はじめにかならずよんでください

医療人類学を使うための〈概念的わざ〉

How to use the series of concepts of Medical Anthropology: An Introduction

解説:池田光穂

医療人類学を使うための〈概念的わざ〉

他の学問と同様に医療人類学という領域にもさまざまな理論や概念がある。社会医学という領域に医療人類学が提起した理論的概念は少なくとも一ダースを下 らない。あらゆる学問は専門用語を操ってさまざまな生産的議論や論争をおこなうわけだが、〈概念装置〉とはその用語とそれが指し示す考え方のことである。 高度で込み入った議論を生み出すことができるために、我々はその用語を有益なものを造り出す〈機械〉になぞらえるわけだ。

この場合、ある事物(=「概念を生み出す用語」)の全体を別の事物(=「概念を生み出す機械」)で表すので、後者を前者にとっての〈隠喩〉(=メタ ファー)と呼ぶ。メタファーは、医療人類学を勉強する人間にとって重要な概念である。なぜなら、スーザン・ソンタグらの研究が明らかにするように、どのよ うな時代にもその時代に蔓延する病気があるが、その病気が指し示す〈意味〉によりさまざまな価値観を同時代人に呼び起こすからである。

たとえば19世紀ヨーロッパにおける結核は「白いペスト」と呼ばれ人々に恐れられたが、同時にロマンチックな情熱や官能、あるいは感受性などと結びつけ られた。他方20世紀以降に急速な産業化と都市化によって蔓延した日本における結核では女性労働者(=女工)や貧困にある苦学生などの病気とされ、病者は 経済成長の犠牲者と意味づけられたり、病気は貧者の社会的烙印(=スティグマ)として使われたりした。しかしその蔓延により多くの人たちが罹患する病気と なり、やがて日本国民が克服すべき病気「国民病」と呼ばれるようになった。政府による伝染病の中で結核が重要な病気として位置づけられ、この患者は哀れむ べき人たちではなくなり、国民全体がその対策に参与すべきものであると意味づけが変更してゆく。我が国の結核対策に重要な役割を今日に至るまで果たしてい る財団法人・結核予防会の誕生は、1939年発足時の皇后が内閣総理大臣に基金を付託し政府が取り組むべき事業を推進する恩賜団体であったことは、そのこ とを象徴的に表している。

隠喩は病気だけではなく、その病気に立ち向かう治療に関連づけられることがある。「闘病」や「ガンとの死闘」という表現は、病気との闘い(=バトル)を 示し、また疾病対策はしばしば戦争の隠喩、例えば「エイズとの闘い」と表現される。さらにエイズという疾患名がHIVキャリアーたちへの社会的偏見や烙印 になり、重大な人権侵害として国際的に取り扱われるようになると、PWH(Person with HIV, HIVと共にある人)などと呼ばれて人権侵害への危険性を少なくしようとする社会運動がおこった。

他方で、SARSや鳥インフルエンザなどのグローバルな規模の新興感染症は、航空機の航路や水鳥の渡りの経路によって広がるので、人々の移動のネット ワークを通して伝播する病気だと理解される。あるいは病気そのものが、他の病理現象の隠喩として表現される。例えばパソコンの「ウイルス感染とその蔓延」 はその最も有名な隠喩である。

医療人類学者が隠喩の事例について苦心して分析を加えるのは、そのような表現が人間が文化を共有する人々のあいだで生み出す社会的意味の産物のひとつで あるからだ。したがって隠喩は素人(=非専門家)の迷信や絵空事ではなく、人々の理解のパターンの象徴であり、翻ってみれば、その分析と応用は現実の疾病 の対策キャンペーンに不可欠な〈文化的武器〉となる可能性を秘めている。

病気は、治療者が診断発見し治療するだけの現象にとどまらない、病む人すなわち病者の全人格的な出来事であるという当たり前の認識から、病気はだれが医 療という現象の当事者であるかによってさまざまな理解が可能であるという認識が生まれた。

このことを医療人類学は疾病/病気/病い(disease, sickness, illness)の三分類の理論を通して説明してみよう。まず西洋近代医療における病理概念から定義される病気を〈疾病〉とよぼう。それに対して非専門家 である普通の人が体験し理解している病気を〈病い〉とよんでみよう。そうすると、どのような人でも普通の人はまず病気を〈病い〉として経験するのであり、 医療への受診やさまざまな情報探索活動により自分の病気がしかじかの〈疾病〉であることがわかるはずである。重要なことは、治療者や看護者は患者の〈疾 病〉を理解するだけでなく、病者が〈病い〉の世界をどのようにして生きているのかを理解することである。またそれは治療や看護のための重要なもうひとつの 視点になる。我々の世界にあるのは〈疾病〉と〈病い〉が重複しながらもスペクトラムのように広がった〈病気〉なのである。普通の人は〈病い〉を経験する が、医療者はそれを〈疾病〉として治療の対象としてきた。〈病い〉は完全に〈疾病〉に還元することはできない。〈疾病〉と〈病い〉に対処する実践もまた 〈治療〉と〈癒し〉と呼び分けて、それぞれの意義について考えてみる必要がある[図 1.]


医療人類学の研究者は、「医療と文化」ないしは「医療と文化」について分析する際に、これらの概念装置を使って、さまざまな角度から分析を加えてゆく。 このような概念を上手に操作し、フィールドでの資料を分析する「わざ」を習得していくのである。


  1. 医療人類学とはなにか?
  2. 医療人類学はなぜ面白いのか
  3. 医 療人類学を使うための〈概念的わざ〉
  4. 生命倫理学への医療人類学の貢献

他山の石(=ターザンの新石器)

(c) Mitzub'ixi Quq Chi'j. Copyright 2013