた、生業、鎌状赤血球、マラリアという三者の関係を検討した。農耕作物のタイプと鎌状赤血球陽性率との相関関係をとる と、雑穀農耕(millet cultivation)地帯では低く、ヤムイモを中心とする根栽農耕(rootcrops cultivation)地帯では高い結果がでた。この場合の根栽農耕とは、アフリカ原産のギニア・ヤムDioscorea cayenensis ではなく、マレー・ポリネシア系のヤムイモである D. alata, D. bulbifera, D. esculenta やタロイモ Colocasia antiquorum などのイモ類、バナナ、ココヤシなどを中心とするものである。このような根菜農耕の形式を Wisenfeldは Malaysian Agricultural Complexと呼ぶ。Malaysian Agricultural Complexの分布と鎌状赤血球形質の分布は、アフリカを東西に横断して一致する。この相互関係を理解するためには、マラリアを媒介する蚊の生育環境に ついて知る必要がある。

ハマダラカ(Anopheles mosquito)の生育環境である。熱帯雨林地帯においてマラリアを媒介するハマダラカには二種類ある。ひとつは卵形マラリア原虫 (Plasmodium ovale)を媒介するAnopheles funestusであり、他のひとつは熱帯熱マラリア原虫(P. falciparum)を媒介する Anopheles gambiaeである。地方病(endemic)である卵形マラリアを媒介する A. funestusは、熱帯雨林内の暗い環境で生育することができる。他方、流行病(epidemic)的な広がりをもつ熱帯熱マラリアを媒介する A. gambibiae は生育環境として陽当たりのよい緩やかな流れのある水たまりを要求する。

したがって、土地を開墾しない狩猟民が 住む熱帯雨林の環境には卵形マラリアが地方病として存在する。しかし、マレー系のヤムイモを耕作す る根菜農耕民がこの森林を伐採すると陽当たりのよい環境ができ、熱帯熱マラリアを媒介する A. gambiaeの生育が促進される。さらに土地の開墾は、効率のよい農業生産を生み人口増加が促進される。人口の増加によって、ハマダラカはマラリアの宿 主として森林の動物から人間に変えるように進化した。農耕がサハラ以南のアフリカに導入された時期をLivingstoneは二千年ぐらい前だと推定して いる。したがって西アフリカの人びとの鎌状赤血球形質の頻度に対して淘汰圧がかかるのは、この時期であり、それは流行病としての熱帯熱マラリアの誕生でも あった。

Weisenfeld は、コンピュータシュミレーションを導入して、マラリアによる選択圧が、この地域に住む人びとの鎌状赤血球形質の残存(persistence)に寄与し ていると説明した。また鎌状赤血球は、その後の実験的研究から、血球の寿命および代謝(metabolism)の面からも、マラリアの寄生を受けにくいこ とが証明された。

この壮大で総合的な仮説は、生物文化的 進化(biocultural evolution)の理論において疫学と人類学が見事に接合(apropriate)された例の一つである。


2.スローウイルス感染症としての kuru

※著者註:スローウィルスは現在の知見ではウィルスではなく、異型タイプのプリオン蛋白質が 引き起こすものと考えられています。


クル(kuru)は臨床的にはスローウ イルス感染症(slow virus infection)の一つである。中央ニューギニア東高地のFore(発音はFOR-AY)語を話す人たちの間においてみられた地方病である。kuru はFore語で「震えtrembling」を意味する。kuruになると、起立、歩行が不安定になり進行性の小脳失調(cerebeller ataxia)と震え(shivering-like tremor)がつづき、発症後数カ月で死亡する。臨床的には、kuruは亜急性の海綿状変性ウイルス脳炎(subacute spongiform virus encephalopathies)の一種とみなされている(Gajdusek, 1977)。

植民地巡視官(Australian colonial patrol officer)であるBerndtがkuruについての初期の報告をおこなった。Berndtはそれを西洋文明との接触によって引き起こされる心身症 (psychosomatic disorder)であると記載した。19世紀終わりから今世紀の前半にかけて、オセアニアの各地域では広範囲に散発的にカーゴ・カルト(Cargo Cult)とよばれる土着主義的な社会宗教運動(nativistic socio-religious movement)が起こった。Berndt は、西洋文明との接触による社会的次元での異常である Cargo movementに対比させ、kuru を個人次元での心理的病理(psychologic disorder of the personal dimension)としてとらえている。

1957年にニューギニアを訪れた D.Carton Gajdusek が現地の医官(medical officer)Vincent Zigasと出会った。そこでZigasがGajdusekに対して、Fore人(the Fore)と kuru の関係を紹介した。これが kuruの疫学研究の第一歩であった。当時の研究者たちは、 Fore の人びとの間でのkuruの特異な症状、高い死亡率、発症の男女比の不均衡——子どもでは性差がなく、成人で著しく高い女性の罹患率——に関心をもった。

Fore の人びとはkuru を、患者に悪意のある人が、患者の身の回りのものを用いておこなう邪術(sorcery)のせいであると説明してきた。これに対する土着対処法 (native treatment)は、邪術師(sorcerer)を発見してこれを止めさせるというものである。kuru が猛威を振るっていた50年代終わりから60年代初頭のSouth Fore の男性たちは女性の人口の激減に脅威を感じ、しばしば集会を開き、邪術の容疑者の告発や非難がおこなわれた(Lindenbaum,1979)。しかし、 kuru の発症は1959-63年ごろをピークとして徐々に減少していった。

多くの研究者は、当初 kuruを遺伝病(hereditary disease)のひとつと考えた。しかし、この仮説は、今世紀以降に始まる流行病としての性質、女性の罹患率の極端な高さなどから、その可能性は否定さ れた。遺伝仮説の後に登場したのが、環境的な要因を想定する栄養学的な説明である。しかし食物の分析などを通して有害な物質は発見されなかった。さらに植 物学者や昆虫学者などが動員されて、この地区の調査がおこなわれたが、有力な病原(pathogen)は発見されなかった。遺伝および環境的な要因が排除 されて、やがてkuruは感染によるものであるという仮説が確立されるようになった。しかし、感染の経路や伝染の様式については依然不明のままであった。

Gajdusekたちの研究グループ は、kuruで死んだ女性の脳組織をチンパンジーの脳へ接種実験をおこない12カ月前後でkuru様 の症状を発病させることに成功した。彼らは実験感染したkuruで死亡したチンパンジーの脳を、さらに別のチンパンジーに接種し発病させることで、スロー ウイルス感染症(slow virus infection)であることを証明した。Gajdusekは、スローウイルス感染症に関する一連の学問的貢献のために1976年にノーベル医学賞を授 与された。

Kuru は極めて特殊な地方病であるにもかかわらず、スローウイルス感染症である Creutzfeld-Jakob's disease などの伝染や発症の様式と関連することから、重要な関心が持たれてきた。しかし、kuru は現在その姿をほとんど消し、その感染様式は推測に頼るほかはない。今日では、すでに説得力をもたない喰人行為(cannibalism)による仮説は長 い間信じられてきたし、現在でもいくつかの教科書(eg. McElroy and Townsend,1989)ではGajusek(1977)の主張のままのかたちで伝えられている。

 しかし、人類学者によって提供された不 確かな喰人仮説(cannibalism hypothesis)を「真実」なものとしてkuruの病因論(etiology)として受け入れられたことは誤りであった。この歴史上の誤りは、 Allens(1979)によって詳細かつ批判的に指摘されている。現地の情報提供者たち(native informants)が、「白人」の人類学者に対して、現地人があたかも喰人者(cannibal)であるかのように振る舞うという事実は、日本の人類 学者も指摘している(Yoshida,1993)。

 本来ならば、人びとの慣習や行動に最も 精通しているはずの人類学者が、疫学者との協力において果たすべき正確な情報提供に失敗した例とし て、このForeのkuruは記憶されるべきであろう。

★2024年追記

クールーとカニバリズムの謎より


3.HIV感染症と文化人類学


病気が流行している地域住民がエイズを どのように理解し位置づけているかという情報は、HIV感染対策には欠かせないものである。医療人 類学者(medical anthropologist)は、この情報を「病気の文化的構成 "cultural construction of illness"」と呼んでおり、重要な研究テーマの一つとされてきた。この種の情報は、民族誌とよばれる方法によって人類学者によって記録されてきた。 民族誌は、人びとの病気に対する対処行動を理解するための第一次の(primary)資料として、疫学に貢献することができる。

病気の文化的構成を、カリブ海のハイチ 共和国の事例にみてみよう。Farmer(1990)は、ハイチ中央高地の村落の人びとがエイズに 対して抱いてきた概念を、1984年から現在までの期間を4つの時期にわけて紹介している。最初は、(1)アメリカ合衆国内でハイチ島出身者に高いエイズ 患者の発生が指摘されていた1983-4年ごろであり、エイズは村の人びとから「町の病気 "Maladi lavil"/ city sickness」とみなされていた。しかし、(2)引き続く1985-6年では、人びとは様々なメディア情報やハイチ政府のエイズ対策キャンペーンに よって、次第にエイズを「悪い血液 "move san"/ bad blood」として見なすようになった。この時期には村落では発症者がなかった。(3)1987年になってはじめて村落で患者がみつかった。人びとは具体 的な症状について知るようになり、その下痢や急激な体重減少などの症状から、エイズを「微生物 "mikwob"/ microbe」による消化管の病気とみなすようになった。(4)1988年以降は、病気がさらに蔓延し、エイズが日常のものとなってゆくなかで、感染症 でありコンドームによる感染予防という方法が受容されるにいたったのである。

このような具体的なエイズの病状の理解 がなされていた。しかし、他方でまた人びとがエイズになる原因を邪術(sorcery)によるもの としたり、米軍が開発した細菌兵器であるという流言も同時に受け入れられた。このような民衆のイメージ(popular image)は、村落の人びとが抱くハイチの独裁がおこった恐怖政治にもとづく統治や反米感情の表れであると、人類学者 Farmerは説明する。一般的に言って、住民の病気の認識は社会・文化的な文脈のなかでおこるのであり、疫病対策において「現地側の病気理解」の把握が 重要な鍵になることをこの報告は示している。  HIV感染のハイリスク・グループの実態の把握もエイズ対策の重要な課題である。例えば、売春婦を利用する客(client)たちは、コンドームがエイ ズ予防に役立つとインタビューに答えながらも、実際にはそれを利用していない。その理由をLeonard(1990)は次のように説明する。男性の客たち は売春婦たちとの性行為のなかでフェラチオされることを重視しており、彼女たちの性的商売における未熟さや、薬物を利用していなこと、などと相まって「清 潔な」——と男たちが感じた——売春婦と関係を持とうとする。このような思いこみが、疫学的に危険な行為を容認している。シングルズ・バーは、異性・同性 愛とを問わずセックスのパートナーを見つけるために集まると考えられている酒場である。不特定の相手との性交渉の機会をもつ点で、このバーの恒常的利用者 は感染のハイリスクグループとみなされる。サンフランシスコの1,500にのぼる常連客に対して性的活動についてアンケート調査をとった Stall et al.(1990)は、利用者である彼/彼女らがエイズについての知識が豊富であるにもかかわらず、ハイリスクな性行動をする危険性が常にあることを指摘 している。売春婦やシングルズ・バーの利用者たちの事例であきらかになったことは、人びとが豊かな疾病の知識をもつわりには、それとは矛盾する対処行動を とっている事実である。したがって、感染対策には知識の向上だけでは不充分で、人びとの行動をどのように変えさせるのかが重要になることを示している。

米国内での薬物利用者に対する疫学調査 (Page et al.1990)では、薬物静注者(intravenous drug user)にはHIV坑体陽性者が明らかに多い。非合法の薬物の利用者たちは、射撃場=シューテング・ギャラリー(the shooting gallery)などと呼ばれる、官憲の手の届かない場所を利用し、お互いに注射針を共有していた。このシューティング・ギャラリーにおける民族誌的研究 (ethnographic survey)によると、そのようなギャラリーの仲間どうしは、同じ注射針を共有することが、相互の信頼感の証になる。感染の危険性を増加させる行動を自 らすすんで人びとは選んでいるのである。そのためにPage et al.(1990)は、予防のための一般的な知識の普及よりも、注射針の共有を止めたり消毒の徹底するなど、感染をくい止める際にもっとも有効で具体的な 対策の重要性を主張している。

HIV感染をくい止める疫学者の実践に 対して、文化人類学は人びとの具体的な行動を記録し、その社会・文化的理解を提供する。感染対策の ために、医学的知識を正しく人びとに伝えるだけでなく、いかに人びとがハイリスク行動を避けることが重要である。人びとの行動の変容には、彼らの文化的社 会的背景に関する具体的な観察とインタビューにもとづく知識が不可欠である。


結語


疫学の流れは大まかに「記述的 descriptive」「分析的 analytical」「臨床的 clinical」という疫学の3つのパラダイムの時間的移行ないしは重層的発達としてとらえることができる。まず1950年代までは、感染症や急性疾患 などの疾病の消長を描写する「記述疫学 descriptive epidemiology」が中心であった。1950年代からの20年は癌や慢性疾患などの疾病の原因や危険因子(risk factor)を追求する「分析疫学 analytical epidemiology」が主流になるにいたった。この2つの疫学には人間行動を明らかにし、行動の文化的因子を分析するために、文化人類学の理論的貢 献が期待された。マラリアと鎌状赤血球形質の因果関係を解明したLivingstone(1958)とWisenfeld(1967)の研究は、この疫学 の2つのパラダイムの時代における、典型的な成功例といえよう。他方、Foreのkuru研究では、ウイルス学の成果にくらべて、人類学者が提案した「喰 人仮説」(cannibalism hypothesis)は、現在ではほとんど説得力をもたない。

1970年中頃以降になると Operations Research や Decision Making Theory などが導入され、臨床の医療的介入の評価を目的とする「臨床疫学 clinical epiemiology」が主要な流れを形成するようになる。一般に臨床疫学は、数理モデルアプローチが主になり、文化や社会的側面が過小評価されたり、 要因の一つとして見なされるだけになった。またこの時期では、古典的人類学が標榜していた全体論的(holistic)アプローチに対する疫学者の関心が 後退した。

ところが1980年代中頃以降現在にい たるまで、HIV感染症対策が疫学研究の重要な課題のひとつになってきた。そのような動向におい て、文化的因子が大きく影響する性行動や薬物嗜癖などの実態の把握に、文化人類学的手法への関心が再び高まりつつある。この地球規模の感染症という問題に 取り組むために、いくばくかの文化人類学者たち(some cultural anthropologists)は自分たちの研究戦略を、正統派の全体論的分析から、より行動科学的なアプローチのほうへ移行させている。また近代社会 において研究する疫学的人類学者(epidemiological anthropologist)は、心理社会的状況(psycho-social conditions)や非感染症(non-infectious disease)に関心をもつようになった(Janes et al. eds.,1986)。

疫学と文化人類学の研究のスタイルは時 代に応じて変化することがあっても、疫学者と文化人類学者は相互に知的刺激を交換することを願って おり、またその協力関係も続いていくだろうというのが、私の結論である。


文献



*この論文は、(故)吉田集而先生の要請にもと づいて、日本のある医学会の研究予稿集のために1996年当時に書かれたものである。

■2016年 補注

疫学の教科書に、ケネス・ロスマン・ジュ ニアの『疫学入門(Epidemiology: An Introduction)』というものがある。篠原出版から第2版の邦訳が『ロスマンの疫学:科学的思考への誘い』のタイトルで出版されている。

その本の目次を概観すると以下のように なっている。

★2024年追記

「進 化学:古代のマラリア原虫ゲノムから明らかになったヒトマラリアの歴史 2024年7月4日

Nature 631, 8019 doi: 10.1038/s41586-024-07546-2

マ ラリアの原因となるプラスモジウム属(Plasmodium)の原虫は、ヒトゲノムに対して非常に強力な選択圧を及ぼしてきた過去を持ち、抵抗性の対立遺 伝子はこれらの原虫種の歴史的な広がりの概要を示す生体分子的な足跡となっている。しかし、マラリア寄生虫がヒトの病原体として出現し世界に広がった時期 や経緯に関しては、議論が続いている。これらの疑問に取り組むため、我々は、16カ国から収集された、人類史の約5500年にわたる熱帯熱マラリア原虫 (P. falciparum)、三日熱マラリア原虫(P. vivax)、四日熱マラリア原虫(P. malariae)から、高カバー率でゲノム規模の古代ミトコンドリアゲノムおよび核ゲノム規模のデータを得た。三日熱マラリア原虫および熱帯熱マラリア 原虫は、ユーラシアの地理的に離れたさまざまな地域でそれぞれ紀元前4千年紀および紀元前1千年紀という早い時期から見いだされ、三日熱マラリア原虫に関 するこの証拠は文献情報を数千年さかのぼるものであった。ゲノム解析の結果は、南北アメリカ大陸における熱帯熱マラリア原虫と三日熱マラリア原虫の疾患史 の違いを裏付けており、現在は根絶されたヨーロッパ株と接触期前後の南米株の類似性は、ヨーロッパ人入植者がアメリカ大陸に三日熱マラリア原虫を持ち込ん だことを示しているのに対し、熱帯熱マラリア原虫はおそらく大西洋をまたぐ奴隷貿易によって南北アメリカ大陸にもたらされたと考えられる。我々のデータ は、マラリアの伝播に異文化間の接触が役割を果たしたことを明らかにしており、人類史にマラリア寄生虫が与えた影響に関する今後の古疫学的研究のための生 体分子的な基盤を築くものである。さらに、ヒマラヤ山脈の高地で思いがけず熱帯熱マラリア原虫が発見されたことは、感染の状態から個人の移動能力を推定で きる希少な事例となり、3000年近く前にこの地域で異文化間接触が存在したという新たな知識が得られた。」

文献

E. M. Loeb, The Blood Sacrifice Complex <Memoirs of the American Anthropological Association Number 30>, American Anthropological Association, 40pp., 26cm. 1923.

リンク



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