はじめによんでください
憑依の諸相
Cutural Aspects of Spirits Possession
文献紹介
花渕馨也(ルビ:はなぶちけいや) 『精霊の子供——コモロ諸島における憑依の民族誌』 横浜, 春風社, 2005年 423頁+文献(10頁), 6,476円(+税)
もし私(評者)が出版社の販売促進用に推薦文を求められたならば、次のように本書を読者に紹介したくなる。“マダガスカル島北西のインド洋西 端にあるコモロ諸島ムワリ島ニュマシュワ村。そこでは、精霊憑依が人びとのリアルな経験として生活の中に息づいている。若き人類学者がファティマとよばれ る霊媒とのきめ細やかな人間的交流をとおして、その実態を明らかにした。丹念なフィールドワークによる緻密で秀逸な民族誌が今ここに誕生した!”というふ うに……。憑依論の研究者でなく著者のエピゴーネンでもない私に対して、本書はなぜこのような気分をもたらしたのか。
だが、その“気分”に到達するまで道のりは決して平坦ではなかった。本書は、憑依に関する人類学研究の豊富な記述の蓄積と多様な解釈とそれら をめぐる熾烈な論争の成果を踏まえており、著者じしんの民族誌上のデータを付け加えつつ、憑依の理解に関する野心的で独自の議論を展開しようとしているか らである。この領域の研究に関する門外漢である評者(私)が本書の意義を納得[したと自分では思っている]するためには、おそらく著者が議論を練り上げた 時間と労力に値する読解作業が要求されたのであろう。もちろんそのような努力は無駄ではなかった。本書を紐解く読者においても読後には、難解な問題を解い たようなある種の爽やかな解放感が必ずや得られるはずだ。
さて著者の憑依論の核心は、これまでの議論が憑依の「背景に想定される原因や機能、あるいは隠された意味やメッセージを追求することに性急」 であったことを批判し、その代替案として「憑依の表面的ふるまいそのものを綿密に見つめ」(p.38)、「ある社会に生きる人々が、ある生き方をし、ある 現実を作り上げて」おり、それを「可能な限り正確に彼らの現実を翻訳、記述」(p.400)するということにある。では、著者は憑依現象の理解に何を求め ようとするのか。従来、憑依された主体が振る舞う様態に関する民族誌記述は、本人あるいは精霊のどちらかの二者択一の選択肢のなかでゆらいできたという。 だが著者にとってそのような選択は不毛である。花渕によると憑依の根本問題は、端的に「ある行為が人称化され主体が帰属させられるルール、しかも、それが 身体の本来のもち主ではなく、外部主体に帰属させられるルールがいかなるものであるかを問う」ことにあるからだ(p.43)。
このことを理解しようとする時、スンニー派ムスリム村であるニュマシュワにおける憑依現象は、我々に対して興味深い実態を示す。それは、人口 2千人ほどの村落のうち100人近い村人が憑依霊(ジニ)をもっているが、その9割が女性であるということ。またジニの集団には数種類の親族集団ならびに その数世代にわたる系譜関係があること。そしてジニには性別があり、女性がもつジニには男性が多く、憑依されると反対の性別に憑依される人たちが振る舞う という現象があること。また病気治療をおこなう施術師のジニの多くの性別は男性であり、男性の多くは憑依に関わることを忌避する傾向があることだ (p.109)。憑依現象の女性への偏りや、憑依する精霊のジェンダーが反転することは、ムスリム社会における女性の社会的位置、憑依とジェンダー、ジェ ンダーを弁別特徴とする男性の権威表象の模倣論など、先行する研究領域の種々の論争的テーマと比較検討するための、格好の民族誌事例を提供する。憑依をめ ぐるこれまでの先行研究の紹介とそれに対する批判は、広範な文献渉猟と的確な批判的読解に裏付けられている。
第4章「病気と負債」は、人々が種々の儀礼を通して憑依の技法を確立してゆくプロセスが書かれてある。他方、精霊(ジニ)の側からみると、憑 依される人々を操作してこの世に生まれ出てくる過程、あるいはこの世の人々と長期に安定した関係を確立する初期のプロセスの記述と分析であるとも言える。 また民族医療という観点からみると、治療選択のオプションとして生物医学が選ばれる病気とは別種の「神の病い、呪術の病い、精霊の病い」という異常事態が いかなるように、憑依システムの中に組み込まれていき[狭義の]病気ではなくまさに憑依として取り扱われるようになるかという過程が描かれている。ンゴマ と呼ばれる饗宴のなかでおこなわれる憑依したジニが名乗りをあげる場面の記述は、本書の中盤に現れる最初のクライマックス部分である。ジニとの長く続く関 係が確立されるンゴマでは、その関係を村人たちは、治療の語り口、結婚の語り口において語るという。しかしながら、ンゴマが失敗し再度試みられる希有な事 例の検討では、シュングと呼ばれる儀礼的地位の階梯制度(p.83)、つまり通過儀礼において饗宴をおこなう義務とその履行にもとづく地位の達成の不調と いう観点から儀礼が見直され「マウを課す」という制裁行為によって、儀礼プロセス全体がやりなおされることが詳細に分析される(pp.260-3)。した がってシュングの語り口によってもンゴマを理解することができるのだ。
憑依するジニと憑依された人間との関係は長期にわたって続く。フィールドにおける花渕(著者)の師匠はファティマという初老の女性であり、そ のジニはサリム・アベディとよばれるムガラ族に属する威厳のある男性精霊である[彼を含めてジニは複数の人に憑依することがある]。先に述べたようにジニ の種族は複数あり、その精霊の親族系譜関係の情報の多くは人々に共有されているので[かつ憑依される人を通して話されるジニの経験は多様性がある]、憑依 をにわかに信じがたい人間(読者)には、ンゴマの現場は憑依されるジニの“役割コード”に基づいて演奏する集団即興演奏の観を示す。ジニから構成されるも うひとつの社会をジャニス・ボディの用語から借りて花渕はパラレルワールドと呼んでいる。そして、2つの世界を生きるジニと憑依される人々の生き方を「共 生関係」」(第5章のタイトル)と指摘する。ここにおける共生は、現代日本に急速に膾炙しつつある多文化共生社会という用語における「共生」の謂いではな い。後者の用語法は、まさに身体と人格が同一のひとつのものであるという前提がなされた上で、異なる文化的アイデンティティをもつ人々とどのように折り合 いを付けて「共生」するかという議論である。しかし花渕の「共生関係」の用法では、パラレルワールドの住民、つまり、もう一つの世界を生きているジニたち も人間社会と、どのように多元的な「共生関係」を築いているかということを表現したものである。もし我々の社会で想定するならば、多重人格者の人たちが構 成する社会秩序との[未だかつて実現されていない]共存のようなものが、花渕のいう「共生関係」なのである。
さてサリム・アベディに導かれてうかがい知ることのできた、すばらしきジニの世界であるが、彼(精霊)は、彼女(ファティマ)の身体を通して 村落において病気治療に長きにわたり従事しており、その社会的責任を自他ともに[そして精霊じしんも]十分に認識している。憑依される人間どうしの社会関 係が道徳的であるのと同様にジニの社会関係もまた道徳的である。私(読者)はマヘジャという女性に憑依するダダというジニ(精霊)が口癖にする mwanadamu na robo mbi!(人間というのは性悪だ!, p.310)という言葉にすっかり捕らわれてしまい、思わず「その通り!」と叫んでしまった。民族誌を読む行為のなかに、民族誌家が描く世界とその読者 (同業者)のメンタルワールドとの共生関係というものもあるのではなかろうか。
このようなジニと憑依される人々がつくりだすある種の道徳空間への接近に、読者が臨場感をもつならば、2回目のクライマックスすなわち、大団 円をむかえる第6章「三つのマウ」は、本書の中でもっとも興味深いエピソード群として楽しむことができるだろう。それは一方では、1人のワナワリ(患者) の死が引き起こした2人フンディ(ジニの憑依を通して治療施術する者)たちの抗争が表面化し、他方のパラレルワールドでは、3つの種族の有力なジニ(精 霊)の対立拮抗関係があった。物語は、それらの対立とその解消にむけての交渉が同時に進行するのである。あたかも3人以上の役者の同時多発発話の演劇とい う平田オリザの脚本のごとく、登場人物と登場ジニがさまざまなところで接触、交錯しながらも、それぞれの筋の通った発話(物語)は同時に進行する (p.390)。パラレルワールドと現実世界における民族誌の脚本は、それらの抗争に対して違反行為に対する制裁の措置である「マウ」(ここでも先に触れ たシュング制度の存在は重要な意味をもつ)が時系列に沿って3度おこなわれることで交渉調停されてゆく。このような社会的葛藤が、ある種の多重論理的な複 数の会話を通して調停されることは、我々の社会では例えば医事紛争の現場において見られることであり[この紛争では少なくとも法的/道徳的/文化的慣習の 水準で有機的に調停される]、少し見方を変えることで、私はマウを打つことが、別の世界の異質な体験のようには思えなかった。これを可能にしたのは、著者 のたぐいまれなる観察力とその洞察力がなせる技であろう。
このような読者の多幸感も終章では多少トーンダウンするような気がする。著者の次のような台詞が浴びせられるからである。「結論などない。あ る社会に生きる人々が、ある生き方をし、ある現実を作り上げている。それだけである。その世界に生きない私にできることといえば、可能な限り正確に彼らの 現実を翻訳、記述するという無謀な試みだけなのかもしれない」(p.400)。綿密な民族誌を書いた後に、不肖私もまた一度はこのように大見得を切ってみ たい。しかし、著者じしんが体験し書かれたものが正確かつ誠実であると読者は感じるがゆえに、この台詞は皮肉を効かせた謙遜か、追いすがる読者に向かって 偽悪者ぶっていう聖者の警句のようにも聞こえる(noli me tangere!)。それとも彼(著者)の声ではなく、彼が関係を築いている抽象的な人類学的世界に住む怜悧なジニの声色なのだろうか。
終章の冒頭のショック療法の後に続いて、憑依のメタコミュニケーション論が展開されるが、著者が高く評価する西村清和のグレゴリー・ベイトソ ン批判の有効性を私は十分に理解することができなかった。私の無知を承知で披瀝するとこうである。
[我々が議論している憑依を暗示する]「遊び」に関する西村の仮象論批判は、遊びがもつ多様性や多義性という現実の様態を無視したために、ベイ トソンの遊びの仮象論を論理的に論破したと西村が勝手に思いこんでいるだけではないか。ベイトソンの言わんとしていることは、遊びが生む同時多発的な多様 性や多義性をメタコミュニケーションという形式を通して把握しようとするものであり、これは西村が文法用語から借用した中動相という形式を通して「遊び」 の多様性や多義性を主張しているのと同じように思える。中動相は、憑依や遊びに典型的にみられる多様性や多義性を指し示すのにもっとも適正な言葉であり、 結局のところベイトソンの指摘の適切さ(コミュニケーションとメタコミュニケーションの同時存在)を逆に証明しているのではないかと思われる[さらに言え ば、メタコミュニケーションに複数の論理階型を想定するベイトソン派のほうが理論的にはより洗練されている]。
したがって、ここは著者に対して人類学者ベイトソンの所論とがっぷり四つに組み取ってコモロ憑依論を展開して欲しかった[地方大学で人類学教 育経験にどっぷり浸かった私のジニはそのような声色で要求する]。また、コモロ諸島の憑依研究者で本書の議論にも大いなる影響をもたらしたマイケル・ラン ベックに関する議論が冒頭において集中的に、また全般的には随所に見られるのに、最終章ではわずかしか触れられていないのは、多少なりとも奇異な感じがす る。著者のねらいは虚構のグランドセオリーを打ち立てるのではな く「人々が、ある生き方をし、ある現実を作り上げ」ることを「可能な限り正確に彼らの現実 を翻訳、記述する」ための方法論が、いったい何であったのかを述べ、彼がとった方法論の可能性と限界を次にくる人類学者に明確に提示することにあるように 思われる。そうであるならば、ランベックのとった方法論や修辞の戦術に対して果敢にコメンタリーを積み重ねてゆくことも必要であろう。なぜ ならコモロ諸島 の地域のずれ、研究者と現地の人たちの関係性のずれ、憑依現象の表象化戦術のずれ、憑依現象一般に対する理解のずれが、ランベックと花渕の間には想定され るからだ。この比較のダイナミズムに関する考察を多くの読者は期待している[実は本書の出版後ある研究会においてその片鱗となる彼の発表を聞いたことがあ る。本当は彼の研究プログラムは着実に進んでいるのだ]。
本書の全体を通して言える大きな意義は「憑依」というものの存在論的意味を、コモロの豊富な憑依事例を通して雄弁に主張していることである。 これまでの憑依論にみられる我々の経験との極端な落差から提示するという修辞手法が大きく抑制され、我々の同時代人であるコモロ諸島の人たちの歴史的社会 的文脈を綿密に説明し、これまでの文化人類学における憑依研究の可能性と限界をきちんと認識した上で、憑依現象のディテールの記述に入っている点で誰もが 好感を抱くであろう。
私には、これまで民族誌を読むたびに、病気や治療の隠喩を通してそれらを理解しようとする性向があり、すでに読者(皆さん)もお気づきのよう に、本書評のなかにも数多くその痕跡を残している。医療人類学徒としての私には、自分じしんのそのような宿痾が最近どうも気になっていた[つまり1つの学 問領域のアイデンティティを振る舞いを続けることに快適さと同時に窮屈さもまた感じるのだ]。この本は、そのような私の学問上の生活習慣病からの脱却の可 能性を示唆してくれた。
なお、この書評に先だって公刊されたものについてチェックしたところ、本書のもとになった花渕の学位論文「憑依という振舞い」(一橋大学、 1999年)の博士論文要旨と審査要旨という2つの文書がウェブ検索で見つかった。博士論文の内容が本書と完全に同じものとは言えず、また両文書とも公文 書という性格をもち、主観的表現が抑制されているが本書の来歴を知る上では参考になる文書である。
最後に、なんとか著者の議論についていくことができた読者(私)からの我が儘なお願いが著者に対してある。それは索引と簡単な用語集をつけて ほしかったということだ。書物は一般的には線形的に読まれる。読者は前の箇所の重要なことをきちんと頭に叩きこんでいたり、ノートをとっていれば、現地語 読みで記された重要な用語に詰まることはないだろう。だが本書は、憑依される人とジニの世界が織りなす複雑な民族誌である。それも人々のジニ(憑依霊)の 人称帰属の区分と統合的理解に挑戦した格闘の戦記でもある。そうであるならなおさら著者の洗練されたアイディアと修辞上の戦術を効果的に読者に伝えるため にも、索引と用語集という啓蒙的補助手段は欠かせない。本書の面白みは実に細部に宿っている。私はもっともっとこれについて議論したい。しかしどうやら紙 幅の縁に、つまりダラオ儀礼(pp.226-36)における海岸の近くに、到達したようだ。エ ドマンド・リーチの名著に対するレイモンド・ファースの序文 のごとく、私の冒頭の宣伝文が功を奏し、今後より多くの読者を獲得することができ本書が将来増刷されることを望む。その時には索引と用語集の件は、是非と も実現してほしい。それが本書評における最後のメッセージである。
オリジナル版出典
書評:花渕馨也『精霊の子供——コモロ諸島における憑依の民族誌』横浜:春風社、2005年、『文化人類学』71巻2号、Pp.266- 269、2006年9月
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