かならずよんで ね!

獣姦について

On Bestiality

池田光穂

獣姦(bestiality)は、人間と人間以外との「性行為」の意味である。 しかしながら、性行為を、目的論的に、1)生殖のため、と、2)快楽を得るため、という2つの機能に分類すると、1)の要素が欠落しているために、日本語 では強姦(rape)のように、否定的な価値を負わされて、この漢字(姦=反道徳的な不正ないしは私通)が充てられたのだろう。

獣姦は、私たちの性行為の相手レパートリーからは逸 脱するし、人間と獣の性行為は、上記の理由でそれを2つの目的をもった性行為と見なせないので性行為ではないとも言うこともできるので、類似性行為とみな してもよい。あるいは自慰のために動物の性器を用いるということもできる。すわなち獣 姦(bestiality)とは人間がおこなう、動物の性器をつかった自慰、というほうが正確である。

他方で、(フロイトの性概念を想起すれば誰でも容易 に想像できるが)人間の性行為は、性器の結合——動物同士では「交尾(こうび)」=尾部が相互に結合する、と言う——だけに留まらず、非常に広範な行動と 思考のレパートリーとして捉えることができるので、その意味では獣姦の範囲をもまた、人間が関わるものである以上、多様性をもつ。これは、獣姦行為あるい は獣姦妄想は、宗教的な禁忌が恐れるほどは、それほど危険ではないということになる。

だが、獣姦の範囲を広くとると、たとえば(男女の区 別に関わらず)性器を動物に舐めさせることから、動物の口吻と接吻(キッス)することまで、獣姦のレパートリーに入ることになる。しかし、このような指摘 は、動物は性的な対象であってはならないと考える人間には、非常に不快に思えて、大きな反感を持たれることであろう。ただし、このような直情的な反感をも つと、人間と動物の間には《適切な境界》を設定しなくてはならないのだが、その境界の線引きは、時代や社会あるいは信条を共有する集団間において多様にな らざるをえず、自分たちが信じる境界はあくまでも恣意的なものにすぎない、という反省的理解になかなか到達することは困難である。

したがって獣姦というものは、その社会が規定する逸脱の概念に依存せざるをえず、その定義は相対的にしか決まらない。つまり、獣姦を文化人類学的に研究することは可能だが、獣姦を(普遍的一般的な意味で)学術的に定義することは難しい。

【下図の説明】パンという神(半獣半人の姿)がメスの山羊と交接している像:紀元79年におこったベスビオ火山の噴火で埋もれたヘルクラネウム遺跡から出土したもの。/歌川国貞の作品。余談だがオリジナルは犬のペニスはサイズ形状とも人間のもののようであり、明らかに犬は擬人化されている。

Pan copulating with a she-goat. CC BY 2.5Hinweise zur Weiternutzung/ Japanese Ukiyoe bestiality by Kunisada UKAGAWA(1786-1965)/ Bestiality, Clay Roman oil lamp with a motif, Altes Museum Berlin, 1st - 3rd century AD.⁣

From "Golden Kamuy," (2014- present) by Satoru Noda, Arishipa says, "it's impossible to reproduct child copulating, UKOCHANUPKORO, between human and deer"

さて、文化人類学者にとって獣姦というのものが研究に値するかどうかは、獣姦愛好者の意識やアイデンティティを好事家的に研究することも大切だろうが、より重要なことは、獣 姦愛好者以外の人が、獣姦をわいせつや性的な逸脱としてとらえ、それをステレオタイプとして、スティグマを貼ることにある。そこでは、獣姦の実態などはど うでもよく——あるいはむしろ無関係に——獣姦=とんでもない行為とみなすことである。そこでは、悪をいかにプロパガンダとして演出するのかということに 専念していることに、人類学者は気づくはずである。下記の図像は、アメリカ軍が日本国内で第二次大戦末期(1944-1945年)に日本にまいた宣伝ビラ から採集した図像である。ここでは、日本の軍閥が、日本人民という生娘の生き血を吸うと表現されているが、そのコノテーション(含意)は、獣姦のイメージ そのものである。

リンク

文献

その他の情報

Maya_Abeja

Mitzub'ixi Quq Ch'ij, 2017

池田蛙  授業蛙 電脳蛙 医人蛙 子供蛙