はじめによんでね!

(授業資料)坂上ゆきのナラティブの分析

On Narrative Analysis of St. Yuki SAKAGAMI, b.1915.

怨(おん)の昇り旗

池田光穂

うちは、こげん体になってしもうてか ら、いっそうじいちゃん(夫のこと)がもぞか(いとしい)とばい。見舞にいただくもんなみんな、じいちゃんにやると。うちは口も震ゆるけん、こぼれて食べ られんもん。そっでじいちゃんにあげると。じいちゃんに世話になるもね。うちゃ今のじいちゃんの後入れに嫁に来たとばい、天草から。

嫁に来て三年もたたんうちに、こげん奇病になってしもた。残念か。うちはひとりじゃ前も合わせきらん。手も体も、いつもこげんふるいよるでっしょが。自分 の頭がいいつけんとに、ひとりでふるうとじゃもん。それでじいちゃんが、仕様ンなかおなごになったわいちゅうて、着物の前をあわせてくれらす。ぬしゃモモ 引き着とれちゅうてモモ引き着せて。そこでうちはいう。

(ほ、ほん、に、じ、じい、ちゃん、しょの、な、か、お、おな、ご、に、なった、な、あ。)うちは、もういっぺん、元の体になろうごたるばい。親さまに、 働いて食えといただいた体じゃもね。病むちゅうこたなかった。うちゃ、まえは手も足も、どこもかしこも、ぎんぎんしとったよ。

海の上はよかった。ほんに海の上はよかった。うちゃ、どうしてもこうしても、もういっぺん元の体にかえしてもろて、自分で舟漕いで働こうごたる。いまは、 うちやほんに情なか。月のもんも自分で始末しきれん女ごになったもね......。

うちは熊大の先生方に診てもろうとったとですよ。それで大学の先生に、うちの頭は奇病でシンケイどんのごてなってしもうて、もうわからん。せめて月のもん ば止めてはいよと頼んだこともありました。止めゃならんげなですね。月のもんを止めたらなお体に悪かちゅうて。うちゃ生理帯も自分で洗うこたできんように なってしもうたっですよ。ほんに恥ずかしか。

うちは前は達者かった。手も足もぎんぎんしとった。働き者じゃちゅうて、ほめられものでした。うちは寝とっても仕事のことぽっかり考ゆるとばい。

今はもう麦どきでしょうが。麦も播かんばならんが、こやしもする時期じゃがと気がもめてならん。もうすぐボラの時期じゃが、と。こんなベッドの上におって も、ぼろぼろ気がモメて頭にくるとばい。

うちが働かんば家内が立たんとじゃもね。うちゃだんだん自分の休が世の中から、離れてゆきよるような気がするとばい。握ることができん。自分の手でモノを しっかり握るちゅうことができん。うちゃじいちゃんの手どころか、大事なむすこば抱き寄せることがでけんごとなったばい。そらもう仕様もなかが、わが口を 養う茶碗も抱えられん、箸も握られんとよ。足も地[じだ]につけて歩きよる気のせん、宙に浮いとるごたる。心ぼそか。世の中から一人引き離されてゆきよた る。うちゃ寂しゅうして、どげん寂しかか、あんたにやわかるみゃ。ただただじいちゃんが恋しゅうしてこの人ひとりが頼みの綱ばい。働こうごたるなあ自分の 手と足ばつこうて。

海の上はほんによかつた。じいちゃんが艫櫓[ともろ]ば漕いで、うちが脇櫓ば漕いで。

いまごろはいつもイカ籠やタコ壷やら揚げに行きょった。ボラもなあ、あやつたちもあの魚どもも、タコどもももぞか(可愛い)とばい。四月から十月にかけ て、シシ島の沖は凪[なぎ]でなあ——。

石牟礼道子「五月」「第3章 ゆき女きき書」『苦海浄土』(講談社文庫版)Pp.127-129

(1)1.うちは、こげん体になってしも うてから、いっそうじいちゃん(夫のこと)がもぞか(いとしい)とばい。2.見舞にいただくもんなみんな、じいちゃんにやると。3.うちは口も震ゆるけ ん、こぼれて食べられんもん。4.そっでじいちゃんにあげると。5.じいちゃんに世話になるもね。6.うちゃ今のじいちゃんの後入れに嫁に来たとばい、天 草から。

(2)1.嫁に来て三年もたたんうちに、こげん奇病になってしもた。2.残念か。3.うちはひとりじゃ前も合わせきらん。4.手も体も、いつもこげんふる いよるでっしょが。5.自分の頭がいいつけんとに、ひとりでふるうとじゃもん。6.それでじいちゃんが、仕様ンなかおなごになったわいちゅうて、着物の前 をあわせてくれらす。7.ぬしゃモモ引き着とれちゅうてモモ引き着せて。8.そこでうちはいう。

(3)1.(ほ、ほん、に、じ、じい、ちゃん、しょの、な、か、お、おな、ご、に、なった、な、あ。)2.うちは、もういっぺん、元の体になろうごたるば い。3.親さまに、働いて食えといただいた体じゃもね。4.病むちゅうこたなかった。5.うちゃ、まえは手も足も、どこもかしこも、ぎんぎんしとったよ。

(4)1.海の上はよかった。2.ほんに海の上はよかった。3.うちゃ、どうしてもこうしても、もういっぺん元の体にかえしてもろて、自分で舟漕いで働こ うごたる。4.いまは、うちやほんに情なか。5.月のもんも自分で始末しきれん女ごになったもね......。

(5)1.うちは熊大の先生方に診てもろうとったとですよ。2.それで大学の先生に、うちの頭は奇病でシンケイどんのごてなってしもうて、もうわからん。 3.せめて月のもんば止めてはいよと頼んだこともありました。4.止めゃならんげなですね。5.月のもんを止めたらなお体に悪かちゅうて。6.うちゃ生理 帯も自分で洗うこたできんようになってしもうたっですよ。7.ほんに恥ずかしか。

(6)1.うちは前は達者かった。2.手も足もぎんぎんしとった。3.働き者じゃちゅうて、ほめられものでした。4.うちは寝とっても仕事のことぽっかり 考ゆるとばい。

(7)1.今はもう麦どきでしょうが。2.麦も播かんばならんが、こやしもする時期じゃがと気がもめてならん。3.もうすぐボラの時期じゃが、と。4.こ んなベッドの上におっても、ぼろぼろ気がモメて頭にくるとばい。

(8)1.うちが働かんば家内が立たんとじゃもね。2.うちゃだんだん自分の休が世の中から、離れてゆきよるような気がするとばい。3.握ることができ ん。4.自分の手でモノをしっかり握るちゅうことができん。5.うちゃじいちゃんの手どころか、大事なむすこば抱き寄せることがでけんごとなったばい。 6.そらもう仕様もなかが、わが口を養う茶碗も抱えられん、箸も握られんとよ。7.足も地[じだ]につけて歩きよる気のせん、宙に浮いとるごたる。心ぼそ か。8.世の中から一人引き離されてゆきよたる。9.うちゃ寂しゅうして、どげん寂しかか、あんたにやわかるみゃ。10.ただただじいちゃんが恋しゅうし てこの人ひとりが頼みの綱ばい。11.働こうごたるなあ自分の手と足ばつこうて。

(9)1.海の上はほんによかつた。2.じいちゃんが艫櫓[ともろ]ば漕いで、うちが脇櫓ば漕いで。

(10)1.いまごろはいつもイカ籠やタコ壷やら揚げに行きょった。2.ボラもなあ、あやつたちもあの魚どもも、タコどもももぞか(可愛い)とばい。3. 四月から十月にかけて、シシ島の沖は凪[なぎ]でなあ——。

著 者は、2014年から数年かけて石牟礼道子の評伝を書くために、石牟礼道子のもとへ何度も通った。新聞記者なので、評伝を書く前にも石牟礼道子にはあって いた。2017年3月に出版。2018年、読売文学賞評論・伝記賞を受賞。そのひと月後2018年2月に石牟礼道子は90歳で亡くなる。石牟礼道子の生き ている間に、聞き取り、資料を調べ本となった。石牟礼道子の才能を発見した渡辺京二は、50年以上石牟礼道子の作家活動を支援してきた。本書を読むと渡辺 京二が書くといいよと言ったようだ。石牟礼道子の作品は、たくさんある。本として40冊以上ある。 本書は、石牟礼道子、渡辺京二の両者が読んでいるということに、意味もある。ある意味では、オフィシャル評伝である。 1927(昭和2)年3月11日、現在の熊本県天草市で生まれた。私の父親が大正15年生まれなので、1歳年下なんだね。白石亀太郎と吉田ハルノの長女と して生まれた。ハルノの父、吉田松太郎は石工の棟梁で、道路港湾建設業を営んでいた。白石亀太郎は、吉田松太郎の仕事を補佐し、帳簿付けをしていた。道子 は、名前は白石でなく、吉田姓を名乗る。生後3け月で水俣に移住する。小学校の入学が役所の連絡ミスで一年遅れ、弟と一緒に水俣の小学校に入学する。道子 8歳の時に、吉田松太郎の事業失敗で一家が没落し、自宅を差し押さえられる。小さな家に移転する。 この評伝では、8歳までの道子の生活が浮き彫りとなる。 石牟礼道子は「石」と縁が深いと書き始められる。教師石牟礼弘と結婚が決まった時に、「よかペンネームができた」と思ったという。石が牟礼(群れ)るとい う呪術師的なイメージが好ましかった。 祖父の出身地天草・上島・下浦は石工発祥の地として知られている。吉田松太郎と菅原モカと結婚した。おばあちゃんは、おモカさまと呼ばれる。ハルノが10 歳頃におモカさまは精神的な異常が始まる。松太郎が妾を持ち、妾が子供を二人産んだことが遠因とも言われる。松太郎は、腕はよかったが贅沢好きで、生活は 乱脈だった。総勢60名ほど働いていたという。ハルノは早くから家事の中心となり家を担った。亀太郎は、謹直で緻密だったが、真面目にすぎ、融通が聞かな い実務派。松太郎は芸術家肌で、性格は合わないが、必要とされ、ハルノと結婚した。 幼い道子が住んでいたのは栄町で、米屋、花屋、たどん屋、タバコ屋などがあり、小学校そしてそのさきに日本窒素があった。日本窒素が急速に拡大していく時 期だった。道子のいた家から先隣に、末広という女郎屋があった。天草から売られてきた10代の娘たちが日本髪などをゆっていた。その娘たちに道子は可愛が られていた。幼い頃に、道子は可愛がられていた末広の娘が刺殺される事件にも遭遇する。道子は、気狂いのばばしゃまのおモカさまのお守りをやっていた。盲 目のおモカさまの膝に載せられて、おモカさまの「どまぐれマンジュにや泥かけろ、松太郎どんな地獄ばい、こっちも地獄、そっちも地獄」という呪文のような 歌を聞いていた。気狂いのおモカさま、女郎屋、そして女郎の殺人事件、松太郎はおモカさまを蹴っ飛ばす。そんな環境の中で道子は育つのだった。 道子は「わかりえない人間の存在、徹底的な孤独な少女」であり、おモカさまの異界が隣にあった。 道子は、最初から地獄を見て、反抗し、世の中に反抗していたが、生活は従順で、日記を書いていた。「人類というより生類という言葉で表現したい。海から上 がってきた生類が最初の姿をまだ保っている海。それが渚です。海の者が上がる時、ここが陸地だと思うでしょう。海と陸を行き来する。文明と非文明、生と死 まで行き来する。人間が最初に境界というものを意識した。その原点が渚です」。海と陸、天と陸。道子は、渚に立つことで、二つの世界を常に行き来すること になる。 「渚につづくトントン村の家、幼い道生をおぶって行商した薩摩の山中、筑豊のサークル村、東京の座り込みの現場、どこにいても、私は渚に立っていた」 学校では、優秀な成績で、卒業する。そして、1943年に代用教員をやる。その中で、1945年7月31日水俣の空襲にも会う。逃げ惑う時に浅ましい人間 を見る。戦争が終わる。道子は戦争の持つ愚かさを強く心の中に沈めていく。道子は小説家になりたかったが、生活は生きるためにひきづられていく。「自分の 天邪鬼を持て余していた」元来「気が強か」であり、激情にもかられていた。実際生きていることが嫌でたまらなかった。戦後に苦境の人を見過ごせない「もだ え神」が心の中に生まれる。それでも、教師の石牟礼弘と結婚するが、教師のルールに縛られている夫といかに生くべきかを悩み、夫に語ろうとしても拒絶され る。夫という存在までも嫌になる。1946年1月4日に自殺未遂をする。4回目の自殺未遂は1947年7月。道子は新婚4ヶ月、20歳だった。結婚しても 癒されることはなかった。渚に立つことよりも、あの世に行きたかったのだ。しかし、道生が生まれるとやっと自分の安定を取り戻す。ただ、それでも道子の体 内にある「もだえ神」はむっくりと起き上がる。そして、水俣病に出会うことで、道子は、苦海浄土をつむぎ始める。子供と夫を捨てて、言葉を紡ぎ始め、行動 を起こす。自然と近代、人間の非人間的行為、人間でありながら言葉が話せない。水俣に対する国のなさ。水俣病という被害者でありながら、差別される。石牟 礼道子は、呪術師となって、語り始め、水俣病の先頭になって戦うのだ。訴訟することだけで勝つとは言えない。非条理に向き合い続けるのだ。石屋に生まれ て、戦争が終わるまでに、道子は人間形成されて、彼岸の渚に立っていた。出典:https://amzn.to/3AxkWH9.



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