価値の多元化状況における保健システムの変貌
研究代表者:池田光穂
近年の調査研究によると、医療の近代化(modernization)は必ずしも人々の健康や病気に対する 意識を画一化、均質化するものではないことが指摘されている。近代社会では日常生活が近代医療 によって植民地化され健康主義が蔓延すると言った平板な医療化 (medicalization)の議論の限界 が露呈しつつある。その原因には、近代医療の「成功」と経済のグローバル化を通して日常生活に おける医療手段の利用の自由度が上がり、日常生活における価値の多元化が進んでいることが考え られる。
本研究は、グローバル化する近代医療と、それに呼応するローカルな土着の保健システムが織り なす動態を、これまでの歴史学や社会医学の成果を活用しつつ、文化人類学的手法にも とづいて明 らかにし、医療の近代化が直面しているこのような新しい情況について光を当てるものである。
具体的には、(i)国民国家と近代医療制度が密接に関連した日本やラテンアメリカ諸国のような 地域における公衆衛生政策や大衆保健運動の社会分析を通して、国家主導の保健システムが、社会 に受容され大衆化する社会的過程を明らかにする。また歴史的検証として(ii)19世紀中葉から20 世紀初頭にかけて欧米における近代合理主義に裏付けられた科学的医療と国家制度への組み込み と、ほぼ同時期の帝国植民地におけるキリスト教宣教医療ならびに熱帯医療の普及過程の比較的検 討を試みる。
(研究計画・方法の図式(下図)もご参照ください)。
1960年代に議論が沸騰したコンラッドとシュナイダーの医療化論、ゾラの健康主義批判、イリ ッチの医原病論などは、総じて近代医療による日常生活の医療化のプロセスを一般化したモデル の中で描写し、それを近代社会において必然的に起こる社会過程として理論化をおこなわれてき た(「一元化的医療化モデル」)。
それに対して本研究は、ローカルな社会的分節における近代医療と土着の保健システムとの対 応関係に焦点を当てる。グローバル状況における近代化をギデンズの内省化の過程を参考にしつ つ「多元的医療化モデル」という立場を構築する。民族誌学の方法を通して社会の様々な分節の 中における対立、融合、さらには折衝の過程に着目する点は、これまでの医療の近代化論にない 特徴である。
この研究の成果の意義は、政策担当者には21世紀の医療政策の方向性を提供することができ、 ユーザーとしての市民には新しい医療化現象への対処指針を提示することができる。
医療文化の多元化についての研究は1970年代に欧米、インド、日本の研究者が共同研究(Leslie 1976)を開始した。医療思想史ではフーコー(1963)が近代医療の錯綜した実践を「眼差し regard」という観点から言説生産との関係について指摘し、それらを医療社会学に応用した研究 (Jones et al 1994; Peterson et al. 1997)が出されている。植民地医療については英国のアーノル ド(Arnold 1988)らを中心とした一連の研究があり、日本では歴史学から見市(1994,2001)が 研究に着手している。しかし、これらの研究のすべてが医療化現象については画一化均質化した過 程として捉えている。 本研究は「多元的医療化」という視点をとる点でユニークである。池田(2001a,2001b, 印刷 中)および慶田(1994,印刷中)はグローバル化する近代医療の展開についての研究途上で、多元 的医療化に関する萌芽的理論の可能性について指摘した。佐藤(1999)や田口(2001)は医療思 想史や医療社会学における近代医療の多元化について指摘している。「多元的医療化」に関する研 究領域に対する本研究の貢献は大きいと思われる。
(研究代表者および研究分担者文献に限り「研究業績」に対応します)
1. 研究代表者が従来受けた科学研究費補助金
研究種目:基盤研究(B)(2) 期間:平成11・12・13年度 研究課題名:病気と健康の日常的概念に関する実証的研究(課題番号11470501) 研究経費:総額5900千円(各年度毎内訳:2200千円・2000千円・1700千円)
2. 当初の研究計画 病気ならびに健康という日常的経験を社会研究の構築主義の理論的枠組みから解明し、医療現場が抱 える問題に対処可能なコミュニケーション理論の確立に寄与する。患者ならびに健常者の病気と健康の 概念は、彼らの日常生活の中での実践や情報交換と、さまざまな医療専門職集団との接触や学習過程を 通して、経験的に構築されてゆく過程を文献ならびに実地調査を通して明らかにする。 3. 研究経過と研究結果
2つの作業仮説をもって研究計画を実行した。
【仮説 I】病気と健康の日常的概念は、人びとのライフコースの中で社会的・文化的に構築される。
【仮説 II】病気と健康の日常的概念概念は、個々人の身体経験の諸相と外部からの認知的学習過程とい う2つの構築過程が認められる。
それを実現させるために次のような方法をとった。
【方法】人間の認知に関する発達心理学や児童の社会化に関する社会学の諸研究を渉猟し、個人の体験 が社会経験として共有される過程やそれを可能にする社会的条件についての事実に関する資料を収集 し、それらを分析した。次に我々が経験するライフヒストリー事例の中に、これらの日常的概念を採集 し、社会分析をおこなった。
その結果、次の結果が得られた。
【結果 I】病気と健康についての日常的概念は、公的教育ならびにマスメディア媒体を通して影響力を 受けるものの、それらの効果は一過性のものであり、身体を機軸にした慣習行為から形成される日常的 概念は、比較的長期にわたって社会的・文化的に構築される。
【結果 II】システム拘束性の強い学校教育制度が崩壊した現在では、健康に関する社会の中心的な規範 が後退している。病気と健康の日常的概念の社会的構築は、社会の中の局所的集団(家族や職場)の中 でおこなわれる。マスメディア受容様式の個人化の中で、病気と健康の日常的概念の社会的構築の様式 は、おなじ社会のなかでも多様化の度合いを深めつつある。非専門職の普通の人々だけでなく医療専門 職においても専門分化が進み、健康の全体性(health as wholeness)を提示できない情況が生起するに 至った。
(2)研究代表者・研究分担者の相互関係
研究目的の遂行のために、近代医療の歴史的ならびに社会的展開に関する4つの個別研究と、それらを統合 する上掲の図式にもとづく理論枠組の共同検討会をおこなう。
(i)全地球システムにおける周縁的地域で開始された近代医療のグローバル化の起源として理解されているキ リスト教的宣教医療と植民地熱帯医療の普及過程の歴史人類学的検討。本年度は国内における文献調査をおこ なう:(*)[東アフリカ:ケニアとタンザニア]。
(ii)全地球システムにおける周縁的地域で開始された近代医療のグローバル化の結果として生まれたと指摘 されている医療的多元化の歴史人類学的検討。本年度は文献による調査:(*)[ラテンアメリカ:グアテ マラならびにアルゼンチン]
(iii)近代産業化をスムースに迎えたと指摘される中核的地域、特に日本と英国における国家制度に組み込ま れた近代医療とその大衆化の過程の歴史的研究。予備海外調査:(*・*)[日本ならびに英国]
(iv)20世紀後半以降、周縁および中核の両地域で開始された近代医療の大衆化や、土着の保健システムへの 部分的導入がもたらした、各地の大衆保健運動現象の社会動態の比較研究。本年度は予備海外調査:(*・ *)[日本、英国、米国]
※図の再掲(下図)
平成16年度 (→実際の成果)
初年度の調査研究を通して得られた見通しを深め、実証的な観点から各研究の担当者は、文献や関係者へのイ ンタービューを中心とした短期の海外調査を実施することである。この年度は英国ならびに米国、および国内に おける現地調査をおこなう。文献にもとづく研究ならびに共同研究会を継続する。
平成17年度
初年度ならびに次年度の研究を通して得られた情報の整理分析を継続する。実証的な観点から各研究の担当者 (一部)は、文献や関係者へのインタービューを中心とした短期の海外調査を実施することである。ケニア、タ ンザニアならびにグアテマラ、アルゼンチン、および国内における現地調査をおこなう。
平成18年度
最終年度は、それまでの3年間の共同研究ならびに2年間のフィールド調査から得られた資料を踏まえて、総 合的な解析をおこない、研究プロジェクトのまとめを行うことを主目的とする。研究担当者が、個別論文のかた ちで学会誌に発表するほか、共同研究会を通して最終的な報告書にまとめ上げる。
II. 人権および利益の保護についての指針
本研究は文献的研究を主としているが、とりあげる資料には個人の診療記録などの歴史資料や民族誌なども含 まれるため、歴史的/民族誌における人格の取り扱いにおいても、特段の配慮をおこなう。研究代表者ならびに 研究分担者が所属する調査倫理委員会(相当機関)等と密接に連絡をとりながら調査研究を遂行する。
研究業績(※平成14年=2002年申請当時は省略)
関連ページ
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