ユカテク・マヤの助産術の学習
The Meaning of Participation: Yucatec Maya midwives and our practice of learning
■ テーマ:参加することの意味
我々が〈あることを学ぶ〉という時、そこで何が起こっているのだろうか。我々が「あることを学ぶ」と聞くとき、みなさんは何を思い起こす だろう。
漢字を憶えている時、漢字を思い出した時、漢字が手本を見ないで書けた時、漢字が誤りであることを見つけた時。数の数え方を教えられた 時、自分で数が数えれるようになった時。計算を教わった時、計算をして答が合ったと言われた時、自分で計算ができるようになった時。鉄棒で逆上がり(=縄 跳びでもよい)について教わった時、逆上がりを練習している時、はじめて逆上がりができた時、逆上がりがいつもできるようになった時。
我々は、それらのプロセスのあいだに数多くの〈学ぶ〉〈知る〉〈できる〉という語彙を聞き、また話してきたはずだ。このようなことを実践 し、洗練し、また研究などを通して発展させている領域は、公教育に代表される学校(school)であり、それに関する学問を教育学(pedagogy) とよんでいる。〈学ぶ〉ということは別の用語(名詞)では〈学習〉といわれる。
現代において〈学習〉ということについて考えた時に、我々の多くは、外部から〈教えられ〉〈習得し〉〈記憶し〉〈再現する〉という一連の 手続きを思い起こす。これらは公教育制度のなかで最も洗練されてきたので、我々は〈学習〉は学校のなかでのみ行われているものだと思い込みがちである。
しかし、学校外においてもこの人間の基本的な活動である〈学習〉はさまざまな局面でみられる。あるいは公教育制度とは、人間のこの基本的 な能力を効率よく伸展させるように、よりひろい学習という人間の活動の「ある側面」を部分的に洗練させてきたものである——なぜなら公教育制度の外で、あ るいはそれが確立する前から、学習とよべる人間の活動は数多く発見することができるからだ。それらの活動には、公教育でおこなわれるような学習プロセスと は、かなり異なる活動がみられる。
これまでの学習観と根本的に異なった立場から、学習を批判的に考察した人たちが登場する。彼らは「学習というものを、個人の頭の中ではな く、まさに共同参加の過程の中に位置づけ」た(ハンクス 1993:6)。しかしながら、このこととの重要性に気づくためには、学習は外部から〈教えられ〉〈習得し〉〈記憶し〉〈再現する〉という従来のそのイ メージを払拭し、公教育の外にある、学習の「原初的」形態あるいは、公教育「以前」の学習、公教育制度批判の「代替的」学習などに、その範を求めなければ ならなかった。徒弟制(apprenticeship)における学習は、近代的な公教育でおこなわれる学習とは明らかに異なる、それらのレパートリーのひ とつである。弟子たちが師匠に付いて〈活動〉を通して学ぶ徒弟制は、公教育制度とは一方で類似点も含みながらも、他方で著しく異なった性質をもったものと 言える。
メキシコ・ユカタン半島の先住民であるユカテク・マヤの女性に継承されてきた助産術(産婆術)にみられる徒弟制と言える活動を通して〈学 習〉とは何かについて考えてみよう。
■ ユカテク・マヤにおける徒弟制的な助産術の習得
「徒弟制は日常生活の一形態として、かつその流れの中で生じる。そこでは、教える努力といえるものをほとんど見ることがないだろう。将来、 伝統的助産師[midwife, 以下、助産師]になるマヤの少女はたいがいは、その母親か祖母が助産師である。なぜなら助産術は家系によって伝授されるからである。……そのような家族の 少女は、とくに助産師の弟子(apprentice)とみなされずに、単純に成長過程のなかで、助産術の実践の本質を、数多くの手続きの知識と共に吸収し ていく。彼女たちは助産師の生活がどのようなものであるかを知り(例えば、助産師は日中であろうと夜中であろうと[申し出があれば]あらゆる時間に出かけ なければならないこと)、助産師に相談にくる女性や男性がどのような類の話をするのか、またどのような種類の薬草や他の治療法を事前に集めておかねばなら ないのかということを知る。幼い子供の時は、母親が妊婦に出産前のマッサージを施している間、部屋の隅で静かに座っているかもしれない。少女は難しいケー スや奇跡的に成功した結果などの話を聴いていたりする。成長するにつれて伝言をつたえ、使い走りをしたり、必要な用品を探しまわらねばならない。少女は助 産師の母親が市場での日用品の買い物の後で、妊婦の産後の訪問に同行するかもしれない。
やがて彼女じしんが子供を出産した後で、彼女は別の女性の出産に立ち会うかもしれないが、それはたまたま具合の悪い祖母が一緒に行って助 けてもらうようにと同行した時かもしれない。その際には、孫(彼女)が出産した時にほかの女性が彼女にやってくれたことを、今度は自分がその女性にやって いるのかも知れない。……結果的に彼女(孫)は出産前のマッサージを妊婦におこなうということにもなるかもしれない。どこかの点から、彼女はこの助産の仕 事を実際に望んでいるのだと決心したのかも知れない。それゆえに彼女はより注意を払うようになるだろうが、[その現場では指導者に]質問するようなことは ほとんどない。彼女の指導者[mentor]は、弟子と指導者の関係はかって自分自身がそうであったようなものと同じだと考えている(たとえば「[弟子 の]ロサはもうマッサージのやり方を知っているから、もし私が忙しい時には代わりに彼女を派遣できるわね」と)。ルーティン化され単調で退屈な部分からは じまり、後産[=胎児が生まれた後に再び陣痛がおきて胎盤が排出されること]というユカタン半島のマヤ文化によって最も意義深いものに至るまで、やがて時 間が経てば、弟子は[助産術において]やらなければならないことを師匠の代わりにどんどん代行するようになる」(Jordan 1989:932-934)。
【出典】
- Jordan,
B., 1989. Cosmopolitical obstetrics: some insights
from the
training of traditional midwives. Social
Science and Medicine 28(9):
925-944. https://doi.org/10.1016/0277-9536(89)90317-1
- レイブとウェンガー『状況に埋め込まれた学習:正統的周辺参加』佐伯胖 訳、Pp.46- 48、産業図書、1993年[訳文は参照したがLave and Wenger 1991 に引用されている原文より池田が直接訳し適宜文意を補った]。
■ 課題
(1)我々が公教育で馴染んできた学習と、ユカテク・マヤの助産術の学習は、どこが違うのか、気づく点をなるべく多く列挙しなさい。
(2)我々が公教育で馴染んできた学習と、ユカテク・マヤの助産術の学習の相違点のうち、もっとも「根本的」と考えるものをひとつあげなさ い。また、その理由はなにか。
(3)他のグループはあなたのグループとは違う「根本的相違点」を提示するかもしれない。それを想定して——(2)の作業における次点に なったものがその候補者になるかもしれない——、その相違点は表面的なものにすぎず、類似点にほかならないことを理由をあげて説明しなさい。
■ この授業を深めるための読書文献
冒頭で触れた「これまでの学習観と根本的に異なった立場から、学習を批判的に考察した人たち」の著作とはLave, J. and E. Wenger, 1991. Situated learning :Legitimate peripheral participation. Cambridge :Cambridge University Press. です(邦訳は上掲の【出典】に記載)。
我々が常識的に、ものごとを〈理解する〉という素朴な学習観を批判した人たちには、このレイブとウェンガーの他に次のような人と著作があ ります。マイケル・ポランニー『暗黙知の次元』高橋勇夫 訳、ちくま学芸文庫、筑摩書店、 2003年では、我々は言語によって知ること[明示的知識]以上 のことについて知っていること[これが暗黙知]を主張した[→関連リンク]——当たり前のよう だが、このことを「言語は真理の反映である」という言語観から論証することは不能。
ギルバート・ライル(Ryle, Gilbert)は、我々が「〜について知っている」と言うときには、ものごとの内容について知っている(knowing what)ことと、どのようにするか知っている(knowing how)をしばしば混乱していることを指摘する(『心の概念(The Concept Of Mind)』坂本百大 訳、みすず書房、1987年)。[→関連リンク]
言語と世界の関係について、その生涯を通して探究を続けたL・ヴィトゲンシュタイン(Ludwig Wittgenstein, 1889-1951)の様々な著作や解説書を読むことを薦める。
前期思想とよばれる言語と世界の間の厳密なルールの確立に格闘する彼を知るには『論理哲学論考』岩波文庫ほかが興味深い——彼は言語と 世界の関係について完璧に証明したと自ら信じていた!。さらに前期の考え方を根本的に改めて(あるいは放棄して)言語ゲーム論に代表される、言葉の意味は その使い方のなかにこそあるという彼の思想は『哲学探究』(大修館書店全集版8巻)にある——この本は短い文章の一見無秩序に見える「アホちゃうか?」と 思えるような集成なのだが、当時のケンブリッジ大学から今日に至るまで驚くべき多数の信奉者を生むに至った。ヴィトゲンシュタインがアホなのかあるいは偉 大なのかは、皆さん自身が読んで是非判断してください。
言うまでもなく、言語の使い方は、他者との絶えざる相互作用——その中には本授業のテーマである〈参加〉が含まれよう——の中で学ばれ る。このような相互作用は言い方を変えれば人生そのものである。田辺繁治『生き方の人類学』現代新書、講談社、2003年は以上の領域を十分にカバーする もっとも良質な入門書である。[→関連リンク]
■ 追加の課題:ユカテク・マヤの産婆の徒弟制における「研究倫理」というものはあるのか? あるとす れば「知ること」に関して、どのような倫理や道徳があると思われるか?(→「人文社会系のための研究倫理入門(リテラシーG)」)
Brigitte Jordan was
a German-American professor, scientist, and consultant who was
described as the midwife to the "Anthropology of Birth".[1] She
attended Sacramento State College where she received her bachelor's and
master's degrees, and later attended the University of California,
Irvine where she completed her PhD.[2] |
ブリジット・ジョーダンは、ドイツ系アメリカ人の教授、科学者、コンサルタントで、「出産の人類学」の助産婦と評された[1]。サクラメント州立大学で学士号と修士号を取得し、その後カリフォルニア大学アーバイン校で博士号を取得した。[2]. |
Brigitte "Gitti" Jordan was born
in Passau, Germany, in 1937.[3] Her parents were Gertrude Frank Muller,
who died in 1944 when Jordan was seven, and Josef Karl Muller. Jordan earned her B.A. and M.A. degrees in anthropology at California State University at Sacramento, and her Ph.D. in social science/anthropology from University of California at Irvine in 1975.[4] |
両親はゲルトルート・フランク・ミュラー(1944年、ジョーダンが7歳のときに死去)とヨーゼフ・カール・ミュラー。 ジョーダンは、カリフォルニア州立大学サクラメント校で人類学の学士号と修士号を取得し、1975年にカリフォルニア大学アーバイン校で社会科学/人類学の博士号を取得した[4]。 |
Jordan spent much of her early
career studying obstetrical anthropology and cross-cultural birth
practices. Rayna Rapp praised Jordan for her authoritative knowledge of
childbirth: "Jordan uses her exquisite sense of description to birth a
theoretical framework."[5] Jordan's theoretical concept of
authoritative knowledge has been employed by countless scholars to
account for the subsuming of some ways of knowing by others and also to
show how knowledge can be laterally distributed.[2] In 1988, Jordan began working as a corporate anthropologist, and her research and consulting interests evolved to include the changing nature of work under the impact of new communication and information technologies and the consequent transformation of ways of life, societal institutions, and global economies.[4] Jordan later opened her own consulting practice where she held appointments as the Principal Scientist at the Xerox Palo Alto Research Center and as Senior Research Scientist at the Institute for Research on Learning. This led to her receiving the Excellence in Science and Technology Award from the Xerox Corporation for innovative work.[6] Jordan's research on the relationship between humans and technology has influenced organizations outside of the field of anthropology, such as the Special Interest Group on Computer-Human Interaction (SIGCHI).[7] She is also credited with the development of corporate anthropology.[8] |
ジョーダンは、初期のキャリアの大半を産科人類学と異文化の出産慣習の
研究に費やした。レイナ・ラップは、ジョーダンの出産に関する権威ある知識を賞賛している:
「ジョーダンは、絶妙な描写センスで理論的な枠組みを生み出している」[5]
ジョーダンの権威ある知識という理論的概念は、ある種の知識方法が他のものに包摂されることを説明するために、また知識がいかに横方向に分布しうるかを示
すために、無数の研究者により採用されている[2]。 1988年、ジョーダンは企業人類学者として働き始め、彼女の研究とコンサルティングの関心は、新しいコミュニケーションと情報技術の影響下での仕事の性質の変化と、その結果としての生活様式、社会制度、世界経済の変容を含むように発展していった[4]。 その後、ゼロックス・パロアルト研究所の主任研究員、学習研究所の上級研究員などを歴任し、自身のコンサルティング事務所を開設しました。その結果、革新 的な仕事に対してゼロックス社からExcellence in Science and Technology Awardを受賞することになった[6]。 人間とテクノロジーの関係に関するジョーダンの研究は、SIGCHI(Special Interest Group on Computer-Human Interaction)など、人類学の分野以外の組織にも影響を与えている[7]。また、企業人類学の発展にも貢献しているとされる[8]。 |
Personal life After marrying Richard Jordan, an American soldier stationed in Germany, in 1958, Jordan came to the United States. There, she gave birth to three children: Wayne, Susan, and Kimsey.[4] The couple divorced in 1968 and Jordan and married Robert Irwin.[8][4] Later life and death Jordan died of pancreatic cancer in her home on May 24, 2016. She lived to be 78, leaving behind her husband, three children, six grandchildren, and two great-grandchildren.[9][2][10][3] Although Jordan had pancreatic cancer, she made it known to others that she did not want to be treated as incapable because of her condition. She refused medication and remained mentally and intellectually active until the end of her life.[10] She continued to live life in a normalized manner, and helped form her obituary.[6] Career honors Jordan received the Margaret Mead Award in 1980 for her 1978 book Birth in Four Cultures: A Crosscultural Investigation of Childbirth in Yucatan, Holland, Sweden, and the United States.[11] Her work is credited with inspiring a range of responses within the field of reproductive anthropology that integrated her approaches to her examinations of the social, cultural and biological implications of birth around the world.[12] She is known for showing how knowledge can be "laterally distributed," shared by all, and understood by all.[3] In 2015, Jordan was inducted into the American Anthropological Association's (AAA) Distinguished Member program which honors members who have loyally supported the Association for 50 years or more.[13] |
私生活 1958年、ドイツ駐留の米軍兵士リチャード・ジョーダンと結婚し、渡米した。そこで、3人の子供を出産した: 1968年に離婚し、ジョーダンはロバート・アーウィンと結婚した[8][4]。 その後の人生と死 ジョーダンは2016年5月24日、自宅で膵臓癌のため死去した。78歳まで生き、夫、3人の子供、6人の孫、2人のひ孫を残した[9][2][10] [3] ジョーダンは膵臓がんを患ったが、その症状のために能力がないものとして扱われたくないことを周囲に知らしめた。彼女は薬物療法を拒否し、最期まで精神 的、知的活動を続けた[10]。彼女は正常化された方法で人生を生き続け、自分の訃報の形成にも協力した[6]。 キャリアの栄誉 ジョーダンは、1978年に出版した『Birth in Four Cultures』で、1980年にマーガレット・ミード賞を受賞している: 彼女の作品は、世界中の出産の社会的、文化的、生物学的な意味合いを調べるために彼女のアプローチを統合した生殖人類学の分野での様々な反応を刺激したと 信じられている[12]。 彼女は、知識がどのように「横方向に分散」され、すべての人が共有し、すべての人が理解できるかを示したことで知られています[3]。 2015年、ジョーダンはアメリカ人類学会の(AAA)Distinguished Memberプログラムに入会し、50年以上協会を忠実にサポートしてきた会員を称えることになった[13]。 |
Works Die Bedeutung der Fernröntgen-Profil-Aufnahme für die Indikation der kieferorthopädischen Extraktionstherapie (1966) [in German] Untersuchung zur einfachen radioimmunologischen Testosteronbestimmung mit einer Kieselgelmikrosäule (1977) [in German] Birth in Four Cultures: A Crosscultural Investigation of Childbirth in Yucatan, Holland, Sweden, and the United States (1978) Montreal: Eden Press Women's Publications Technology Transfer in Obstetrics: Theory and Practice in Developing Countries (1986) East Lansing, MI: Michigan State University Modes of Teaching and Learning: Questions Raised by the Training of Traditional Birth Attendants (1987) Palo Alto, Calif.: Institute for Research on Learning Knowing by Doing: Lessons Traditional Midwives Taught Me (1988) East Lansing, MI: Michigan State University Successful Home Birth and Midwifery: The Dutch Model (1993) Westport, Conn.: Bergin & Garvey Advancing Ethnography in Corporate Environments: Challenges and Emerging Opportunities (2012) Walnut Creek, CA: Left Coast [14] |
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https://en.wikipedia.org/wiki/Brigitte_Jordan Brigitte Jordan papers, by Smith College. |
助産の文化人類学 / ブリジット・ジョーダン著 ; ロビー・デービス‐フロイド改訂・拡張 ; 宮崎清孝, 滝沢美津子訳 東京 : 日本看護協会出版会 , 2001.5 |
■ クレジット:池田光穂「ユカテク・マ
ヤの助産術の学習:参加することの意味」
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