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マヤ遺跡観光

On Heritage Tourism of Ancient Maya in Yucatan

池田光穂

 一 遺跡観光への招待

 文化遺産(heritage)には、記念碑や動産財など「もの」としてとらえられる側面 と、土着文化などのように抽象化された観念という二つの側面があ る(Boniface and Fowler,1993)。しかし、後者にしてもそれらを担う人びとが語ったり制作したり、あるいは祭や芸能などのように表象されることを通して文化遺産 として人びとに認められるのである。つまり文化遺産は、文化という観念とそれが物象化された「もの」との相互作用のなかにある。

 文化遺産の場所を訪れることは、たとえ旅行全体の 目的が余暇にあったとしても旅行者はその場所に積極的意義を見いだす。旅行者がそこを訪れ、そこにある 「もの」を媒介にして何らかの意味を抱くことが文化遺産観光を理解するための重要な鍵になる。この論文において私は文化遺産観光、とくにメキシコ南部から 中央アメリカ西部にかけての古代マヤ文明の遺跡観光に焦点をあてながら、文化遺産と人びとが抱くそのイメージがどのような文脈におかれるかで、それらの関 係が変化するということを論じてみたい。


 二 武装蜂起とマヤ遺跡


 一九九四年一月一日メキシコ、チアパス州におけるサパティスタ国民解放軍(EZLN)によ る武装蜂起は、北米自由貿易協定(NAFTA)に伴うメキシコ の貿易自由化と南部の観光振興を期待する人びとに冷や水を浴びせた。サパティスタは同年暮れの一二月一九日にも再度蜂起をした。この蜂起は一般には中央政 府の農業政策の転換に対する農民の抵抗として位置づけられており、政府との交渉においてサパティスタ側は先住民の貧困や抑圧からの解放と、政府与党の汚職 に対して政権の放棄を要求している(落合、一九九四)。 いくつかのコミュニケによると、この闘争が先住民のアイデンティティの確立と深く関わっているこ とも確かである。サパティスタのコメントなかには政府が先住民を「人類学的な対象、観光客相手の珍しいもの、あるいは『ジュラシック・パーク』の一部とし て見ている」という非難がある(クリーヴァー、一九九四、一五五頁)。サパティスタ解放軍が観光客に対して積極的に危害を加えたという報道はないが、この 表現には観光や人類学が現地の人たちをネガティブな「もの」にするという隠喩として語られていることに注目したい。

 今回の武装蜂起のあったチアパス州にはユカタン 州、キンタナ・ロー州とならんでマヤ文明の多数の遺跡がある。さらに隣接するグアテマラのほか、ベリー ズ、ホンジュラス、エルサルバドルにもマヤ考古学上重要といわれている遺跡が数多くあり、主要な遺跡のいくつかは発掘がすすみ、現在遺跡公園として整備さ れ年間を通して多数の観光客を受け入れている。その五ヶ国すなわちメキシコ、グアテマラ、ベリーズ、ホンジュラス、エルサルバドルの各政府あるいは民間機 関が協力し、この地域を相互に結ぶ「ルータ・マヤ」計画と、広域的な遺跡と民族の観光プロジェクト「ムンド・マヤ」計画が推進されている。

 ルータ・マヤ(マヤの道)計画とは、かつてマヤ文 明が存在した南メキシコおよび中央アメリカの地域の観光の潜在力を開発する広域プロジェクトで、五ヶ国 の公的および私的の観光開発機関・企業・組合による共同計画である。これらの計画のアイディアはもともと米国で企画された。ルータ・マヤ計画の姉妹プロ ジェクトで同じ地域をカバーしているがムンド・マヤ(マヤ世界)計画であり、中米およびメキシコの各国の代表によって組織され、より公的な性格がつよい。 この計画にはヨーロッパ共同体からの出資などがあり、プロジェクトは個々の国が、資金調達も含めて独自にそれらを立案し施行している。

 マヤ文明の遺跡観光については、すでにインフラス トラクチャーが整備され、観光客に人気のある遺跡公園がある。例えば、グアテマラのティカル遺跡、メキ シコのパレンケ遺跡やチチェン・イッツア遺跡、ホンジュラスのコパン遺跡などである。あるいは現在までに発掘調査が終わっているか、あるいは現在発掘中で あるが、観光ルートに組み込み可能になったもの。例えばベリーゼのカラコル遺跡、メキシコのカラクムル遺跡、エルサルバドルのホーヤ・デ・セレーン遺跡、 ホンジュラスのエル・プエンテ遺跡などがある。また同地域における現在のマヤ系の人々の生活や文化にも密接に関連させようとする計画もある。新大陸の発見 以降この地域にはスペイン人の植民者たちが侵入してきたが、マヤの種々の先住民文化は彼らが持ち込んだカトリック文化などの影響を大きく受けながら発展し てきた民族文化が多くみられる。さらに植民地時代の重要な歴史的建造物も多くみることができる。また最近ではエコツーリズムと積極的に関連づけられて開発 されることもある。例えば、後に触れる「ラカンドンのジャングル」すなわち、ボナンパック遺跡やヤシュチラン遺跡を含むメキシコのモンテス・アスーレス生 物保護区は近年拡張され総面積五万五千ヘクタールにまでになった。一九九三年五月にはコパン遺跡でマヤ圏の五ヶ国の首脳が集まり、ムンド・マヤ計画の経済 発展ための生態環境保護と文化的資源管理の共同合意である「コパン宣言」が調印された。

 では、ムンド・マヤ圏にどれくらいの観光客が訪れ ているのだろうか。ムンドマヤ計画の広報誌『ムンド・マヤ』によると、ムンド・マヤと呼ばれる地域は年 間に三〇〇万人を超える観光客を受け入れている(Mundo Maya, 1992)。この数字は同誌の試算では全世界の観光客の一パーセント弱であり、アメリカ圏を訪れる全ての観光客の四パーセントほどになるという。ではムン ド・マヤにはどの地域から観光客が訪れるのだろうか。一九九一年の需要人数と見込まれた三三〇万人から推定すると、地域別の割合は、北米であるカナダおよ び米国から一九五万人(六割弱)、ヨーロッパから四九万人(一・五割)、ムンドマヤの五ヶ国で七〇万人(二割)、残りは南米の一六万人などである。さて、 その目的地であるが、目的地の地域の国別の分布比率は、メキシコ(ムンド・マヤ対象地域)六〇パーセント、グアテマラ一六パーセント、ホンジュラス一〇 パーセント、ベリーズ八パーセント、エルサルバドル六パーセントとなっている(Mundo Maya,1992:18-24)。このようにメキシコのマヤ遺跡はムンド・マヤ(マヤ世界)観光の中心的存在と言っても過言ではない。

 チアパスの高地に銃声が響いたのは、古代マヤ文明 の遺跡と自然・民族・文化を国際的な連携のもとに大きく売りだそうとし、またその成功に明るい見通しを もとうとしていた矢先のことであった。


 三 ラカンドン・ジャングル・ブック


 マヤ遺跡を訪れる観光客にはほとんど知られることがないが、ユカタン半島の内奥の低地は被 抑圧先住民の解放を唱うゲリラの活動拠点でもある。チアパス高 地で蜂起したサパティスタも、その後メキシコとグアテマラ国境に位置する「ラカンドンのジャングル」と呼ばれる後背地に一時的に退き、代表を送って政府と の交渉のテーブルについた。ところがこのラカンドンの人たちが住むジャングルとは、マヤ考古学におけるいくつかの重要な発見があり、ラカンドンを含む現代 マヤの人たちと古代マヤ遺跡を取り結ぶステレオタイプが生産されてきた土地でもあった。

 ラカンドンのジャングルの観光開発は、一九六四年 にメキシコのグスターボ・ディアス・オルダス大統領が選挙期間中に、ボナンパク、ヤシュチラン周辺地域 の遺跡公園の整備ならびに周辺の道路や空港の建設など観光インフラストラクチャーの開発を公約して以降本格的に着手されるようになる。 (MacDonaldo,1981:155)。

 ジャングルの奥地の密林でのマヤ遺跡にたたずみ 「伝統的な儀礼」をおこなうラカンドンの人たちは数々の記録映画や『ナショナル・ジオグラフック』誌に代 表されるような媒体を通して失われたマヤ文明の格好の表象となった。その起源は今から半世紀以上にも遡れる。一九四四年ユナイティッド・フルーツ・カンパ ニーはジャイルズ・ヒリーにラカンドン族の映画を撮影するように要請し、そのスポンサーとなった。これがボナンパク遺跡のフレスコ画の発見の発端となる。 発見された壁画には、それまでのマヤ人のイメージからはかけはなれた情景が描かれていた。当時の考古学者が描いていた古代マヤ人のイメージでは、彼らは宿 命論的な時間の概念に縛られ、司祭による神権政治によって平和的に統治されていたと考えられていた(Fash,1994:183)。しかしボナンパクの壁 画には、マヤの戦士が被征服民を斬首したり拷問している絵が描かれていたのだ。にもかかわらずボナンパク遺跡の最初の報告書(一九五五年)には、その事実 は過小に評価され、それまでのマヤ文明のイメージは踏襲されたままだった(ボーデとピカソ、一九九一)。

 このイメージが専門家によっても頑強に支持されて いたことは注目に値する。例えば一九世紀末マヤ学者アルフレッド・モズリーのヤシュチラン遺跡の石碑解 釈の場合もそうである。彼は、自己供犠によって身体の一部を傷つけている人物像を模写するさいに意図的か非意図的かはともかく残酷にみえないように描いて しまった(落合、一九九一、三頁)。古代マヤ人があたかも平和で深遠なマヤ歴を刻む人たちであるかのようなイメージを専門的な考古学者たちも抱きつづけ た。後のマヤ学の権威エリック・トンプソンですら、ピエドラス・ネグラス遺跡の碑文には王位継承に関することが書かれているというタティアナ・プロスクリ アコスの主張の可能性を認めたが最終的に彼女の学説は受け入れなかった。このような古典期時代とよばれる古代マヤのイメージをウイリアム・ファーシュ(一 九九四)は「神話」とまで言いきっている。

 ところが、その「神話」には逆のモーメントも働い ていた。古代マヤをとりあげた米国の大衆本にはマヤの残虐なイメージを誇張したものも現れ、血に飢えた 供犠に熱狂したり、マヤ文明の崩壊を好戦的な性格にもとづく戦争の過剰で説明するものもあらわれた。このような好戦的で残虐なマヤ人のイメージは、現在の 先住民系のゲリラや農民の否定的なステレオタイプとして生き残り、彼らと政治的および利害的に対立するラディノ(メスティソ)系エリートなどに流用される にいたった(Fash,1994:187)。

 「ラカンドンのジャングル」は、そのようなマヤ文 明のイメージの生産地であったがゆえに、過去三〇年間に多数の人たちがそこをめざしてやってきた。宣教 師、伐採の請負業者、映画制作者、そして魂の探求者すなわちヒッピーなどである。もちろん日本人も例外ではない(若林、一九八〇)。こうしたなかでは悪い 冗談すら起こりうる。旅行作家キャンビーはラカンドンのジャングルを訪れた際に、そこにいた男たちの一人をつかまえて、スペイン語で、ナハから来たのかと 尋ねた。ナハというのはキリスト教の布教が成功していなかった村、すなわち「ほんもののマヤ文化」が残る地区だった。男は彼を見下すかのように「俺はカリ フォルニアから来た」と言った(キャンビー、一九九三、八五頁)。

 ここにあげたことは、古代マヤの遺跡を訪れる現代の観光客には全く無関係なことであろう か。そうではあるまい。古代マヤのイメージは、考古学的調査や研 究の成果のみならずマヤについて書くすべての著述家の内容が一般に膾炙されてできあがったものである。そのイメージが観光を煽り、ガイドの説明やガイド ブックではそれらが取捨選択されたうえで誇張されて観光客に伝わる。

 文化遺産の「生産」とは、過去の歴史が改竄された り遺跡遺物の偽物が捏造されることではない。文化遺産の「恒久的な価値」とは、過去について解釈がつぎ つぎと供給されているからこそ意味をもちつづけているのである。そのために「文化遺産」は現在の権威ある正当な解釈、つまり科学的な考古学の研究成果をつ ねに必要とする。そして学問の権威とは宙に浮かんでいる存在ではなく、ときにその内容がチェックされ、人びとの関心を通して社会の眼にさらされる。マッカ ネルは観光研究において、文化を合意(consensus)の一種とみて、それをマルクス的な「生産」の概念と結びつけた(MacCannell, 1976:25)。文化の「生産」とは、そのような中で文化遺産の価値についての社会の合意が維持されているあり方のこととしてとらえてみたい。

 古代マヤの碑文・図像研究の第一人者リンダ・シー ルの学問の成り立ちとそれの社会への波及効果を例として考えてみよう。彼女はいわゆる発掘屋ではない。 それだけではなくマヤ学の考古学の専門的トレーニングを受けて研究者になったでもなかった。彼女は一九七〇年にユカタン半島を旅行した足をのばしてパレン ケ遺跡によるまでは、アラバマの小さな大学で一般学生に「芸術入門」を教える職業画家にすぎなかった。パレンケ遺跡を訪れてシールは言うならば「マヤおた く」(Maya-phile)の道をあゆみ始めることになる。かくして三年後、パレンケで三五名が参加したマヤ研究の小さな国際会議でカルガリー大学の学 部学生だったピーター・マシューズと連名でパレンケの王家の即位と退位年を確認し発表するにまでいたった。この会議は、それ以降のマヤ碑文研究の流れをか える枢要なものとなった。シールはその後別の大学にマヤ研究者として職を得て、やがて碑文・図像研究における重要な著作を発表するようになる。彼女たちの 一連の研究は、それまでフィールド研究の成果の上に、美術史の図像学と文化人類学の親族研究と王権の象徴研究を節合させたような新しい領域を開拓した (Shele and Freidel,1990:13-15)。

 このようなマヤ研究の新しい領域のラディカルな開 拓は『ナショナル・ジオグラフィック』誌などマスメディアを通して古代マヤ文明に関心をもつアマチュア に広がり、結果的に人びとが抱く古代マヤ文明やマヤのイメージにも影響を与えた。つまり、天文観察に明け暮れる宿命論的でエキゾチックな民族から、戦争を 指揮し王位継承をめぐって抗争する王を戴き、トウモロコシ畑を耕作し神話にもとづく儀礼を実践するよりリアルな人間像へとである。

 もちろん王朝研究に熱を入れあげることに対する専 門家からの厳しい批判もある。それはマヤの王国の経済的な基盤の問題や、歴史を刻んだ碑文そのもののイ デオロギー性の検討を捨象してしまうことになるという指摘である(Fash,1994:194-5)。

 にもかかわらずシールたちの研究とその大衆化は、 シールがかって歩んだような知的好奇心旺盛なアマチュアを再生産に寄与している。また水準の高い一般向 けの科学雑誌が専門家ではない教養のある人たちに与える影響を考えることは重要である。現地では英語版のみならずスペイン語の『ナショナル・ジオグラ フィック』の抜刷の別冊(例えばコパン遺跡ならコパンの記事が、ティカル遺跡ならティカルの記事)が印刷され、マヤ文化への高級な理解をもたらす書籍とし て実用的なガイドブックとならんで遺跡付属の博物館の売店におかれたり、現地人によって直接路上で売られたりしている。マヤ遺跡がそれらのガイド・ブック によって中産階級の学習の場に変わることすら珍しい情景ではない。また今日のメキシコの遺跡において国立人類学歴史学研究所の許可書をもって案内するガイ ドたちが語る、石碑の新しい読み方や王朝の歴史の語り方にもマヤ考古学者たちの最新の研究が投影されている。そのようにしてマヤ研究の新知識は観光客のあ いだに伝わる。


 四 戦争・観光・平和


 九四年一月ステレオタイプに満ちたチアパスの農民の苦悩とゲリラの蜂起というニュースがメ ディアを通して配信された。しかし同時に、コンピュータ通信網 であるインターネットを介してサパティスタ自身のコミュニケや支援団体によるチアパス情報をすぐに入手することができた(Helleck,1994)。九 五年二月現在でもゴーファーやワールド・ワイド・ウェブなどを介して膨大な情報を受け取ることができる。蜂起当時、その同じインターネットを介して米国の 旅行代理店は、すぐにチアパス州周辺の治安状況をつかみ顧客にこの地域への旅行を控えることを勧告することができた。そのせいか紛争地域からほど遠くない パレンケ遺跡の入場者は激減した。パレンケ市は、ラカンドンのジャングルの遺跡ツアーの出発点にもなっているのだが、キャンセルが相次ぎ旅行業者は軒並み 開店休業に追い込まれた。

 観光産業に従事する人びとにとって、係争地とみな されているサンクリストバル市やオコシンゴ市と非係争地であるパレンケ市とが、外国人観光客によって混 同されていることは悩みの種である。パレンケ市のホテルの従業員の一人は言う。「サパティスタの問題は高地インディオの問題で、パレンケは昔から平静なの だ。サンクストバルの問題、それ自体も危険ではないが、それとパレンケの安全を混同しないでほしい。武装蜂起は迷惑な話だ」と。

 しかし、政府観光局は別の種類の対応をする。紛争 地域の周辺で観光客が激減した後、観光局はその地域が安全であるということを宣伝するのではなく、紛争 とは無関係に観光地の魅力を繰り返し宣伝する。あたかも紛争がなかったかのように、紛争の存在そのものを無視するのだ。メキシコ市内のテレビは遺跡を背景 に古代文明をイメージする短い宣伝映像を相変わらず放映していた。紛争に言及することはタブーである。似たようなことが湾岸戦争勃発後に観光客が激減した ギリシャにおいてもおこった。政府観光局は歴史をこえた価値を強調した「神々が選んだギリシャの海岸」キャンペーンを展開したのである (Bonifance and Fowler,1993:8)。裏を返せば、それほど観光客は紛争に敏感なのだ。現代の観光客は、紛争地域を避けるという行為を通して消極的ではあるが確 実に関わっている。戦争と観光はネガ(陰画)とポジ(陽画)の関係にあり、同じ映像を写す二つの側面といっても過言ではない。

 その意味で平和を創出する「安全保障としての国際 観光」(石森、一九九二、二六〇頁)という主張はいま一度よく考えなければならない。石森の言うように 国際観光は異文化との接触を通してホストとゲストの間に相互理解が育まれ世界の平和に貢献するかもしれない。だが、その可能性は機会的であり、相互不信も 同じように起こり得ることを忘れている。この立論では、国際観光客のネガとなるゲストとしての「難民」や「外国人労働者」がホスト側の異文化との接触を通 してなぜ双方に相互理解が生まれないのか、について明快な解答を得ることができない。国際観光が平和創出産業に見えるのは、紛争がないという条件のもとで 国際観光が維持されるからであって、その逆ではない。事実は理想ほど透き通ってはおらず複雑怪奇なのだ。

 過去の歴史において、戦争と観光が競合的ではなく 補完的な関係をもつという指摘がある。高岡(一九九三)は歴史的資料から日中戦争前夜から太平洋戦争期 つまり総力戦への突入以降、日本の観光客数は急成長していたことを明らかにしている。別の角度から言うと二〇世紀前半において国際間の大衆の移動とは軍隊 の移動のことだった。ミシガン大学は一九五八年に米国民の観光動向について調査したが、当時の調査された米国人の五人に一人は海外渡航を経験していたが、 その三分の二が軍務によるものだった(リード、一九九三、二頁)。戦争や冷戦が終わったから観光に出かけるのではない。世界的な観光ブームの導火線は冷戦 が終わるはるか以前から燃えていたのだ。

 軍人や報道関係者という特殊な観光客を除けば、ふ つうの観光客は紛争地域には旅をすることはない。民族紛争や内戦状態にある地域は観光地にならない。旅 を安全に快適に過ごしたいという希望が叶えらえるように計画は立てられるからだ。だがパールハーバーやアウシュヴィッツなどかつての忌まわしい場所が観光 の目的地となる。沈没した戦艦や強制収容所は歴史の記念碑として文化遺産観光の目的地となる。平和という文脈において観光対象になる「もの」が中和化され てはじめて観光地というものが成立するからだ。中和化は一種の忘却である。アンコール・ワット寺院の輝ける伝統が、もともとフランスの学問によって授けら れたが、そのことを忘れることができてはじめてクメール人はカンボジアの偉大さを確認し民族主義の象徴としてそれを利用できたことを。ちょうどそのことに 似ている(Chandler,1983:150-1)。

 一九九四年一月のある日パレンケ遺跡を訪れる観光 客はほとんどいなかった。紛争の中心地からは離れてはいるものの上空にはメキシコ空軍機がときおり遠く に飛んでいた。だが、そこから五百キロ離れた低地マヤの巨大遺跡チチェン・イッツアにはいつもどおりたくさんの観光客が溢れていた。ゲリラの武装蜂起は間 接的にもパレンケ遺跡に波及し、遺跡はたんに中和化されていた「もの」ではなくなっていた。マヤの人たちは古代のイメージの中の住民ではなく現代の人たち であり、彼らの問題は我々の問題に連なるものであるということ。遺跡観光とは、現代人が投影する古代のイメージと現実の社会の微妙な均衡のなかにあったと いうことを。サパティスタの蜂起はそのことを我々に教えた。


 謝辞

 この論文に関連する現地調査は平成五年度および六年度文部省科学研究費補助金「カリブ海地 域におけるエコ・ツーリズムの比較研究」によった。また研究代 表者の石森秀三先生(国立民族学博物館)には現地調査において数多くの指導いただいたばかりか発表機会まで与えてくださった。研究分担者の諸先生方にもい ろいろお世話になったが、その中でも太田好信先生(九州大学大学院)には発表や執筆の際には数多くのコメントや励ましをいただいた。以上の機関や方々に記 して感謝の意を表します。


 文献


 Boniface, Priscilla and Peter J.Fowler,1993, Heritage and Tourism in 'the global village', London: Routledge.
 Chandler,D.P.,1983, A History of Cambodia,Boulder,Colorado: Westview.
 Fash, William L.,1994, Changing Perspectives on Maya Civilization, Annual Review of Anthropology 23:181-208.
 Halleck,D.,1994, Zapatistas On-line, NACLA, XXVIII(2):30-32.
 MacCannell,Dean., 1976, The Tourist: A new theory of the leisure class, New York: Schocken Books.
 MacDonaldo Escobedo,Eugenio.,1981,Turismo: Una Recapitulacion, Mexico D.F.;Editorial Bodni.
 Mundo Maya,1992,"Mundo Maya" No.2,Nobiembre de 1992.
 Shele, L. and D. Freidel,1990, A Forest of Kings, New York: Morrow.

 石森秀三「新しい観光学の提唱」『中央公論』一九九二年七月号、二五七ー二六六頁、一九九二年
 落合一泰「日本語版監修者序文」ボーデとピカソ『マヤ文明』所収、一九九一年
 落合一泰「よみがえる革命児サパタ——メキシコ現政権の新自由主義とサパティスタ蜂起」『現代思想』二二巻一〇号、五二−七二頁、一九九四年
 キャンビー、ピーター『マヤ、神秘を開く旅』(大窪一志訳)図書出版社、一九九三年。
 クリーヴァー、ハリー「チアパスの叛乱」小倉利丸訳、『インパクション』八五号、一四四−一六〇頁、一九九四年
 高岡裕之「観光・厚生・旅行−−ファシズム期のツーリズム」『文化とファシズム』(赤澤史朗・北河賢三編)日本経済評論社、九ー五二頁、一九九三年
 ボーデ、クロードとピカソ、シドニー『マヤ文明』(落合一泰監修)創元社、一九九一(原著一九八七年)
 リード、エリック『旅の思想史』(伊藤誓訳)、法政大学出版局、一九九三年(原著一九九一年)
 若林美智子『最後のマヤ民族』新潮社、一九八〇年

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