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未開社会における安楽殺の倫理

Euthanasia Ethics in Primitive Societies

池田光穂

■未開社会※における安楽殺の倫理

「忘れもしないが、南米の移動性狩猟採集 民を対象に長年野外調査をおこなっている人類学者のキム・ヒルに、そうした慣習(=老人遺棄:引用者)が熱帯地方にも存在するのかと尋ねたことがある。彼 の答えは、確かに存在するが、こちらの場合、だれかが石斧をもっ て背後から忍び寄り、ほとんど苦痛のないように頭を打ち砕く、というものだった。私はひど いショックを受けたが、続きを聞くとそれも薄らいだ。もしもエスキモーのように「安らかに死ぬ」よう、生きたまま放置されると、捕食者に生きながらにして 食われる——さらに腐肉食の鳥はまず目を狙ってくる——だろう、とヒルは言ったのである。彼らはすぐに死ぬほうがいいと思い、ときには生き埋めにされて窒 息死することも選んでいた」(ボーム 2014:227-228)。

キム・ヒルはパラグアイの 先住民アチェに関する生態人類学の専門家である。ヒルとならんで、この民族研究に関する著名な研究家にはピーエル・クラストル(1934-1977)がいる。後者の研究で著名なも のは『グアヤキ年代記:アチェ先住民の世界』である。このことについ て、クラストルは、老親に愛着のある息子は、直接、老婆——なぜか移動キャンプに付いてゆくことのできなかった高齢女性が殺されやすい——を殺すわけでは ない、ブルピアレという殺害者に特化した人に依頼するという。ブルピアレは、非親族の男性から選ばれ、依頼されるが、ブルピアレも殺害実行の前後には、憑 依や脱魂をともなう異常な精神状態になり、殺害後は、その魂を正常化する儀礼がおこなわれる(→「アチェにおける親殺しと霊の復讐」)。

※:未開社会(みかい・しゃかい)とは、ヨーロッパや北米の移民たちが、自分たちとは違う素朴な社 会形態をもつ人たち(=未開人)の手段を、自己の集団と呼ぶために苦心して「創造」した操作的概念である

■進化的良心について

「数十年前、『ダーウィニズムと人間の諸問題』(山 根正気・牧野俊一訳、思索社)において生物学者のリチャード・D ・アレグザンダーは、進化的良心が、反社会的行動の抑制手段にとどまらないものであることを明らかにした。彼はそれを、「耐えがたいリスクを負わずに自分 自身の利益をどこまで提供できるかを静かにささやく声」と呼んだ。すると良心は、向社会的な行動をできるだけ多くし、逸脱的行動をできるだけ少なくする 「純然たる」道徳の力と同じぐらい抜け目なくリスクを計算しているように見える。良心とその進化に関心があるのなら、それがわれわれの適応度にどれだけ貢 献したかという観点から客観的に定義する必要があり、この点でアレグザンダーの現実的な定義はダーウィンのものよりもやや優れている。知つてのとおり、 ダーウィンは良心を、どれだけの不道徳なら罰せられずにすむのかと戦略を練るための手だてでなく、不道徳を抑止するための手段ととらえていた。自分に正直 になって内観をしてみれば、進化的良心がこの両方をおこなうものであることがわかるだろう」(ボーム 2014:40)。

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