病気観
illness concept
解説:池田光穂
病気観(illness
concept)とは対象になった人たちに共有されている「病気」の状態を説明し、かつ病気の原因や予後を説明する論理の体系のことである。病気観を説明
するために医療人類学では様々な用語がある(→病いと疾病、)。つまり病気に関する知識である「民族医学」(ethnomedicine)、病気の原因に関する理論である
「病因論」(etiology, illness
causality)、そして病気の判断・予後・治療選択などの説明のレパートリーとしての「説明モデル」(explanatory
model)などが多数ある。病気観とは日本語特有の表現であり、本項目の英訳のように「病気に関する民俗的理論」と説明すれば、病人や病気についての民
族の語りから抽出できる人々自身の民俗的説明こそが、病気観であることが明確になるだろう。
自分たちの身体や心をどのように観て、どのように感じ、そしてどのように考えるのかという観点については、その民族が慣れ親しんだ社会や文化によってし
ばしば共通点が見られる。
例えば、ラテンアメリカ人は対人関係における自分自身の心の不安を「神経([西]nervio, [葡]nervo)」という実体に帰して周囲の人に病気であることを訴える。ジャワにおけるラター(latah)とは、突如として卑猥あるいは口汚い言葉 を吐く状態であるが、当人以外には好ましいものとは見なされていないが、かといって治療しなければならない病気とも見なされない。ジャワにおける社会対人 関係の慎み深さからみると、病理とされないことが不思議である。不躾なラターの状態は、ジャワの民族文化の中では寛容されている。肩凝りは、日本人や長期 滞在の在日外国人が持つ固有の身体表現である。そのため人および機械によってマッサージされることに、癒される経験を持つ人が多い。このことは、我々日本 人にとっては、何の疑いもなく経験・理解していることなので、発達成長の中でどのようにして私たちの共通の身体の経験や認識を形作るのか当事者の説明だけ では分かりにくい。しかし、日本在住が長ければ民族差を超えて共通の経験をもつことが可能になるために、この身体疲労表現は学習可能な身体経験なのであ る。それゆえこれらは参与観察を含む民族誌的考察が必要になる好例である。
認知科学や進化心理学は文化的差異を「変数」として取り扱い病気観や身体観の形成の「メカニズム」を明らかにしつつあるように思われる。しかしながら、
これには実験的事実を積み重ねれば合理的に説明できる「はず」という論理的前提が含まれている。他方、人類学的説明では、偶発的な出来事や無根拠な事実が
歴史記憶として常識化するような「社会的事実」に関する文化の解釈や理解に力点を置くために、前者との間にはどうも深い溝があるようだ。
リンク
【参考文献】
Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 2013-2021