かならずよんで ね!

石田英一郎

Eiichiro Ishida, 1903-1968

池田光穂

★石田 英一郎(いしだ えいいちろう、1903年6月30日[1] - 1968年11月9日)は、日本の文化人類学者・民族学者。元男爵。

石田 英一郎(いしだ えいいちろう、1903年6月30日[1] - 1968年11月9日)は、日本の文化人類学者・民族学者。元男爵。

1903年、男爵石田八弥(土佐藩出身の幕末志士石田英吉の後嗣)の長 男として大阪府に誕生する。父の死去に伴い1925年6月1日に男爵を襲爵[2]。天王寺中学、東京府立四中を卒業し、1924年3月、第一高等学校文科 卒業[3]を卒業して、京都帝国大学経済学部中退。京都学連事件により、1926年3月24日に爵位を返上[4][5]。三・一五事件に連座して1934 年まで入獄する。

1937年から2年間ウィーン大学に留学し歴史民族学を専攻。同大学に留学経験のある岡正雄とは生涯多く交流があった。1944年、蒙古善隣協会西北研究 所次長。1948年、『河童駒引考』を出版、1949年に、法政大学教授。1951年、東京大学教養学部教授となり[6]、文化人類学教室の初代主任を務 めた。また第一次東大アンデス学術調査団団長。1961年、「河童伝説 : 日本の水精河童と馬を水中に引き入れんとするその習性とに関する比較民族学的研究」を東京大学に提出して文学博士の学位を取得[7]。1964年に定年退 官。

東京大学定年退官後は、東北大学日本文化研究施設教授、多摩美術大学学長などを務めた。1967年、『マヤ文明』で毎日出版文化賞受賞。日本民族学会会長 を務めた。翌年大学紛争による激務にも毅然と対応したが、肺がんにより没した。

没後に『石田英一郎全集』(筑摩書房 全8巻)が刊行された。
1903年    6月30日生
     天王寺中学 府立四中
     一高文科 マルクス主義を研究し始めセツルメント活動に参画
     京都帝国大学経済学部中退 河上肇門下で社会科学研究会に参加 北京
1925年    男爵を襲爵 
     治安維持法適用第一号として起訴 不敬罪 十ヵ月の禁固刑宣告 控訴保釈
1926年    父八弥が死 満州、河北、山東の旅
1927年    台北―福州―上海 漢口・武昌
1928年    京都学連事件および三・一五事件に連座 再検挙 五年の刑を宣告
爵位を返上。
義兄の横山助成は取締り側の内務省警保局長
1935年    義兄の横山助成 東京府知事が多摩帝国美術学校認可
1936年    民俗学者柳田国男の姪を母にもつ岡村千秋の娘布佐子 娘の佐保子
1937年    2年間ウィーン大学に留学
1939年 帰国
1940年    帝国学士院の東亜諸民族調査室の嘱託
「蒙疆の回民」(現在の内蒙古のムスリム)と「樺太のオロッコ」(現在の民族名称ではウィルタ)の研究嘱託
1944年    蒙古善隣協会[西北研究所](退役軍人の土橋一次 機関長、今西錦司 所長、石田英一郎 次長、梅棹)
1948年    『河童駒引考』を上梓
「日本民族の起源」石田 岡、江上、八幡 シンポジウム 1949「民族学研究」1950
1949年    法政大学文学部教授。
学会誌「民俗学研究」の編集主幹
民間情報教育局顧問に就任(6月)
1951年    東京大学教養学部教授となり、東洋文化研究所文化人類学教室の初代主任を務めた。
第一次東大アンデス学術調査団団長
1964年    定年退官後、東北大学日本文化研究設立 施設主任
1967年    『マヤ文明』で毎日出版文化賞受賞。日本民族学会会長
1968年    多摩美術大学学長に就任
6月14日 石田ビジョン「八王子校舎増築に関して」を発表 理事会 教授会 学友会の合意となる
11月15日 急逝
http://www.shiro1000.jp/tau-history/kasumi/eikichi.html
【祖父】
祖父:石田英吉 伊吹周吉 伊吹慶良 伊吹終吉 []
1839年 土佐国安芸郡中山村中ノ川 医師 伊吹泰次の長男
     安田の高松順蔵(坂本龍馬の義兄)
1854年 藩校 田野学館で文武の修業
1861年 蘭医 緒方洪庵の適塾に入る
1862年 上京して勤王の志士と交わり
1863年 天誅組の挙兵に参加 高取城の砲撃で戦功をたてたが敗れて、長州に
1864年 禁門の変 忠勇隊に属して戦い、重傷を負って再び長州に
1865年 長州再征 高杉晋作の率いる奇兵隊に参加
1866年 小倉口攻防戦 龍馬の意を受けて、ユニオン号に砲手長 小倉藩門司陣地を砲撃
     奇兵隊を離れて坂本龍馬の亀山社中へ加入
1867年 海援隊 結成 参加 []
     
     陸奥陽之助等と共に貿易、海軍の事務
     坂本龍馬の死後、長岡謙吉と共に瀬戸内海諸島の鎮撫
     海援隊長崎在住派幹部・菅野覚兵衛等に合流
     長崎で組織された遊撃隊の御用掛
     振遠隊に改編されると軍監に任ぜられ奥羽に
     奥羽鎮撫総督府の参謀に列し秋田方面に出征して各地に転戦した。
1869年 官吏 長崎県小参事を振り出しに、秋田縣権縣令、長崎縣令、千葉縣知事、高知県知事
     
     
1896年 男爵 貴族院議員に勅撰
1901年 4月8日没 六十三歳
http://www.shiro1000.jp/tau-history/kasumi/eikichi.html

【父】
父:石田八弥 1863-1925

1863年  8月1日生まれ。石田英吉の養子。出羽(でわ)花輪村(秋田県)今泉の士族奈良又助の五男
1888年 ドイツのフライブルク鉱山大に留学,
      宮内省御料局鉱山寮技師、生野鉱山精錬課長 硫化鉄鉱を主原料に安価な硫酸を生産
      母校帝国大学の教授-24年
1896年  政府が佐渡、生野の両鉱山と大阪精錬所を三菱合資会社に払下げ
      三菱合資会社 大阪支店の副支店長 大阪製錬所長 金・銀・銅の電気精錬
1917年  鉱業研究所長
1918年  鉱山部,炭坑部が分離して創立された三菱鉱業(現三菱マテリアル)の取締役
1925年 3月10日死去 63歳。
http://www.shiro1000.jp/tau-history/kasumi/eikichi.html

「石田英一郎  その人物、石田英一郎(一九〇三―一九六八)は大正十三/十四(一九二四/二五)年に京都帝国大学文学部で 行われていたニコライ・ネフスキー(大阪外国語専門学校教師)のロシア語の講義に出席した際、彼から柳田国男、 折口信夫そしてフレイザーのことを聞き、民族学や人類学に対する関心を呼び覚まされた 。その後、昭和十(一 九三五)年、東京の日本青年会館で開催された柳田の還暦記念日本民俗学講習会に出席し、その折、ウィーンか ら帰国して直後の岡正雄と知り合い、勧められて昭和十二(一九三七)年からウィーン大学で民族学を学び、昭 和十四年に留学を終えて帰国後、南樺太や中国の華北、内蒙古等で実地調査をし、第二次世界大戦後、学会誌『民 族学研究』の編集責任者となった。昭和二十四(一九四九)年、彼は同誌のために、柳田国男と折口信夫と共に、 二回にわたって座談会を開催した 。それは晩年の柳田の所感を知る上に貴重である。  ところで、石田は柳田との関連で代表作二点を刊行した。一つは柳田の『山島民譚集』(1)中の「河童駒引」(一 九一四/一九四二 )を土台に執筆された『河童駒引考』(一九四八 )で、副題は「比較民族学的研究」、他の一冊は柳田の『桃太郎の誕生』(一九三三/一九四二 )に対する『桃太郎の母』(一九五六 )、副題は「ある文化史的研究」 である。『河童駒引考』は「文化史または人類文化史の復原」(新版序文)を企図し、「第一版序文」によれば、「河 童駒引といふ様な我が山村僻陬[へきすう]の民間伝承を捉へ、之を亜欧大陸の東西に亙る資料と比較しつつ、 問題を人類文化史の重要な一側面にまで展開せしめた」作品で 、柳田の「一国民俗学」に対する「比較民族学」 の立場を示している。また『桃太郎の母』所収の同名の論文では、柳田の『桃太郎の誕生』を念頭に、例えば「処 女懐胎」のテーマを扱い、わが国の「うつぼ舟」伝説とローマ・カトリックのマリア崇拝を比較している 。また 柳田の提示した「小サ子思想」の謎を解く鍵をアジア大陸のシャマニズムに探る 。要するに、石田は、日本の神 話・伝説・昔話の様々なモティーフを世界、特にユーラシアの文化圏との深い結び付きから解読しようとする。」
(高木 2017:25-26)。











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