看護人類学から人類学的看護へ!講義
Prolegomena to Anthropological Nursing
解説:池田光穂
天職としての看護:看護人類学から人類学的看護へ(基礎資料集)06-01
天職とは、運命のことだろうか。私にはそのどちらも同じことだと思う。ここでいう、天職(Beluf:ベルーフ)の語源は、キリスト教の神の 招命により、自分に定められた生涯の使命としての仕事や活動のことをさす。しかしながら、誰も最初から、神の声(御心)を聞く人は僅かであろう。それゆえ に結果的に、その職業をやってみて、生涯を振り返った時によいと感じるもの、それをここでは「天職」と呼んでおこう。天職というのは、じつは大変都合いい 言葉である。ふつう、天職という言葉は、よい響きに聞こえる。
しかしながら、それが「あなたの為だから」と押しつけられたものだとしたら、有り難い迷惑の極みになってしまう。また中途退場を申し出る者に、 「あなたにとって天職じゃなかった」という文言を投げ掛けることは、それ自体で、言葉の暴力(=犠牲者非難)なってしまう。犠牲者非難とはvictim blaming の訳語で「その人の不幸を自業自得であると非難する」という言語行為をさす。「肺ガンになったのは、おまえがタバコを吸っていたからだ」、「性病 になった のは、遊びすぎたんじゃない?」という構図をもつ責任追及の論理で、病気になった「犠牲者」を結果的に非難することである。このタイプの非難の最大の問題 は、病気になる原因には、個人の行動から社会による傷害までさまざまな次元があるにも関わらず、犠牲者非難は、そのような多様な原因を、犠牲者個人の道徳 レベルに「すり替えて」しまうことにある。
翻ってみれば、このような天職概念の厄介さは、天職=運命という意味づけからくる。 だが、天職も使いようである。天職にはつねによい心証がつきまとうので、善用すれば世のため人のためになることも多くある。たとえば、困難に直面している 同僚や後輩の人たちを元気づける言葉として、あるいは、職場での問題解決のための反省を促す言葉として。 さて天職としての看護と言えば、私たちはフローレンス・ナイチンゲール(Florence Nightingale, 1820年5月12日〜1910年8月13日)をどうしても思い出さざるを得ない。 写真は1860年(40歳)頃のFlorence Nightingale
ナイチンゲールの功績とは何か。専門教育としての看護婦養成を構想し、それを実行に移した近代看護教育の基礎づけという功績。戦場の後背地の 野戦病院で働く従軍看護婦のシステムを構築し、戦時下の英国における女性の社会的地位の向上とナショナリズムの発揚に貢献したこと。彼女の考案した従軍看 護のシステムは、半世紀後には先進国はこぞって採用したという点でも、きわめて近代戦争の技術的洗練化に関わっている。そして、臨床疫学における統計分析 (とくに死亡要因に関して)とその運用の基礎を築いたこと。しかし、この統計学者としてのナイチンゲールの肖像は、看護学史の上での評価は贔屓の引き倒し であると思われる。なぜなら、それ以降、看護学において統計学というものが、その学問的アイデンティティを表象するものとして、今日に至るまでそれほど重 要視されたことがないからである。その証拠に毎年、統計学の勉強で頭を悩ます看護学生は時に教師に苦し紛れに「統計学って本当に看護実践に役立つわけない ですよね?」と不満を申し立てる。この些か怠慢気味の学生の質問は、教える側の神格化と教育を受ける側の無理解というジレンマを表現する点で、まさに正鵠 を得ている。いずれにせよ、ナイチンゲールは矛盾だらけのイメージを多くの後の人たちに撒き散らしてきた(→「ナイチンゲールの図像学」)。
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